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光城の月  作者: 立呉サビ
救いの命
3/3

濡れ衣大明神






───────────え…今なんて…



久しぶりに誰かが私の名前を呼ぶのを聞いて、思わず口をあんぐりと開けてしまう。

私の口元から手を離したその人は、呆然とする私を見ながら「うーん」と唸りながら腕を組んで何かを考える素振りをする。


そして、尻餅をついたままの私に手を差し伸べると、にっこりと笑った。







「そろそろ落ち着いた?」



どこから持って来たのかわからない甘い味の紅茶を口をつけながら、座布団に座る彼を見る。

落ち着いたというか、達観してるというか、もう頭の中では放心状態というか。


これから目の前の彼に何を言われても、どんな常識外れな事象でも受け入れられる気がしていた。

というか、私は自分でこの世界は”過去”でありタイムスリップしたのだと結論付けていたのだし、今更感が強いのだけど…




「……私、もう戻れないんでしょうか」



核心にも似た質問を突拍子もなく告げると、彼はもっと甘そうな匂いの紅茶を机に置いてまたさっきと同じように「うーん」と、考える素振りをした。

この人、相当性格悪いな。


そんなこと、今はどうでもいいのだ。

彼が私の本名を知っているのはどう考えてもおかしい。


私はこの世界に来て、阿古さんと入れ替わっていることを誰にも話したことがないのだから。

この家で何度か疑われたことはあったけど、そんなこと皆夢物語だって、本気で信じてる人なんていないはず。



────────この人、もしかしたら私がここに来た”理由”を知ってるんじゃないか?





「…結論から言うと、不可能ではない」


「!」


「けど、多分無理じゃないかな」





─────グサッ、何かが喉を突き刺したように体に痛みが走る。


こんなどこのだれともわからない人のことを信じているわけではない。

けれど、私が阿古さんではないと当てて、尚且つ私の事情を知っているこの世界で唯一の「味方」かもしれない人物からそうやってはっきりと言われると、なかなかに気が遠くなった。


(無理…なのか。そうか)




「じゃあ、なんで私はここに───」


「ね、そんなことよりさ、もっとよく顔を見せてよ」




グッ、


といきなり距離を詰められて、話が飛躍し過ぎだろとツッコむこともままならないままその嫌に整った顔が私の瞳に映りこんだ。







(さっきから何を言ってるんだこの人は…)


こっちは真剣に話をしていたというのに、肝心の彼はそんなことは二の次という感じで話の腰を折ると、息がかかるほどの至近距離でまじまじと私の顔を眺めていた。


どうやら相当変わっている人らしい…。

変質者というのはあながち間違えていないようだ。


あの時何故引き出しを漁っていたのかは上手くかわされて、聞くことは出来なかったし、ますます怪しすぎる。



─────せっかく見つけた私の事情を知っている人が、こんな変わった人だなんて…





「……あの」


「あぁ、オレは色葉トオリ。阿古の主治医」




いつまで見てるつもりですか、と言いたかったのだけど、またこの人に言葉を遮られてしまった。

けれど、そう言えば名前を聞いていなかったと彼の言葉を聞いて思い出す。


(阿古さんの主治医…)

心の中で反芻する。

もしかしたら阿古さんは主治医であるこの人に前々から話していたのだろうか。


……そんな馬鹿な話があってたまるか。

私は突然この世界に来てしまったんだ。私がここにタイムスリップして来る、そんな予測していたなんて、有り得ないでしょ。

というか、彼女はどこか体が悪いのだろうか…




「…色葉さんは」


「ヤダなぁ、その他人行儀。名前で呼んでよ♡」


「………トオリさんは、何で私のことを知っているんですか」




私の鋭い眼光に少し狼狽したトオリさんは、私の顔を凝視するのを止めると今度は考える素振りを見せずに、割かし真面目な表情で元いた位置に戻った。


それから、そっと目線を机の上のカップに移すとその中に指を押し入れてぐるぐるとかきまぜる。




「…歴史の分岐点ってどこだと思う?」




「…え」と、思ってもみなかったその質問に私はあっけにとられる。



彼の言動は本当に飛躍し過ぎだけど、その質問には私がここにいるすべての答えが隠されているかのようにも感じられたし、彼の口元が妙に色っぽいので戯言のようにも捉えることができた。

