7. 黄昏よりも疾く赤色
「おっ、なんだ。ふたりともカメラ係か?」
「そんな感じでーす」
伊倉担任の言葉に隣に立つ天方がにこ、と笑って答える。
体操着。
頭に巻いた緑色のハチマキ。
首筋を炙る日差し。
音の割れたたどたどしいアナウンス。
蝉の声を圧し潰してしまうような熱気とざわめき、土埃。
体育祭当日だった。
欲しいのは人手なの、と矢羽々は言った。
真の新聞部の情報収集力と行動力は偽の新聞部のそれを遥かに上回っている。しかしひとつだけどうしても足りないものがある。人手だ。人手がいる。ヒトデは手が五本もあるからすごいわ!
すなわち計画はこうである、矢羽々は言った。
事が起こるとしたら体育祭の日だろう。目立つからだ。誰だって目立ちたいに決まっている。ましてやあんな派手な予告をよこすような事件だ。絶対に体育祭の日に事を起こすに決まっている。自分だったら絶対にそうする。だから体育祭前に七不思議とベランダの赤文字の関係を仄めかす新聞を校内に貼り付けて興味を煽り、体育祭当日に決定的な写真を撮る。そして目立つ。目立って目立って目立ちまくって、いずれは世界的なメディアになり発行部数は100億部。地位・富・名声、あらゆるものを手に入れた矢羽々まゆらはしかしこう語る、『大切なのは真実を伝えることなのです』――、
とにかく何でもいいからスクープ写真を撮るのに協力してくれ、とにかく撮りまくってくれればいいから、ということだった。
よって今、文花は天方とともに使い捨てカメラ片手に体育祭中のグラウンドをうろちょろ回りながらパシャパシャ写真を撮ったり撮らなかったりしている。撮ったりしているのが天方で、撮らなかったりしているのが文花である。
写真。
一体何なのだそれは、と文花は思う。写真、一体何なのだろう。撮られるのがまず苦手だ。集団のときは周りがどんな顔で写るのかよくわからないので合わせられない。ひとりのときはそもそも自分が映る意味がわからない。そして撮るのはもっと苦手である。というか、やったことがない。やったことがないものはやり方がわからない。当然である。
パシャパシャ撮りまくりの天方は本当にすごい、と文花は思う。クラスメイトを初めとして、面識なんてないだろう生徒まで写真に収めてしまうし、みな楽しそうに笑っている。文花はとりあえず、とその背中をとてとてついて回るばかりで、
「ちーず」
「え」
ぱしゃり、と。
突然天方が振り向いて、シャッターを押した。カメラを目から外すと、にっ、と笑って、
「せっかくだからもう一枚」
と。言われたものだから、なぜか文花は自分もカメラを構えてしまって、すると天方も同じようにカメラを構えて、
「はい、ちーず」
同じ格好で、向き合ってシャッターを押した。
カメラを下ろした天方は、ふふ、と、変なの、と笑い、
「それにしても、ほんとに盛り上がってるね」
視線の先、グラウンド、競技は進行中だ。今やっているのは徒競走らしい。単純な競技なので今のところはそれほどクラス間の対立も、北見の言うところの『最悪の空気』というわけではなさそうだ。
「あ、北見くんが怒られてる」
なさそうだった。が、たった今、あからさまに空気が悪くなってきていることを実感した。
グラウンドの真ん中、スタートラインで北見が隣に立つ別の色の鉢巻きをした生徒たちに集団で詰め寄られているのが見える。北見自身はそれに動じることもなく、しかし面倒くさそうに周囲を見渡して、
「……ん、僕?」
こちらに目を止めて、ちょいちょい、と手招きをした。天方が自分を指差すと、こっくり北見は頷くので、「ちょっと行ってくるね」と天方がグラウンドの中に入っていく。
文花は見ていた。
天方が北見のところに辿り着いたところ。何事か北見が天方に伝えたところ。ええ、無理無理無理、と言わんばかりに天方が両手を胸の前で振ったところ。いいから、と言わんばかりに北見が天方の背を押したところ。
