4. 小学生か
「んだよ。根暗のガリ勉か」
一度も話したことのないクラスメイトからいきなりそんな言葉を叩きつけられたときには文花も多少なりとも面を食らったが、
「小学生か!!」
と叫んだ鳴坂が横から割って入ってその男子の頭を社会の資料集でひっぱたいたのを見た衝撃の方が大きかった。ばっこん、と響いた音は思いのほか大きく、教室内の視線が一気に集まる。咄嗟に鳴坂の背中に隠れようとした自分を律することができたのはひとえに、何やらわからないが自分が当事者らしいぞ、という責任感にも似た意識のおかげだった。
「……ってーな! 何すんだこのゴリラ!」
「なっ……!」
もう一発、振りかぶられた資料集が下ろされることはなかった。鳴坂は原始的暴力ではなく文明的暴力を選んだ。すなわち対話である。
「そっちこそ何!? いきなりさあ!」
「事実を言っただけだろーが」
根暗でガリ勉。文花は考える。根暗。疑いようもない。ガリ勉。これはそうでもない。が、傍から見ればそう見えることもあるかもしれない。
一方でゴリラ。これは明らかに間違いだとわかる。鳴坂の容姿はやや背こそ高いものの、肩甲骨のあたりまで伸ばした髪が毛先の方に向かうにつれてゆるくカールしていて、それが自然に似合っている。可愛いと言って首を傾げる人も、またゴリラに喩えるような人もまずいないだろう、と文花は思う。
しかしひょっとするとこれは容姿の話じゃないんじゃないか? 文花はさらに考えを深めていく。ゴリラはあの屈強な容姿から想像もつかないほど繊細な性格をしているという話をどこかで目にしたことがある。あれはどこだっただろうか。思い出せない。しかしこの男子がそうしたゴリラの一面を捉えて言葉を引いた可能性もあるのではないだろうか。実際のところ鳴坂は繊細な人物らしく、現に今も口論をしながら瞳に涙を浮かべている。
瞳に。
涙を。
浮かべている。
「わっ」
びっくりして声を上げてしまった。視線が集中する。口論が止まった。鳴坂と相手の男子の顔を見る。状況はどうも鳴坂の方が劣勢らしかった。結果オーライだ。止めて正解だったと思う。
が、ここから先どうすればいいかわからない。
自分の手でこういう場を収めた経験がまったくない。記憶を紐解いてみても、口論というのはどちらか強い方が一方的に相手を痛めつけてすっきりして終わるか、それかまったく周りから干渉されないか、どちらかだった。知識もない。経験もない。想像力でどうするしかないのだろうが、そもそも想像力というのはある程度周辺の類似状況についての知識を複合・発展させていく能力のことで――、
「ちょっと待って先生! この数字よく見ると8に見えない!?」
そのとき、廊下から大きな声が聞こえてきた。
「いやよく見なけりゃ6だろ……」
「よく見て!!」
「ていうかよく見るとって天方お前、もうそれ6じゃないって認めてるようなもんだぞ……」
「じゃあここ!」
「どれ」
「この三角形の絵が上手い! 加点!」
「お前なあ……」
がらり、と戸は開かなかった。突っかかっている。がっ、がたっ、ぞばーっと扉がスライドする。
呆れた顔の伊倉担任と、その隣で薄っぺらいプリント片手に必死の天方。伊倉の方がだいぶ背が高く、見ようによっては犬のじゃれているようにも見えなくもない。
「2点上がっても焼け石に水だろ。勉強しろ勉強」
「2点でいいから! 赤じゃなければいいから!」
「……一応言っとくと、この学校は赤点で補習とかそういう制度はない」
「えっ」
天方の勢いが急に失せ、
「じゃあいいや。長いことごめんね先生」
「お前な……」
なーんだ、とプリントを宙にひらめかせて振り向いた天方の表情は、嬉しそうを通り越して幸せそうなくらいの笑顔で、
「あれ」