どっちにしろ、私にはこの質問に答える正確な知識を持っていない。


前にも言ったが、本当によく知らないのだ。

歴史なんて、フランシスコ・ザビエルの肖像画をひっくり返したらペンギンに見えたとか、織田信長が本能寺の変で亡くなったとか、ペリーが黒船で来たとか…







「く、黒船はもう来ましたか!?」




ハッとした私はそのままの言葉を口に出した。

黒船が来ているなら、それは絶対に江戸時代だと、小学校の歴史の知識しか持ち合わせていない頭をフル稼働させる。


───いや、今思えばもう少し頭のいい質問をできたかもしれない。今の将軍は誰ですか、とか。

というか普通に、今は何時代ですか?と聞けば良かったのだけど。


そのくらい私の中では、江戸時代に現代でもお目にかかれないまるでデ●ズニーランドのセットのような大きな船がやって来たというのが小学生の時から衝撃だったのだ。

教科書に載っていたあの、大きな黒い船と着物を着て刀を腰に差した武士の小ささが対照的で…




「……うん、結構前に」


「!…じゃあ江戸時代か」



腑に落ちたように私がそう言えば、トオリさんは少ししてから枷が外れたように腹を抱えて笑い出した。

何がおかしいんだという目を向ければ、彼はますます笑いに拍車をかけ目にうっすらと涙を浮かべる。


(笑い過ぎだろ…!!これでも誰にも聞けずにずっとくすぶってたんだから…突然時代なんて聞かれても怪しまれるだけだし…阿古さんが年号を教えてくれたけど全くわからなかったし…)





「オレさっき『江戸へようこそ』って言ったよね?」


「………あ」


「ヒーっおかしっ」




「江戸」は「江戸」か…。

さっきの自分の行動に赤面しながらも、あんな気が動転してた時のことなんて覚えてるわけないだろ!とトオリさんを睨む。

こなくそ~どんだけ笑ってんだこの野郎!


笑い過ぎて半ば過呼吸になっていた彼は、いきなり何かを思い出したように「あ」と言うと、また私への距離を詰めてきた。




「よし、じゃあ体見せて」


「何がよし?」






無理やり着物を剝ぎ取られそうになったのだが、間一髪のところで夕餉の時間を知らせに来た女中さんに助けられ、なんとか貞操を守ることができた。


また一週間後に来るとだけ言ってトオリさんは帰っていったが、その見送りをお義母さんがしていたので、やっぱり本当に阿古さんの主治医だったのか…と頭を痛めた。

あんな意味のわからない医者を雇うなんておかしいんじゃないのか…



くたくたになった私を見た聖くんは何度も心配の言葉をかけてくれたけど、勝手に家を出て行ったことはバレていなかった。







────────”歴史の分岐点”



トオリさんが言っていたあの言葉が、ずっと頭から離れなかった。


そんなもの私にわかるはずもない。

というかそんなもの、誰も正解を決められないんじゃないだろうか。

どれだけ歴史に詳しい専門家が答えたって…




「ぐえぁ」


「もう少しですお嬢様!」




朝、

女中さんに着物の帯をきつく締められながら、私は苦しみに悶える。


最初この家に来た時は、なかなか着る機会のなかった着物や小袖を見て回ったものだが、今はもう普通の服が着たい気持ちでいっぱいだった。

着物は本当に暑いし、小袖はまだ着物に比べて軽いけどやっぱり帯は締めないといけないし、トイレはしにくいし…


ってそう!トイレだ、一番最悪なのは。

これもう拷問だろって感じの形状で、なんかせっちん?とも言うらしいんだけど、和式トイレの劣化版。

当たり前だけど、下に自動で水は流れてくれないし、臭いし、暑いし、しみが凄いし、時代が進歩してくれて良かった…と痛感したよ。


そうだ、あの歴史の分岐点ってやつ。

それはトイレが自動で流れるように考えた人が生まれた時じゃないかな。




「阿古さん」


「は、はい」


「…少しお話が」



呑気にそんなことを考えていると、襖越しにお義母さんの抑揚のない声が聞こえてきて、私の鼓動は早くなる。

私の寝巻をたたんでいた女中さんは、お義母さんの言葉を聞くや否やそそくさと頭を下げて隣の部屋へと戻っていった。


怖い…もしかしなくても昨日のことについてだろうけど、昨日は疲れてそのまま寝ちゃったからな…

でもあれはどうしようもなかったというか…不可抗力というか…言い訳にしかならないか。




「失礼します」



─────スっ、と襖が開き、気品を感じる無駄のない動作でお義母さんが顔を出した。

「お義母さん」そう呼ぶのに少し躊躇いを感じるくらい、彼女は綺麗で若々しい。


もう叱られるのには慣れたけど、この緊迫した空気だけはどうにも苦手だな…

この人の自然と放つ「圧」がそうさせているのだろう。





「…昨日はお疲れのようでしたが、どちらへ」




(うっ……)