スタートラインに立った天方が、パン、とピストルの音とともに走り出したところ。
最初こそ速かった。一瞬だけ他の生徒を突き放して走った。一瞬だけだった。半分を過ぎるころには今にも「ひょえ~」という声が聞こえてきそうなばかりのへにゃへにゃした顔で、てっぽてっぽと足の動きが鈍くなっていく。二百メートル走ってゴールラインを越えた瞬間、北見に抱きかかえられている姿はマラソンを走り切った後のようで。
とりあえず、パシャ、と一枚くらい撮っておいた。
やがて北見を伴って天方が戻ってくる。
「お疲れさまです」
と声をかけると、
「…………つかれた」
と返ってくる。その肩をぽん、と北見が叩き、
「悪かったって。あいつらがケチつけてくるからさ」
「ケチ?」
文花が尋ねると、北見が、
「いやあいつら……、他のクラスのやつらが、俺ばっか走ってんのはおかしいだろって言ってきてよ。めんどくせえし、だったら別のやつに代わってやるよ、って」
「選出ミス……」
「わりいわりい」
天方は疲れ切った様子で、俯いた前髪が陰になって目元まで隠しているのが何となく不健康を感じさせる。
「大丈夫ですか? このあと一応、二人三脚ありますけど」
「…………」
無言。が、数秒置いてパッと顔を上げて、
「大丈夫でしょ、五十メートルだし」
「ですか」
「ですです」
内心ほっとする。欠場したとなれば自分だけ何の競技にも参加していないということになり、すると後になって天方のように被り選出のクラスメイトと入れ替えが起こるかもしれない。どう考えても無理だ。
「二人三脚ってもうすぐだっけ?」
「ん、まあそうだな。確か鳴坂のやつが最後から二番目の組だろ」
北見が答えると、ちょうど鳴坂がスタートラインに立つところで、こちらに気付いて手を振ってくる。三人で振り返して、パン、とスタートのピストルが鳴る。
「お、速い」
「あいつ文化系とか言って運動神経も良いんだな。そんな感じはすっけど」
鹿みたいだな、と文花は思う。
カモシカはもっふぁもっふぁしているイメージがあるのでそれほど重ならないが、細くて長い脚で軽やかに走るのを見るとあのシュッとした鹿を彷彿させる。いつもは下ろしている髪を今は後ろの高い位置で止めているのもまたよく似合う。
「あっ!」
が。
一瞬だった。
ゴール手前で、何かに突っかかったように鳴坂がバランスを崩した。がくん、と身体が揺れて、倒れてしまうかと思うような無茶な体勢になり、しかし何とか持ち前の身体感覚で立て直す。
それを見てほっとしたのも束の間のことで、
「なんだありゃ……」
北見の呟きに、視線を鳴坂から外してグランドを見渡してみると、後続。
五人、倒れ込んでいる。
幸いそれほどの速さでもなかったからか誰にも怪我はないようで、立ち上がった五人はそのまま鳴坂に続いてゴールラインを跨いでいったのだが。
奇妙な空気が漂っている。
走者一斉転倒。一体何がどうなっていたのか。見ていた誰にも、それどころか走っていた本人にもわからなかったようで、誰も判断付きかねているような、空気の淀みがある。
しばらくすると、それでも最終組がスタートラインに立たされて、その頃鳴坂も文花たちのところに戻ってくる。確かめるように自分の足を見つめながら、軽いステップを踏んで。
「おつかれー」
「お疲れ様です」
「おっ、さんきゅ」
文花と天方の労いに軽く手を挙げて答える。しかしどうしても足が気になるらしく、傍まで来ても足踏みを繰り返していて、
「お疲れ。で、なんだったんだよさっきの」
「……うーん、よくわからん。何か急にグッと足が重くなったような、軽くなったような……」
「どっちだよ」
「だからわかんないっつってんじゃん。……あ、エレベーターみたいな感じ?」
「エレベーター?」
「そう。走ってるときにふわっと、んで、ぐうっと」
「……ああ、なるほど」
なるほどできることなんだろうか。いまいち文花にはイメージがつかない。同じような状況になったら転ばない自信がない。
