流動
(とりあえず、先手は取れたか)
自軍が押し込んでいくのを見て、呂橋は安堵のため息をついた。右翼の最大戦力とも言える怜たちを最初に投入するのは、かなり勇気のいる決断だったが、それが功を奏したのを確認して、呂橋は素直に安心していた。
「うまくいったようじゃな」
菠薐が白髭を撫でながら呂橋に言った。
「ああ。張麗麗の姿が確認できないから、そこが気になるが」
「そのことだがな……やつが来ているというのは、事実であろうか」
「それはあたしも気になっていた。だけど、報告では確かに軍の中で姿を見たらしい」
「……誤報であればいいがな」
菠薐がシワの目立ってきた顔を歪めた。
張麗麗は、帝国最強と呼ばれながら、実際の戦に現れることは非常に稀だった。皇帝が側に置いて離したがらないのである。よって、なぜ今回の戦に張麗麗がわざわざ出向いてきたのかが、呂橋にもわかっておらず、菠薐の言う通り、誤報である可能性も捨てきれていなかった。
「あーあ。なんでレイは僕を連れて行ってくれなかったんだろう。僕も暴れたかったのにな」
呂橋の隣にいたネオが、退屈そうにあくびをした。
「もう少し緊張感を持たぬか、ネオ」
「えー、じいさんたちが緊張しすぎなんだよ。張麗麗がいたっていなくたって別に関係ないよ。レイと僕で殺しちゃえばいいんだしさ」
横で眠たげに目をこする少年を叱ってやろうと思い、呂橋は口を開きかけたが、結局言葉を発さなかった。そもそもネオは怜の言うことしか聞かないし、彼の言うことにも一理あると思ったのだ。
(確かに、あたしたちは少し考えすぎている)
呂橋が菠薐の顔を見ると、菠薐も同じように考えたことがわかった。
「ねぇ呂橋」
「なんだい?」
「やっぱり今から僕も向こうに行っちゃダメ? この調子なら、隊のみんなで行けばすぐに終わりそうだしさ」
「ダメだ。すぐと言っても、三十分やそこらじゃ終わらないだろう? レイと有理には時間制限がある。あいつらも一回戻ってくるはずだしな」
「えー。三十分で終わらせるからさ。お願い」
丸い目を輝かしながら、ネオは顔の前で手を合わせた。顔にはまだ幼さが残っており、ネオの表情は様々な変化を見せる。馬に乗っていると、体の小ささがより際立つようだった。まだ十四歳の少年ながら、怜がその戦闘能力を買って入隊させた。だが、彼の頑是ない性格には、怜も扱うのに苦労しているようだった。
「少し我慢しろ。お前の出番は必ずくるよ」
呂橋はネオの愛らしい栗色の髪を撫でながら言った。
「そうだ。わしも剣を振り回したいのを我慢して、ここにいるんじゃからな」
「ジジイは黙ってな」
呂橋が睨むが、菠薐は気にした様子もなく高らかに笑った。ネオはつまらなそうに、頭の後ろで手を組み、再び大きなあくびをした。
「ちぇっ。超龍はずるいなぁ」
「大人数を相手にして、レイとユーリについていけるのは超龍くらいだからな」
「お前さんは軍を相手に生きるタイプではなかろう」
「そうだけどさ……僕も槍を使おうかなぁ」
「あんたじゃ槍に振り回されるだけだよ」
超龍はほとんど口を開かない無口な男だが、その寡黙さを怜は気に入っていた。超龍は初め別の隊に所属していたのだが、怜の武勇に惚れて、わざわざ転属を申し出たのだった。超龍がアマンダに懇願していた様子を見ていたある兵士が、
「超龍さんってあんなに喋るんですね」
と驚いたほど、超龍の怜に対する熱は強かった。幼い頃から日々を共有してきた有理を除けば、怜が隊の中で一番信を置いているのは、間違いなく超龍である。
「じいさん、暇だから面白いことしてよ」
「その雑なお願いはなんだ。わしを馬鹿にしているのか?」
「何? できないの? 面白いこと」
「……できるに決まっておるわい」