やっぱりそうくるよね、覚悟はできていたけどいざこうなると威圧感で息ができなくなってしまう。


私は大きく息を取り込み、お義母さんを見据えた。








ちゃんと、言おう…。

噓はつかずに、本当のことを。

(まぁ今までも噓をついたことはないんだけどね)




「み、みつさんと近くの道場に行っていました」



言葉を口に出して、お義母さんがみつさんや近くの道場のことを知っているとは限らないよな、と気づく。

もし彼女や道場のことを聞かれても、私はうまく答えられないかも…そしたらもっと怪しまれるんじゃ…


一拍、空気が張り詰めたような気がして、私は腔内に溜まった緊張を一気に飲み干す。

すると、予想とは裏腹に正面で「はぁ」という深いため息が聞こえた。




「…またですか」



────────(やっぱり)

お義母さんのその言葉を聞いて、阿古さんが以前からみつさんやあの道場の人たちと関わっていたのだと納得した。

怒っているというか、呆れていると言ったほうがいいかもしれない。


まぁでも、阿古さんがあそこに行きたくなる気持ちをわからないわけではなかった。

正直こんな場所でひとり閉じこもっているよりは、あの人たちと話したり饅頭を食べたりする方がよっぽど───




「貴女には、この御家の娘であるという自覚はないのですか」


「───それは」




…あるわけないんだよなぁ。

と言いたい気持ちをグッと抑えて、私は何も答えられないまま唇を噛み締める。

阿古さんなら、いつもどう答えていたのだろう…

あなたの答えが、私は知りたい。




「明日、六所宮で襲名披露があるそうですね」


「────!!」



伏せていた顔をバッと上げて、彼女を見る。

どうしてそのことを…というかその襲名披露のこと半ば忘れていたな、と額に汗を流す。


そうだった、何故だかわからないけどその約束を忘れていた。

どうしてだろうと考えるより先に、その襲名披露へ行く了承を得なければいけないと拳を握り締める。


(……この流れで行かせて下さいなんて、自殺行為かな)





「……い」


「行かせませんよ、あんな貧乏道場」




────────”貧乏道場”

そう言うお義母さんの顔が何かから必死に逃げているような感じがしたと同時に、私の心の中に得も言われぬ怒りが沸いて出た。


「怒り」

そんな感情を、何故私が抱かなければならないのか。そう考えるいとまもなく、私の喉は熱をあげていた。






「何も知らないのに、どうしてそんなことが言えるんですか!!」




思わず飛び出た言葉に、自分でも驚いていた。

──────私だって本当は何も知らない。

何もわかっていないくせして、もうすでにみつさんやあの道場の人たちを心のどこかで親しく思ってしまっていたことに、ようやく気がついたのだ。


ここに来て初めての私の反論に、お義母さんは鳩が豆鉄砲を食ったような表情で目を見開いていた。


そして、気を取り戻したようにいつもの澄ました表情に戻ると言いづらそうに目を伏せる。




「───それは」




と、


彼女が何かを言いかけた時、それを遮るようにして下の方から「ドカーン!」と、まるでコロ●ロコミックの漫画のようなとんでもない爆音が聞こえてきて思わず耳を塞いだ。


立ち上がったお義母さんが、「何事ですか!?」と慌てた様子で部屋の襖を開けると、同じように慌てた女中さんがしどろもどろになりながら必死に何かを彼女に伝えている。


(えっえっ何!?爆発音みたいな音聞こえたけど!死!?)


地震とかだったらどうしよう、この時代の地震って対策のしようがないんじゃ…と辺りを見渡していると、窓の外から数人の言い争いのうような声が聞こえてきた。




──────(うわうわ何?)

