8. 黒い本
旧校舎の昇降口は開いていた。だから文花はその中に入ることにした。
下駄箱の前で靴を履き替えようとして気付く。裸足だった。すると足の裏から臍まで冷気が昇ってくる。靴下だって穿いていない。
まあ、いいか。
そのまま進むことにする。ぎい、と床板が軋む。古くなった木の、頼りない感触。けれどそれはどこか柔らかで、裸足でだって何の心配もいらないように思えた。
ひとつ、教室を通り過ぎる。誰もいない、一年生の教室。ああ、不思議だな、と思う。どうして誰もいないのだろう。気付いた。声もしないぞ。ひょっとするとここには誰もいないのかもしれない。
ならどうして自分はここにいるのだろう。
足の指が廊下の上で、自分の身体を運んでいく。向かう先は二年生の教室。すぐに着く。プレート。二年九組。表面のつるり、とした質感は、普段ならもっとこの校舎では異物めいて見えるけれど、今はなぜか、正しい位置に嵌められたジグソーパズルみたいに、自然に存在して見えた。
閉じられた戸。手をかけると、すう、と開く。中を見た。
天方がいる。
座っていた。そのほかには、誰もいない。いつもの席に座る天方だけがいる。
じっと何かを見つめているようだった。あるいは、雨の雫を見つめる人のように、何かを考えているようだった。
綺麗だな、と思った。だから文花は、声をかけるでもなく、見つめていた。見つめていたら、気付かれた。
「こんばんは」
ふ、と微笑み、天方が言った。
「こんばんは」
と返した。そして気付いた。今は夜だったな、と。気付くと、部屋が暗くて仕方がないな、と思い出した。なにせ、月も星もないものだから、何の明かりだってありやしない。天方の顔すら見えぬのも道理だった。
文花は手探ると、電灯のスイッチを入れた。パチ、パチ、と礼儀正しいスパークの音がして、真っ白な光が教室を照らした。
天方の顔がはっきりと映る。こちらを見ていた。見つめ返した文花は、ふともうひとりの姿が己の瞳に写っていたことに気が付いた。そのもうひとりに目をやる。
自分がいた。窓の先の暗闇が鏡と返して自分を映していた。裸足で、制服を着ている。その姿が、なんだか妙にアンバランスで、途端、恥ずかしくなってきた。
しかしその裸足を隠すものもない。こうなれば座って誤魔化してしまおうと、自分の席に座り、机の下に足を隠した。天方を見ようとすると、首だけ傾けるような不自然な体勢になってしまう。
天方は何も言わなかった。何も言わずに文花を見ていた。だから文花は困ってしまった。何を話せばいいのだろう。
「こ……こんばんは」
「こんばんは」
結果は二度目の挨拶で、しかしそれもまた、それきりで途絶えてしまう。蛍光灯だけが雄弁に、己の気持ちを伝えていた。
「よ……夜ですね」
「そうだね」
「よ……夜は、天方さんは、何をしていますか」
どうしてそんな言葉が自分の口をついて出たのか、よくわからなかった。天方は、その問いを聞くと、ゆっくり文花から視線を外し、天井に向ける。
ふう、と息を吹きかけて、蛍光灯の明かりを消した。せっかく点けたのに、と一瞬、文花の頭に思いが過る。二瞬目には、星月の灯が教室を青く照らし上げていた。
「何もしてないよ」
立ち上がった天方が、手を差し伸べた。伸ばされた手に、恐る恐る文花は手を乗せる。自分の身体が一枚きりの羽根になったように軽々と、天方に手を引かれて身体が起き上がった。椅子も、机も、その拍子に夜の明るい雲のようにあっさり消えてしまう。
繋がれた手に先導されて、窓辺へと。月光か、星明りか、天方の髪を白く光らせている。
「杢野さんは、何してるの?」
何をしているんだろう。考える前にもう言葉になってしまった。
「私も、何も」
「そっか」
いつの間にか、手は握られていない。なら自分の手はどこにあるのだろう。確かめようか、迷って、けれど天方から視線を外せなかった。
「月と星だって、何もしないもの」
瞳に夜空が浮かんでいる。月と星の湖が、そこに映っている。
「僕たちもそうだよね」
あ、違うな、と。
気付いた。銀河が瞳に映ってるんじゃない、と。
天方の瞳の中の月と星が、空に映っているんだ、と。
「――でも」
気付くと同時、天方が文花を見た。