「次、天方と杢野さんだよね。大丈夫? 危なそうだったら棄権しちゃっていいからね?」
「え、そんなに危ないの?」
「うん、いや、そんなに危なくはないと思うんだけど、変な感じしたからさ。この間あんなこともあったし。それに、ほら、言っちゃなんだけど、ふたりとも鈍いから……」
ああ~、と天方が頷いたので、文花も合わせて頷く。が、天方はその後なぜかやけにきっぱりした声で、
「大丈夫。1×1は10にも100にもなるからね」
1×1は1だし、何なら0.1×0.1は0.01だ。思った。が、胸のうちにしまっておいた。
「あ」
と、天方に足紐を結んでもらっている間に気が付いた。髪を結んでいない。普段結ぶ習慣がないから忘れていた。
そしてもう手遅れだということにも気付く。紐を結ぶのが苦手なのだ。靴紐ですらもったもったと時間がかかるし、すぐにほどけてしまう。今天方が足紐を結んでいるのも、文花の方は自分では上手く結べる自信が、少なくとも走ってほどけないように結べる自信がなかったからで。というかそもそも結べるような紐だって持っていなくて。
体操服に垂れる毛先につ、と目線を下ろすと。
ぱち、と見上げる天方と目が合った。天方はそのままきゅっ、と足の紐を締めてしまうと、立ち上がる。距離が近くて髪が香ったのか、やけにすっきりした良い匂いがした。天方は自分の鉢巻きを外すと、後ろ髪を指でつまんで、
「……この長さじゃ結べないか。杢野さんは結ばなくて大丈夫なの?」
結べません、とは言わずに、
「はい」
と言って頷いておく。実際それほど結ぶ必要のある長さではないのだ。少なくとも自分の走る速度から考えれば支障は出ないだろう、と思う。そう?と応えた天方は鉢巻きを結び直す。見事な手際に、文花は感心してしまう。
そのとき、影が下りた。ふっとあたりが暗くなる。それだけで不意に気温が下がってきたような気がする。
天方が空を見上げた。文花は特にそれに同調するでもなく、ああ、もしかしてそろそろ位置につかされてしまうのだろうか、と微妙に震える足を持て余している。
が、気付く。
天方以外にも空を見上げている生徒がいる。そしてそれはどんどん増えている。
誰も視線を外さない。
空に何かあるのだろうか、と文花は不思議に思って、同じように見上げてみる。
が、何もなかった。
本当に、何も。
中天に昇る太陽の光を遮る何物も、そこにはなかった。
ない、はずなのに。影がある。
「――――?」
文花には、よく理解ができなかった。
太陽を遮るものがない。なのに影がある。それはたとえば、懐中電灯を向けられているのに眩しくないとか。いや、それよりも。
何か、透明な光を遮る何かが、そこにあるように思える。
「何だろうね」
と、天方が言った。
「何でしょうね」
と返した。そんな会話が、今、いたるところで行われていた。
しばらくそんな風に奇妙な空に視線は集中していたものの、いずれ皆立ち直る。天気雨みたいなものだろう――、よくわからないが。体育委員の誘導があって、文花も天方と一緒にスタートラインに向かう。その間にすでに一度躓きかけた。ふたりが立つのは第九レーン。五十メートルの直線の先にゴールテープが見える。それを見ると妙に緊張してしまって、文花は思わず溜息をついてしまうが、
「気楽にいこうね」
と、天方が気の抜けた笑顔で言うので、少し力が抜けた。
気楽に。そう言われると確かに気楽、なのではないかと思う。九組はそれほど体育祭に力を入れていない。結局あの一件以来練習なんてしなかったのだ。そのうえ自分と天方の自己申告を受けてなお期待する人なんて誰も――、
あ、と。
気付く。
練習していない。
「位置について」
無情にもコールが聞こえてくる。
それどころではなかった。練習していない。そうだ、練習していないのだ。天方と足を結んだのだってついさっきが初めてだ。どちらの足から出せばいいのだ。どんな掛け声で走ればいいのだ。いやそもそも掛け声なんて必要なのか。掛け声を出しながら走る人なんていないんじゃないのか。