窓の障子を開けて目に入ったのは、この家の門の前で荷車を押した数人の男性たちが互いに睨み合っているなんとも珍妙な光景だった。

よく目を凝らすと、その内の一台はうちの家の門に衝突したのか、酷く歪んでいる。


喧嘩をしているのか両者は互いに取っ組み合いになり、うちの従者が止めに入る声も聞こえていないようで、辺りは大惨事だ。


こういうのって傍から見てたらワクワクしちゃうけど、今は当事者なんだよなぁ…と、その光景を眺めている内にどうなっているのかという好奇心が勝り、襖を開けてすたこらさっさと階段を下りていく。




「あ、阿古様!」


「ちょっと見て来るだけ!」




途中廊下ですれ違った聖くんの声をくぐり抜け、玄関へと向かうと、何人もの従者さんたちがどうしたものかと首をひねっていた。


この家の門に大きな傷をつけたにも関わらず、その商人らしき人たちはこちらのことを気にも留めずにまだ言い争いを続けている。

これには流石のお義母さんも、ただそれを見ていることしかできないようだった。







私も後ろの方から見ていることしか出来ずにいると、向こうの方角から一人の男性が歩いて来て、門の前に近づくと何かを見つけたように小走りでやって来た。




「おーい!おまんら、何しゆうがか」



激しい言い争いをしている最中だというのに、その人はまるで談笑している友人に声をかけるようにしてその内の一人の肩を組んで口を開く。

すると、本当に知り合いだったのか肩を組まれた男性が「たっちゃん!」と顔を明るくした。

それに続いて両者関係なく、数人の男性がその人に声をかける。


(たっちゃん…)

そう思っている矢先、そのたっちゃんと呼ばれた人は両者の間に仁王立ちすると各々先頭に立っていた男性二人に何かがくるまった小包を差し出した。




「これで解決っちや」



一体何がどうなったのか、そんなことを考えている合間に両者の小競り合いは終幕し、いつの間にか落ち着いた二人の頭らしき人物がお義母さんへと何度も何度も頭を下げていた。


良かった…何はともあれやっと話を出来る状況になれた、と安堵のため息をつく。

詳しい話をする為にお義母さんと頭の二人が離れの部屋へと移動すると、玄関に集まっていた従者の人たちがそれぞれの持ち場へと戻っていった。



───────(ふう、私も部屋に戻ろう)


そう思い振り返ろうとすると、誰かにガッと腕を掴まれた。




「阿古様!」


「おまん名前は!?」




………ん?


同じタイミングで掴まれた両腕を交互に見ながら、私は目をぱちくりさせる。

玄関の中には、少し怒った顔の聖くんがいて、玄関の外にはさっきの「たっちゃん」と呼ばれていた救世主が私を見ていた。

私を呼んだ聖くんの言葉を聞いて、その男性は「阿古か、ええ名前ちゃあ」とほほ笑む。




「お前!阿古様から離れろ!」


「いや~江戸にもこないな美人がおるきに思っちょらんかったぜよ」


「おいこら聞け」




手を取ったまま、その人は自分の頬にすりすりと私の手のひらをこすり付ける。

初めてそんなことをされたものだから驚いたけれど、この人の触れ方には下心がないというか、何故だか嫌な気持ちはしなかったけど、よく見ると全身が煤汚れていて頬には土がこびりついていた。


(何かあったのかな)

「餅みたいじゃ~」というその人を見ながら、呑気にそんなことを考えた。






だけどそんな光景を、阿古さん命の聖くんが見ていて正気を保っていられるはずもなく…




「貴様ーーー!!私ですら触れたことがないというのにーー!!」


「ほいじゃ、おまんも触ればええっちゃ」


「キーーーーーー!!!」




思わず手が出そうになる聖くんを、傍で待機していた従者さんが必死に止めに入る。

本当に聖くんは阿古さんのことになると覇気が凄いというか…過保護すぎるというか。

まぁ今の阿古さんは顔が似てるだけの別人なんだし、そんなに怒らなくてもいいんだけどね。


確かにこの時代の人ってこんな過剰なスキンシップは取らないというか、こうやって初対面の人に触れるのは珍しいのかもしれないな。


怒り狂う聖くんを笑いながら指差していたその男性は、私の手から名残惜しそうに手を離すと汚ごれていた袴の煤をパッパと振り払う。

そして、かしこまった様子で突然頭を下げた。




「頼む!一日でええから、ここに泊めてくれんやろか!」


「ええ!?」






「ぷはー!風呂のあとの酒は最高やきー!」



ガハハハッと楽しそうに笑う彼を見ながら、私は隣にいる聖くんへ視線を移す。


(ヤバい…顔全体が「怒り」を表しちゃってる。二人きりにしたらどうなるかわからんなこれは…)