だから今、きっと自分の瞳も夜空になっているんだ、と。
「今夜は、」
吸い込むような瞳の光。近付いて、そこに世界がもうひとつ隠れているのを教えている。頬に吐息を感じて、
「君に――――」
ぴぴぴぴぴ、と。
目覚ましに起こされた。
「いやー、今日も一日疲れたねー。……? どうかした?」
「いえ、何も……」
ものすごい罪悪感だった。
一日中天方と目を合わせることすらできなかった。帰りの準備をしようと、鞄を机の上に置き直して、これじゃあ上手く鞄の口に教科書が入らないと思い、椅子を立って、いやそれより先に机の中に入れた教科書を、と座ろうとして、あれ、座る必要まであるのかな、と中腰で止まって、何となくまた立ち上がって、そうか鞄の口を横にすればいいだけだった、と思いついて動かそうとして、そのとき何か妙な引っかかり方をしてしまったらしく、
「あらららら」
ばらばらばららと教科書が机の引き出しから零れていく。あわ、と手で押し止めようとしたがいくつかは床まで落ちてしまい、自分がひとつ拾い上げる間に、みっつ、よっつ、と天方の腕の中に拾われてしまう。
はい、と渡された教科書は厚い。
「寝不足? なんか今日はいつもよりぼうっとしてたけど」
実際のところ、もっと性質が悪い。ぐっすり寝たのだ。夜の9時から朝の6時までぐっすりと。寝たからこんなことになってしまったのだ。
恥ずべきことである、と思う。人を頭の中であんな風に扱うのはよろしくないことだ。自分の頭の中で勝手に、こういうのを妄想と言うのだろう。
「おーい」
良くない、と思う。今後一切夢は見ないようにした方がいいのではないか、とすら思う。そうしようと思った。さて、ではどのようにすればいいのだろう。夢を見るとなればやはり寝るときだろう、ならば寝ないようにすれば――、無理だ。それならば、
「大丈夫?」
覗き込むように屈んだ天方と目が合った。合ったので、文花は言う。
「天方さん」
「はーい」
「もう天方さんのことは考えないように努力しますから」
「え」
強い心で生きていこうと文花は決めた。困惑する天方をよそに。
「え? 何? 僕何かした?」
「大丈夫です」
「何が? え?」
「すみませんでした」
「?????」
状況についていけていない天方が、どうにか話の意味を探ろうと口を開いたところで、が、がらーっ、と往生際悪く教室の前の扉が開く。伊倉担任である。帰りのホームルームだ。文花も天方もそちらに視線を逸らされて、そのとき、
「天方」
伊倉担任が唐突に一言。
「補習」
「!!?!!?!???」
ホームルームが終わると、約束が違うー、とそんなに悲壮そうでもない声を上げて伊倉担任に連れ去られる天方を見送った。そんな放課後。
特にやることがあるわけでもない。さあ帰ろう、と鞄を持ち上げたところで、あ、と気付く。教室の外から、矢羽々がふんすふんす、と中を覗き込んでいる。
目が合った。ぱあっ、と顔が輝いて、
「優しいお姉さん!」
とっとっと、と近付いて、どーん。ぐえっ、と内臓が呻いた気がした。そのまま文花の腹部に頭をぐりぐりと押し付けながら、矢羽々が言う。
「ひなちゃん先輩は!?」
ひなちゃん先輩。一旦脳に言葉を持ち帰って考える。ひなちゃん先輩。鳴坂日奈子。きょろ、とあたりを見回す。いない。隣の席、まだ鞄は置いてある。
「どこかに行ったみたいです。戻ってくると思いますけど」
「そう! ふにふに先輩は今日暇? やったー!」
何も答えていないのに超速度で話が進んでいく。ふにふに先輩。もはや原型も残していないが自分のことだろう、と文花は思う。やったー!というのは暇なんだやったー!ということだろう、と思う。暇なのは間違いないのでまあいいか、と思った。
「今日旧校舎で資料探しするんだけど一緒に来てくれるのねやったわ!」
どうもこの下級生の頭の中に住んでいる自分は、目の前に立つ自分よりもずっと決断力があり会話もスムーズらしいぞ、と文花は思う。いっそトレードしてくれたら日々も円滑に進むだろうに。
一言も発さぬまま綺麗に文花の放課後の予定が決まると、続いて鳴坂が教室に入ってきて、あ、と小さく文花が喉から漏らした声を聞き逃さず、矢羽々が素早く振り向く。
