43.狂怖の登山⑤
─あなたたち、死にたいんですか!
彼が怒鳴りつけると向う岸にいる全員が口を閉ざし、俯く。渓流を渡っていないこちらのグループも、誰1人として口を開く者はおらず、只々その場に呆然と立ち尽くした。
皆、どこかで楽観視していた。アクシデンドが続いているが「どうにかなるだろう」と。
だが、彼の発言が空気を一変させてしまった。
2.3秒の沈黙が流れる……ほんの2.3秒。しかし、その僅かなはずの時間が随分長く感じられた。
その沈黙をガイドリーダーが破ったようだ。何やら話終えると、前方のグループが再びこちらに向かってきた。
全員が無事に渡り終えると、前田さんが皆に告げる。
「今から、山小屋に移動します」
急な予定の変更に騒ぎが起きてしまうのではないかと懸念したが、先程の佐目野君の台詞のこともあり、文句を言う客はいなくなった。
しかし、ガイドは別だ。後藤さんが突っかかる。中島さんはどうなのかと振り返ってみたが、関心なさそうに地べたに座り込んでいた。
「ちょっと、前田さん!我々に何の相談もなく勝手に予定を変えられても困ります!」
前田さんが神妙な面持ちで答える。
「いいから……責任なら私がとる。歩けない人がいたら遠慮なく我々に行ってください。肩を貸します」
すると、佐目野君が手をあげた。「君は普通に歩けるだろう」と突っ込みたくなったが、どうやらそういう理由で手を挙げたわけではないらしい。
「すいませんが、一足先に小屋に向かいます……もう時間がありませんので。皆さんも早く。雨粒が直に触れないよう気をつけて。それから……前田さん、今すぐ救急隊に連絡をしといてください」
そう言うと、佐目野君はリュックを前に背負い直し、背中に中島さんをおんぶして小屋の方へと走って行った。あまりに突然の行動に呆然とする一同。
そんな中、前田さんがポツリと呟く。
「無茶苦茶な人だ……」
今我々がいるのは7合目近く。避難小屋までは残り1合。1時間近くかかる。
すると、20分ほど歩いたところで男性客2人がその場に倒れこんだ。ガイド2人が急いで駆けつける。
「大丈夫ですか!?」
意識を失っているわけではないが、反応が鈍い。
それぞれ肩を貸して何とか歩き始める。ガイドさんも必死の形相だ。
その様子を見て改めて、人を背負いながら山道を駆け抜けて行った佐目野君の凄さを実感する。
警察学校でもこんなような訓練をしていたのだろうか?
山小屋まで残り10分ほどの距離。
しかし、困ったことにさらに2人の女性客が倒れ込んでしまった。私も肩を貸すことにしたが、流石に1人が限界だ。ガイド2人が「誰か肩をかしてあげてください」と懇願したが残りの人たちも自分のことで手一杯。とてもそんな余力は残されていない。あと一歩のところまで来ているというのに、どうしたものかと途方に暮れていると……
「お困りの……よう、ですね」
息も絶え絶えに、身体中から蒸気を吹き出している男……佐目野君が姿を現した。
「君!もうここまで来たのか!」
前田さんが驚嘆の声を上げる。
「ええ、はい……リュックも……置いて……きたので、ここまで戻るのは楽……でし、た」
自分が一番疲れてるだろうに弱音を一切吐かず、残る1人に肩を貸す。
「すいませんけど……さすがに……おんぶする程の体力は、ありませんから」
そう言うと、痛々しい作り笑いをしてみせた。
無事全員山小屋に着き、中に入ると驚いた。外とは比べ物にならない程の暖かさだ。
物音に気付いたのか、奥から40代の管理人らしき男が出てきた。
「おお、兄ちゃん!もう戻ってきたのかい!……皆んな、この兄ちゃんに感謝しなきゃいけないよ?この小屋暖めておくように言ったのも兄ちゃんだからね」
「は、はは。今はちょっと後悔してますよ。私にとっちゃ暑くて敵わない。そうそう。見てわかる通り、新たに4人が危うい状態にありますので介抱を」
「わかった。じゃあ、手分けして濡れた服を着替えさすとしよう」
佐目野君も手伝おうとしたところ、管理人が引き止めた。
「あとは、他の従業員にやってもらう。兄ちゃんはしっかり休め。な?」
「……はい。では、お言葉に甘えて」
佐目野君はジャンバーを脱ぎすて、リュックからシャツを用意。体を拭いてから着替え始める。
「本当はズボンも持ってきたかったんですけど、リュックに入りきらなかったものですから」と語った。
佐目野君は着替え終えると、うなだれるように椅子に座り込んだ。ハァハァと必死に肩で息をしている。
「えっと……これは一体どういう状況なんですか?」
前田さんが管理人に質問をする。
「他人事みたいに言ってくれるねぇ。アンタ、登山ツアーのガイドなんだろ?自分のしたことの重大さ、わかってる?」
ガイドたちは目を泳がせ、黙り込む。
「だんまりか?困ったらだんまりか!?……まぁいい。あの人たちはな。あと一歩遅かったら、低……!
兄ちゃん!どうした!?おい!しっかりしろ!」
話の途中で管理人が慌てて佐目野君に駆け寄る。
一体何事かと、私も駆け寄る。
佐目野君が椅子から崩れ落ちていた。
ついさっきまで力強く山道を駆け回っていたはずなのに……
いつもなら憎まれ口の1つや2つ叩いてくるはずなのに……
呼びかけても反応がない。
北海道の山奥、佐目野宝次郎は安らかな眠りについた。
いい奴だったよ…