普段の私への柔らかな表情からは想像の出来ないその明王像みたいな顔を忘れないように頭に焼き付ける。

彼を本気で怒らせてはいけないな、と。




「お侍様、お夕食の用意ができました」


「おお!ありがたいにゃー」



後ろに数人の女中さんを連れたお義母さんが、しなやかな手つきで男性の前に豪勢な料理を置いていく。


お義母さんにはてっきり拒否されるかと思っていたのだけど、彼が武士だと知るや否やあの騒動を止めてくれた恩もあるということで、こうして大層なもてなしを施していた。

怒られなくてよかった…正直絶対に許してもらえないと思っていたから。

彼もお風呂に入って清潔になったみたいだし、一日だけと言っていたから、たまにはこんな日があってもいいよね。


ここ最近は家全体がどこか張り詰めていた雰囲気があったし、この人のお陰でちょっとだけそれも緩んだ気がする。



「ではごゆるりと」



お義母さんが部屋を後にすると、聖くんは顔の「怒」を強くする。

まだ警戒心が解けていないみたいだ。





そんな聖くんの目を気にすることなく、その人は傍に用意されたお酒の瓶を次々と空にしていく。

私は大学生だが、まだ未成年なので誘われたお酒は断ったが聖くんは成人しているので、無理やり飲まされそうになって止めに入った。


(すごく笑う人だな…こんな愉快に笑う人久しぶりに見たかも)

お酒を注ぎながら、隣で笑う彼を見る。

こんな笑顔を見るのは、いつぶりだろうか。現代では、まずなかったかもしれない、こんな楽しそうに笑う人───




「そぉや、名前!言っちょらんかったの」


「…たっちゃん」




────あっ。

しまった、と驚いてこちらを見た彼から慌てて目を逸らす。

つい呼んでみたくなって、気づいたら口に出してしまっていた…恥ずかしい。




「…それでええ!たっちゃん、たっちゃんでええきに!」



一瞬空いた間をすぐに埋めるように、先ほどと変わらない真っ赤な笑顔で目のしわを増やしたたっちゃんは私の背中を遠慮なしにバシバシ叩く。

「貴様ー!!」という聖くんの叫び声が聞こえてきたが、なんだか私も彼の空気に呑まれてしまい「あはは」と口を開けて笑った。


目の端で、驚いた聖くんの顔が見える。


私がこの家に来てこんなに自然と笑ったのは、多分これが初めてで、聖くんにさえこんな顔を見せたことはなかったから…けど今は自分が阿古さんの成り代わりだということも忘れて、ただ笑った。


