一つの花が散る
(やられたわね)
アマンダは、崩壊していく自軍の様子を眺めながら、不思議と冷静にそう思った。鎧を黒一色に染めた無数の敵軍が、横から味方を蹂躙し、アルベルトの軍は今にもアマンダのところまで届きそうだった。
「ショウ」
逞しい肉体をした男が、アマンダの呼びかけに返事をした。
「何でしょうか?」
「今すぐ呂橋のところに行き、次の動きに移るように伝えなさい。ここは、もう駄目だわ」
男の精悍な顔立ちが、醜く歪んだ。
「ママン」
「行きなさい」
男は躊躇う素振りを見せたのち、一礼し、馬で呂橋のもとへ走って行った。男が去っていくのと、アマンダの本陣にアルベルトが現れたのは、ほぼ同時であった。
「婆さん、お気の毒にな。ここであんたの夢は潰える」
アルベルトは、大きな口を不器用に曲げた。彼は巨大な男だった。二メートルはあると思われる体を、筋肉で飾り立てている。アマンダの背ほどもある棍棒を、握りしめていた。
本陣を守る兵たちが殺されていく凄惨な光景を目に映しながら、アマンダは口元を緩めた。なぜだが、ふとおかしくなったのである。死の予感は、絶え間なくアマンダに襲いかかっていた。だが、自分が死地にあるということが、そして、それに抗おうとすると力が溢れてくるのが、アマンダには妙におかしかった。
アマンダが笑っているのを見て、アルベルトは顔をしかめ、そばにいた二人の兵に合図をした。二人の男は頷き、アマンダに向かって駆け出した。二つの刃が、アマンダに近づいていく。まさに、その剣がアマンダに届こうという瞬間、アマンダは細い長剣を抜き、二人の首を切り落とした。アルベルトたちの体が強張った。
「私の夢が終わるって? 馬鹿言っちゃいけないね」
アマンダは再び笑った。
「ババアにも咲かせる花があるってことを、教えてあげるよ」
アマンダが走り出した。敵の方から動いてくるとは思ってもいなかった男たちは、始動が遅れる。そのうちに、アマンダは一人の首を切り落とした。
アルベルトは、アマンダが走り回って、帝国の兵たちを斬り殺していくのを見ながら、先ほど自分が言った、「婆さん」という言葉を撤回してやりたいと思った。それほどまでに、アマンダの動きは俊敏で、可憐と言ってもいいくらいに、跳ね回っていた。地面を蹴り、相手の懐に入り込む。そして、剣を振る間も与えぬまま、斬り殺していく。帝国兵はまるっきり相手になっていなかった。
だが、それを見ながらも、アルベルトは動じなかった。もとより、慢心はない。死地に追い込まれた人間の怖さは、嫌という程目にしてきていた。その上で、自分が負けるとは思っていなかった。冷静に力を分析していた。
ついに、アマンダがアルベルトに斬りかかった。血に濡れた長剣が、アルベルトに向かっていく。慌てることなく、棍棒で受け止め、アマンダの腹を蹴る。アマンダは、痛みに顔を歪めながら、一度距離をとった。
「婆さんを蹴るなんて、ひどいじゃないか」
「さっきは悪かったよ。あんたは婆さんなんかじゃない」
にっ、とアマンダは笑い、地面を蹴る。点々と紅く染まった白髪が、動きに合わせて跳ねている。長剣を左から右に振り、手を切り落とそうとするが、アルベルトはそれをかわし、棍棒を振り下ろす。アマンダは体を投げ出してそれを避け、距離を取り、また詰める。アマンダの動きは、アルベルトの想像を超え、棍棒で受け切れず、右腕からわずかに血が飛んだ。だが、ほんの小さな傷である。アマンダは追い打ちをかけようと、もう一度剣を振る。が、体に届く前に、アルベルトが横に振った棍棒で、左脇腹を殴打され、地面を転がっていった。
剣を落とし、アマンダはうずくまりながら、血を吐いた。血を吐いた瞬間だけ、意識は痛みを捉え、その激痛により、だんだん朦朧とし始める。
(老将の一人くらい道連れにしてやるつもりだったんだけど)
アマンダは呻きながら、近づいてくる男に何かを言ってやろうとした。しかし、言葉は出てこない。手も、足も動かない。ただ自分の吐いた血だけを、狭まりつつある視界が捉えていた。
不思議とアマンダは悲しくなかった。ただ、レイや呂橋がそばにいないのが、少し寂しかった。
(馬鹿ね。自分がそう決めたのに)
足音がアマンダの耳元で止まった。そして、音はアマンダのそばから遠ざかっていく。悲鳴や怒号、人の倒れる音、そういったものが、一つも耳に入ってこなくなった。
「今晩、俺が酒の席で話すネタはこうだ」
アルベルトが棍棒を振り上げ、こう言った。
「アマンダって女は、敵ながらあっぱれなやつだった」
アマンダはゆっくりと目をつぶった。意識が深く沈んでいく。暗く、静かな場所に。
(呂橋、頼んだよ)