6. 大きくボケろってことだよ
体育祭の練習というものの意味が文花にはよくわからない。
祭りの練習。何か宗教的なテーマを含む行いなのだろうか、わからない。ここに言う体育祭の祭とは一体どういった意味を伴っているのか、わからない。体育祭の目的は一致団結で交流を深めることだろう。これだけはわかる。
で、実際に交流を深められているかと言えば、
「いやー、やる気しないねー」
「暑いですからね」
「ねー」
大体もう1時間くらい前から、天方としか会話をしていない。
冷静に考えてほしいのだが、たった数週間前に決まったクラスで団結も絆もあるはずがない。無人島で暮らしていたならそれなりのドラマもあるのかもしれないが、それぞれ帰る家があるのだし。
そして団結も絆もない体育祭がどうなるかというのは目に見えていて、消化試合である。
が、学校側はそれを良しとしなかった。解決法として何が何でもクラス内に絆を発生しようと試みたのである。そして結果として、ものすごい量の体育祭の練習が時間割に組み込まれることになった。職員室でどのようなプロセスを経て意思決定がなされているのか興味が湧いてくる。文花にとって唯一の救いは冬季の体育が振替で少なくなるだろうことだったが、一方一部の生徒にとってはそれもマイナスに働いている。
午前中は本当につらかった。行進、行列、教師の怒号、失われていく生徒のやる気、棒になる足、高く上りゆくにつれ太陽の熱線は集中し、空気中に残る残暑の湿気が胸を詰め、蝉たちの今シーズン最後の求愛活動は恐るべき激しさで脳の内側まで浸透し、いずれすべての生徒が鳥か魚か昆虫か、何にしろ自分のことを何かしら群体で隊列を組んで生きる生物であるとすっかり心の底から信じるようになるまで続いた。
午後からは個別の練習が始まったのだが、その前に、種目決めがなあなあでおわったことについても触れておかねばなるまい。
足の速い順、それすらよくわかっていなかった。適当に計ってうろ覚えになった春先の体力テスト50m走の結果を元に雑に人員が割り振られていく。旧校舎組は現校舎組に比べてクラス人数が少ないので輪をかけて適当に配置は決まり、ものすごい勢いで北見の名前が黒板に書き連ねられていく光景を文花は見ていた。前の学校ではサッカー部の主力だったらしい。一方で自己申告した運動音痴は障害物競争やら何やら、とにかく素の運動能力が関わらないような種目に申し訳程度に書き込まれていく。
そして文花は気付いた。まだほとんどの種目が決まってしまったとき、黒板を見ると自分の名前がないことに。気配を消していたのが災いした。運動神経の鈍い人がどんどんと余った場所に入れられていくなか、まだ自分だけが割り振られていない。いやしかし、と期待を込めた。ひょっとするとこのまま忘れられて何も出ずに応援だけで済むのではないか。そうはいかない。まだ出場者の決まっていない種目が残っている。
二人三脚。
いきなり骨折したりしないかな、と文花は思った。けれど望み儚く、教壇の体育委員ふたりは文花の名前がまだ黒板に書かれていないことに気付きつつあり、ああこれはもはや逃れられないと諦めの気持ちが湧いたとき、
はい、と。
左隣で手が挙がった。
そして現在、午後に入ってからほぼずっと、ペアの天方と日陰で休んでいる。
色々と問題はあった。これは男女ペアでいいのか、とか。それならどうせ出場者の被りがありなんだし別の男子なり女子なりと場所を交代した方がいいのではないか、とか。そういう議論を全部まとめて文花の50m走12秒と天方のシャトルラン15回の記録が数字の暴力でなぎ倒した。まとめられる傷はまとめておいた方がいい、ということだ。
「いやあ、みんな頑張ってるねえ」
「頑張ってますね」