こんな人がこの時代にいるなんて思ってなかったな。

みんながこの人みたいに笑えば、大抵なんでも上手くいくんじゃないだろうか。



─────その夜の宴を、多分私は忘れることはないのだろう。





明け方。



隣の部屋で大きないびきをかきながら寝ているたっちゃんを起こさないように、聖くんと二人散らかった部屋を片付けていた。


なんだろう、全然眠気がこない私は従者である聖くんよりもせっせとごみをかき集めてゆく。

レポートでオールした時よりも、年末のデ●ズニ―ランドでオールした時よりも気分がすっきりしてて、今すぐに町を走り回りたい気分だ。


そんな私を落ちそうな眼で見つめながら、聖くんは口を開く。




「…なんだか、変わりましたね」


「え?そうかな」


「……いえ、忘れてください」




聖くんのどこか青っぽい瞳が、顔を出した朝日に照らされた。


もうじき朝が来る────






「ふ~~~」



思いっきり息を吐きながら、お義母さんの部屋の前で背中を伸ばす。


ついに来てしまった、今日この日が。

今日は例の襲名披露がある日で、昨日門の前の一件で話がうやむやになってしまったので、朝早くからこうしてお義母さんの部屋の前にいた。


だけどこれは、向こうから呼び出されたわけではなく自分の意志で足を運んだのである。

今日の私はなんだかいけそうな気がして、お義母さんにも素直な気持ちを伝えられるんじゃないかと、そんな気持ちで襖越しから声を投げ掛けた。



「…どうぞ」


「失礼します」



ゆっくりと襖を開けば、そこにはもう身支度を整え論破する気満々というお義母さんがいて、一瞬負けそうになるがその鋭い目に負けじと顔を引き締める。


これは私の意志でもあり、阿古さんの意志でもある。

絶対に、何がなんでも襲名披露に行きたい。

またみつさんや勝太さんに会いたい。

この「家」に負けたくない──────




「お願いします、襲名披露に行かせてください!」


「駄目です」


「無理を承知で申しています!私はどうしても行きたいんです!」




畳に押し付けた頭をこれでもかとこすり付けながら必死に声を張る。

こんなに大きな声を出したのはいつぶりだろうか。

小学生の時の舞台が最後だったかな、そんなことを思い出しながら彼女からの答えを待つ。


けれど返ってきたのは、無情にもいつもと変わらぬ駄目だという言葉。


この人はいつもそうだ。

阿古さんの本当の母親でないにも関わらず、こんなにも彼女をこの家へ縛りつけている。

彼女が出て行った理由を私は知らない、けれど、彼女がこの家を飛び出さなければ、私はこうして身代わりとしてこの家で窮屈な思いをしなくて済んだというのに────




「……いいです、もう」


「!…待ちなさい!」



覚悟を決めて出て行こうとする私の腕を掴もうとする彼女の手を振り払う。

この家のことなんて知ったことか、私には何の関係もない家だ。こんなところ、こっちから出ていってやる。


そうして襖を開けようとすると、別の誰かが襖を開いた。




「たっちゃん…」


「ちいと話は聞かせてもろうたちよ」



手に手ぬぐいを持ったたっちゃんが、水で顔を洗ったのだろうかどこか凛々しい表情で出て行こうとする私の道を阻んだ。





いきなり現れたたっちゃんに、お義母さんは「あなたは!」と声を上げる。

私もまさかこんなところに押し入ってくるとは思ってなかったので、驚いたけど今はそんなことどうでもよくて、今すぐにここから去りたい気持ちでいっぱいだった。



「どいて」


「いかん」



確かにあなたのお陰で、私はこうしてお義母さんのもとへ自ら赴き、話をしようとした。

けど、お義母さんは私の言葉を聞かずに一蹴して、無下にする。

まぁ理由なんて聞かれたところで、話せるようなことでもなかったんだけどね…


もう止めたいよ、しんどいもん。

帰りたいよ、自分の家に。

お母さんとお父さんに会いたいよ…




「…もう無理だって…」



逃げ道を阻んだたっちゃんの前で、力なく座り込む。


彼に会ってから、本当に変だ。

ここで頑張ってみようと思ったり、それとは裏腹に抑えていた郷愁がどっと溢れてきて、こんなところで弱音を吐いてもどうにかなるわけでもないのに泣き崩れちゃったり。


私の事情を知ってたトオリさんにはこんな姿見せたくなかった、負ける気がしたから。

これまで必死に隠してきた自分の心の弱さを、自分で認めたくなかったから。


そんなことしちゃったら、私は─────




「ひとつ、ええ話があるき」


「……なにを、言って」



いきなり涙を流して泣き言を吐いた私にも、たっちゃんのその突拍子もない言葉にも、どちらにも驚いたお義母さんが額に汗を流しながら口を開く。

だけどたっちゃんはそんなことはお構いなしに、私の手を取ると強引に立ち上がらせた。




「───その襲名披露に、わしも行く」


「…!」


「は、はぁ…?」




本当に何を言ってるんだこの人は…


今日で帰るんじゃなかったの?女中さんが噂をしていた。

たっちゃんは土佐の藩士で、それこそ町を歩いている武士よりも偉いお人だって。

誰かに会いに、江戸に来たんじゃないの?

私なんかのために、やめてよ…


とめどなく溢れてくる涙で、段々と視界が見えなくなっていく。


私より驚いた顔のお義母さんは、目を大きく見開いてたっちゃんを凝視する。





「襲名披露ちゅうたら、何かしらの試合があるはずちや。そこでわしがその道場の塾頭から一本取ったる」


「ほいじゃあ、阿古はその道場へいつでも行ってええゆうことにせんか?」







(──────な…何言って…)



その思いがけない言葉に咄嗟に顔をあげる。

そんなこと彼女が了承するはずもないし、たっちゃんの剣の腕はわからないけど、あの道場の塾頭っていえばみつさんの弟さんだ…

流石にこれはたっちゃんが勝つと、誰もが思ってしまうだろう。


それに、このままいけばお義母さんのメリットが何もないことになる。




「──その代わり、わしが負ければ阿古はもう道場には行かんし、この家から一歩も出さんでええがや」


「な…」




(…そういうことか)

