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光城の月  作者: 立呉サビ
救いの命
2/3

垢をください






──────えっ?




思ってもみなかったその言葉に、私はただただ目を見開いて絶句する。

というか、彼女の言っている意味が理解出来なくて戸惑った。


そんな予想通りの私の反応を見た彼女は、「そうよね」と深刻そうな顔をさせて一度何かを考えるような素振りを見せると、私の手を握ったまましっかりと私の目を見て言った。




「ここは多摩、江戸の多摩よ。今は文久元年。私は阿古、そして今からあなたが阿古よ」




エーーーーーーーーーー!!なんて!?

多摩はわかったけど今江戸って言ったよね!!??

なんて壮大なドッキリだ…阿古さんは私のフェイスマスクでも被った役者さんか!?


心の中で怒涛のツッコみを入れるが、それはとどまることを知らずとめどなく溢れてくる。

けれど、阿古さんの切羽詰まった様子を見ると本当に助けてあげたいような気持ちが湧いてくる。


やっぱりここは乗るべきなんだろうか…





「わかりま」


「ありがとう!本当にありがとう!じゃあ私は急ぎますので」




トタタっ、と最後まで私の返事を聞かずに彼女は向こうの道に走って行った。

せわしない人だ、まるで何かから逃げているよう。



さて…これからどうしたらいいんだ?


山崎さんたちのところに戻って事情を説明するのがいいんだろうか。でもそれって台本通りなのか。

なんかここで筋道を示してくれる人が出てきてくれないと、こっちも困るんだけど…。





「…様ー!!」


「ん?」




どうすることも出来ず、道に立ち尽くしていると阿古さんが逃げた反対の方角から誰かを呼ぶ声が聞こえてきた。

もしかして、阿古さんを追っていた誰かかもしれない。

あんなに急いでいたのも、きっとこの人から逃げるためだとか。


「おーい」と手を振って全く無関係の人だったら最悪なので、一応道を空けて端の方に立っていると、その叫び声がピクリと止まった。

あ、やっぱり阿古さんを追ってた人かな。





「阿古様ぁぁぁぁぁぁぁ」




うわっこわ!


涙を流しながら道を全力疾走でこちらに向かってくるその見知らぬ男性に、私は青ざめる。

今は阿古さんだとしても、普通に私なんだからこういうところはもうちょっと配慮してほしいんですが。







全力で駆けて来たその人は、私の姿を見るや否や「ご無事でよかった…」と絞り出すようにして言った。

変な人っぽいけど、悪い人ではなさそうだ。


本当に心から慈しむようなその声音に、この人にとって阿古さんがどれだけ大切な存在なのかが伝わってくる。

ああ、本当に申し訳ないな。私は彼女じゃないから、こんな心配される必要はないのに…。


もしここで私の事情を話せば、この人はわかってくれるだろうか。

そんな一種の”逃げ”の考えがよぎった時、目の前の彼が後ろから走って来た従者らしき人たちに向かいパンパンと手を叩く。




「駕籠を!」



彼の一言で、私の前に時代劇でよくお姫様が乗せられているような大きな籠が置かれた。

まさか、私がこれに乗るのか?

けどこうやって用意される感じ、本当にどこかのお姫様になったみたいでちょっと嬉しいな。


もしかして、阿古さんはどこかのお姫様だったりするのか!?