それは凍っていた教室の空気を認識した途端にびたりとなくなってしまったけれど、
「もしかして僕空気読めてない?」
色々なものを破壊したのは確かだった。
「大変だったね」
「ほんとだよもー」
話を聞き終えた天方の反応はごく素朴で、話して気が楽になったのか、鳴坂も随分落ち着いていた。
放課後。
9月中旬。未だ昼は長い。が、雲行きは怪しく空は濃い灰色になっていて、強い雨の兆しを見せている。校舎内も木造だからかじっとりと机に水分が滲み出るくらいの湿気で、天方の首筋に浮いた透明な汗が、つ、と流れるのを文花は見た。
人間関係は上々と言ってもいいのではないだろうか、と文花は自ら思う。あの不思議な生き物を見つけたのをきっかけに、鳴坂とも話すことができるようになった。というより、下手をすれば友人と言い張っても何とか通せるかもしれないとすら思う。移動教室のときまで並んで歩くことのできる相手だ。並大抵ではない。給食の時間すら会話がある。
だからこうして、たまにある親が仕事の帰りに車で学校まで拾いに来るような場合でも、放課後クラスメイトと会話して時間を潰す、という選択ができるようになった。感動的ですらある、と思う。
「なんなのあいつ。いきなり絡んできてさ、気持ち悪い」
「北見くんがねー。何かクールっぽい感じはしてたけど」
「いやガキでしょ。ああいうのをカッコイイって思ってるんだって」
北見才馬、というらしい。文花は覚えていなかった。席は遠い。窓際前の方の席に座っている。どうも聞いている限りでは鳴坂とは違う中学から来たらしい。
「もうせっかくテストの出来良くて喜んでたのにさ、一気に最悪だよ」
「すみません」
「あっ、や、全然杢野さん悪くないから。悪いのはあっちだって」
しかし。
考える。一体なぜいきなりその北見から声をかけられたのだろう、と。何の関わりもないのだ。教室内の人間関係は左隣と右隣で完全に完結している。他との交流は今のところない。考えられるとしたら前の学校のことだけれど……、あまりそういう気はしない。
悪目立ちする性質ではない、と思う。だから北見が接触してきた理由に皆目見当がつかなかった。自分ひとりならまあどうでもいい部類に入る出来事なのだが、とばっちりが出るようでは放っておくのもあまりよろしくない。むむむ、と頭を悩ませていると、
「不思議だよね北見くんも。ふたりとも可愛いのに」
さらっと言った。
天方が。
言われた。
ふたりとも。
「お、おう。も、杢野さんはね」
「……はあ。確かに鳴坂さんは、そうですね」
「うん。あっ、ところで実テどうだった? 僕もう全然ダメでさー。補習なくて助かったよ」
全然関係ない話が始まった。
が、それもいいかもしれない、と思う。嫌なことや面倒なことについて考え続けていても、大抵の場合は気が滅入るだけなのだ。それよりかはすぐに忘れて全然別のことについて考えていた方が色々とはかどる。
「何か意外だよね。天方くんって結構何でもできそうな空気漂わせてるのに」
「おっ、ほんと? じゃあまだ本気出してないだけってことで」
「調子いいなー」
「ふふ、まあね」
天方の笑った顔がやけに綺麗だった。可愛いというならこの人も可愛いのではないか、と文花は思う。
「わたしはさっき言った通り結構良かったよ。400ギリギリいかないくらい」
「おお、すごい」
「でしょ。杢野さんは?」
「498です」
時が止まった。
表情を固めた鳴坂が、上の空のような声で、
「……え、なんて?」
「498でした」
「……5教科で?」
「はい」
「天才じゃん!!」
がっ、と椅子を引いて鳴坂が立ち上がる。驚愕のポーズで、
「……天才じゃん!」
2回驚いた。
「えっ、すごっ。逆にどこ間違えたの?」
