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〈17〉10歳・告白と刺繍のハンカチ

妹は居住まいを正すと、怜悧な印象の口調で話し始めました。

「まずは、私たちジスカール家の子供と幼いころから交友のあったリシャール様のことからご説明いたします。

リシャール・ド・ラ・ミシュレ様は我が家の隣にお住まいで、彼のお姉さまともども、わたくしたちと親しくしてくださっていました」


リシャール様のお生まれになったミシュレ家は、我が家と同じく伯爵家で、家族ぐるみでの交流がありました。

リシャール様は幼少のころから、書物を好むごくおとなしい方でした。

私や妹をからかうことが好きなうちの兄と比べて、優しいリシャール様のことを私はずっと慕っていました。


ところがリシャール様が学院に上がる前の年に、当主であるお父君が急逝されます。

私はあの時に、自分を取り巻く環境は永遠のものではなく、容易に壊れうる儚いものなのだと知りました。

大好きなミシュレのおじ様は亡くなられて、その前の年にリシャール様の姉君も他家に嫁がれていました。

さらに、リシャール様とそのお母さまもご事情から引っ越しが決まったというのです。

たとえ次の家が同じ王都といえど、未成年の女子がそう簡単にお伺いできるわけもありません。

今までリシャール様と毎日のように会えたのは、ただただ物理的に家が近く、両家の保護者が私たちの交流を認めていたからです。


胸が痛くて、心がぎゅうっと絞られるようで、私は声をあげて泣きました。

両親に、リシャール様がいってしまうなんて嫌だとワガママを言いましたけれど、何ができるものでもありません。

心労で見るからにやつれてしまわれたリシャール様のお母さまには、さすがに何も言えませんでした。


私はおそらく、少し早熟でした。

リシャール様を引き留めたかったけれど、それが無理だと分かっていました。

だから、誰よりも特別に想うリシャール様に、せめて自分の心を告げることにしたのです。


刺繍は、好きではありませんでした。

チマチマと布に針を刺してなにが楽しいのかと、ほんの少し前まで私は思っていました。

けれど、言葉とは別に自分の心を伝える手段を探したときに、年端もいかない未成年の子供ができることは限られています。

どれほど真剣なのか、その心を欠片でもいいから伝えたくて、私は告白を決めた時から必死で刺繍を習得しました。

指に針を刺す痛みも、睡眠時間を削ることも、彼を失ってしまうかもしれないという恐怖の前では些細なものでした。


「大好きです、リシャール様。

どうか、どうか……私のことを、忘れないでいてほしいのです」


ミシュレ邸は春になると、それは見事にミモザが咲くのです。

私はハンカチに、そのミモザの黄色い花と、枝にとまる二羽の小鳥を刺繍しました。

小鳥の一羽は深緑で、もう一羽は青で。

その色は、リシャール様と私の瞳の色です。

そして、告白の言葉とともに、私はそのハンカチを彼に差し出しました。


大きく瞬きした彼は、しばし呆然と立ち尽くしていました。

「きっとリシャール様には、私のことは子供としか思えないと思います。

でも、私は誰よりもリシャール様のことをお慕いしています」

心臓は爆発しそうなくらいせわしなく脈打っていて、気恥ずかしさでこの場から走って逃げたいのを必死にこらえて、私は震える手でハンカチを彼に差し出しました。


ふっと彼の視線が私の手元に落ちました。

リシャール様の表情が動かないことに言い知れぬ怖さを感じながらも、私はハンカチを押し付けるように手渡しました。

彼は、ぎこちない動きで、ハンカチの刺繍をなぞります。

二羽の寄り添う小鳥をそっとなでた彼の、その瞳から大粒の涙が転がり落ちました。


男性の泣く姿など初めて見た私はぎょっとしましたが、彼のほうがもっと当惑していました。

不思議そうに自分の頬をなで、「僕は、泣いているのか……?」とつぶやくのです。

私はそっと彼の手からハンカチを取り、いつまでも流れる彼の涙をぬぐいました。

リシャール様は私より4つも年上で、さらにお年のわりに落ち着いた性格なので、その時まで私は彼のことを完璧な超人のように思っていました。


そんな彼の弱った姿に、私はうっかりときめいていました。

ディープグリーンの瞳が涙に濡れるのが、しっとりと雨に降られる木々の葉のように見えて美しく、今まで知らなかった彼の一面に出会えたことが嬉しくて。

本当に、今思い返しても私は性格が悪いと思います。

とてもひと様には言えませんので、この思いは墓場まで持っていくつもりです。


まだ春が訪れぬ庭は寒々しく、その庭を見渡せるサンルームも引っ越しのために調度品がほとんど処分され、寂しいものでした。

供された紅茶が冷めきっても、私はハンカチに刺繍された小鳥のように、彼のそばにいました。

彼が泣き止むまで、私は彼に寄り添いつづけました。


それからどれほどの時間がたったのか。

涙は止まったものの、リシャール様はどこか疲れたようなご様子でした。

「クラリス嬢、取り乱してすまなかった」

「いいえ、気になさらないでください。

大事が続いて、お心が疲れていたのでしょう?

私のやったことが、その……動揺させてしまったのですね、ごめんなさい」


リシャール様は、まだ水気の残る瞳をやわらかく細めました。

「謝らないで。

なんというのか、このハンカチを見たときに、君が僕のことを心から想ってくれているんだと気づいたよ。

父上が亡くなられてから、母と二人で、まるでこの世の全てから取り残されていくような感じがしていたんだ。

でも、こんなにそばに僕のことを気遣ってくれる人がいるのだと、改めて気づかされた」

そう言う彼は、そっと身をかがめるように私の目をのぞき込んできました。


「クラリス嬢、僕は君の想いに応える術を持っていない。

でも、君に不実を働きたいとも思わない。」

ドキリと私の胸が高鳴りました。

なんだか、彼の目がいつもよりさらに優しい気がして。


「今すぐに、答えを返せそうにはない。

大変申し訳ないが、少し時間をいただけるだろうか。

未熟な僕ではあるけれど、君のこともふくめて、自分の未来を考えたい」


分厚い雲から、薄日がさし込めて彼の瞳を輝かせていました。

雨に濡れたあとの葉が、太陽の光を照りかえすように。


私はただ、彼の言葉にうなずいていました。

彼が、少し元気を取り戻したように見えたのが嬉しかったことを、今も覚えています。

1話1話、17時40分に投稿予定です。

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