ひぐらしが鳴いている。
単なるサボりではない、と文花は心の中で言い訳する。
校庭を見ればわかる。明らかにスペースが足りていないのだ。ひしめき合っている、と言っていい。そもそもが無理があるのだ。学年ひとつ分、9組全部をひとつのグラウンドに押し込めて練習させるのが。普段の体育の授業だって3クラス合同だ。収容人数を大幅にオーバーしている。実際日陰には自分と天方以外にも多くの生徒が手持無沙汰で突っ立っているし、ほら今だってグラウンドでは走っていたふたりが接触を――、
「あっ」
「あら」
遠目に倒れたのが誰かはよく見えなかった。が、隣の天方にはわかったようで、
「あれうちのクラスだね」
目を凝らして見てみる。確かにうっすらと見えるのは、北見の姿のような……、いやそれよりも。
「揉めてますか?」
「っぽいね」
倒れた生徒を助け起こしているのが北見だろう。一方向こう側、ぶつかったもう一方は倒れるわけでもなかったが、何やら9組の方に言い立てて、それに周りが反論して、なんだなんだ、と周囲から人も集まってきて、挙句の果てにはジャージに笛を下げた体育教師まで、
「おお、大事……、あ、戻ってくる」
北見が倒れた生徒に肩を貸しながら日陰の方に戻ってくる。倒れた生徒は片足を浮かせながらもぴょんぴょん跳ねてそれなりに元気そうな様子には見えるが、その後ろ、それ以外の9組の生徒たちも全員戻ってきている。
「大丈夫? どしたの?」
「天方」
声をかけられた北見は言う。
「今日のうちの練習はこれで終わりだ。放課後練習もなし。いいか?」
「え、うん。別にいいけど」
「詳しいことは後で話す。悪いな」
言って、立ち去ろうとする北見に、しかし天方が「手伝うよ」と倒れた生徒の空いてるもう片側に立つ。倒れた生徒は「おっ、サンキュー」と言いながら天方の肩に腕を回し――、というかヘッドロックの体勢で、さっきまで使っていた片足まで完全に浮かして体重をかける。「ぎょええ」と妙な声を出す天方に、生徒は笑い、「頼んだぞ」と。
仲良さそうだなあ、と。
文花はその背を見送っていた。
「現校舎組の空気がめちゃくちゃ悪い」
放課後。定時の通学バスは体育祭準備期間ということで遅い時間に2本出る。だから文花も帰ることができず、教室に留まっていた。周囲の生徒も帰ったのは自転車・徒歩通学の生徒だけで、文花と同様の理由で、半数くらいが教室に残っている。
天方の前の席の生徒はまだ残っている。だから今北見が座って喋っているのは、文花の前の席だった。
「それは……排ガスとかで?」
「そういう小ボケはいらねえ」
天方の言葉が切って落とされた。しかし右から鳴坂の援護射撃。
「大きくボケろってことだよ」
「それは……温室効果ガスとかで?」
「別にそこまで言ってること変わんねえじゃねえか」
お前は黙ってろ、と北見が鳴坂に。視線がぶつかり、ばちりと見えない火花。しかし北見がすぐに視線を逸らし、天方に向かって、
「今日の練習でもお前らボロ屋組は隅に寄ってろとかわけわからん因縁つけてきたしな」
「わけわからん因縁の達人が何か言ってますぜお嬢」
「……悪かった」
丸聞こえの耳打ちを鳴坂から受けて文花は表情に困る。微妙な顔で笑うのは天方。
「ボロ屋ってのはそんなに間違いじゃないけどね。そっか、それで今日はやめにしたんだ」
「触らぬ神にってやつだな。別にうちのクラスは勝ち負けにこだわってるわけでもないし、他のとこと小競り合い起こして空気悪くするのも嫌だし」
「空気悪くする達人が何か言ってますぜ」
「……おい」