「数学の最初の計算問題で……。引き算ミスして」
「もうほぼ満点じゃんそれ!」
「何番?」
ほとんどまっさらな答案用紙を横から天方が持ち出して、文花の前に。文花が「これです」と指さしたのは、本当に珍しく赤丸のついていた問題で。
「やった、勝った!」
「どう見ても負けてるよ図々しいな天方。てか、うわー……」
口のあたりを押さえた鳴坂は考えを整理するように天井の端を眺めていたかと思うと、
「超すごいね。ぶっちぎりで1位でしょこれ。北の人ってこんな頭良かったんだ……」
北の人、というのは出身中学のことだ。雨ヶ弥北中。前の倒壊した学校がそういう名前だった。ちなみに他の人と鳴坂の会話を聞いた限りでは、鳴坂は雨ヶ弥西中の出身らしい。
「ぶっちぎりってわけじゃないんじゃない?」
天方が言う。
「北見くんも480くらいは取るって聞いたけど」
北見、という単語の部分で露骨に顔を顰めた鳴坂が、それを聞いて、あー、と。
「そういうことか」
どういうことだ。
文花にはわからなかったので視線を送ってみると、鳴坂は続きを口にする。
「あれでしょ。前の学校ではあいつもぶっちぎり1番だったのが自分より頭の良い人が出てきたから嫉妬してんでしょ。うわー、しょうもな」
「鳴坂さん結構バッサリ切るよね」
「そうするだけの怨みがあるんじゃい。あーでもわかったらすっきりした。逆恨みじゃん」
なーんだ、と呟いた鳴坂はもう完全に落ち着きを取り戻している。それから窓の外に視線をやって、
「帰ろっかな」
と一言。ほんのりと雨が降り始めて、地面に黒い染みが広がっていくのが見える。空気は重く、蝉の声は聞こえなくなっていた。
「杢野さんは迎え何時だっけ?」
「5時過ぎくらいです」
「それじゃ結構まだ時間あるね」
教室の中でひとつだけ、不自然なくらいに新しい時計は4時30分もまだ指さないでいる。ただ帰るだけなら迎えを待つことなくバスで帰った方が早く着くことには着くのだが、今日はそのまま夕食を外に食べに行くことにもなっていた。5時過ぎとは言ったものの仕事の終わり自体がおそらく5時過ぎだ。実際には6時前くらいになるのではないか、と思っている。前に迎えを呼んだときも結局それくらいになってしまった。だから、
「気にしなくて大丈夫ですよ」
と伝えておく。そう?と一度首を傾げた鳴坂は、しかしすぐに名案、という調子で言う。
「じゃあ旧校舎の中回ってみない?」
ああ、と声を出したのは天方で、
「何があるのか全然わかんないもんね。使わないし」
「そうそう。結構何があるか気にならない?」
気にならない?と聞かれれば、まあ気になったりもする。ただどうしても旧校舎の中を探検するとなると、初日のことや、この間のことが思い浮かんでしまうのだが、
「この間のあの生き物とかついでに様子見てさ」
鳴坂はそのあたりも踏まえて提案しているらしい。
今のところ、あの謎の生き物は発見されていないらしい。騒ぎになっていないところを見ると。
しかし――、文花は考える。それほど悪いことにはならないような気もする。
確かに初日のアレは怖かったが、アレだけだ。どうやらアレの正体だったらしいあの謎の生き物も、不思議なばかりで実害はなさそうだし、結局のところ面白動物園以上の要素はこの旧校舎には存在していないような気もする。
ならまあ、他にやることがあるわけでもないし。
「行きたいです」
「で、こっちは行き止まり、と。倉庫は……」
「やめない?」
「おっけ。やめとこ」
最初に訪れたのは、例のあの部屋だった。当然だが前と同じく、間に教室以外の部屋はない。
「こっちはほんと何もないねー。ていうかこの後者ほんとよくわかんない構造してるね。なんでここ閉じてんの?」
とんとん、と叩いたのは倉庫の扉の向かいの壁。