それで自由の身になるために姿形そっくりな私を…あり得るな。というかそれが一番テンプレかぁ。


そうこう考えていると、私の前にさっきの彼が跪き労わるようにして私の足に触れた。

急に触られたものだから思わず「ヒッ」と声を出してしまったが、すぐさま口元を押さえたので多分セーフ。




「こんな泥まみれになって…おいたわしい」



懐から出した竹で出来た水筒みたいなものを開けると、私の草履を器用に脱がせて水をかけ、もう片方の手で泥をふき取ってくれた。

さっきまで本当のあなたの主人とあなたから逃げ回っていたから、こうなったんだけどね。


それにしてもこんなお世話をされたことないから、緊張しちゃうな。

この人、顔は結構悪くな…いや普通にかっこいいよね。現代だったら俳優にいそう。

って、そうだこの人も役者さんなんだった。かっこいいのは当たり前かぁ。




「さぁ、阿古様」



うーん、複雑だぁ…

まあこの人も周りの従者の人たちも、わかった上で私をこの籠みたいなのに乗せてくれるんだろうし。

せっかくの機会だし、楽しんじゃおうかな。








「おええええええええええええええ」


「阿古様!お気を確かに!」



楽しむばかりか、道中めちゃくちゃに酔ってしまったのはまた別の話。







途中休憩をとりながらなんとか阿古さんが住む家についた私は、従者の人に手を取ってもらいゆっくりと駕籠の中から降りた。


これ、本当にキツイ。

何がキツイかっていうと揺れる。思ってた以上に。

優雅に景色を眺めつつ、お姫様気分を味わえると思っていたんだけど(歩かなくていいし)普通に足で歩いた方がましだと思った。

もう乗らない、絶対に。



はあはあと青ざめながら駕籠を後にし、前に目をやると気分の悪さもどこかに吹き飛ぶくらい立派な屋敷が建っていた。

あの、なんだろう上手く言えないんだけど、修学旅行の時京都で見た神社の神主さんが住む家みたいな…とにかく今まで生活してた小屋とは比べ物にならないくらい豪華だった。


玄関の前にはクソでかい松の木が立ってて、思わず「わ~」とその木を見上げる。




「鳥でもいましたか」


「…うん」



行きましょう、とイケメン従者に手を引かれ玄関の門をくぐり抜けると数人の女の人たちが玄関前でお出迎えをしてくれる。

あれだ…お金持ちの家の出迎え方だ…ドラマで見たことある。


お母さん、お父さんごめんね…こんな体験ひとりでしちゃって…次は2人も連れていってあげるからね。


心の中で2人に謝りつつ、手を引かれるまま屋敷の中に入る。





「!」



───────圧巻。


その二文字だけで、目の前の景色を言い表すには十分だった。

旅館だ、いやその辺の旅館より大きいかもしれない。

近所のスーパー銭湯よりは絶対デカい。


もしかして、阿古さん本当にどこかのご令嬢なんじゃ…。

まずいな、いくら顔がそっくりだといっても育った環境が違いすぎて対応出来ないぞこんなもん!

どうしよう…なんかもっとお嬢様みたいな喋り方した方がいい?ああ、阿古さんどんな話し口調だっけ…思い出せない。


ダラダラと冷や汗をかく私に気付いたイケメン従者くんが「どうされましたか!またご気分が…」と心配そうに私の頬に滴る汗を手ぬぐいで拭う。


すると、パタパタと誰かがこちらに向かってくる足音が聞こえて私の緊張は一気にボルテージを上げる。





「阿古さん!」




まるで小鳥のように駆けてきたのは長身で細目がちなスラっとした美人な女性だった。

自分ではない自分の名前を呼ばれて思わず「は、はい!」と返事をしてしまう。







この人は一体誰だ…阿古さんとどういう関係性なのかわからない。

周りの従者が頭を下げているところからして、この家の主…?姉?母親にしては若すぎる気が…


そうこう頭を悩ませていると、その人はさっきと変わらない堅い表情のまま「あとで部屋に来るように」と一瞥してその場を後にした。


緊張から一気に開放され、逼迫感がなくなった胸をそっと撫でおろす。

怖かった…私が阿古さんでないとバレないかという恐怖もあったが、何よりあの人の威圧感がこれまで会った誰よりも恐ろしかった。



私、もしかしてここに住むことになるのかな…。

もう本当に夢なら覚めてほしかったけど、もう何日もこういう気持ちで朝を迎えている。

やっぱり、ここは現実なのかぁ…







後で従者くんから聞いた話によれば、この家は多摩では珍しい武家の御家でこの地域一帯を元締めするほどの権力があるとかで、歴史に疎い私のはよくわからなかったけれどまぁ要するに阿古さんはやっぱりご令嬢だったのだ。