職員室の意思決定がどのように行われているかはわからないが、この9組の意思決定プロセスは何となく文花も察している。なあなあだ。なんとなくこの旧校舎に押し込められた生徒同士、共感し合うような空気がある。なんとなく誰かが提案して、なんとなくまあいっかという感じになって、なんとなくそういう風に進む。今回は北見含むリレーメンバーが何となく発案して、何となくそれが採択されたのではないかと想像した。
「ちなみに、なんでそんなに現校舎組はそんなにピリピリしてるの? 僕旧校舎組以外に顔見知りいないからよくわかってないんだけどさ」
天方の問いに、んん、と北見は言葉を選び、
「なんつったらいいかな。ポジション争いしてんだよ」
「ポジション?」
「北見じゃん」
「……まあそういうことだな」
どういうことだろう。
鳴坂と北見は通じ合っている様子で、しかし文花にはわからないので天方に視線を送ってみる。目が合う。にへ、と笑った天方が小さく手を振る。つられて文花も振り返す。
「……何してんのふたりとも」
なんだろう。
首を傾げて鳴坂を見てみる。すると、
「つまりさ、」
と解説。
「前の学校って小さかったからさ、ある程度自分のポジションって固定されてたわけでしょ? 頭いいとか運動できるとか、絵が上手いとか美人とか。でもそれがこの学校に統合されたから、ポジション被る人がでてきちゃったわけ。で、自分の方が自分の方が、ってやってギスギスしてるわけよ。北見が杢野さんに『俺の方が頭いいんじゃい!』みたいなプライドで突っかかってきたのと同じだね」
「……まあ、そういうことだな」
「お、認める?」
「……そんなとこだ」
そういうこともあるんだな、と思った。完全に他人事の心境で。
「へー、大変だね。僕はよくわかんないけどさ」
天方も同じくそんなにピンと来ている様子ではない。
「天方は転校生だし、帰宅部だからな。部活の方は本当にひどいぞ」
「あ、それわかる」
北見の言葉に同意するのは鳴坂。
「わたし前の学校だと部活5つくらい入ってたんだけどさ」
「どういうことだよ」
「手芸・調理・演劇・新聞・あと一応美術? うち、文化部の数は多くてさ、大体みんな何かしら兼部だったわけ。ていうか文化部は全部合わせて文化部みたいな? なのにこっち来たらそんな空気でもないしさー」
へえ、と思う。文化部がそんなにあるというのはイメージがつかなかった。文花のいた中学で文化部と言ったら吹奏楽部と美術部しかなかった。
「特に空気ひどかったのは演劇部かな。えーっと、何だったかな、名前。珍しい苗字で、確か……」
うーん、と唸った鳴坂が指を額に当てて、
「久々宮?」
えっ、と声を出さなかったのは普段からあまり声を出していなかったからなのでファインプレーに数えていいのか微妙なラインだった。
「すっごい美人だったんだけど、性格もすっごくてさー。ポンポンものすごいキツイこと言うからもう針の筵? 結構小道具作るの好きだったんだけど、あの空気はちょっと無理だったわ」
「サッカー部も嫌な空気になってるしな……。いっそやめちまおうかと思うくらいだ」
「大変だねー」
「大変ですね」
「わたしももうどこの部活にも出てないしどうでもいいっちゃいいんだけどね。大変なのは北見だけー」
「お前らな……。関係なくはないんだぞ。体育祭だってうちのクラスはともかくとして、他のクラスはひどいだろうし。間違いなく最悪の空気で始まるぞ」
「わたし徒競走一本出て終わりだから関係ないし。てかリレーメンバーくらいでしょ圧かかるの」
「僕も杢野さんと二人三脚出て終わりだからー」
一応天方の言葉に合わせて、文花もぺこりと頭を下げておく。
「ていうか天方はリレー出ろよ。あんだけ泳げるなら走るのもいけるだろ」
「僕、水の中で輝くタイプだから」
「……いるんだよな、そのタイプ」
もう一度、北見が溜息をついた。
次の日。