言ってることはわかった。旧校舎は中庭をぐるりと4辺で囲む。にもかかわらず、すべての通路が接続されているわけではなく、行き止まりになっている場所があるのだ。が、鳴坂が叩いて返ってきた音は頼りなく、3人で思い切りその壁を蹴飛ばせば開通してしまうような気もした。
「あと何、あの外の倉庫は」
「さあ?」
「まああれは雨降ってるからあとでいいか。逆行ってみよ」
言って、鳴坂を先頭に歩き出す。
廊下の軋みと、しとしと降り注ぐ雨の音を聞こえてくる。中庭に目を向けると、葉の上に溜まった水滴が重力に従って、とぽ、と落ちていくのが見えた。静かに雨は降っている。が、本降りになってきているように思えた。
「いる?」
と、声に我に帰る。天方だった。すぐに質問の意味を理解して答える。
「いえ。見当たらないですね」
「そっか。雨だし、別のところに行ってるのかもね」
「どうやって?」
鳴坂が振り向いて言った。
「あ、そっか。ここ中庭は閉じてるんだっけ」
そういえば、と思い至る。
自分たちも中庭から出るときは旧校舎の扉を通った。あの生き物が扉の開け閉めや鍵開けができるわけでもない限り、外に出る手段はないように思える。
「……どこかに抜け道があるんじゃないですか」
「かもね。冬になったら隙間風とか」
言って鳴坂は視線をあたりに巡らす。釣られて文花も。が、特に目立った隙間は見当たらない。
一度曲がって、元の教室まで戻る。3年生の教室をさらに通り過ぎれば、昇降口。
普段は昇降口から入って、左に曲がる。ということは今回は逆。右側だ。すぐに見えるのは木の色の焦げたように濃くなった階段。
「あれ」
一見すると、通路が見当たらない。旧校舎が4辺で構成されるなら、この奥に進む通路があるはずなのだが。
階段の陰に回り込む。するとわかった。不思議な構造だ。階段横の通路が狭くなっていて、その奥に通路が続いているのだ。昇降口からは階段ばかりが目に入って、そこに通路があることさえわからない。しかし、
「これ、無理じゃない?」
天方が言う。そのとおりだ、と文花も思う。
その狭い通路に、机やらダンボールやら、色々物が置かれていて、進むことができないのだ。
何もこんなところに置かなくても。思うが、置かれているものは仕方がない。
「後回しにしよっか」
「はい」
一足先に階段を昇り始める鳴坂に、文花も続く。ぎいぎいと、洒落にならなそうな音が足の裏から伝わってくる。そこでふと思い出した。この学校、危険な生き物はともかくとして、特に理由なくドアノブが壊れるような建物なのだ。ざらざらした手すりを掴みながら、慎重に昇っていく。
上った先の廊下は、それほど1階と変わらないように見えて拍子抜けした。階段の位置が違うから見える景色が多少異なること、それからまっすぐ奥へと進んでいく道が荷物によって塞がれていないこと。そのくらいしか違いはない。階段を抜けると音のこもっていたのが急に聞こえるようになったのか、雨の音がひどくクリアになって耳に届く。土砂降りだろう。傘は持ってきてはあるが、ひょっとしたらそれすら意味がなくなるかもしれない。
「どーれ」
廊下の右手側、一番手近な扉を鳴坂が開く。
「うわ、なにこれ。図書室?」
「かな」
文花の目には、図書室というよりも書庫といった方がしっくりくるような空間だった。
部屋は教室よりも広い。教室2つ分。真ん中の壁をなくした形だろうか。中には木棚が並び立ち、背表紙の文字がかすれた分厚い本が立ち並ぶ。棚の上、床の隅、通路端に至るまで、ボロボロのダンボールが置かれ、その中にもまた本や、装丁のない紙束が詰め込まれている。
ひどい埃の臭いがした。鳴坂も口元を白い手で覆っている。
「ここはちょっと入るのいいかな」
「だね」
