三章
「小日向君、この資料今週中にまとめておいてくれ。頼んだよ」
「えっ、えぇ?!私ですか?!」
「あぁ、そうだよ。君が今一番手が空いてるんだから。何か困ったことがあったら脇本君に聞いて良いから、頼んだよ」
会社でキーボードを叩いていた私にそう声が掛かる。
声をかけてきたのは坂口部長。私はこっそり裏で『アザラシ』なんて呼んでいるが、上司である。
今もそうだけど、歩き方もなんだかぴょこぴょこした変わった歩き方をしているので少し可愛い。私をよく飲み会に誘ってくれる人でもある。
歩くたびに部長のぽよぽよしたお腹が揺れた。
「い、今からか……」
そんな坂口部長が持って来たのはファイルに収められた何枚かの資料。
見た感じ、今月の業務成績とか色々が載っている。
これをPCに打ち込んでまとめてくれ、と言うことなのだとは思うけれど……
「きっついなぁ……」
今週はまだ四日ある。から時間的には割とあるのだけど、私にももちろん仕事がある。若干なりとも仕事が増えるのはちょっと……。
と言っても坂口部長も色々と働いているのは分かっているので文句は言えない。
私の会社はそこそこクリーンだ。ブラック会社に勤めている私の友達曰く『天国のような会社』らしいので文句も言いにくい。
「はぁ……」
椅子の背もたれにもたれかかってのびをする。お昼休憩の後ずっと座りっぱなしのまま三時間。背中も痛くなるというものだ。
「のぅおわぁぁぁ……」
一回集中が切れてしまうと結構きつい。まだ休憩には早いし……
パラパラとファイルをめくって内容を確認する。
数字ばっかりだ。細かくマス目で区切られた中に数字がたくさん。
これは目が痛くなるなぁ……。これを打ち込むのは面倒そうだ。
と、五枚目の真ん中あたり、三か所ぐらいまとめて空白になっているマス目があるのに気が付いた。
「……?」
このページは何社分かの営業成績をまとめてあるようだが一社だけ、三か月分の営業成績が空白になっている。
えぇと……
坂口部長の方を見ると、なにやら他の人と話し込んでいた。流石に今話しかけに行くのはまずいというか……
あぁ、そういえばさっき坂口部長は、困ったことがあったら脇本さんに聞くようにと言っていた。
脇本さんはあまり話したことの無い人だけれど、せっかくだし聞きにいってみてもいいかもしれない。凝り固まった体も少しだけ動かせるだろうし。
そうと決まれば善は急げだ。私は立ち上がって辺りを見渡した。
灰色のカーペットが一面に貼られた床の上に机が並べられ、何十人もの大人がPCに向き合っている。
ついたてで区切られた白いデスクとキャスター付きの椅子が邪魔するせいで全員の顔が見れるわけでは無いので探しにくいけれど……
「……いた」
窓際の席。疲れたような顔をして伸びをし、肩を回している男性がいた。
彼が脇本さんだ。確か私より二年ぐらい先輩だったはず。
普段は眼鏡を掛けていなかったと思うのだが、今日は眼鏡を掛けている。
「……」
話しかけようとは思うのだけれど、話しかけにくい。脇本さんは飲み会にもあんまり来ないし、近寄りがたい人のような印象があったからだ。
でも脇本さんがもう一度仕事を始めてしまったらさらに話しかけにくくなってしまう。
意を決して、私は声を掛けた。
「あ、あの、脇本さん」
「……ん?あぁ、はい。どうしました?」
こちらを見て脇本さんが微笑む。少し疲れた顔をしているけれど、イケメン。
あ、いや、そういうことではなく。
「部長にこの資料をまとめるように言われたのですが、ここだけ空白になっていて……」
「あぁ、そこね。大丈夫。そこは空白で合ってるんだ」
「合ってる、と言うと?」
「そこの支社は食品提供とかもしてるんだけどちょっと不祥事が出ちゃってね。そのせいで三カ月くらい休業せざるを得なかったんだ。だからそこは空白、営業成績無し、ってわけだね」
「あぁー」
そういうことならここは0を入力しておけばいい。
「ありがとうございます脇本さん。助かりました」
「いやいや大丈夫。それ元々は僕の仕事だったんだけどね、どうしても間に合いそうにないから誰かに助けてもらいたいって部長に言ったんだ。仕事を押し付けるような形になっちゃってこちらこそ申し訳ない」
「え、あ、いえいえ!大丈夫ですよ!私の仕事が結構終わってたのも事実ですし!」
「そう言ってくれると助かるよ。何かあればいくらでも助けるから、また言いに来て」
「分かりました。脇本さんも頑張ってください!」
そうして私のデスクまで戻って私はため息をつく。
脇本さん、あんまり話したことは無かったけれど良い人そうで良かった。
さて、それじゃあ入力をするためにまずは私の仕事をさっさと終わらせなきゃ。
そう考えて私はすぐにPCに向かうのだった。
***
「ふはぁー疲れたぁー……」
家に帰ってきてすぐに玄関に寝転がる。
時刻は九時半、すっかり家の周りは真っ暗になっていた。
手に抱えたビニール袋から、今日飲もうと思っていた缶ビールを取り出して少しだけ考える。
もうここで飲んでしまおうか。でも冷蔵庫の中に入れておいたキンキンのグラスで飲んだ方が絶対美味しい……
「うーん、悩みどころですなぁ」
ここで飲むのはもったいない気もする。なんなら夕飯も食べながら飲みたいし。
「あぁあぁー、ご飯作りたくないー……」
今日は総菜を買って来てあるから大分楽ではあるけれど、スーパーの総菜はやはり手料理には勝てない。
いや、愛情とかそういう話がしたいんじゃなくて、値段が段違いなのだ。
全ての料理に置いて、コスパは自炊が最強なのである。
でも私が作る時間は無いし、週三ぐらいで総菜を買う社会人ライフ。
家に帰ってイケメン彼氏がご飯を作って待っていてくれる生活希望。できれば私が帰って来た時には家に居てもらって私を出迎えて欲しいから、保育士志望のイケメン年下彼氏が良いけど。
いやいや、でも贅沢は言いませんとも。私に優しくて浮気しないイケメンなら全然誰でも。
っと、そういえばあの植木鉢どうなったんだろう。
「よいしょ……っと」
寝転がっていた状態から頑張って体を起こして靴を脱ぎ、植木鉢の方へ向かう。
鞄はソファに放り投げておき、ベランダは既に大分暗くなっていたので電気をつけると--
「芽が生えてる……」
植木鉢の土に新芽が一、二、三。三つも。
朝起きて見た時には何も無かったので、どうやら私が会社に行っている間に生えてきたらしい。
ベランダの明かりに照らされて、薄緑の双葉が揺れる。夜風が肌に心地良い。
「今日の晩酌はベランダで飲むかなぁ」
春も終わりの夜風、楽しむなら今だろう。夏になれば蒸し暑くて外になんて出られたものじゃない。
あ、しかも今日は満月が綺麗だ。
「用意しますかぁ」
ベランダの柵を掴んで立ち上がる。ベランダにくっついている室外機は埃を被っているけれど、これが活躍する季節まであと少しだ。
明かりを消すと月が光を落とし、柵から長く影が伸びる。
今日は月明かりだけで夕食にしようか。
そう考えた私はリビングから小さめの段ボールを持ってくると、それをテーブル代わりにスーパーで買ったお惣菜を並べ始めた。
あ、お酒も飲むんだからグラスも持ってこないといけないかな?
ヒント3:『愛の成る木』の子葉は二枚です。