3:人族のウィスタリアと、竜王。
なんとなく寝苦しくて目蓋を押し上げると、目の前にムキッとした雄っぱいがあった。
「ぎょえぇぇっ!? また!? またなのぉ!?」
「…………煩い」
「いや、えっ、いやいや」
「煩い……寝ろ」
そう言ってぎゅむむむむっと抱きしめられた。上半身裸の竜王陛下に。
陛下は直ぐにスウスウと気持ちよさそうな寝息を立てしまった。こうなると使用人根性が発揮されてしまう。息を殺して陛下の邪魔はするべからず、となってしまうわけで。たとえ寝苦しかろうが、雄っぱいで顔が押しつぶされていようが、トイレに行きたかろうが。
――――漏らす前に起きてぇ!
昨日に引き続き、なんでこんなことになっているんだろうか。
しばらくして、陛下が目を覚ましたのでやっと解放してもらえた。漏らさずに済んだ。
「んーっ!」
陛下が両手を組んで上にぐぐーっと背伸びをし、そのまま体を左右に傾けてストレッチのようなことをしていた。
昨晩、大量に魔力を使って疲れていたのに、体が軽いのだと不思議そうに言っている。
私はバキバキだけど?
「ウィスタリアは、抱き枕として優秀だな」
「……褒めてますかね?」
「褒めてるだろ! そもそも側にいて不快じゃないだけですげぇんだよ。自分の価値をちゃんと把握しろ」
そんなこと言われても、私はただの人間だ。陛下の言う匂いというのも分からない。それは全人類がそうなので、どうこう言っても仕方がない。
「さて。いい感じに回復したし、また探しに行ってくる」
「はーい。お気をつけて」
そうやって、陛下は蜜月最初の一週間を番探しに費やしていた。
番探しは朝から深夜までどこかに行っているのが常なのに、今日は珍しく私が起きている時間に戻ってきた。だが、陛下の様子が何やら変だった。
「ぅぐっ――――」
「陛下!?」
床にガクリと膝をつき、右手で胸の前を掻きむしるような仕草。そして「苦しい、熱い……息が…………できない」とうわ言のように呟いている。
これは、魔族たちの臭いに当てられている時と酷似している。
「すぐに湯殿を用意します!」
浴室に駆け込み、魔石付きの蛇口を全開にし、お風呂の準備を大急ぎで整えた。
床に蹲ったままの陛下を支えて立たせようとしたのだが「くるな! 触るな!」と払い除けられてしまった。
「申し訳ございません。湯殿の準備は終えておりますので、どうか臭いを落としてお寛ぎされてください」
「っ! ちが…………すまない」
部屋の隅まで移動して臣下の礼を取っていると、弱々しい陛下の声が聞こえた。ただ、私は下を向いていたので表情は見えなかった。
ゆっくりと陛下が動き出し、湯殿に向かったのが雰囲気で分かった。顔を上げ体を起こして、ホッと息を吐く。
臭いで体調不良になっている時の陛下は、竜の血が沸き立つような感覚になり、魔力を暴走させてしまうこともある。
そうなれば間違いなく死ぬ。人間はとても脆い。魔力に対抗する力などないのだ。
ちなみに、私たちの契約書には『有事の際、大怪我や死に至る場合がある。いかなる者も、それに対しての異議を唱えない』という文言があり、誓約書も書かされている。つまり、それほど死にやすい。
ぶっちゃけ、そんな契約をよしとする人はいないだろう。
私は天涯孤独だからこそ、サインをした。マリーさんと、シモンさんも、似たような境遇だった。
高齢の二人と私から分かるように、次代はなかなか見つからない。
だからこそ、私たちは死ねない。
私たちが死ねば、陛下が一人になってしまうから。
「ウィスタリア…………なぜ……」
湯殿から戻った陛下が壁際に立っていた私を見て、顔をクシャリと歪ませた。なぜと言われても、死なないために出来ることは、陛下が落ち着くまで出来る限りの距離を取ることくらいなのだ。
徐々に苛立つような顔になった陛下がずんずんとこちらに近付いてきた。
「っ! 来いっ!」
右手首をガシッと掴まれて引きずられるように連れてこられたのは、ベッドの前だった。
膝下からふわりと掬い上げられ、ベッドに乗せられると、陛下が枕を抱きしめるようにして、私を締め付けた。
「えっと……?」
「…………なにも言うな。今はこうしていたい」
「承知しました」
たぶん、心が疲れたのだろう。魔力を使ってさまざまな国や秘境を巡り、番様を探しているのだと聞いた。その際になにかトラブルにでも遭ったのかもしれない。
自分より体温の高い陛下に抱きしめられていると、温かくて直ぐに眠くなってしまう。シモンさんに頼んで、陛下に丁度いいサイズの抱き枕でも用意してもらった方が良さそうだ。そんな事を考えながら深い眠へと落ちていった。
◆◆◆◆◆
番探しをして世界中の隅々まで見て回った。以前も探したことがあったのだが、もしかしたら生まれていなかっただけかもしれないと思ってだった。
…………だが、一週間もせずに巡り終え、また見つけられなかったことに絶望した。
