十四章
シルバーウィークが開けてすぐの会社は、少しだけガランとしていた。
たくさん並んだデスクのうち何個かの上にはすっかり何も置かれておらず、ただただ白い無機質な机が微妙に冷たい秋の風に身を晒していた。
坂口部長の机をはじめとして、前までは会社に居た人たちの私物がごっそりと無くなっているのに気づく。もちろん、脇本さんの机も空っぽ。もうあの山のように積み上げられたファイルを目にすることは無いだろう。
転勤するのにシルバーウィークを挟んだのには、こういう私物を片付けるためだという理由があったのだと気づいたのはたった今だ。
私はぼんやりと周囲を見回しながら立っていた。私はこれから坂口部長から引き継がれて部長の席に座る。
事前の打ち合わせではそろそろ転勤組の人たちが入ってくるはずだった。
後ろを振り向くと何人かの女性社員が目いっぱいに花がぎゅうぎゅう詰めされた花束を両手で抱えている。
その大きさと言ったら、女の子たちの顔が見えなくなるほどだ。
でもその中に『愛の成る木』の花なんてものは無く、当たり前のことながらも私は少しだけ優越感に浸った。
ポケットに手を突っ込むと、『愛の成る木』産のBB弾の感触。
今日の朝、お守りにしようと思って家から持って来たものだ。
これを指で転がしていると、少しだけいつも通りの自分を思い出して冷静でいられる。
こんな場所で大泣きするだなんてみっともない顔は見せられない。皆にも、脇本さんにも。
「それでは、えー、本日をもって、えー、転勤になります皆様方が入場となります、えー……」
今まで顔も見たことの無いようなおじいちゃんが前に立ち、なにやらしわくちゃのカンペをガン見しながら読み上げる。
カンペと同じくらいおじいちゃんの顔もしわだらけだ。
よほど目が悪いのか、カンペに限界まで顔を近づけて読み上げていた。
ひっこめー。坂口部長の方があんたの百倍可愛いぞー。
「えー、それでは拍手を持って、迎えを、えー……お願いします」
拍手が上がる。私も負けじと手を叩いて、前を見据える。
次期部長である私が列の先頭だ。坂口部長に教えてもらった通り、背筋を正して目線は前。顎を引いて手は体側。
坂口部長を先頭にして、見知った顔が並んで入ってくる。
あんまり話したことの無い顔もいる。
なんなら今回の大異動にかこつけて退職になった人もいるらしいのでここにいる人数全員が支社に移るわけでは無いと思うけれど、そこそこの人数が一列に並んだ。
私が新入社員の時にミスをしちゃって、その後助けてくれた人。飲み会の時に私のグラスにお酒を注いでくれた人。この前トイレで一緒になった時に手を洗わないで出てった人。
とにかく色んな人がいた。
そしてもちろん、脇本さん。
今日はいつにもまして素敵だ。髪型はオールバックにしてネクタイもピシッと締めている。
初めて見る感じだけど、今日もイケメンだなぁ。大好きです。脇本さん。
式典は滞りなく進み、私がお礼の言葉を皆の前で発表したりとか、花束が皆に渡されたりとか。
いいなぁ。脇本さんに花束を渡す役、私がやりたかった。
脇本さんに花束を渡す役の子は「脇本さん?ってあの地味な人ですよね……あんまり関わりないのに私が渡すんですか……?」とか言っていたけれど、それだったら変わってほしいぐらいだった。
でもそんな式典もどうせ形式的なものだ。無事に終わればすぐ解散になるわけで、ぞろぞろと来た時と同じように坂口さんたちは帰って行って、脇本さんもまた、消えた。
そのあと簡単に、顔も知らなかったおじいちゃんから言葉を貰って解散になる。
私は一度デスクに戻って、大きめの白い紙袋を引っ張り出す。
この中身はもう私には必要ないものだ。だからもう、脇本さんに返そう。
事前に坂口部長……いや、坂口さんはもう、元部長だ。元部長に予定を聞いて置いて良かった。
脇本さんはまだ会社を出ていない、と思う。