「ひなちゃん! わんわん!」
「日本語喋って」
「書庫!」
単語のみを聞き取った鳴坂は、どうもそれだけで発言意図を読み取る驚異的な能力を有しているらしく、あー、と渋い顔で、
「ごめん、ちょっと無理」
「用事!? すべてより私を優先して!」
「いや用事はないけど。ただちょっと書庫は無理。旧校舎のあの本置き場でしょ?」
「イエス!」
「埃が……」
ああ、と文花は納得する。そういえば鳴坂はあの中庭に水の注ぎ込む直前、ちょっと図書室の扉を開けただけでくしゃみをしていた。埃に弱い体質なんだろう。今でこそ教室だけは使い慣らされてきてそういう空気の汚れも少なくなったが、最初の頃はクラスでもマスクをつけなければ厳しい、なんて話をしている人たちが結構いた。いたことだけ知っている。
「そんなあ~」
嘆いた矢羽々はその場に崩れ落ち、およよ~と声を上げながら倒れ込み、床に伏し、動かなくなった。
「…………」
「…………」
文花と鳴坂はそれを無言で見ている。
さすがに初めて見るタイプの人だな、と文花は心中で思う。人はこれほどまでにパブリックスペースで実家のような振る舞いをしていいのだな、と感心する思いである。
「……ごめん、頼んでいい?」
鳴坂が言った。荷が重いと思った。が、とりあえず頷いてみて、
「善処します」
「いやほんと、めんどくさくなったら逃げていいからね」
次の瞬間、がし、と突然足首をつかまれて、
「去るもの逃がさず」
床に倒れ込んだ後頭部から声がする。今日は頑張って家まで帰ろうという目標を瞬時に立てた。そのまま足首をつかんだ手が離れて、宙をひょろひょろと漂っている。鳴坂が二歩、近付いてきてそれをつかむと、よいしょ、という声とともに矢羽々が起こされる。鳴坂に制服の汚れをはたいて落とされながら、矢羽々は文花に向き直り、
「行きましょ!」
と。
はい、と頷いた文花が鞄を手に取ると、横から声。
「なんだ、なんか放課後やんのか」
現れた北見の姿を見て、事態はどれくらい好転したのだろう、と文花は考えていた。
「とりあえず片っ端から読めばいいのか?」
図書室。
北見がそう聞くと、一居は本から目を離さないまま、いや、と答えた。
「それだと在学中に終わるかわからないから……、別にそれでもいいか」
「よくないわ」
「痛い」
矢羽々が上履きをさっと脱いで、寝転がる一居をさっと蹴り飛ばした。全然痛そうな声ではなかった。一居は改めてこう言う。
「適当にめくってビビっときたら俺にくれ、読むから。以上、頼む」
そして没頭を始める。
文花は部屋を見渡す。表裏のある棚が六列。長さは大体二棚分くらい。その他にも段ボールがいたるところに。
どうしようかな、と考えてる間に北見は「りょーかい」と言って、一番手近な棚の一番上に手を伸ばして、本を取り始めてしまう。
そうなれば自分も、まあとりあえずやってはみるか、と。北見が手を付け始めたのとは反対側、一番遠い棚から取り掛かることにしてみる。他の人の視界に入らない場所にいた方が落ち着くことだし。
一冊抜いて、目次を見て、戻す。もう一冊抜いて、以下繰り返し、繰り返し。
資料探しとは、もちろん七不思議に関することだ。
体育祭の事件は一体どんな事件処理が行われたのか、まったく報道には乗らなかったように思う。テレビカメラの一台どころか、パトカーの姿さえ一度も見かけなかったことから考えると、ひょっとすると内部処理ですべてが終わってしまったのかもしれない。
あの真っ赤な液体が校舎を染め始めたとき、文花と鳴坂はただそれを見ていた。矢羽々は倒れたままだった。天方、北見、一居の男子三人は、それぞれ別行動を取っていた。
天方は保健室で寝ていたらしい。本人曰く「徒競走で急に走ったのが響いた」とのことで、貧血だったそうだ。忘れ物を口実に文花と別れたが、実際のところ眩暈がひどかったからしばらく休みたかっただけだそうで、結局それだけでは不十分で、保健室まで行って寝ていたしたらしい。「変に心配かけさせちゃうのも、と思って」とも言っていたが、言ってくれればよかったのに、と文花は思った。