教室に入るとすでに天方が席に座っていて、その横に北見が立っていて、何やら話し込んでいる。邪魔するのも悪いかな、と、そそそ、と無言で自分の机に近付いたが、途中で気付かれてふたりとも文花の方を見た。
「おはよー杢野さん」
「よう」
「あ、おはようございます……」
このまま『何の話をしていたんですか?』と繋げれば会話の輪に入れるかもしれない。思い、そしてそっと胸にしまいこんだ。そして楚々と鞄の中から一限目の国語の用意を取り出して机の上に広げていく。今日は体育祭の練習は3限目からだ。座学が2時間分あるだけでも随分楽になる。昨日の全体練習だけですっかり筋肉痛になっているのだから。しかし、
「杢野さんはもう聞いた?」
と天方に聞かれて動揺する。
「時間割変更ですか?」
「いや、ちがくて」
「いや時間割変更もあるぞ。今日は5、6限の授業だ。社会と数学だな」
「えっ」
「えっ、あ、そう? まあそっちは別に全部教科書置いてるしいいや」
持ってきていない。やってしまった。どうしよう。鞄の中を覗き込んでも入っているのは国語と理科。見つめていても魔法がかかって変身したりしない。
「杢野さんも持ってきてないなら一緒に見ようよ」
「ありがとうございます」
わあい。
「で、そっちじゃなくて。現校舎の話、聞いた?」
「……倒壊したんですか?」
「それはそれで面白いけど、ちがくて」
一瞬ちら、と天方は北見と目くばせをして、
「荒らされてたんだって」
そしてすぐに、伊倉担任が1限の自習を伝えに来る。
やや遅れてきた鳴坂がそれを聞いて、「面白いじゃん、見に行こうよ!」と言い、それに北見が「行くか」と同調し旧校舎を出て行き、釣られて他のクラスメイトたちも現校舎の惨状を見に出て行ってしまい、ふたりきりになった教室で天方が「何か寂しいね」と隣で微笑んだときはまあこれはこれで良いものかもしれないと思ったものだが、それはそれとして確かに寂しいので結局文花も天方と遅れて旧校舎を出た。昇降口で伊倉担任に「なんだよお前らなー。自習してろって言ったろー」とまるで気の入っていない小言をもらってすれ違い現校舎に入ると、もうそれだけでどのあたりで騒ぎになっているのかわかった。文花も特に迷うことなく、
「杢野さん、階段こっちじゃない?」
――迷うことなく目的の場所に着くことができた。2階。階段裏、特別棟への連絡通路。すでに人は集っている。が、その集まり方はちょっと半端なものではない。隙間なく、とは言わないが、文花はちょっとこの中に割って入ってまで目的のものを見ようという気は起きない。そもそも通路いっぱいに人が広がっていて、一体どこがどうなっていて人が集まっているのかすらわからない。
隣で天方が背伸びして中心の様子を窺うが、
「うーん、みんなどこにいるんだろ」
きょろきょろあたりを見回してみるがそれでもクラスメイトすら見つからないらしい。
「これじゃ何がなんだかわかんないね」
「ですね」
「お困りのようね!」
と、そのときいきなり背後から声がした。ひゃっ、という声をギリギリで我慢して振り返る。さりげなく天方の背中に隠れる。
振り向いた先にいたのは、これでもかというくらい髪艶のある女子生徒だった。好奇心の強そうな大きな瞳をしている。
「この校舎に起きた不思議の気配を探りに来たのねそこの……ダブル美少女!」
「僕は美少年だけど」
「あら失礼。……自分で言う?」
「あっ、間違えた今のなし」
「了解しました」
自分で言うんだ……、という目で文花が天方を見ていると、一瞬ちょっと振り返って恥ずかしそうにはにかむ。なるほど。これなら美少年を自称したくなるのもわかる、と内心文花は思った。
「で、君は誰?」
「二人称が『君』の美少年!? 都市伝説!?」
「……実在なんだけど」
