そして、笑う
戦場から遠ざかり、緩やかな上り坂を走っているころ、そろそろ先に向かわせた兵たちがいても良い頃だと、呂橋は考え始めた。そして、上り坂を登り終わり、ふと馬を止めると、ある匂いがした。
血の匂いがしていた。森の中の、ぬるく穏やかな風に乗って、血の生々しい匂いがしていたのだ。
早まっていく動悸を感じながら、ゆっくりと道の先に目をやると、小さな山ができていた。死体が山積みにされていた。先行隊の兵たちだった。
その山の横に、一組の男女が立っていた。薄暗い森のなか、木々の間から漏れてくる光芒が、二人の金色の髪に当たっている。女の方が、頬についた血を腕で拭いながら、笑った。
「兄様、本命がやっと来たよ」
「みたいだな。ったく、待ちくたびれたよ」
男が気怠そうに、髪をかきあげる。二人とも、二本の長さの違う剣を携えていた。それを引きずるようにして、呂橋に近づいてくる。
非常に濃い殺気が、二人から漂ってきていた。馬が不安そうに呂橋を見た。呂橋は笑って、頭を撫で、馬を降りた。
「レイを頼むよ」
呂橋は矛を握りしめた。手は怜の血で汚れている。
呂橋と二人の距離が、顔をはっきりと判別できるまでに近づいた。絵画で描かれたように美しく、またどこか似た雰囲気を持つ男女だった。二人とも華奢で、その姿から戦を連想するのは難しかったが、剣にこびり付いた血と、わずかな動きをも見逃さないであろう鋭い視線は、手練れであることを伝えていた。
「おい、そこの片目。馬に乗っているのが、レイとかいう男で相違ないな?」
声には傲慢な響きが混じっていた。
「だとしたら?」
「何も言わず、俺たちに渡してくれ。無駄な戦いはしたくない」
「なら、その後ろに積み上げられた死体はなんだ?」
「あれは、そう……」
男が唇を歪め、犬歯が現れた。その表情に、呂橋はぞっとした。
「ただの暇つぶしさ」
呂橋は矛を握りしめながら、状況の整理をしていた。
(あいつらは誰だ? 帝国軍にしては、おかしい。おそらく兄妹だろうが、あんなやつらがいるなんて聞いたことがない。わからない。情報が少なすぎる)
油断なく二人の動きに目を光らせながら、呂橋はこの状況を打開する手を考えていた。だが、救援が来るはずもない。あたしがあいつらを殺すしかないのだ。呂橋はそう考え、矛を構えた。
(だが、あたしにやれるのか? 違う。できるかどうかではない。やらなければならないのだ)
覚悟は決まった。呂橋の顔つきが変わり、その変化を二人は感じ取る。
「馬鹿ね。渡せば見逃してやるって言っているのに」
「ネネ、油断するなよ。確か、アマンダの一番の側近に片目の女がいるって聞いたことがある」
「関係ありません。兄様、ただ殺すだけです」
飛ぶようにして、ネネと呼ばれた女が呂橋に迫った。右手に持った、長い剣が呂橋の喉元に突き出される。呂橋が矛でそれを受けると、左手の短い剣が再び喉に突き出される。身をよじってかわすが、今度は後ろから男の剣が呂橋の背に迫る。呂橋は地面を転がるようにして、それを避けた。
休む間もなく、二人の剣戟が襲いかかってくる。呂橋は懸命に応戦するが、各々が手練れである上に、二人の連携のとれた攻撃になすすべもなく、時間とともに、身体中に切り傷が増えていく。
(どうする。どうすりゃいいんだよ)
呂橋は振り下ろされたネネの剣を間一髪でかわし、一度距離をとった。相手が一人であったなら、手はあったかもしれない。しかし、二人では攻撃を受ける一方であった。