北見の行動は迅速だった。あのとき北見は他の生徒と違って倒れることもなかったらしく、屋上から赤色が溢れ出るのを見た瞬間、リレーを終えて温まった足を駆使して、一気に現校舎の中へ、階段を駆け上がって屋上へと向かった。屋上の鍵は閉まっていたらしい。職員室へ、と駆け戻る途中で騒ぎを聞きつけ同じく屋上に向かおうとしていた教員と鉢合わせ、その足で引き返して屋上の扉を開けた。そのときには、もう何も残っておらず、ただ殺風景な、ほとんど誰も足を踏み入れることのない屋上の姿だけがあったという。
一居はその様を外からずっと写真に収めていた。その赤色が屋上から地面に到達するまでの光景を。そして地面に到達した瞬間、すっかり目の錯覚のように消えてしまう瞬間を。
一居が撮影した写真は、現像すると大きく二種類に分けられることがわかった。ひとつは、ごく普通の校舎の写真。ごく普通とはつまり、その赤い液体が一滴として現れていないような、ごく普通の、いつも通りの校舎の写真。肉眼が映した像との違いを考えれば、それはごく普通な点で、異常な写真だった。
そしてもうひとつ――これが矢羽々と一居の新聞部が目玉にした種類の写真だ――、真っ赤な写真。塗りつぶしたように真っ赤で、ただそれだけで不気味な気分にさせられるような写真。どうしてこんなものが現像されたのかはわからない。だが確かなのは、ある時間以降に撮った写真の内、少なくない割合が真っ赤なそれだったということだ。
騒然とした、らしい。
らしい、というのは、文花らには実感が持てないからだ。その日は閉会式もなく即時解散となった。次の日に矢羽々らが出した号外は大盛況、あと一歩で集団錯乱による事件でも発生しそうだった、と聞くが、それは現校舎の話だ。
旧校舎は平和なものである。関係がないと思っているのだ――、文花ら以外の誰だって、旧校舎がそれ以前に水に沈みかけたことなんて知らない。対岸の火事を、遠巻きに見つめるような空気。
何にしろ、文花にとって重要なことはひとつ。顔見知りの矢羽々と一居が七不思議に興味を持っている、ということだ。
「全然見つかんねえな。本当にんなもんあんのか?」
棚の向こうから、北見の声がする。文花もふっと集中が途切れた。半棚終わった。そのうち関係がありそうだったのは強いて言えばやや怪しいオカルトに関する本くらい。こんなものあるんだ、と思ってめくってみると、十九世紀のイギリス交霊会がどうとか、歴史らしい言葉ばかりが並んでいた。関係ないだろう、と思って戻したそれは、背表紙も擦り切れてしまっていて、たった今手に取ったばかりなのにもうどのあたりにあったか、自信満々では答えられない。
「さあ、ないかもしれない。あっても別の部屋かもしれない」
一居が言った。
「見つかるまでやんのか?」
「まゆらが飽きるまで」
「それいつだよ」
「そろそろね」
「おい」
「まゆらが飽きた時点で先輩らへの頼みごとは終わりだ。当人が飽きてやめてるのに人に頼んでやってもらうのも変な話だろう。後は俺ひとりでやる」
「独特なテンポで生きてんなお前ら……」
そして会話が途切れる。考えてみれば、鳴坂がいなければほとんど接点のない同士だ。話題が尽きずに声が止まないということはない。文花ももう一度集中しようと棚に向き直る。
静かな時間が続いた。そしてふと気付くことには、空気の重さ。俯き続けた首と肩が張ってきて、黴臭さにか心なし頭痛もやってきて、文花は顔を上げる。一棚終わった。窓を見た。雲が夕立の兆しを含んだ、不穏な暗さで佇んでいる。そのとき一居の声がして、
「ちょっとトイレ」
「おう」
「あ、あたしも」
矢羽々も続いて、ふたりが部屋から出ていった文花はそれを戸の開閉と上履きの音で聞いた。ひょっとするともう随分時間が経っているのではないか、と思う。が、部屋には時計もなく、確認しようもない。
気分転換に少し背伸びでも、と手を組んで腕を頭の上に、背中をぐう、と反らした瞬間に、
ご、と。
驚いて背伸びは中断された。伸びきらなかった背中がやりきれなさを主張している。
本が落ちていた。
真っ黒な、立派な装丁の本だ。他の本と同じように古びた雰囲気ではあるが――手に取って――、傷んだり、日焼けした様子はあまり見られない。不思議だ、と思う。どこか別の場所から、最近運ばれでもしてきたのだろうか。