「あら、これまた失礼。あたしの名前は新聞部員。新聞、が苗字で、部員、が名前。素敵でしょ」
「嘘でしょ」
「嘘よ。けれどそれでも確かな真実。あたしはこの事件の真相を知ってるの!」
話している途中でテンションが上がってきたのか両手を広げる新聞部員。さすがに周囲からは注目が集まり、文花は居心地が悪くなる。
「そうなぜならあたしは……、真の新聞部員だから!」
「わーすごーい」
「応援ありがとう!」
ぱちぱち、と拍手する天方につられて数人が拍手する。それに大袈裟に礼をする新聞部員の姿はどちらかというと新聞部員よりかは大道芸人に見えた。
「で、この事件の真相っていうのは?」
「そうともあなたの予想通り! この恐怖の予告状の言うのはもちろんこの雨ヶ弥中学の七不思議!」
予告状?と文花は天方と一緒に首を傾げる。そして七不思議、という不穏極まりない単語も聞こえてきた。
しかしそんな疑問にも構わず新聞部員は、
「なぜこの予告状はこの場所に!? 雨ヶ弥中学の七不思議とは!? 真相が知りたい方はそう!」
周囲によく通る声で、
「来週の、『雨ヶ弥中学新聞 体育祭前緊急発行号』をお楽しみに!」
言った。
沈黙。
小さく誰かが言う。
「宣伝かよ……」
その瞬間に新聞部員の瞳がうるむのが見え、両手を広げたままの新聞部員の横を幾人かが教室へと引き換えしていき、また残りはまた何があったやらと連絡通路の奥へと目を向け、
文花と天方は。
「わー、楽しみだなー」
「楽しみですね」
「いい人!」
いたたまれずにそう口にすると、新聞部員は感激の様子で涙を拭い、
「あなたたち、きっとお兄さんとお姉さんに向いてるわ!」
どういう向き不向きなんだろう。
ちょっと変わった子だなあと思いながら天方を挟んで文花はその新聞部員を見ている。
「そのお兄さんお姉さんぶりを見込んで今日の運勢を占ってあげる! 放課後、特別棟3階の一番奥の部屋がラッキータイムでラッキープレイスでラッキーチャンスよ! 絶対来てね! 来てくれなかったら泣くから!」
まくしたてた新聞部員がだだっと駆け去り、立ち止まり、一瞬振り向いてこちらにぶんぶん手を振って、また駆けていくのを文花は見ていた。
なるほど。世の中にはこういう約束の仕方があるんだなあ、とそう学習して、
「変わった人だったね」
天方の感想を聞いて、綺麗さっぱりそのやり方は忘れることにした。
「あー、やっぱまゆらか」
「えっ、女子力先輩!?」
放課後。
旅は道連れ世は情けというもので、鳴坂と北見を伴ってふたりが特別棟3階一番奥の、何もプレートのかかっていない部屋に入ると、まず鳴坂が反応した。
「なんでここに!? 運命!?」
「違うわ。この子らの友達なの」
「ますます運命だわ! みんな、ケーキ食べる!? ないけど!!」
「なんだこいつ……」
北見がヒキ気味で呟くと、確かになんだろうこの人はという気分にもなってくる。今のところ接触時は常時ハイテンション、特に鳴坂の姿を見てからはくるくるその場で回り始めている。
「気にするな」
という声は床から聞こえた。驚いて視線を下げて巡らすと、ジャージ姿の男子生徒が、うつぶせになって床に寝転がり、頬杖をつきながら茶色く日焼けした本を読んでいる。くっきりした一重瞼と薄墨を引いたような眉が印象的だった。
「そいつは頭がおかしいんだ」
「そうよ! そこの人も頭おかしいのよ!」
「自爆やめろ」
説明を求めるように北見が鳴坂を見ると、鳴坂は今にも長い溜息が漏れ出てきそうな曖昧な笑顔を浮かべて、
「こいつら、西中のときの後輩で……」
と語り出す。曰く、こういうことだった。
女子生徒の方は矢羽々まゆら、男子生徒の方は一居正景といい、どちらも西中文化部の1学年下の後輩である。が、見てのとおり頓狂なふたり組であり、天方の話を聞いてすぐにピンと来た。来てしまった、と。
