小さな宴
森を抜け、怜が村の跡地に近づいていくと、騒がしさが戻ってきた。五千人ほどの人間が、そこで野営をしているのだ。
怜は有理と別れ、二人の屈強な男が入り口で目を光らしている、簡易テントに入った。そこでは仄暗い明かりの中で、アマンダが一人で愛用のグラスを傾け、酒を飲んでいた。
「呼びましたか、ママン」
ゆとりのある黒いボトムスについていた、汚れた葉を払いながら怜はアマンダに尋ねた。配下の兵たちの多くがアマンダのことを「ママン」と呼ぶのは、アマンダ自身が指示したことだった。
アマンダはすでに六十近い女である。隠しきれない顔のシワは、彼女の感情とともに形を変え、短く切りそろえられた髪は真っ白に染まっている。しかし、老婆と称するには、彼女はあまりに若々しかった。十年以上もの間、多くの兵を率い、帝国の支配に抗い続けてきたアマンダには、未だ敵の脅威となる力が備わっていた。
怜の姿に気がつくと、アマンダは静かに立ち上がり、革で作られた大きな鞄に向かって歩いて行った。百八十センチ近い怜には見劣りするが、彼女の威圧感と合わさってひどく大きく感じる体が、不自然に揺れている。足取りがおぼつかないようだった。怜は背の低いテーブルに目をやった。すでに三本の酒瓶が空になってそこに転がっていた。
アマンダは鞄からグラスを取り出し、そこに酒を注いで怜に勧めた。
「少し付き合いなさいな、レイ。ほら、そこに腰を下ろして」
怜は苦笑しつつ、アマンダの向かいに置いてあった、木でできた小さな椅子に座った。
「明日の勝利を祈って」
「乾杯」
カチ、と気持ちの良い音とともに、グラスが合わされた。怜とアマンダは一気に酒を飲み干し、顔を見合わせて笑った。
「ママンが俺を呼んでいたと言われました」
グラスに注がれていく、どろりとした茶色の液体を眺めながら怜はそう言った。怜はアマンダに呼ばれた理由がはっきりとわかっていなかった。
(明日の戦に関する話し合いはすでに終わっている。もし、新しい情報が入っていたとしても、自分だけが呼ばれるのはおかしい。ママンはいったいどうしたのだろうか。酒のペースも早いようだし)
そんな戸惑いが顔に表れている怜を見て、アマンダはふと口元を緩めた。
「ねぇ、レイ」
「なんでしょう」
「お酒は嫌いかい?」
「そんなことはありませんけど」
「じゃ、もっと飲んで飲んで」
はぁ、と曖昧な返事をしながら怜は酒を飲んだ。アマンダは空いたグラスに酒を注ぎ足す。その様子に眉をひそめながら、怜は再び尋ねた。
「ママン、何かお話があるわけではないのですか?」
「レイ」
優しく、それでいながら有無を言わさぬ厳然とした声。怜はアマンダの声を聞くと、安堵と不安という、相反する複雑な感情を抱くのだった。それは本当に母のような、そんな声だった。
「はい」
「あなたの悪いところはね、余裕のないところよ。必要のないこと、意味のないこと、そういったことに目を向ける余裕も大事だわ。レイにとって、私とお酒を飲むのはそんなにも嫌なことなのかい?」
「いえ」
アマンダは小さな微笑を浮かべた。怜はその微笑みを見て、自分が思ったよりも戦に対して、緊張を抱いているのに気がついた。怜はグラスを手にして、酒を飲み干し、今度は自ら注ぎ直した。
二人で黙ってグラスを傾けているうちに、時間が緩やかな速度に変わっていくように感じられた。遠くの騒がしさが、小さなささやきとなって運ばれてきている。時折強くなる風が、テントを揺らしていた。そのうちに、二人の間に穏やかな空気が流れ始めた。その空気を感じ取り、アマンダがようやく口を開いた。
「あなたを呼んだのは、明日のことについて、言っておきたいことがあったからなのよ」
「作戦についての補足事項ですか?」
「違うわ。主に、あなたに向けた私の個人的な願いよ」
「聞かせてください」
アマンダは息を吐いて、しばらく上を向き、そして怜を見つめた。怜の黒い髪、蒼くて大きな瞳、小ぶりな鼻と唇を、愛おしそうに一つ一つ時間をかけて見つめた。それから、勢いよく酒を飲んだ。
「明日、もしも私が死んだとしたら、あなただけは何としても逃げなさい。絶対に生き延びなさい」
大きな音がした。怜が机を叩いたのだ。穏やかな空気はいつの間にかに消えていた。怜の顔には、怒りと悲しみが混じり合った感情が表れていた。
「ママン、冗談でも自分が死んだらなどと言わないでください。明日の戦は俺たちが必ず勝利を収めます。ママンが死ぬことなどありません」
怜は大きな声でそう訴えた。小さな空間には似つかわしくない大声だった。アマンダの表情が曇り、形を変えたシワが悲しみを叫んでいるようだった。怜はアマンダのそのような顔を見たことがなかった。不意に、強烈な不安を抱いた。終わりに近づいているのではないだろうか、怜もそう思ってしまった。考えてから、怜は必死にその思考を打ち消した。ママンが死ぬわけがない、死ぬわけがないのだ。だが、いくらそう考えようとも、不安は消えない。アマンダと同じように、怜も奇妙な不安をずっと感じ続けていたのだ。だから一人になって、月を見ていたのだった。
「ママンが死ぬわけがありません。俺が守ります」
アマンダは何も言わずに立ち上がり、簡素な布団を敷き始めた。酒のせいで単純な作業すらも時間がかかっているアマンダを見て、怜は悲しみを感じた。彼女が着ていた、自信や誇りが脱げて、一瞬だけ老婆に見えてしまったのだ。
長い時間をかけて布団の準備を終わらせると、アマンダは再び怜の前に座った。
「最近ね、同じ夢を見るんだよ」
「……どんな夢ですか?」
「不思議な場所にいるんだ。私の見たことのないような物にあふれていて、幸せな気持ちになる。いつも同じ場所で、同じもの、同じ人が出てくる」
怜はどう答えればいいのかわからなかった。自分の中で蠢く負の予感に戸惑い、苦しんでいた。
そんな風にうつむく怜の頭を、アマンダが抱きしめた。そっと、抱きしめた。甘く、少し酸っぱいような匂いを怜は感じた。不思議な安堵を感じながら、怜は涙を流しそうになった。しかし、その衝動には懸命に抗った。もし泣いてしまったら、それが何かを真実にしてしまう。そう思ったのだ。
「レイ、あなたが生きていれば希望は残るの。だから、生きなさい」
「俺では何もできません。化け物だから」
「化け物だからこそ、よ。もちろん、あなただけでは難しいかもしれない。でも、あなたの力を正しく使えれば、使いたいと思える人と出会えれば、必ず何かが変わっていくの」
そう言って、アマンダは抱きしめる力を強くした。いつの間にか、外の声が聞こえなくなっていた。アマンダの腕で囲まれた暗闇の中で、怜は自分の体に回帰していくような気がしていた。意識が凝縮され、体に降りていくような、そんな気がしていたのだった。