どこから落ちたのだろう。見ると、その本の落ちた床のすぐ目の前の棚、中ごろにぽっかりと空いた隙間がある。ここに違いない。文花はそこに黒い本を差しこんで、中途半端に伸びた背中をほぐすように胸を張ったり、肩を開いたりしながら、次の棚に取り掛かろうとして、
ご、と。
おや、と思う。首を傾げる。見ると、またあの黒い本が落ちている。確かに奥まで差しこんだ、と思ったのだけれど。次の棚に気を取られるあまり、思ったようには入っていなくて、しかも確認を忘れてしまったのだろうか。自分にはそういうところがある、と文花は思い再び黒い本を拾った。
差し込んで、今度はしっかりと。
すると、それと同時に、ご、と。
まさか黒い本が落ちたわけではない。まだ手元にしっかりと収まっているのだ。音源に視線を向けると、ついさっき見終わった棚。一番端の本が、棚列からやや外れた場所に落ちている。
棚が悪いのだろうか。疑問に思いながら、見過ごすわけにもいかず、文花はその本の下に歩み寄る。屈んで、拾って、
背後で全部が台無しになったような激しい音がして、振り向いた。
本棚の本がすべて投げ出されていた。激しく揺らされたように、あるいはそこだけ一瞬重力が横向きに働いたような、そんな惨状。けれど、ひとつ残らず投げ出されたわけではない。
ひとつだけ残っていた。
黒い本。
「大丈夫かおい!」
すぐに教室の手前にいた北見が奥までやってきた。まず文花が本を片手に突っ立っているのを確認して、ほっ、と。それから本が雪崩を起こしたような光景を見て、ぎょっ、となった。
「なんだこりゃ。杢野、なんかしたのか?」
「いえ、何も。と、思うんですが」
だよな、と頷いた北見はともあれ本棚を見た。そして、ひとつだけ残るその黒い本に興味を惹かれたのか、近寄っていく。文花もその背を追った。床に散らばる本を除けながら。
「……何も書いてねえな」
ばららら、と本をめくった北見はとん、と重たい装丁に特有の音を立てて本を閉じた。それから本を戻そうとして、一度文花の方を振り返り、「見るか?」と。文花は頷き、受け取る。片手を背表紙の置物にし
て、もう片方の手で中を開く。思ったよりも手首に負担がかかる。あまり長くは読めなさそうだ。
中には、元からの色か経年劣化でそうなったのか、ややクリーム色がかったページが――三百ページくらいだろうか、詰まっている。そして、その紙面には確かに、何も書いていない。
「炙ってみるか?」
何を言い出したのかと思った。思って、すぐに炙り出しのことを言っているのだと思い当たった。確かに、いきなり本が崩れ落ちて、残った本が白紙だらけ、となると何かそういう仕掛けを想像するのもおかしくはない。が、こんなに燃えやすいものだらけの場所で火を扱うのはごめんだった。やめておきましょう、と言おうとした瞬間に、北見は肩を竦めて「冗談だよ」と言った。それから小さく溜め息をつき、にしても、と。
「これ戻すのか? さすがにしんどいな」
「ええ、あの、でも」
「ん?」
「落ちた理由がわからないので、戻してもまた落ちてしまうかもしれません」
「……ああ」
北見は頷き、じっと本棚を見たかと思うと、手をかけ、軽く揺らした。
「傾いてんのかな。ペンかなんか持ってるか?」
「いえ、鞄に」
答えると、北見は自分のポケットを軽くたたいて、俺もだ、と。
「賽の河原はごめんだな。……つーか、棚が傾いてるとかそういうことじゃねえよな」
北見は文花の手に収まる黒い本を見て、
「俺はどう考えてもそれが曰く付きだからだと思うんだけど。杢野はどう思う?」
話を振られて、考える。浮かぶのは、最近の立て続けのアレだ。少し前までだったら、このくらいのことは多少の違和感を覚えさえすれどそれが引っかかるでもなく終わりにしてしまったかもしれないが、
「怪しい、ですよね」
「やっぱそう思うか。つっても、それでどうだって話になるわけじゃないんだけどな。中身書いてねえし。手掛かりなし。けど、それでじゃあいいですっつってわからないまんま諦めんのもムカつくしな……」