くしゅん、と鳴坂がくしゃみをする。顔を両手で抑える仕草が可愛い、と文花は思った。
廊下に戻る。進んでいく。
「えーっと、さっきの部屋がたぶん扉……4つ?」
「そうですね、たぶん」
「だから……、ここか」
鳴坂が5つ目の扉を開ける。
「あれ、ここも同じ?」
開けてすぐに鳴坂が後ずさる。代わりに天方が前に出て部屋を覗き込む。そのついでに文花も後ろから。
同じ、というのはそのままの意味だった。前の部屋と同じく、書庫のような部屋になっている。くしゅん、ともう一度くしゃみが聞こえたので、文花が扉を閉めた。
「うーん」
くしゃみをもう一度。すん、と鼻を鳴らして、
「あんまり面白くない」
鳴坂が言った。
確かに、本に興味がなければこれほどつまらないものもないだろう。怪しげな旧校舎。探検してでてきたのが古そうな本ばかり。これでは気力も削がれる。
ただしそれなりに本に興味があれば――、結構興味をそそられるものでもある。実際、若干ながら文花は興味が湧いている。本が古ければ古いほど珍しいことが書いてあるように思える。誰かがずっと昔に書いたり読んだりしたものを遥か未来で読んでいるという状況に興奮を示したりする。そういうタイプの趣向も持ち合わせていた。持ち合わせているだけで、のめり込むほど発揮するような場面はほとんどないのだが。
「どうする、奥に行ってみる?」
「うーん……。とりあえず? あ、今何時?」
「そんなに経ってないんじゃない?」
誰も時計は身に付けていない。が、天方がポケットから携帯を取り出して、
「お、不良」
「え」
鳴坂の言葉に目を丸くする。
「何が?」
「いやそれ。学校に携帯持ってきちゃダメでしょ」
「何そのルール。そんなこと言われたっけ?」
素の返しに今度は鳴坂が目を丸くする番だった。文花は確認するような目線を向けられ、頷く。
「私のところでも持ち込み禁止でした」
「ほらー」
「へえー、変わってるね。……ま、怒られたら考えるよ」
案外図太い人なのかな、と文花は思う。しかし考えてみれば確かに、この学校で明確に持ち込み禁止と言われたことはない。何となくこれまでの慣性にしたがって、何となくそれらしいルールを守っているだけだ。ひょっとすると携帯の持ち込みもありなのかもしれない。
「あれ」
と、声は天方でその後携帯を握ってしゃかしゃかと空中で振る。
「何してんの?」
「いやさ……、あれー?」
天方は首を傾げながら、ふたりにわかるように携帯の画面を傾ける。
「時計表示がなくてさ。これ壊れたかな」
言う通り、本来時刻が表示されている場所が『--:--』という表記になっている。初めて見る表示だった。
「なんだろね。てかここ圏外なんだ」
「圏外だからかな」
「さあ。ショップで見てもらったら?」
うーん、と唸る天方。結局時間はわからなかった。体感では20分に満たないくらいなんじゃないか、と思うのだが。
とぽぽ、と音がした。
何の音だろう、と思う。鳴坂には聞こえなかったようで、変わらぬ様子のまま、何をするわけでもなく突っ立っている。天方も携帯をあれこれ動かし続けているが、
もう一度、とぽ、と音がしたとき。
天方の頭が跳ねあがった。
突然の動きに驚く間もない。勢いづいた機敏な動きで窓際へと駆け寄る。それからすぐに下を――、つまり中庭があるだろう場所を覗き込んで、鍵を開け、窓を勢いよく開き、
窓枠に、足を引っ掛けた。
「ちょっと!!」
鳴坂が慌ててそれを後ろから抱き止めて、
「何、どうした!? 頭おかしくなった!?」
傍から見ればそうとしか見えない。会話の途中で、いきなりクラスメイトが窓から飛び降りようとしたようにしか。
見えない、
はず、なのだが。
窓を開けた瞬間から、とぽとぽ鳴る音は激しくなっていく。そしてそれがすっかり原型を失くす前に気付く。