「中の足からね」
「よーい」
中の足から。ということはつまり左足からだ。左足。大丈夫。右と左はわかる。今天方が立っている方が左側だ。大丈夫。ちゃんとできる。フライングはしないように。最後まで、ちゃんと聞いて、ピストルの音を、
ぱん、と。
音がしたとき、
急に、今までのことが夢だったんだと、気付いた気がした。が、違った、と思う。現実、のはずだと、そう思う。
のだが。
「あ、れ」
不思議な、感覚。
覚えがあるのだ。夢の中で、高所から足を踏み外したときのような、思わずベッドの上で、がくん、と足が跳ねてしまうような、そんな感覚に。
それが、今。
無重力みたいに、
浮いてるみたいに、
身体を包み込んでいて――、
「せーの!」
その声で、我に返る。
咄嗟に左足を出す。
ぽん、と最初の一歩。
「なーかっ、そーとっ」
左に立つ天方の声に合わせて、足を動かす。慣れてくれば、自分も掛け声を合わせて。
とてん、とてん、と。
小さな歩幅で、ゆっくりと。それでも着実に、進んでいく。
走り始めこそ、目の前に誰もいなかったのだが。
走り終わる頃には、後ろに誰もいなかった。
「いやー、ごめんね! 見事ビリでした!」
「全然悪いと思ってねえ顔しやがってコラ」
天方が良い笑顔を浮かべて戻ってくると即座に北見にヘッドロックをかけられている。文花が天方の影から顔を見せると、鳴坂が「お疲れー」とカメラを向けてきて、咄嗟にせめてものピースサインをしながら「はい」とだけ返した。
「大丈夫だった?」
と聞かれれば、文花は考え込むしかなかった。
なんだったのだろう、と思う。さっきの感覚。普通じゃなかったことだけはわかる、気がする。けれどよくよく考えてみれば、そうだたとえば風邪を引いて高熱を出したときとか、正月に徹夜明けで貧血を起こしたときとか、そういうときだって同じような感覚がしたような、気がしないでもない。
「……わかりません、熱中症でしょうか」
「え!」
何気なく口にした言葉だったのだが、鳴坂はどうもそれを大袈裟に受け取ったらしく、
「大丈夫、保健室行く? 水飲む? 熱は……、なさそうだけど。とりあえず日陰に」
ぺたぺた文花の額に手を当てたりしながらあたふたと。文花は、あの、とか、いえ、とか言いながら言葉を継ぎたそうとするも気合が足りず、しかし横合いから天方の声が。
「今はどこも日陰でしょ」
と。
確かにそのとおりだった。二人三脚を始める前に差した奇妙な元なき影。いまだにそれはグラウンドを覆い続けていて、太陽の見えるのに薄暮のような翳りが見えている。気温は、すう、と下がり、熱中症よりはむしろ汗の冷えて風邪の引くのを気をつけなければならないようなありさまだった。
「……なんかさ、ちょっとやな感じだよね」
鳴坂は言う。文花は頷いた。夕立を待つような、不安な気持ちが胸のうちにある。
何も起こらなければいいんですけど。
その一言を、口にしようとして飲み込んだ。理由は自分でもわからなかった。
「あといくつ競技残ってるんだっけ」
天方が言った。すると先ほどまでひとしきり天方をいじり倒していた北見が答える。
「そんなにないぞ。今やってる障害物が終わったら、部活対抗やって、借り物やって、そしたらもうリレーだ」
「あれ、昼休みってどこで入るんだっけ」
「ねえって。適当に時間見て中で食っていいってさ」
「あ、そうなんだ。じゃあ今のうちに食べてきちゃおうかな。みんなは?」
「俺は部活対抗出てから食う」
「あ、ごめん。わたしちょっとまゆらたちの様子見てくるわ。ふたりで行ってて」
ふたりで。
それが自分と天方を指すことにちょっと遅れて気が付いて、気が付くと、はた、と天方と目が合って、
「今日、結構仲良しだね」
何となく、頷いておいた。
その仲良しも長くは続かなかった。
食事を終えて旧校舎から出る直前、「あ、忘れ物」と天方が声を上げた。