呂橋は焦り始めた。
(怜を守らなければならない。早く手当が必要なのだ。だが、得体の知れぬこいつらに渡すわけにもいかない)
ジリジリと距離を詰めてくる二人を見ながら、呂橋はなぜか笑った。そう、アマンダのように。
(そうだ。あたしがみんなを置いてここまで来たのは、怜を守るためだ。あたしが生きるためじゃねぇ。何をビビってんだよ。この手の殺し合い、幾度となくあっただろうが。前を向け、敵を見ろ)
呂橋は、急に視界が開けた気がした。鬱蒼と茂る木々、緊張気味に見守る馬、その上でぐったりとした怜、照り映える太陽、二人の男女。それらが確かな形として、目に飛び込んできた。
対して、男たちは怪訝そうに呂橋を眺めた。二人にとって、呂橋の突然の笑みは、奇異なものでしかなかった。死を目前に笑っているのだ。その笑みは、二人にわずかな恐怖を抱かせた。
呂橋は着崩れて、豊かな胸が露わになりかかっている着物を正し、声をあげて笑いながら袖から煙草を取り出した。男たちが動き出そうとすると、それを手で制した。
「まぁ待て。一服ぐらいさせろ」
風に揺れる梢を眺めながら、空に向かって煙を吐き出した。
(うめぇなぁ、アマンダ。あんたもこんな気持ちで煙草を吸ってたのかい?)
そして、一瞬場に不思議な間が生まれた。
呂橋が地面を蹴った。
ネネに近づき、煙草を額に押し付けようとした。突然の接近に驚いたネネだったが、それでも反応し呂橋の手を払う。その手に向かって、呂橋は矛を振り下ろした。ネネは顔を痛みに歪める。すぐさま距離をとり、右手をダラリと垂れ下げながら、憎悪の目で呂橋を見つめた。
「卑怯だとなじるか? あははっ。卑怯で結構。あたしはもともと山賊だよ。なんでもやってやる」
「このくそばばあがぁ」
「待て、ネネ」
男の制止も聞かずに、ネネは呂橋に向かって駆け出す。小さな体をバネのように使って、呂橋にぶつかっていった。
そして、呂橋の腹にネネの短剣が突き刺さる。ネネは確かな手応えを感じた。肉の硬さ、そして柔らかさを感じた。血で濡れる。ネネは呂橋の顔を見た。
呂橋は笑っていた。
「まず、一人目」
矛がネネに振り下ろされる。ネネは逃げようとするが、呂橋が手を強く掴んでおり、動けない。
だが、呂橋の矛がネネに届くことはなかった。
呂橋の体から力が抜け、膝から崩れ落ちていく。ネネはすぐさま後ろに跳んだ。
「ネネ、油断しすぎだ。それと、ロイ。ネネのこういうところを監督するのが役目だろ」
黒装束に包まれた王がロイを睨みつけた。
「悪い」
ロイは言い返す言葉が見つからないというように、うつむいた。ネネは未だ憎悪の感情を隠すことなく、倒れた呂橋に向かって剣を振り下ろそうとするが、その手を王に掴まれた。
「やめろ。殺してはいけない。今は眠らせただけだ」
「なんで? こいつはネネの手こんなにしたんだよ?」
「それはお前が気を抜いたせいだろ。呂橋はまだやることがある」
納得がいかない様子のネネだったが、王が睨むと、渋々と剣を収めた。
王はゆっくりと、馬の上の怜に近づいた。まだ怜は生きている。王は安堵のため息をついた。
「ネネ、ロイ。レイを頼んだ」
「王はどうするんだ?」
王は倒れて、眠っている呂橋に目をやった。
「私は呂橋をどこかへ置いてくる」
「わかった。ネネ、行くぞ」
ロイは顔に不満を貼り付けたままのネネを促し、怜を馬から下ろし始めた。王は呂橋の横に腰を下ろし、傷ついた腹の手当を始めた。
(さて、ここからだな。戦いは)