彼女は私を外に出すことを何よりも嫌がっている。だからたっちゃんはそれを交渉材料としたわけだ。

この家の事情なんてよく知らないというのに、ここまで的確にお義母さんのツボを押さえるとは。


でもそっか…たっちゃんが負けたら、私本当にここから出られなくなるのか。

それはちょっと、やだなぁ…


たっちゃんの真剣な表情に、お義母さんは狼狽えながら私の方を見る。

その顔はどこか寂しいような、悲しいような表情だったけれど、すぐにいつもの凛々しい顔に戻り、決意を決めたように口を開く。




「────分かりました。」


「!」




う、うそ…

あの折れないお義母さんが、この短時間ですんなりと…!?


(なんて人だ、この人は───)

ずっと手を握られたままだったたっちゃんを見上げると、それに気づいた彼がニシシと笑う。


私のことを不憫に思った女中さんたちが、何回かお義母さんに話をつけてくれたこともあった。

けれどことごとく彼女の速くてよく回る口で粉砕されたものだ…

そんな彼女を、こんなシンプルな提案で言いくるめるなんて。




「よっしゃ!交渉成立や、ほんなら用意頼むぜよ」


「……用意とは…」



「───わしのこやつの祝いの宴じゃ!」






聖くんに襲名披露が行われる六所宮という神社に案内してもらい、急いで境内へ入るとそこにはたくさんの人が集まっていて、思わず息をのむ。


私はどういう立ち位置でいたらいいんだろうか…。

聖くんは中までついてくると言って聞かなかったけど、たっちゃんが無理やり追い返してしまったので二人して途方に暮れていると、後ろからくいくいと着物の袖を引っ張られる。




「阿古ちゃんだー」


「あ、君は…」



振り向くとこの前会った鼻水少年がいた。






前と変わらない鼻水の垂れっぷりに、思わず頬が緩んでしまう。

あの家にいても、聞こえてくるのは子どもたちの元気な声だけで、いつも寂しい思いをしていたものだ。

…前は近所の子どもの声なんて、煩わしいと思っていたのに。


───不思議だよ、本当に。

そうして、丁度聖くんに持たされていた手ぬぐいで少年の鼻水を拭きとってやると、隣にいたたっちゃんも私と同じようにかがんで少年の頭を撫でる。




「よぉ似合っとるにゃあ、この坊主」


「えへー」



刈り上げられた頭を褒められた少年は嬉しそうに笑う。


現代の子はませてるから、こんな坊主にしたがる子は少ないんだろうけど、この子にとっては一番のヘアスタイルなんだろうな。

「わしも昔はおまんとお揃いやったきに」そう言いながらたっちゃんが少年と笑いあっていると、男所帯の中でひときわ目立つ甲高い声が聞こえて来た。


その声を聞いて、すぐに誰かわかった私は咄嗟に声のする方へ視線を移した。




「みつさん!」


「来てくれたのね!嬉しい!」



男性たちを押しのけながら、走って来たみつさんは私にめがけて猛突進して来た。

そしてガバッと私を抱きしめる。


その光景に、周りの人たちはギョッとしていたけれど彼女はそんなことお構いなしに嬉しそうに足をばたばたさせる。

(…ああ、本当に私も嬉しいな)

普段友だちと会ってもこんなことしないけど、この約束は私と阿古さんの決意でもあったし、これくらい歓迎されてもいいよね───




「おうおう威勢のええ女子やのう」


「あら、どなた?」



周りの人たちと違い同じくらいスキンシップが凄いたっちゃんが、いつの間にか鼻水少年を肩車しながら笑うと、みつさんは私に耳打ちをする。

「まさか…!」「違うよ」なんて女の子らしい会話をしつつたっちゃんを紹介すると、彼女は肩を弾ませた。


「土佐の藩士らしいよ」と言えば、本物のお侍さんと話したのなんて初めてと言う。

この時代って、なんだか本当に不思議だな。

同じ日本とは思えないや。




「あと四半刻で始まるわよ、行きましょう!」


「うん!」



返事をしながらも、四半刻って何時間だっけ…と首を捻る。この時代の時間とかお金の単位とか水の測り方とか、まだよくわからないんだよなぁ…

こんな常識を聞いたらそれこそ病院に連れて行かれちゃう。


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