忘れ物、どこにだろう、とついその姿を頭から足先まで見てしまった。足りないものは見つからなかった。一方で余計なものも見つからなかったが。
追求するのも野暮だろう、と思い「先行ってて」と残した天方に別れを告げ、ひとりグラウンドに戻ることにした。
しばらく待っていても天方はグラウンドにやってこなかった。いや、ひょっとすると。文花は考える。グラウンドに戻ってきてはいるのではないか。単に自分のところに来ないだけではないのか。それはそうだろう、とも思う。さっきまで一緒にいたからと言って、その先も一緒にいる理由にはならない。そう考えると『忘れ物』が単に自分と別れるための口実だったような気もしてくる。何か避けられるようなことをしただろうか。心当たりは――、
「ふーみーちゃーん、パイセン!」
「ひうっ」
脇腹の肉をつかまれた。変な声が出た。驚いて見た。矢羽々だった。
ふみちゃんパイセン。
言葉がリフレインする。ふみちゃんパイセン。
ふみちゃんパイセン。
「ど、どうも」
かろうじてそれだけ返せた。矢羽々はにこにこと機嫌良さそうに笑っていて、
「どうも! 写真はどう、撮ってくれてる?」
「あ、はい。それなりに……」
(撮っていたり撮っていなかったりします)。カッコ書きの中に実態を隠した。矢羽々はそんな文花の話法を知ってか知らずか真夏の果実のような笑みを浮かべ、
「ありがとう! 持つべきものは頼れる先輩ね!」
良心が痛む。痛んだのでぱしゃり、と文花は矢羽々に向けてシャッターを切った。カメラを向けられた矢羽々の咄嗟の横ピースはキマりすぎていてアイドル染みていた。
「今日は絶対絶対ぜーったい素晴らしい日になるわ! だって見てほらあの空! 超快晴! なのに見てこの大地! 超暗黒! これはもう驚天動地/空前絶後/夏の大感謝祭! スクープ映像が来たりて笛を吹く!」
「そうですね」
パッシャシャシャシャシャシャとシャッターを切りまくって叫ぶ矢羽々に文花は頷く。そして思う――、喋りやすいなあこの子。一方的に話を進めてくれる相手は楽だとこのとき文花は初めて気が付いた。
矢羽々の言うとおり、確かに空は晴れ渡り、地は暗く、つまりは昼食を取りに旧校舎に引っ込む前と同じ様相がグラウンドに残り続けていた。
こうも長く続けばさすがに何かしらの問題――、というか対応のための話でも教職員間で行われそうなものであるが、どうもそのような気配はない。というよりも、生徒含め、体育祭参加者みな、かえってその疑問心が時とともに萎えているようだった。もはや空を見るのも一部の暇人くらいしか残っておらず、体育祭は粛々と――時に険々と――、進行している。
「あ、いたいた」
背中からかかる声で鳴坂だと気付けた文花は、振り向いて確かにそこにいるのが鳴坂だったとき内心ちょっと得意だった。とうとうクラスメイトを声で判別できるようになってしまった。確かな達成感がそこにあった。
「今どんな感じ? 今ご飯食べてきたとこなんだけどさ」
その問いに、矢羽々が答える。
「知らないわ! さっき得点盤隠されちゃったし! 興味もないし!」
「わたしも別に勝ち負けには興味ないけど。そうじゃなくてどこまで進んだかって」
「ドライ! フルーツ!」
「あ、もうすぐリレーみたいです」
「おっ、ほんと? じゃあ一緒に応援しよっか」
はい、と答えて鳴坂と待つ。その間にも鳴坂を間に挟んで隣の矢羽々の手の内ではカメラがひとつ、ふたつ、と替えられていく。
特に走者がこちらに来るでもなく借り物競争は終わる。お題は眼鏡だのなんだのとごくごく普通のものばかりで、特に波乱があるでもなく無難に終わった。
が、リレーの始まる頃。
一年生の間はまだだいぶ大人しかったと言える。それにしても借り物のときとは比べ物にならぬほど真剣な空気だったが、それでも比較的盛り上がっただけで終わったのだ。終わったのだ、が。
二年生。