そしてさっき玄関で会ったあの女性は、なんと阿古さんの母親らしい。

といっても義理の母親で、父親が数年前に再婚してそれからこの家で暮らしているとか。

通りで似てないと思ったんだ。年も20代後半に見えたし。


阿古さんが逃げた原因って、やっぱりあの人も関係あるのだろうか。無関係ではなさそうだ。



私がいきなりこんなことを聞き出したので、従者くんもとい聖くんは「逃げている途中で頭でも打ちましたか!?」とすっごく心配してきたけれど。


とにかく本当にここが現実で、もし世にいう”タイムスリップ”してしまったなら私は一刻も早く元の時代に戻る方法を見つけなければならない。

なんかもう、開き直ってきてしまった。







あの日以来、私は一切外に出してもらうことが出来なくなっていた。



あの晩、義理の母親にお叱りを受けた私はどうとも反論することなくあの場をやり切った。阿古さんとして。


もう彼女に成りきることに戸惑いはなくなっていた。

逆に外に逃げ出さなければ不必要にお義母さんに怒られることはなかったので、比較的過ごしやすい日々を過ごしている。



ただやっぱり、山崎さんと高津さんとうどんを売っている時の方が何倍も楽しかったとも思う。







あー…。

スマホ触りたいな。テレビも見たいし、お菓子も食べたい。

コンビニスイーツ食べたい、カラオケ行きたい。

あ、カラオケは今ダメだったっけ…


阿古さんの自室で畳に寝転びながら、天井を仰ぐ。

しみひとつない、綺麗な木目を見てうーんと背筋を伸ばしてみるも、何も楽しいことはない。



本当に残念な話なんだけど、多分これ、本当にタイムスリップしちゃったかもしれない。

話が全く通じないのだ。周りの人たちと。


身の周りの世話をしてくれる女中さんがよく私に話しかけてきてくれるけど、そのたびに不審がられる。

会話がかみ合ってないのが原因なのか、私が阿古さんじゃないと薄々バレているのか、審議のほどはわからないけど居心地が悪いったらありゃしない。


それにこの時代のお菓子ってなんか味が薄くてスナック系が全然ないし、そろそろじゃ●りこ食べたくなってきたなぁ。





ガサガサ、


項垂れていた私の耳に、何かがかすれるような音が入ってきてバッとその畳から起き上がる。

廊下の方からじゃなく、窓の方から物音がする。


ここは二階だ、カラスでも木に止まったのだろうか。

窓を開ければ、庭にはえている大きな一本杉が見えるのだがそこにはよく鳥が止まるのだ。多分それだろう。

けど一応物取りかもしれないから注意すように、と聖くんに言われたばかりだったので、ゆっくりと窓の障子に手をかける。





「わっ!」


「ぎゃっ」




──────────落ちる!


とっさに伸ばした手を、私が落ちそうになった原因の主がパッと掴み私の体をぐっとそちらに引き寄せた。

なんてこった!ここは二階だぞ!


慌てふためく私をよそに、

その人、彼女は驚かしてきた時と変わらないいたずらっ子のような笑顔を浮かべたまま、登っていた木から私を担いでジャンプしたのだ。


(正気か!?)

いくら私が女だとはいえ、同性の彼女が私を抱えたまま木から地面に着地するなんて無茶だ!


そんな私の心配もよそに、彼女は器用にも木の枝を使って手慣れた手つきで地面に降りた。

まるで、もう何度もこの木に登り降りしているような…。





「久しぶり!元気してた?」



抱きかかえていた私の腰から手を離し、パッパッと着物の裾を手払いしながら彼女は笑顔でそう言った。








その満月のような笑顔を浮かべる女性は、私と同い年か一つ上くらい。同世代であることは間違いなかった。


この場所に来てこんな風に笑いかけられたことがなかったので、少し嬉しくなりつつも私は自分に笑いかけられているのではなく、阿古さんに対してのものだったと思い返す。


自分ではない誰かのフリをして来て、こんなにももどかしい気持ちになったのは初めてだった。

そのくらい目の前の彼女の笑顔が眩しくて、噓偽りのない真っ白なものだったから。

彼女のそれは、現代ではなかなか見ることの出来ない清々しい程の笑みだったのだ。





「今日はお義母様いるの?」


「………え、あ…いや」




お義母さんが今日いるかどうか、それは聖くんや女中の人に聞かないとわからないことだったのだけど、

彼女はもう私の手を取っていて、曖昧な私の返事を聞くや否やうちの家を通り過ぎそのまま真っ直ぐに手を引いて行った。








自分が流されやすいとは自覚してたけど、ここまで強引にされたらどうすることも出来ないよなぁ…

何度も家に帰ることを考えたが、全く外に出してもらえなかったこともありこの周辺の町中を見て回るのは楽しかった。


山崎さんたちとうどんを売っていた場所よりは、少し垢ぬけた生き生きとした人が多い印象で、多摩は子どものころ何度か来たことがあったので少しだけ懐かしい匂いを感じる。



町中を抜けて、少しの茂みを抜けると出てきた新しい街道の先に寺先のような立派な門が見えたと思うと、前を歩いていた彼女が足を速めた。

(─────うお!いきなりだな!)