呂橋を間にして交わされている緊張感のない会話に、苛立ちと、自分の危惧していた状況から遠ざかっているという、わずかな安堵を感じ始めた頃、呂橋はある異変に気がついた。
「おい、ジジイ」
呂橋はすぐさま、伸びている白髭を使ってリリーを笑わせようとしていた菠薐に声をかけた。
「なんじゃ?」
「前線が押し返されていないか?」
菠薐は前線に目をやり、その様子を確認すると、顔から緩んだ表情が消え、真剣な顔つきになった。
「相手が体勢を整え始めたってだけじゃないの? 帝国の軍も烏合の衆なわけじゃないでしょ」
ネオの言うことも正しいと思いつつも、呂橋は嫌な胸騒ぎを感じていた。本当にそれだけなのだろうか。怜たちがいるのに? 呂橋の鼓動が早くなりつつあるころ、前線と後方を行き来する連絡役が、馬を走らせ前線から戻ってきた。
「報告します」
「頼む」
連絡役は唇を噛み、うつむいた。そして、意を決したように勢いよく顔を上げ、口を開いた。
「超龍殿が戦死しました」
三人の顔に驚愕の色が浮かんだ。呂橋は胸を抑えた。鼓動があまりに早すぎて、自らの体から心臓が出て行こうとするようだった。
「それは、本当なんだな?」
「事実です」
「そうか……」
呂橋は天を仰ぎ見た。悲しむ時間はない。だが、ともに十年近くを過ごしてきた仲間の死を割り切れるほど、呂橋は強くなかった。あるいは、それを強さとは言わないのかもしれない。味方が死んでも動じないようにすることは、必要なことなのかもしれない。呂橋は唇を噛み締め、自分の中に巣食う不安が、現実に現れ始めていることに耐えようとした。
そんな状態の呂橋の代わりに、菠薐が厳しい顔をしながら、連絡役に尋ねた。
「状況は」
「レイ殿、ユーリ殿、超龍殿が率いた第一波は、敵軍の陣を乱すことに成功しました。レイ殿は敵の指揮官の一人を討ち、相手の崩壊も近かったのですが、張麗麗が現れ、超龍殿が対応に当たりました。近くにいたユーリ殿も救援に向かいましたが、間に合わずに超龍殿が死亡。現在はレイ殿と張麗麗の一騎打ちとなっています。ユーリ殿が前線の兵の指揮をとり、未だこちら側の優勢には変わりませんが、張麗麗の軍によって押し返されつつあります」
「そうか」
呂橋はやっとの思いで口を開いた。衝撃を受けたものの、張麗麗軍が出てくるのは予想されていた事態である。ある意味、この早いタイミングで敵の主力を前線に誘い出せたのは、こちらが押していることを物語っているのだ。呂橋はそう考えて、突撃の号令をかけようとした。
「ジジイ、リリー、行くぞ」
「待て」
声をかけられて、呂橋が後ろを振り向くと、黒い装束で身を包んだ一人の女が立っていた。偵察に駆け回っているはずの王であった。
「報告がある」
「急げ。こっちも忙しい」
「黒鉄が本隊の前に現れた」
呂橋は息を呑んだ。信じられなかったのだ。王が淡々と報告を続ける。
「どこに潜んでいたのかわからないが、アマンダの軍がアルベルトの軍と組みあっていると、黒鉄の一万の軍が左翼を食いつぶし、本陣の横に突撃してきた」
「待て。黒鉄が動いているなんて報告はなかったはずだぞ」
「ああ。私たちに全く勘付かれずに現れた」
「王、情報を集めるのはあんたの仕事だよな?」
「その通りだ。これは私の落ち度だ。すまない」
「テメェ、すまないで済むと思ってんのかよ」
呂橋の怒鳴り声が虚しく響いた。ネオは、「最悪だね」と言って小さく笑った。
「呂橋、落ち着け。王を責めても状況は変わらない。こうなったら一度引かなければ」
「それも無理だ」
王は顔を歪めながら、首を横に振った。
「私たちを支持していた貴族が寝返って、軍をこちらに向けて出撃させた。もうこちらに近づいている」