番の匂いがわからない。世界はむせ返るほどの臭いで充満している。その中から皆がいう番の匂いを探し出さなければならなかった。
番の匂いは、人によって表現が違う。
心臓を鷲掴みにされるような甘く芳醇な匂いだとか、脳を痺れさせるようなスパイシーな匂いだとか、甘酸っぱくて腹の奥底がキュンキュンするような匂いだとか。いろいろ違いすぎる。
ただ一様に言うのは『逢った瞬間に判る』ということ。目の前の相手を連れ去り閉じ込め、誰の目にも触れさせてはならないと本能が囁くのだという。
「…………ババァに頼るか」
竜族の最長老である占い師兼薬師のイデアル。平均寿命を既に八〇年も超えているババァで、流石に限界が近いのだろう。ここ最近はほぼ一日寝ているという。
王城に戻る前にババァの屋敷に立ち寄った。丁度飯の時間だったらしく、孫がババァに夕食を食べさせている最中だった。
「よぉ。相談がある――――」
ババァがモゴモゴと唸っていた。孫によると、食べるまで待てだった。仕方ない、待ってやるか。
「なぁんじゃのー」
「番の匂いが分からん! 占いで探し出してくれ」
「あー?」
「くそ! 耳が遠いな!」
高齢だから仕方ないんだろうが、相談事を大声で言うのはちょっと恥ずかしい。
「糞とはなじゃぁ! 糞とは!」
「聞こえてんのかよ」
「あー?」
「クソが!」
最終的に、臭いに敏感になのはどうしようもない、俺が産まれたとき仮死状態だったせいだろう、とのことだった。
そして、目がほぼ見えていないから占いも無理だと言われた。
「薬がのぉ、ある」
「は!? あるのかよ! 早くよこせ!」
「あー?」
「またか! クソ!」
ババァがテーブルの上をバシバシと叩きながら何かを探していた。
「これじゃこれ。鼻にジュビーッとすりゃええ」
手渡された水色の小瓶にラベルが貼ってあった。点鼻薬と。
「市販薬じゃねぇか!」
「ジュビーッとせいっ!」
ババァが俺の耳をガシッと握って水色の小瓶を鼻にぶち込もうとしてくる。なぜか振り払えない。どう考えても寿命の限界に挑んでいるババァの力じゃない。魔法か? 魔法なのか!?
「いてぇ! おいこら、やめろ……ババァ! どっからこんな力が出んだよ! 孫ぉ! 止めろやぁぁぁ」
「はははははは、無理ですねぇ」
結局、ババァに点鼻薬を全部ぶち込まれた。鼻の奥がめちゃくちゃ痛い。そして、結構いい薬だったらしく、想定外に鼻が通ってしまい、めちゃくちゃ臭い。いつもの五倍くらい臭い。目眩と頭痛で涙まで出てきた。
「くっそ、碌なことがねぇ」
「糞とはなんじゃぁ!」
「なんでそこだけ聞こえんだよ……ババァ、元気でいろよ……」
一応礼は言った。謝礼は孫に渡したが、ババァが物凄い速さて奪い取っていた。あのババァ絶対にあと一〇〇年は生きるな。
ふらふらになりながら、どうにかこうにか部屋まで転移した。ここに戻れば、襲い来る臭いたちから解放される。そう思ったのに――――。
「ぅぐっ」
柔らかで甘く爽やかな花の香りが、部屋を満たしていた。あまりにも控えめでいて、可憐な小花のような匂いの発生源は、ソファにうつ伏せで寝転がって本を読んでいたウィスタリアだった。
スカートの裾がたくし上がり、そこから覗く柔らかな太股から目が離せない。
心臓が跳ねた。破裂するのかと思うほどの鼓動と締め付け、そして脳を焼き切りそうなほどの性衝動。
苦しい。身体が熱い。息が…………できない。
「すぐに湯殿を用意します!」
ウィスタリアがそう言って風呂に走って行ってしまった。匂いの発生源が離れたことで、鼓動が少しだけ落ち着いたかと思った。だが、すぐにウィスタリアが戻ってきてしまい、また再発。
しかも、心配そうな顔で床に蹲り動けなくなっている俺に手を差し伸べてくれている。
あぁ、今すぐ目の前ウィスタリアを滅茶苦茶に抱き潰したい。
――――っ!
「くるな! 触るな!」
いま、本能に負けてウィスタリアを襲えば、彼女の心も身体も壊れてしまう。なにより、屈託なく笑う彼女が見られなくなる可能性、笑いかけてもらえなくなってしまう恐怖に身体が震えた。
だから、俺から離れて欲しかった。
咄嗟に口から出た言葉は、彼女を傷付けるようなものだった。
目を見開かれた。そして、顔に微笑みを張り付け、素早く壁際へと避難されてしまった。
それが使用人であったウィスタリアの正しい行動だろう。だが、俺の心臓は止まりそうなほどに鼓動が弱まった。
「申し訳ございません。湯殿の準備は終えておりますので、どうか臭いを落としてお寛ぎされてください」
「っ! ちが…………すまない」
とりあえず、いまは風呂で衝動を落ち着けるしかない。ウィスタリアに嫌われないために。
人間は番の匂いがわからないから、ウィスタリアの心には発情した竜族に無理矢理襲われたという事実だけが残ってしまう。
そんなのは嫌だ。
――――やっと見つけた番なんだ。