履かされた足袋に溜まった汗がムズムズしてずっと気持ち悪かったのだが、ここはなかなかに風通りが良くてその不快感もいつの間にか去っていた。

けれどそんなことよりも、この先に何があるのかという好奇心と緊張が私の心を湧き立てる。



門を抜けるとそこには数人の男性がたむろしていて、私たちを見ると陽気そうに手を掲げて挨拶をしてくれた。

てっきり寺っぽいから、お坊さんかと思ったけどちゃんと髷がある…。




「勝太さんいる?」


「道場にいるよ」




彼女が数人の男性に声をかけると、一人が手ぬぐいで額の汗を拭いながら答えた。

──────「道場」

ということはここには侍がいるのかな…?








ここがどこかの道場だということはわかったのだが、心の片隅にある不安を一向には拭いきれなかった。


私は今、高橋遥香ではなく阿古さんなのだ。

それを忘れてはならないし、万が一にも私の正体がバレたなら家から放り出され、そのまま死んでしまう可能性だって無きにしも非ずで…流れで連れて来られたはいいけど、ちゃんと阿古さんとして接しなければならない。


けど──────





「やった!今日は出稽古に行ってないみたい、行きましょ!」


「……う、うん」




(阿古さんってどんな感じで話すんだーーー!!!)


もうこうなったらやけくそや、どうとでもなれ!という気持ちで彼女に手を引かれその道場とやらに向かった。








「「「やーーーーッ!!!」」」




何人もの男性が一斉に腹から声を出して、木刀を振りかざすその光景は現代ではそうそうお目にかかれない貴重なものだった。

もしここが本当にタイムスリップした”過去”だとしたなら、尚更のこと。


本当に真剣を持っているかのような気迫が、喉の奥まで伝わってくる。

私は歴史に疎いし、正直今が戦国時代なのか江戸時代なのかどの時代なのかよくわかってないけど、目の前に映るその人たちの真摯な気持ちだけは本物だとそう実感した。



道場から少し離れた庭の木陰で、彼女と二人で隠れながらじっと中を覗いていると何だかいけないことをしているみたいで罪悪感があるけど、

なんとなく、隣の彼女でさえ陽気に話しかけることが出来ない空気がその道場からは漂っている。



(───────すごいなぁ)


ただただ感銘を受けながらそれを見ていると、後ろから何かがかすれるような音がして私は咄嗟に振り返る、するとそこには数人の子どもたちが手に饅頭のようなものを持って立っていた。





「みっちゃんと阿古ちゃんなにしてんのー?」


「うわうわうわ馬鹿!声出さないの!」




鼻水を垂らしたどこかアホの子っぽい男の子が割かし大きめの声でそう言うと、みっちゃんと呼ばれた彼女は慌てふためいてその子の口を手で塞ぐ。


これには私もびっくりして、道場の方へ視線をやると後ろで木刀を振っていた数人の男性が私たちに気づいたようで振り返っていた。







すると、

慌てふためく私たちを見たそのうちのひとりが、思わず「ぶッ」と吹き出してしまったので、

その音が一瞬静かになった道場に響いてしまい、その人は咄嗟に口元を抑える。


だが時すでに遅し、先頭で指揮をとっていた私よりいくつか年下に見える青年が、

ずかずかとその吹き出してしまった彼に歩み寄った。



(うわ…やってしまった)

どう見ても年下の青年から叱責を受ける男性を見ながら、私は顔を青ざめる。

あんなに一生懸命稽古していたのに、一気に場の空気が緩んでしまったし、これどう考えても私たちのせいだよね…


ちらり、

隣の彼女を見ると、何だか腑に落ちない表情で声を荒げる青年を睨んでいた。

ん?睨………?