すぐに追いかける。エントランスで待っていれば会えるはず。
灰色のカーペットで覆われた無機質な廊下を走って、走って。
ポケットの中でBB弾が暴れる。
なんでちゃんとした服ってこんなに動きづらいんだろう。
廊下に並んだ中途半端な大きさの観葉植物を見て「これは大したことないな」なんて思いつつも私は走る。
手に持った白い紙袋が走るときは邪魔でしょうがない。
そして、ようやく脇本さんの背中が見えた。
脇本さんらしい。列から少し外れて、一番後ろを歩いているらしかった。
一瞬このまま飛び込んで行って抱きしめようと思うものの思い直して、後ろから急に飛び出して行って手を取るだけに留める。
「脇本さん!」
「わ、びっくりしたなぁ……。小日向さん?どうしたの?これから色々話があったんじゃ……」
「もう終わりました!脇本さんもそんなのんびりで良かったんです?これから移動ですよね?」
「そうだね。もう引っ越しの準備は終わってるから今日一日だけはホテルに泊まって、最後にここら辺を散歩でもしようかと思ってるよ。遊園地とかに行くのもいいかもしれないね。明日の夜中にはこっちを出る予定だけどまだしばらく時間はあるさ」
ということは、会えるのは本当に今日で最後だ。
「あの、脇本さん、これありがとうございました!」
そう言って紙袋を差し出す。
不思議そうな顔をして受け取った脇本さんは、中身を確認して少し目を細めた。
「これ……支柱か。僕が小日向さんにあげたやつ?」
「貰ってません。借りてたんです。そんなわけで返しに来ました!」
「これはご丁寧に……」
丁寧に袋に戻して、頭を下げる脇本さん。礼儀正しいし几帳面。好き。
「でも良かったの?小日向さんもなんか育ててたんじゃ……」
「いえ、良いんですよ。もう枯れちゃって……。種まで取れたので満足ですかね」
私が育ててたことを覚えてくれてた。めっちゃ好き。
「種?」
「あ、はい。良かったら脇本さんも要りませんか?」
そう言って私はポケットから種を取り出す。いつ見てもBB弾みたいな黒色。それと綺麗で真っ白なハート模様。
脇本さんはそれを見て、納得したような顔をした。
「あぁ、それを育ててたんだ。そりゃあ支柱がいる訳だ」
「本当に助かりました。ありがとうございます」
種を五個ぐらいつまんでヒップロックに入れ、脇本さんに渡す。
脇本さんはまた、嬉しそうに目を細めた。その顔、大好き。
「ありがとうね小日向さん。これは何かお礼をしないとだ。そんなに大したものは無いけど……」
「い、いえ!全然そんなの貰わなくても!」
「これなんてどうかな。食虫植物キーホルダー」
脇本さんがスマホを取り出して、そこについていたストラップを外して私に差し出す。
思わず、受け取ってしまった。
柔らかいクッションでできているこのストラップのモデルは私でも知っている。
確かハエトリグサ……みたいな。
「それじゃあ僕はそろそろ行こうかな。わざわざ色々と、助かったよ。本当にありがとうね」
「は、はい。あの、私……」
私は脇本さんのことが、好きだ。どのくらい好きって、そりゃあ……私でも私のことが分からなくなるくらい好きだ。
告白するなら今、ここで。
……あ、
「小日向さん?どうしたの?」
「……あの脇本さん、明日遊園地行く、みたいなことを言ってましたよね?ちょっとぶしつけな質問かもしれないんですけど、誰と行くんですか?」
「誰って……もちろん子供と、家内と行こうかなぁと。それがどうかしたのかい?」
……あぁ。
「いえ、何でもありません!支柱にしろ何にしろ、本当にありがとうございました!脇本さんのおかげで結構色々と楽しかったです!」
「あぁ、僕も。小日向さんと知り合えて良かったよ」
脇本さんを捕まえていた手が離れて、手を振って、脇本さんが離れて行って、角を曲がって。
そして、そして。
……あーあ。
ヒント14:『愛の成る木』の花言葉は『一緒に飛びたい』です。