言って、北見はうろうろと本棚の前を軽く歩き始める。思考をまとめているのかもしれないし、ふとした拍子に視界の隅に手がかりが映るのを期待しているのかもしれなかった。文花は一方で、北見と同じく何が原因か手がかりもなく、しかしそれがわからないから腹が立つということもないので、何とはなしに北見が動き出すのを待ちつつ、手持無沙汰に黒い本を再び開く。
「え」
そして、驚いた。
北見が声を上げた文花を見たが、文花はそれに気付かない。視線は紙面に釘つけになっている。
そこにはこう書いてあった。
『杢野 文花』
一番初めのページの左隅。日付と天気を日記に書くような文字のサイズで、しかしそれ以外はまっさらに。次のページをめくる。
『空虚な人形』
めくる。
『ガラスの瞳』
めくる。
『終わった光が描く夜』
めくる。
何もなくなった。まっさらなページに戻っている。
「なんだ、どうした?」
北見が文花の背中側に回り込んで、頭上から覗き込むようにして聞いてくる。
「はい、今、」
言って、ページを戻す。
何も書いていない。
「今?」
「言葉が書いてあった、はずなんですけど」
見間違いだったのだろうか。何ページかめくったり、戻したりしてみるけれど、ついさっき見たはずの言葉はなくなっている。しかし「んん?」と頭上から聞こえてきた北見の声は心底不思議そうで、その声色に後押しされて、見間違いではなく、単に文字が浮かんで消えたのではないか、という奇妙な推測の方が確からしく思えてくる。
すっ、と肩越しに北見の腕が伸びてくる。文花が支えている本の頁を指先で幾枚か、素早くめくっていく。しかし結果は同じくして、何があるわけでもなく。一気に最後の装丁を残して最後の頁までめくってしまう。それからもう一枚、二枚めくると。
「お」
文字が。
『君は』
と。それだけ書かれていて、さらに戻ってもそこには何もなく、だからまた、ついさっき見たはずの、終わりの方に向けて頁をめくる。
真っ黒に塗りつぶされている。
「……ちょっと貸してくれ」
はい、と小さく頷いたのを、後ろから見た北見が本をつかみ取る。文花は振り向いて、向かい合うような形で、それから自然、ふたり隣り合うような並びになって本を覗き込む。
手品みたいだな、と思った。
あったりなかったりと。のんきだろうか。妙な感じがするかといえばそれはそうなのだが、目に見えて危険なことがないからだろうか。あまり怖いという感じはしない。
北見の指が黒い紙面をなぞる。乾いた音。不思議な黒色だな、と文花は思う。誰かが後から塗りつぶしたようにも見えるし、初めからここだけが真っ黒な頁だったようにも見える。
「めくっていいか?」
「え?」
一瞬、その問いに戸惑って、
「どうぞ」
と。言うと、北見は、カッターの替刃でも扱うように、慎重な手つきで、黒い頁を、ゆっくりとめくり、
『君は幸せになる』
飛び上がるような大音量。反射的に首を竦める。が、それ以上の衝撃もなく、思わず瞑ってしまった瞼を、ぱち、と開く。やや感じる圧迫感。北見の身体が庇うように目の前にある。文花を壁側にして、北見は背中を棚の側に向けた格好。首だけが棚の向こうへ向いている。そろそろと文花は屈んだ格好のまま、北見の陰から身体を出していく。北見は何も言わずに、棚列から出ていく。文花も後に続く。
本が散乱している。
それも、一棚も、ひとつも残さず。
すべての本が、本棚から振り落とされたように、床に転がっていた。
だとだとと、廊下に激しい負担をかけるような音。足音だ。「ちょっと、何!? 面白いこと!?」と聞こえる声は矢羽々のものだろう。これだけの音だ。外にも聞こえてしまったのだろう。
にしても。
これは一体どういうことだろう、と。
考え、隣に立つ北見を見て、
気付く。
「北見さん」
「……あ? ああ、わり。なんだ?」
「本は」
どこへ。
北見は自分の手元を見た。ついさっきまで持っていたはずの黒い本。いつの間にかなくなっている。どこかに置きでもしたのか。ふたりは先ほどの部屋奥の棚まで戻る。しかしそこにも床に散らばる本ばかり。
黒い本は、なくなっていた。
矢羽々と一居が、現校舎を騒がせる『呪いの黒い本』についての最初の号外を貼り出すのは、四日後のことになる。