九章
七月の中旬に差し掛かったある日のことだ。
朝起きると、つぼみがついていた。
「ぉおぉお!」
思わず奇声を上げる。この頃には支柱もつるでぐるぐる巻きにされていて、葉っぱがところ狭しと茂っていた。
そんな中に、白いつぼみが一、二、三……五つも。
これを見てテンションが上がらない人がいるだろうか、いや、いない。反語表現。
スマホを取り出して写真を撮る。
梅雨も明け、今日雨が降る予報は出ていない。であるならば、今日からこのつぼみ付きの花も外に出してしまって良いだろう。
日光に当たって更に大きく育ってもらおうじゃないか。
鉢を持ち上げてベランダに出すと、照りつける日光が目に飛び込んできて思わず目を細める。
「夏だねぇ……」
まだ朝の七時半だというのにもうこんなにあったかい。この分だと蝉が鳴き始めるのももう少しかもしれない。
夏は好きだ。だって暖かいから。蒸し暑いのは正直勘弁してほしいけど、それでも雨が降るよりもずっと良い。
少しだけ景色を眺めていると、ふとスマホが振動した。
「……あれ……?」
振動していたのは私が設定していたアラーム。
時刻を見れば七時四十五分。会社に行くには、八時に家を出ないといけない。
……うーん、やばい。
「写真なんて撮ってる場合じゃなかったね!やばいやばい急がないと……!」
急いでパジャマを脱いでソファに放り出し、壁にかかっているスーツを引き寄せる。
遅刻は断固避けなければ。私は急いで身支度を整えるのだった。
***
「っはぁー!セーフ!」
「お、小日向君」
「部長!私間に合いましたかね?!」
「う、うん。遅刻じゃないよ大丈夫」
全力ダッシュで会社に駆け込んできた私に偶然出会った坂口部長が若干戸惑い気味で答える。
スマホを開いて時刻を確認。よし、セーフ。
よく見てみると同僚の人たちは皆思い思いに立ち歩いたりコーヒーを飲んでいたり。どうやら余裕で間に合ったらしい。
こういう時に自宅が会社に近いことの利点を一番感じる。
「あー、小日向君」
「な、なんでしょう……」
「いや、そのだね、今日からクールビズだからそんなにしっかり着込まなくても良いよ……?」
「え、今日からでしたっけ」
「うん、そうだよ」
スマホのカレンダーアプリを立ち上げて確認。なるほど、たしかにクールビズは今日開始だ。
来週からだと思ってた。
「すいません、今すぐ着替えたほうが良いですかね……」
「いや……まだ移行期間って言うだけだからそんなに急がなくても良いけど暑ければ脱いでも良いからね……?」
「はい……ありがとうございます……」
走ってきたから息を切らしている私に気を使ってくれたらしい坂口部長は私にちらちらと心配そうな視線を向けると給湯室の方に向かって行ってしまった。部長もこれからコーヒーでも飲むのだろう。
私もさっさと自分のデスクに向かって席についてみて、気づく。
今日がクールビズだというのなら、脇本さんは……?
ちらりと、視線を向けた。
「ウ゛ア゛ッ……」
上着を脱いで少し青みがかったワイシャツ一枚になった脇本さんが、そこに居た。
暑いのだろうか、一番上のボタンを開けているせいで胸元の肌色が覗く。
思わず私はデスクに突っ伏した。
「小日向君?!ど、どうしたんだい!やっぱり体調でも悪いのかい?!」
「あ、部長……大丈夫、致命傷です……」
「致命傷?!」
給湯室から戻って来たらしき坂口部長が私に話しかけてきた。首を傾けてそちらを見ると、本気で心配してくれているらしき顔。
その手には二つの紙コップ。
「と、とりあえず水を持ってきたから飲みなさい小日向君。水分補給しないと熱中症になるからね」
「部長……」
「な、なんだ。言ってみなさい?」
「部長あったかいですね……」
「え、や、やっぱり熱中症かね?!」
「いや心が」
坂口部長はこんな感じだから女性社員に人気なんだよねぇ。
すっかり社内のマスコット的立ち位置を確保している。
部長から受け取った水はキンキンに冷えていて、乾いて張り付いていた喉を潤していく。
はぁー、最高。
「……はい、復活しました。もう大丈夫です」
「まぁそれならいいが……体調崩しそうだったらすぐに休憩して良いからね?体には気を付けるんだぞ?」
「任せてください。私以上に体を大切にしてる社員はそうそういませんよ」
そもそもが熱中症とかでも何でもなく、会社まで走って来たから息が上がっていただけだとは言えない。
部長はやっぱり心配そうに、そろそろと他のデスクへと向かった。
朝は社員の人に話しかけたりするのが部長の日課だ。特に体調を気遣っているらしい。
そりゃぁモテますわ。なんなら部長既婚者だし。
奥さんは幸せなんだろうなぁ。
対して脇本さん。話してみると良い感じの人ではあるのだけど……
「うわぁ……今日も一段とすごいなぁ……」
脇本さんは既に仕事を始めていた。パソコンに向かうその姿はまぁ、カッコいいにはカッコいいのだけれど若干近寄りがたい。
何と言うか、圧があるよね。
みんながのんびりしている中で一人だけパソコンを叩くその姿ははっきり言って目立つ。
脇本さんは他の人よりたくさん働いているから、その分だけ働く時間も伸ばさなきゃいけないのは分かるけれど休憩時間もやるというのは……
「っと、まずい……」
うだうだ考えていたらもう私も仕事を始めなくてはいけない時間だ。
もう一度脇本さんをチラ見して、私もパソコンの電源に手をのばす。
さて、今日も一日頑張ろう!
ヒント9:『愛の成る木』は一年草の植物です。つまるところ冬になれば、枯れます。