「宗次郎!」


「!」



バっと茂みから立ち上がった彼女が、鼻水を垂らした少年を腕に抱えながら道場全体に響き渡るような声量で誰かの名前を呼んだかと思うと、

吹き出してしまった男性を叱りつけていた青年が、慌てた様子でこちらに目を向けた。


なんだかさっきよりおぼこい表情になった青年は、途端に肩をしぼめる。




「その人は悪くないでしょ!悪いのは私と、あんたの”友達”のこの子じゃないの!」


「……姉さん」




──────(ね、姉さん!?)


どうやら隣の私を連れ出した彼女は、青年のお姉さんだったらしく、そう見るとどことなく目と口元が似ている気がする。

というか、今この鼻水少年を友達って言った…?彼の…?


顔を真っ赤にする青年を見ながら、この子はお姉さんには頭が上がらないということを察した。

なるほど。

だから敢えてお姉さんと鼻水少年を責めるのではなく、吹き出してしまった彼に迫ったのか。

この様子じゃ、反論することもままならないっぽいし。



道場の人たちも、どことなく慣れているような感じでこの場を見ているので結構こういうことがあるのだろうか。




「ほら!さっさと稽古再開しなさいよ!」


「……はい」



パンパンと手を打ち鳴らす彼女に、消え入りそうな声で返事をしながら、元いた位置に帰っていく青年の小さな背中を見て何とも言えない気持ちになる。

こっちが100対0で悪いんだけど、申し訳ないことをしてしまったな…








私をこの道場まで連れて来た彼女の名前はみつさんというらしい。

そしてあの弟の宗次郎くんはみつさんの実の弟で、この道場の塾頭?とかいうこの道場の中でも一番腕が立つとかなんとかで凄く強いらしく、他の門弟からも一目置かれているとか(鼻水少年談)


なんでそんなこと聞くのー?と首を傾げられたのは言うまでもないことだが、とにもかくにも彼女の名前を知れたのは今日一番の収穫だった。


阿古さんとかなり仲が良かったのだろう。

みつさんはまるで姉妹のように私に接してきた、けれどその度に自分が阿古さんではないことのへの罪悪感と、自分を自分だと思って接してもらえれない喪失感が私の胸を締め付ける。


山崎さんや高津さんは元々阿古さんのことを知らないから、自分として接することができたし、

聖くんやお義母さんは友達というか身内みたいなものだからそんな思いをすることよりも、バレないかを気にしていた。



けれど、

純粋に友達として向けられた笑顔に、私はやはり堪えるところが多かった。


これはこの道場の人たちにも当てはまることで、前から阿古さんのことを知っている人たちに笑顔を向けられるとその度に、私にはそんな資格はないのにと苛まれるのだ。





「勝太さん!」



あ、そう言えばみつさんずっとこの人を探していたなぁ…とまるで他人行儀に駆けていく彼女と、その前にいる骨格のしっかりした男性を眺める。

何かを話している様子の二人は兄弟のような、幼なじみのような、恋人のような、どれを当てはめても違和感がない程仲が良さそうだった。


(恋人か何かなのかな)

そう思いながらも、みつさんが私を手招きするのでおずおずとその場に向かう。




「阿古さん、久しぶりだな」




みつさんから視線を移し、笑顔でそう告げられれば何故だかこの人は「大丈夫」だと思えた。


何が「大丈夫」なのかは正直自分でもよくわからない。


なんというのだろうか、山崎さんも高津さんもみつさんも、今までこの世界で出会って触れ合ってきた人は一様に段々と警戒心が解かれていったのだが、この勝太さんはたった一言話しかけられただけで、何か安心感が湧き出てきたのだ。


この人の纏う雰囲気のせいかもしれない。

静かに流れる滝水のような、矛盾しているけど本当にそんな感じだ。







「あ、お、お久しぶりです」



そうだ、挨拶しなくちゃ!と、口を動かしてみるも出てきたのは久しぶりに人と話したコミュ障のような挨拶で、隣にいたみつさんが「敬語だったっけ?」と首を傾げる。


年上だなって判別した人にはだいたい敬語を使ってきたのだが(中には年下の人もいた)この勝太さんは年とかそういうことを抜きにして、つい敬語が出てきてしまったというか…いや、正直絶対にこの人阿古さんより年上だと思うし…




