十一章
夏休みはあっという間に過ぎて会社が始まって、気づいたことがある。
なんかこう、空気感が若干違う。そわそわしているというか何と言うか、とにかく微妙に何かが違うのだ。
まず部長が私を見に来ることが増えた。
「小日向君、進捗どうだい?」
「順調ですよー。今日中には終わらせられそうです」
「おぉ、助かるよ。小日向君は仕事が早いね!」
「そうですかね?でも他の仕事も、残業しないで済む範囲なら引き受けますから!」
部長はニコニコと笑いながら額の汗をハンカチでふき取った。
いやぁ、しかし我ながらちょろい女だ。褒められただけで気を良くして……という訳ではない。実はこれも作戦なのだ。
私は脇本さんの仕事が多いのを知っていた。結構キャパオーバーするレベルの量を引き受けているのも、もちろん知っていた。
だから大変な仕事を引き受ける、といえば自動的に脇本さんから仕事が回ってくる。
私としては脇本さんと話せるし、脇本さんからしたら仕事量が減る。これがwin-winの関係と言う物だろう。
そんな私の意図に気づくことも無く子供のような笑顔を浮かべる坂口部長には少し罪悪感を感じないでもないが……許してもらうとしよう。恋は戦争なのだ。駆け引きも、大事。
「いやぁ、本当に助かるよ小日向君。この分だと昇進も近いんじゃないかなぁ」
「本当ですか?ありがとうございます。昇進できるように頑張りますね!」
だって、お金は欲しいし。昇進できるならそれほどありがたいことは無い。
ただ私はあくまで部長のお世辞だと思っていたので本気で昇進できるとは思っていなかったのだけれど。
だから、それから数週間ほど経って昇進の話が出た時は驚いた。
「小日向君、少し上の地位についてみる気は無いか」
「……へ?」
私がそんな間の抜けた声を出してしまったのは当然と言えるだろう。
「いや、何。今度新しく支社が出来ることになってね。何人か移動が出ることになりそうだから空いたポストに入りたくは無いだろうかと思ってね」
「そ、れは入りたいです!もちろん!で、でも私で良いんでしょうか……?」
「あぁ。小日向君は頑張って働いてくれているからね。私から上におすすめしておいたんだが、上の者も是非小日向君にと」
……頑張って働いているのは脇本さん目当てです、とは流石に言い出せない。
坂口部長は私の心境を察していないのかにっこにこだ。
うーん、可愛い……。
「で、どうだろうか。せっかくの昇進の機会だ。小日向君ならまだこの後でも目指せるだろうが今のうちに少し上の立場に立ってみるのも良いんじゃないかな。君ならきっとうまくできるさ。なぁに、私が保証する」
「え、えと……是非、お願いします……!」
凄い。私の年齢で昇進だなんて、俗にいうスピード昇進ってやつじゃないだろうか。
最近会社の中の空気感が違ったのは異動する人と異動しない人を選んだり、新しく昇進する人を見極めたりしていたからだったのだろう。
そう考えて私は妙に納得する。
思わずニヤニヤしてしまいそうになりながらも部長に見えないように太ももをつねって耐える。痛い。
そう、でも昇進する人はこんなところでニヤニヤしたりなんてしないのだ。常に脇本さんのようにクールに!
「支社……ですか。どのあたりにできるんです?」
「ちょっと長野の方にね。スキー場が近いところらしくて、冬場とかは仕事帰りにスキー板を履くことになるかもだって」
「あー、長野の方は雪が多いって言いますもんね」
「ちなみにだが私も移動することになるんだ。私のポストに小日向君が収まることになるかもだね!」
「えっ、坂口部長がですか?!」
そんな。結構坂口部長の事好きだったのに。
坂口部長はあはは、と軽く笑った。
「大丈夫大丈夫。実際私の生まれはそっちの方だから土地勘もあるんだ」
「だとしても寂しいですよ!」
部長がいなくなったらこの会社の癒しが減ってしまうでは無いか。それは悲しいし、かなり寂しい。
いくらアザラシに似てるからってわざわざ寒そうなところに転勤だなんて、あんまりだ。
「ま、転勤にはなるが向こうでは今よりだいぶ上のポストが貰えていてね。出世したんだよ。だから小日向君にも喜んで欲しいな」
「で、でもぉ……」
「それに、雪国ではこの体もシェイプアップされるかもしれないぞ?雪道は結構体力を削ぐからね!」
「あ、自覚あったんですね」
「急に辛辣なことを言うね?」
おっと。口が滑った。
けれど坂口部長も楽しそうに笑っているから、これはこれで良い感じの冗談みたいになったのだろう。
「私、今の部長も可愛くて好きですけどね」
「そうは言うけど私も若いころは女性社員にもてはやされるイケメンだったんだからね?」
「セクハラですか?」
「違うよ?!小日向君急に遠慮しなくなったね?!私がもう転勤するって分かったからかい?!」
部長の反応が良いから、つい。
「あぁ、そういえば今度送別会をやろうと思うんだけど小日向君もどうだい?長野まで転勤しちゃったらそうそう会えなくなるからね。もちろん私の奢りなんだが……」
「えっ、部長が転勤するのに部長がお金出すんですか?」
「そのつもりだよ。流石に全員食べ放題、というのは厳しいかもしれないが私にできる範囲ならね、頑張るとも」
「いやいや、普通に皆で各々参加費とか出してもらって食べに行きましょうよ。転勤する人が主役の会なのに転勤する部長が奢るのはおかしいですって!」
別に今までの飲み会も部長が奢ってくれた物ばかりでは無かった。
会費1500円とか払って皆で食べ放題のお店に行ったこともあったなぁ……。
あの時は坂口部長も大分酔ってて、演歌を歌いだしたりして凄く楽しかった。
何気に歌上手かったし。
「じゃあそうですね……明日とか、皆に聞いてみませんか?会費を払って送別会参加してもらえませんか、って。なんなら私が幹事やりますよ?」
「うーん……皆そんなに喜んで見送ってくれるかな……私結構厳しく言ったりしてるし、仕事も押し付けるし、嫌われてると思うよ……?」
「大丈夫ですって!皆も部長が私達の負担を減らそうと頑張ってくれてるんだって分かってますから!」
「そうだと良いけどねぇ……」
今日は残念ながら退勤時間がとっくのとうに過ぎている。
私も帰ろうとしているところを部長に呼び止められたので、今会社に残っている人はきっと少ないだろう。
だから、明日。送別会の計画を立てるとしたら明日なのだ。
少し心配そうな部長を勇気づけるように私は力強く言う。
「もう任せちゃってくださいよ。小日向部長の力、見せてやります!」
「はいはい。頑張ってくれよ?」
坂口部長が愉快そうに笑う。
いやぁ、頑張ってこの期待に応えなきゃね!
「それじゃあ先に上がります。お疲れさまでした!」
「うんお疲れ様。小日向君もしっかり体を休めるんだよ?」
「大丈夫、それ私得意です!」
早足で家まで帰る。帰り道には蒸し暑さもすっかり消え、涼し気な夏の夜空が私を出迎えていた。
ヒント11:『愛の成る木』と同じ科の植物には、石鹸として使われる植物があります。