03
side・レイヴァン
僕はレイヴァン・シノワーズ。
シノワーズ国の第一王子であり次期王太子、後の王となるであろうと皆に期待される男だ。
婚約者は父の右腕である宰相の娘であり、花のような儚さを持つ美しいウェンリー・タリス。
6歳の頃からの婚約者であった彼女は少女の愛らしさを脱ぎ捨て、今では誰もが息を呑む程に美しく成長した。
そんな彼女が僕の婚約者である事は誇らしく、また見た目だけではなく博識で性格も穏やかで優しく、淑女の鑑と呼ばれる事もまた誇らしくある。
僕を前にするとポッと灯りを灯すかの如く頬を赤らめる姿も好ましい。
だが何時の頃からかそれが当たり前になり、僕は外に刺激を求めてしまった。
それが愚かな事だと知りつつも。
お忍びで出掛けた町で知り合った、町の安酒場で給仕の仕事をしているレベッカはウェンリーとは真逆の光を放った女だった。
ガサツで遠慮のない口調。
大口を開けてよく笑い、感情が爆発したかのように怒り、恥ずかしげもなく大声で泣く。
それまで僕の周りにはいないタイプの女だった。
レベッカは飴色の豊かな髪と扇情的であり肉感的な体をしていて、酒場にはレベッカ目当ての男客も大勢いる程に人目を引く女で、僕も何時の頃からかレベッカに夢中になっていた。
ウェンリーとは何れ結婚する、レベッカとはそれまでの関係だ。
そんな言い訳を自分にしながらレベッカにのめり込んだ。
最後の一線だけは決して越えなかったが、抱き締めてキスをして甘い言葉を囁いた。
何度理性に押し負けそうになったかは知れないが、王族としてそれだけはマズいと踏みとどまった。
甘い言葉を囁いても決して「愛している」とは言わなかったのもまた王族としての矜恃だった。
ウェンリーとの結婚の1ヶ月前、僕はレベッカに別れを告げた。
「あぁ、そう。分かったわ、さよなら」
別れを告げた僕にレベッカはあっさりとした物だった。
僕はレベッカが付き合っている男が僕だけではない事は知っていたし、何よりレベッカを僕の正妃にするつもりはなかった。
王族として迎え入れるには何もかもが足りない。
文字も読めず、簡単な計算すらも覚束ず、こちらから教えようとしても「私には必要ない」と学ぶ事への向上心もない。
だが男に擦寄る術だけは一流で言葉巧みに、時には体を使ってでも男達に貢がせ欲しい物を手に入れる様はある意味天晴と言いたくなる程だったが、そんな技など王族には必要ない。
こうしてレベッカとの関係を精算したはずだったのだが、別れて2週間後、レベッカは王城に現れた。
城門前で声高に「私は王子の恋人よ!」と騒ぎ立て、事態を収束させる為に迂闊にもレベッカの前に出た僕にレベッカは「レイ!」と駆け寄り、門番の目の前で僕に抱きつきキスをしてきた。
通りにはそれなりに人目もあったのに、そんな事は構いもせずに、寧ろわざと見せ付けるような芝居じみた行動に僕の気持ちは急速に冷めていった。
「君とはきちんと別れたはずだ」
そう言っても納得しないレベッカ。
「レイが王子だなんて知らなかったの!知ってたらもっと相応しくなるよう努力したわ!」
そう言って膨れ面をするレベッカ。
少し前ならばそんな顔すらも愛らしいと感じただろうが、気持ちがすっかりと冷めた今の僕にはその顔が全く違って見えていた。
──こうやって男達を手玉に取っていたのだな。
恐らく僕が王子だと知って惜しくなっただけだろう。
金や高級品にだけやたら執着する女だった。
そんなレベッカが僕の身分を知ればこういう行動に出る可能性を加味しなかった僕の落ち度だ。
父と相談し、平民が3年程遊んで暮らせるだけの金を渡したのだが、その後もレベッカは現れた。
きちんと誓約書を書かせようにも文字が読めず書けないレベッカは「読めないからって私の不利な事ばっかり書いてあるんでしょ!騙されないんだから!」と頑としてサイン代わりの拇印を押そうともせず、とうとう式の当日まで来てしまった。
ここまで来ると僕の癒しは婚約者であるウェンリーになっており、ウェンリーを心から大切にしようと心に誓った。
燃え盛るような愛はなくていい。
ウェンリーと穏やかに過ごすであろう未来を思い描けば自然と頬は緩み温かい想いが胸に広がる。
なのにレベッカは式が行われる教会にまで姿を現した。
どう入り込んで来たのか僕の前に姿を見せると「レイ!」とあの時のように抱きつきキスをしようとしてきた。
それを手で制して止めると拗ねたように膨れ面をした。
人目がある上に控え室にはいつ重鎮や賓客が訪れるか分からない。
仕方なしに人目の少ない裏庭へと連れて行くと、レベッカは自ら腕を絡め身を寄せてきた。
「君とは別れると言ったはずだ。手切れ金まで渡したのにどういうつもりだ?」
「やっだー、レイ!本当は私と別れたくないって知ってるのよ?!婚約者だっけ?その女の事も好きじゃないのよね?でも王子だから仕方なく結婚するんでしょ?私の事可愛いって言ってくれたじゃん!今更照れなくてもいいんだって!」
「...何か勘違いをしていないか?」
「勘違い?」
「そうだ。本来であれば君が僕の前に姿を現す事自体あってはならない事だ。罰せられてもおかしくない事をしている事を自覚しているか?」
「罰?!」
「今日、この教会は王家の貸切であり、招待された者以外の立ち入りは禁止されている。それなのに君は僕の前に現れた。刺客として切り殺されてもおかしくないのにそれがなされなかったのは何故なのか、君には分かるか?」
「そ、それは、レイが私を、愛してるからでしょ?」
「これから挙げる結婚式を君のような下賎な血で汚したくないからだ!」
下賎などとは初めて口にした。
民を蔑ろにしてはならないとの父の教えを僕は守ってきた。
民に支えられて僕ら王族は生きている。
民達が働いて納めた税で生かされている代わりに僕ら王族や貴族は有事の際には民を守る剣となり盾となる。
国の顔として他国との交渉に挑み、国を発展させる事に尽力する。
下賎などと民を貶めるような言葉は決して使わない、使う気などなかった。
だが...。
目の前の浅はかな欲しか見えない女を前にその言葉を初めて口にした。
後悔はない。
この女と切れるのであればどうでもいい。
「婚約者の事、愛してないんでしょ?」
「...君に言う必要はない」
「言えないんだ。それだけの気持ちなんじゃん!私を愛してるからでしょ?」
「やめてくれ!もううんざりだ!僕はウェンリーを愛している!」
まさかこの光景をウェンリーに見られているとは思わず、それが要らぬ誤解を生じさせる結果に結びつくなどと考えてもいなかった。