〈28〉出国前の最後の夜
「すまんが、私は仕事が立て込んでいるので見送りは行けないよ」
父にそう告げられたのは、私と妹が留学のために出立する前の晩でした。
別れのための晩餐の場で、気まずそうに言われ、手にしたフォークが一瞬止まってしまいました。
「かしこまりました、お父様。
お忙しくしていらっしゃるのは承知しておりますので、お構いなく」
年度の切り替え時期ですから、父の仕事が立て込んでいるのは本当です。
毎年この時期は、宮殿から帰ってくる時間が遅く、晩餐にいらっしゃらないこともよくあります。
まぁ、それでも娘の見送りにすら立ち会わないというのは薄情といえば薄情ですね。
仕事に行く前にちょっと寄り道するくらいの手間を惜しむということは、私と妹への扱いがその程度ということですから。
ただ、跡取りでもない娘への対応としては、こんなものかもしれません。
一年前の私なら、このようなあしらいに怒って、馬鹿正直に父に抗議したかもしれません。
ですが、ブリス様の起こした騒動への手間を惜しむ様子から、この方に期待するだけ無駄だと悟りました。
「お父様、色々とご迷惑をおかけいたしました。
まだまだ寒い時期もあるでしょうから、お体お気を付けくださいませ」
笑顔で事前の別れの挨拶をすれば、神妙な様子の妹も同じように感謝の言葉を述べています。
「うん、お前たちも慣れない土地に行くのだから健康に気を付けるように」
「承知いたしました、お気遣いいただきありがとうございます」
そう言いながら笑えてきて、不自然にならないように気をつけねばなりませんでした。
なんてぎこちない、他人行儀な会話。
きっと、夜会でたいして親しくもない貴族と交わす会話も、このようなものなのでしょうね。
「クラリス、アラベル。
俺も明日は午前中に大事な会議があるので、見送りにはいけない。
アラベルは、そのじゃじゃ馬っぷりを向こうで控えるようにな。
あんまり喧嘩ばっかりしてると、嫁に行くどころか恋人もできないぞ」
兄の言葉にアラベルが反応したので、テーブルのしたで彼女の左ひざを軽く叩きました。
「心配ご無用です、私たちには頼りになる監督者がついておりますので。
お兄様も、つつがなくお過ごしくださいませ」
妹に隙を与えるとなにを言い出すかわかりませんので、私が先手を打ちます。
母は、会話を交わす私たちをひどく冷めた目で見ていました。
「王太子殿下からお声をいただいて留学するのですから、この国に恥じないように行動なさい。
せいぜい、淑女としての評判を落とすことのないようにしなさいね」
「おっしゃる通りです。
まだまだ未熟者ですので、あちらの国でも精進してまいります」
私はフォークを置いて、背筋を伸ばして母の言葉にうなずきました。
「本当に、本来なら成人しているはずなのにいまだに浮ついてばっかりで。
あなたのような未熟者を家の外に出すなんて恥ずかしくて仕方がないけれど、殿下から是非にとお誘いいただいたのを拒否もできませんでしたからね。
くれぐれも、お気をつけなさい。
あなたのように、なんの罪もない男性をたぶらかすような女は、身の持ちようによくよく気をつけねばなりませんよ」
「母上、言いすぎです」
兄が、目を吊り上げる母の言葉をさえぎりました。
私をかばってくれるとは思っていなかったので、ちょっと意外です。
ここで口をはさむのがアラベルだったら、母はさらに逆上したかもしれませんが、兄には譲歩するようです。
ちらりと見た父は、我関せずとワインを味わって、こちらを見ようともしません。
「王太子殿下がはじめて手掛ける案件の一つが、この交換留学生制度です。
身も心も引き締めて、できうる限り、学んでまいります」
私は今、ちゃんと笑えているかしら。
母の機嫌が悪いので、晩餐のあとにティールームに向かうのは止めておきました。
自室に帰ろうとすると、アラベルがぴったりとくっついてきました。
招き入れた自室は家具などは以前と変わりないものの、飾っていたお気に入りの小物や、学習に必要な本などは全て荷造り済みです。
それだけでどこかよそよそしく、他人の部屋のように感じるのですから不思議ですね。
胃痛の前兆のような違和感を感じるので、ハーブティーを淹れてもらいました。
「アラベル、今日はよく我慢してたわね!
まぁ、とっさに反論しそうになってたけど、そこでちゃんとこらえていたし」
そう妹に笑いかけると、アラベルは「お姉さまは、あんなに酷いことを言われて大丈夫ですか?」と脈絡のない返しをしてきます。
私はソファの背もたれに身をまかせて、「まぁ、なんとかね」と本音を返しました。
「どうせ、明日にはお別れよ。
寝て起きて、朝出発の船に乗るまでの、ほんの数時間我慢すれば、私は解放されるもの。
好き勝手言ってくれたけど、あんなの、ただの負け惜しみよ」
自分の笑みが深くなるのを感じます。
一年前の私だったら、肉親のこんな悪口を堂々ということはなかったでしょう。
なにもかにも変わってしまったことに、そっとため息を吐きました。
アラベルは、カップに砂糖を落として、ゆっくりとスプーンでかきまぜてから顔をあげました。
「あの人、この期に及んでたびたびお茶会に外出しているでしょう?
もしかしたら、あの調子でお姉さまの悪い噂をまき散らしているかも」
その可能性はあるかもしれません。
なにしろ、私が目覚めてから、私はあの女性とまともに会話していません。
あるとすればそれは必要最低限の事務的なやり取りのみで、夕食も用があるからと別々にとることがほとんどになりました。
よほどブリス様を袖にした私のことが気に食わないようです。
「そうね、もしかしたらそうなのかもしれないわ」
私がこぼすと、「まさか、今までのお姉さまの悪い噂って」とアラベルが突拍子もないことを言い出しました。
「さすがに、それはないでしょう。
でも、私にまつわる悪い噂が新たに流れるなら、もしかしたらもしかするかもしれないわね」
妹は、黙って不愉快そうに眉をしかめました。
「もし、本当に外でお姉さまのことを悪く言っているなら、下手な真似はしないよう釘をさせればいいんですけど」
妹の思案に、私はだまって首を横にふりました。
「この国を離れる私たちに、その手段はないわ。
それにしても、王太子殿下がマチュー様を通して取り調べをして、非があるのはブリス様と認めているのに、真っ向から歯向かうなんてたいした度胸よね」
「それです、お姉さま!」
私の言葉に、アラベルが勢いよく反応しました。
「ここでお姉さまを悪くいうような人は、殿下のご意向に反対しているということです。
そんな人が自分の夫人だったら、ジスカール伯爵家の名誉を保つため、伯爵は行動に出るのでは?」
「アラベル、あなた本当に頭がいいわ」
私は妹を褒めちぎることにしました。
マチュー様にご報告して、ジスカール伯爵夫人のお茶会での動向に目を配るようにすればいいのです。
当然マチュー様ご自身は女性のお茶会には関われませんが、侯爵家のご次男の彼なら、協力する女性は当然いるでしょう。
問題のある行動を彼女がしていたら、マチュー様を通してジスカール伯爵にそれが伝わるようにすればいいのです。
家の体面を重んじる伯爵なら、自分の妻への対応もきっちりされるでしょう。
なにせ、実の娘の言うことは無視しても、カルタン男爵に軽んじられたと判断した瞬間前のめりで対応するようなお方ですからね。
クラリスもアラベルも、父母兄をもう家族として扱っていません。
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