近隣から苦情が来るのではないか、と思った。そして文花は肩を縮こませた。ものすごい声援だった。熱気が違う。どこからこんなエネルギーが来るのか疑問に思った。ひょっとするとこの場十秒間に生成される熱エネルギーは自分の人生ひととおりよりも大きいかもしれないとすら思った。それが第一走者がスタートラインにつくまでのこと。
パン、とピストルが鳴ってからはもっとひどい。うっかり気が遠くなってしまいそうになる。隣の鳴坂も矢羽々も釣られてか声援を投げるものだから逃げ場もない。
が、アンカーを前にして鳴坂の声援は止んだ。というのも、アンカーがコースに立った瞬間のことだ。ぶわっ、と。コース間近の応援する生徒たちの真上、気温が三度は上がった。ほとんど悲鳴にしか聞こえないような声。
「うわ、すご……」
と、鳴坂が呟いたように聞こえた。同感だった。この声量の中でそれを言葉にして鳴坂の耳に伝えられる気がしなかったので、頷くだけに止めた。
応援の声――、かろうじて聞こえてくる言葉がある。
北見くん。
久々宮さん。
このふたつ。そして目が追う――、リレーのアンカー。そこに立っているのは緑の鉢巻きをつけた北見。それから――、
「――か、こ――てない?」
鳴坂が何事か確認するように文花に言ったけれど、よく聞こえなかった。もう一度言ってもらえませんか、と文花が口にしようとする間に、バトンがアンカーの手に渡り始め、それどころではなくなる。
きゃあ、とか、やあ、とか。そういう声が空気を弾いて。
走る、走る。
すごいなあ、と目だけで見ると、そう思える。自分と同じ生き物の動きには思えない。耳で聞こえるのまでついてくると、何が何やら。わけのわからないほど大きな声がグラウンドの主役になっていて、いつの間にやらすべての色の鉢巻きがゴールテープの先に辿り着いている。
そしてその興奮冷めやらぬままに三年生が入場してくる。さらにボルテージは上がり、もはや自分の声すら喉から出してもわからないくらいの喧騒が支配する。
隣の鳴坂の口が動いていた。
「――――った?」
聞こえない。首をかしげて耳を寄せる。すると鳴坂が口元を耳に寄せ、
「どこが勝った?」
ああ、と質問の意味は理解した。
さあ?と答えはわからず首を傾げた。
結局どこが勝ったのだろう。遠目からでは何が何やらよくわからない。そもそも九組もあっては自分たちのクラスが緑の鉢巻き、ということくらいしか確実には覚えられない。あの赤の鉢巻きはどこの何組のものだっただろうか。
首を傾げていると、鳴坂も首を傾げた。そして何やら口にして、また視線はグラウンドに戻った。
まあ、いつかわかるか。
リレーの順位くらいはみんな話題にするだろうし、たとえそうでなかったとしても、総合順位くらいはわかるだろう。昼休みを取る前の特典盤の数字からして、上位は見込めなさそうだったけれども。
どう、と巻き起こる声。
見ると、次々ゴールを切る体操着。三年生は足が速いな、と思う。少し考えている間にリレーが終わってしまった。
これで競技は終わったはずだ。なら次は閉会式だろう、と様子を窺っていると、興奮冷めやらぬ様子のグラウンドに、ノイズだらけのマイクが言う。
『これより閉会式を始めます。生徒のみなさんは整列してください』
が、その一度だけでは生徒は中々動き始めず、グラウンドの盛り上がりは続いたままで、追加でもう一声。
『生徒のみなさんは速やかに――』
そのとき、きいん、と。
ひどいハウリングが鳴って、思わず文花は耳を押さえた。見ると、鳴坂も耳を押さえている。が、そのハウリングが終わるとグラウンドも急に静かになったので、終わると同時に手を離し、
「じゃ、行こっか」
「はい」
と、鳴坂の呼びかけに頷き、鳴坂はさらに隣に立つ矢羽々の肩にも手を伸ばし、
「ほら、あんたも」
軽く触れ。
音もなく、ふっと、矢羽々の身体が崩れ落ちた。
「え――?」
一瞬、文花も思考が止まる。しかしすぐに、理解して、傍に寄ろうとして、その前に。