「愛ね!」
「違うわ。で、あんたらは何やってんの」
「それはもう! 聞くも涙! 語るも涙!」
「手短にね」
矢羽々がおよよ、と良い笑顔で目元の架空の涙を掬い取る。曰く、こういうことだった。
「学校統合によって始まった部活超融合時代! あたしは従ったわ! だって争いなんて悲しいことだもの! たとえあたしが神として崇められるような気持ちの良い部活じゃなくても、新聞を作って大衆に真実を伝えられるなら、そして結果としてあたしがメチャメチャちやほやされるなら! 涙を飲んでがんばりましゅ! そういう気持ちでちゃんと天界の長から一介の新聞部員へと下ったの! しかしそこで待っていたのは新聞性の違い……! ジャーナリズムの相克……!」
「怪文書載せようとして揉めて離反した。今は自称、真の新聞部だ」
「よくわかった」
気分の良さそうな一人芝居は一居の声で幕を下ろされる。鳴坂は頷き、
「わたしは帰る」
「なんでよ!! 冷たい!! 泣き喚くわよ!?」
「どうぞご自由に」
「びえぇーーーん!!!! うえーーーーーん!!!」
地面にサッと横たわり、矢羽々は手足をじたばたと床に叩きつけ始める。鳴坂はそれを指差し、無表情で文花にアイコンタクトを試みた。文花はその視線に込められた意味を読み取る。『これ見て、これ』。読み取って、鳴坂と矢羽々の間で視線を行ったり来たりさせて、「うん……」とだけ呟いて頷いておいた。その横で北見は天方の肩を叩き、「俺、部活あるから行くわ」と。天方は頷き、ふらふらと一居の傍まで寄って行き、それから同じ姿勢でその隣に横たわる。一居は言う、「ウェルカム」。
場とはここまで混乱するものなのだなあ、と他人事の心境で文花は思った。
窓の外から見える空はまだ青い。まだまだ昼は長いのだな、と思い、いつまで夏は続くのだろうと考える。ふと心に浮かぶのは、最近少なくなってきた蝉の声だ。
「これ何読んでるの?」
「この学校の郷土研究史」
「うぇええーーーーーん!!!!」
天方と一居が隅の方で話を進めているのが、泣き声の裏でひっそり聞こえた。
「へえ、そんなのあるの?」
「これは50周年のときに作られた公式のやつだから、大したことは書いてない。沿革とか、偉いおっさんの昔話とかそのくらい」
「ということは、大したことが書いてあるやつも?」
「ある。これ」
視界の端で、一居がごろり、と転がって、少し遠くの床に置いてあった冊子を手に取るのが見えて、
「雨ヶ弥中学、七不思議研究録」
ぴたり、と矢羽々の泣き声が止まる。鳴坂もその言葉が聞こえたようで、矢羽々から視線を外して一居の方を見ている。天方は先を促し、
「七不思議……、って昼間も聞いたけど。そんなのあるの、この学校?」
「はっきり言うと、あるのかないのかわからない」
「ふうん?」
「これを読むとわかるんだけど、」
一居はぱらぱらと冊子をめくって、
「当時の生徒が、七不思議ってあるのかな、って調べたのがそのまま載ってる。書いてる本人たちも本当かどうかわかってないようなのがいっぱい載ってるし、中には明らかに悪ふざけみたいなのもある。しょうもないのまで全部合わせたら百不思議は超える」
「百不思議……。てことは、どれが本当の七不思議かってことは……、あ、いや。そもそも七不思議があるのかも、」
「あるわ」
きっぱりと、矢羽々が言った。立ち上がり、確固たる足取りで部屋の隅に歩いて行って、寝そべる一居の背中に腰を下ろした。
「重い」
「ちゃんと中身が詰まってるからよ」
それからひょい、と背後から一居の持つ冊子を抜き取って、
「七不思議は、あるわ」
と。鳴坂が聞く。
「なんかすっごい自信あるじゃん。何か根拠あるの?」