「いいよそんなことは、君は前もそうだったなぁ」


「そうそう!勝太さんが『俺は年上だけど敬語なんて使わなくていいから』って言った次の日に敬語を使ってたものね」




あははは、とみつさんが口を広げて笑う。


そうだったんだ…と、なんだかずっと遠かった阿古さんを身近に感じることができた。

…もしかしたら私と阿古さんは姿形だけでなく、考え方も似ているのかもしれない。


みつさんに笑われているにも関わらず、どこか嬉しいと感じている私を見て、勝太さんはきっと疑問に思ったのだろうが優しい人なのだろうそのことには触れずに、先ほど同様穏やかな表情のまま口を開いた。




「明後日の襲名披露、来れそうか?」




(しゅ…?)

襲名披露ってあの歌舞伎とかでやるあの?

何がどうなのかよくわからないまま答えられずに突っ立っていると、みつさんが突然私の左手を握って頭上に掲げた。




「ぜーったいに連れて来るから!あの側近君は足が遅いし、お義母さんにはなんとか誤魔化せばいいのよ!」



わけがわからずにぽかんとその言葉を聞いていると、みつさんが付け足すように「約束したものね!」と私と勝太さんを交互に見る。

(阿古さんが前にこの二人と約束をしたのか)


やっと状況が理解できた私は、一体なんの襲名披露なのか聞くことも出来ないままコクコクと頷いてしまった。



───────ああ、流されて流されて流れまくりだな、今日は。







夕方になってやっとみつさんの手から解放された私は、

彼女と勝太さん、弟くんと鼻水少年に見送られながらその道場の門をくぐり抜けた。


帰り道一人では危ないから付き人をつけようと勝太さんに言われたが、もう正直人と話す元気がなかったので気持ちだけを受け取って帰路についたのだった。







なんとかそっと玄関の重い扉を開いて、夕日が射し込む広い廊下をひたひたとゆっくり歩いていく。


今日はこの暑い中歩きまくったせいで、足はパンパンだし足袋は蒸れて一刻も早く脱ぎたいし、お風呂に入ってサッパリしたい子持ちは山々だけど、なんとしてもお義母さんと聖くんに見つからないように忍び足で二階への階段を上っていった。



(セーフ…!バレてないよね!?)


よっしゃあ!と部屋の襖を開くと、そこには見知らぬ顔の男性が私の引き出しを漁っていた。

見知らぬ男が、引き出しを、漁っていた…?




「ぎゃあああああああああああ」



(変態だ!!変質者!!この時代にもヤバいやつはいるんだやっぱ!いやだーー!!殺される…誰かー!!誰でもいいから、お義母さんでもいいから助けに…!!)



私が必死に後ずさりして部屋から逃げようとするも、突然の恐怖で足が竦み、パンパンに脹れていることも相まってかそのまま畳に尻餅をついてしまった。


本当に恐怖を感じた時、人は声が出なくなるとこんなところで学んでしまうなんて、そんなことあっていいのか…

タイムスリップ先で死ぬなんて絶対に嫌だ!ちゃんと令和の世で高橋遥香として死にたい…


どんどん近づいてくるその男の畳を踏む音が、まるで死刑執行を伝える時計の針の音のように感じて、私は覚悟を決めてひゅーひゅーと困憊して動けない喉に空気を入れ込む。




────────今だ!人生最後の大声量をッ!!





「そんなことしたら、喉がつぶれちゃうよ」


「んぐッ!?」




思ってもみない甘ったるい声を耳に取り込みながら、その声の主に塞がれた口元を見て目を見開く。

けれど、その変質者は焦る私とは裏腹にどこか余裕な表情で私を見ていた。


その目はどこか虚ろで、本当に私を見ているのか不思議なほどにくすんで見えたのだが、顔はすごく整っていて浮世離れした美しい顔立ちをしている。

そして何より、どこか懐かしい匂いが私の鼻をかすめた。




「本当にそっくりだ、顔も体も、あと声もね」




──────────(は?)

困惑する私のこわばった顔を見ながら、その男性はどこか楽しそうな声音で笑った。





「はじめまして、江戸へようこそ。高橋遥香さん」




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