視界の端、グラウンドの生徒が、花枯れるように倒れ伏していくのが見えた。
力なく足から崩れ落ちるように、あるいはうずくまったまま立ち上がる気力のないように。それぞれ恰好は微妙に異なりながら、どんどんと、糸の切れた人形のように、電池の切れた機械のように次々と地に降りていく。倒れた生徒の数が立っている生徒の数に勝り始めると、急に、
「いっ――!」
耳鳴りがし始める。しかしその、きいん、という音も一瞬だけですぐに、
ぎ、ぎ、ぎ、と。
軋むような音。単なる家鳴りのようなものとは深刻さが違う。あまりに大きく不安を煽る。もしも建物の中でこの音が聞こえてしまえば、倒壊は免れまいと思わせるような、大仰な歪みの音。
何から、と思う暇もない。膝をつく。視界までも歪み始まる。気の遠くなるような心地して、眩暈をこらえながら隣を見れば、鳴坂もすでにうつ伏している。
ぎい、ぎい、と。
表皮と肉の間に湯を注がれるような感覚が悪寒を呼び覚まし、ああいっそ、意識を手放してしまいたい、と文花が瞼をきつく瞑ったところで、
――くう、くるる。
ふっと、身体が軽くなった。熱が抜ける。額と前髪のわずかな隙間を、涼風がすり抜けていった。瞼を冷まされ目を開ける。
くうるるがいた。ふわりとした白い尻尾を一振り揺らして、
「くう、るる」
状況は、よくわからなかった。
ただ、悪寒は消えた。耳鳴りもない。足に力も入る。
周りを見渡す。すでに立ち上がっている生徒もちらほらいた。あるいは初めから倒れてすらいなかったものも紛れているのかもしれない。が、多くはやはり倒れたまま、または起き上がろうとするところで、それを見て、はた、と文花が気付くことには、
「鳴坂さん、大丈夫ですか」
隣の鳴坂の安否。幸い意識を失っているわけでないらしい。頭を振りながら身体を起こす。
「だ、大丈夫っす……。杢野さんは?」
「私もなんとか」
「そっか。……おーい、まゆら、起きろー」
ゆさゆさ鳴坂が揺するのは、完全に地に伏したままの矢羽々。しかしなかなか反応はなく、
「え、ちょっと」
と、不安げに鳴坂はその顔を覗き込む。
「……寝てるだけかい」
はあ、と安心したように鳴坂が息をついたので、文花もほっと胸を撫で下ろす。するとくうるるも『よかったね』と言わんばかりの仕草で前足を上げ、そのままもう片方の足も上げたので、何を考えるでもなく文花はその脇に手を差しこんで抱き上げた。毛の柔らかい感触。ちょっと揉んだ。心も落ち着いてきて、それでやっと、
「何があったんでしょうね」
と口にすることができて、くうるるは「きゅう」と鳴くやら、鳴坂は「さあ」と肩の力を抜くやら。
そのとき、また。
べしゃ、と。
異音がした。びくり、と肩が跳ねたのを臆病と呼ぶこともない。この場では今、ほとんど誰もが同じように振る舞った。またぞろおかしなことでも起こるかと、生徒たちは音の出所を探す。
べしゃ、という音は。
水気を含んでいた。が、かなり濁った音をしていた。何の音だろう。一瞬文花の頭を過ったのはつい先日の、水槽と化した旧校舎のことで、しかしあの水の音はまだもう少し澄んでいたはずだ、と思い直し、考えを改め、そして視線を巡らせるより先に、
「ちょ、ちょっとあれ……」
体操着の裾を引かれる。鳴坂だ。顔を向けても、しかし鳴坂はこちらを見ないまま、釘付けになったような視線の先へと、もう片方の空いた手で指差す。
文花はそれに応え、指し示す方を見た。元はもっと白かったのだろう、くすんだ色の現校舎。その上部。
三階、何もない。
四階、何もない。
屋上。
どろり、と。
溢れ出している。それは粘性を持ち、防護柵の底をすり抜けて縁からぬらり、壁を伝い、重力のままに、遅々と流れ落ちてくる。
並々ならぬ量だ。屋上すべての縁から、つう、と。しかし途切れる気配なく、次から次へ、取り返しのつかないように這い出てくる。
真っ赤な液体。
思わず文花は、血液を連想した。