「ひなちゃん先輩は、あの予告状は見た?」
「よこ……? ああ、あの落書きのこと? 見た見た。朝、かなり近くで見たよ」
ああ、そう言えば、と。
文花は思い出す。その予告状とやら、荒らされていただとか、人だかりの理由だとか、そういうものを見に行ったはずだったのに、結局見ないままに放課後を迎えてしまった。
「何が書いてあったんですか?」
「いや別に、そんなに大々的なやつじゃないんだよ。たださ、あのベランダ、わかる? 連絡通路のさ」
言われて記憶を探ってみる。ベランダ……。ああ、確かにあった。2階の連絡通路、内に突き出た形のベランダがある。特別棟4階の音楽室から、立ち位置によっては見ることができる。プランターと、それからグリーンカーテンのようなものが置いてある。
頷くと、
「あそこのプランターとかテーブルとかがどかされててさ。こう、端っこに。それで真ん中が開いててそこに真っ赤な……、ペンキかな?で文字が書かれてたの。確か、えーっと……」
「『始まりは、赤い華』」
言った矢羽々を、ふたりで見た。矢羽々は手に持った冊子を見せつけるように掲げ、
「ここに書いてある言葉よ」
と。矢羽々はぐるぐると部屋を回り始める。
「確かに正景の言うとおり、この七不思議研究録は不完全だわ。当時の作成者の好奇心をそのまま書き綴っただけで、客観的な視点なんかひとつもない。研究としては落第もいいところね。だけど、」
ぴん、とその表紙を指で弾き、
「『始まりは、赤い華』。この冊子に載っている、なんてことない走り書き。それが今回のあの予告状の言葉そのままになってる。これは確かなこと。七不思議は、あるわ」
しかし、その言葉に鳴坂は反論する。
「……そう? 別に、その本読んだ人がそれをそのまま書いた、とか考えられるんじゃない?」
「そうね、もちろん。考えるだけならね」
さて、ここで。
正直に言ってしまえば、文花はほとんど話についていけていなかった。
まず前提として、話題になっている予告状とやらを文花は目にしていない。ましてやその現場だって、自分の使う旧校舎ではなく現校舎でのことなのだ。だから、他の生徒たちが騒いでいたのだって、完全に他人事に思える。自分の知らないところで、自分に関係ないことが起こっている、そういう状況には慣れているし、それに過剰な興味を抱くこともない。
七不思議、なんて言葉もうさんくさいことこの上ない。そりゃあ、古い学校だ。あってもおかしくないだろう。だろうが、それが真実かどうかとは話は別だ。思い出すのは小学生の頃、上級生がこっくりさんで遊んでいるところを教頭に見つかって散々絞られていた場面で――、
が、思い出すのがつい先日のことだと、話が違ってくる。
天に逆巻く水の粒子を。
あるのではないかな、と。うっすらと。あってもおかしくないんじゃないかな、と。そのくらいは。
思ってしまうくらいには。
やっぱりそれは、ちょっと他人事染みているのだけれど。
「でもそれに何の意味があるの? 七不思議録、なんて正景がいなかったら一生わからなかったような引用に、一体何の意味が?」
「そりゃ単純に、愉快犯とか、」
「ないわ」
きっぱりと、矢羽々は。
「だってあの赤文字、血が混じってるんだもの」
「――え」
「ルミノール反応試薬」
言葉を引き継いだのは一居で、ひょい、と部屋の棚を指差して、
「小学校の自由研究で使ったやつだけど、未だに現役だ。ちょっと噴いてやったら青くなったってさ」
まゆらが、と付け加えて、べた、と腕は床に落ちる。鳴坂は震える声で言う。
「あ、あんたらそれ、先生には……」
「言ってないわ」
「言ってないな」
「なんでよ!」
「そりゃあ、もちろん」
矢羽々はにっこり笑って胸を張り、
「目立つためよ」