水音だ。
鳴坂と天方の脇をすり抜けて、覗き込む。
中庭。
水没している。
「え、あ――」
どう見ても、そうだ。
少なくとも1階部分、自分たちがさっきまでいたところ。それが天井より上まで飲まれてしまうほどの高さ。
中庭に、水が溜まっている。
「どこから――」
視線の先。
空。
嵐よりもひどい。水槽をひっくり返したような、直接注ぎ込むような勢いで中庭に雨が降りていく。
ざばざばと。
ずど、ど、と。
どんどん水嵩が増してくる。
「え、ちょっと、なにこれ!」
遅れて鳴坂も中庭の状況に気付く。
なにこれ。これ以上この場に適した台詞もないように思えた。
「くう、るぅるるるるるる」
水の中から声がした。
ように思えた。
「何、沈んでんの!?」
「それだけじゃない」
落ち着いているのは、また天方だけで。
視線の先を、文花は追う。あの不思議な色をした生き物。確かにそれは水底に沈んでいて、そして、
男子生徒の、制服の襟元を咥えている。
「だ、誰あれ! なんでこんな――、泳げないわけ!?」
「違う、引きずられてるんだ」
確かに見えた。天方の言葉通りに。
あの男子生徒はただ沈んでいるんじゃない。引きずり込まれている。
その足首に、蛇の尾が巻きついているのが見える。
不思議な生き物はその襟首を咥えて、何とかその男子を引き上げようとしているのだ。
「潜って引っ張ってくる」
「は、え、マジで言ってんの!?」
「マジで言ってます」
天方は腰に回された鳴坂の手をどけて窓枠に立ち上がる。その姿を見て、
「が、」
文花は、
「がんばって」
天方は振り返らずに、小さくピースサインだけ残して、
飛び込んだ。
「ちょ――、大丈夫なのあれ!」
鳴坂が窓枠に縋りつくようにして下を覗き込む。同じように、文花も。
速い。
ものすごい速さだった。水流にでも乗っているかのように、ぐんぐんと男子生徒のところまで近付いていく。
あっという間だ。天方が男子生徒の脇の下に手を差し込んで、代わりにあの不思議な生き物が襟首から口を離して、足首の方に向かっていく。そして噛みついたのか、それとも爪を刺し込みでもしたのか、とにかくその蛇の尾は力を失くしたように見える。
そして一気に天方が地面を蹴って浮き上がってきた。
が。
「ちょ、水が――」
ますます中庭に降り注ぐ水は勢いを増している。2階に立つ文花らのふくらはぎのあたりまで水嵩は増し、それどころか胸の高さにある窓枠にまで届く勢いでせり上がってきている。
そして、その降り注ぐ水の圧力は天方を水底へ押しとどめようと働き、行きのような速さはそこにはない。
「ちょっと、早く、早く早くー!!」
水音は旧校舎を揺らすほど大きくなり、もはや水中の天方には鳴坂の声も聞こえていないだろう。
それでも驚異的な速さで天方は水中を上り切り、窓際へと辿り着くが、
「ど、どうしよ、どうやって」
引き上げる方法がない。
水中から天方が単独で男子生徒を持ち上げて窓へ投げ込むのはどう考えても不可能だ。しかしこちらも水の中から人ひとり引き上げるだけの腕力も、それからそれを成し遂げるだけの腕の長さもない。
けれど、ひとつだけ。
「鳴坂さん。私の腰のあたりをしっかり持っててください」
「え!?」
「窓から乗り出して引っ張ります」
それしかない、と思った。
水嵩が高まればそのときに天方たちが中に流れ込めるということも考えられるが、どんどん勢いが増してきている。下手にタイミングを図っていれば窓が閉められなくなり、校舎ごと水没してしまうことも考えられる。
今しかない。
「マジで言ってんの!?」
「マジで言ってます」
危ないだろう。
そのくらいのことはわかる。身を乗り出せば乗り出すほど下に落ちてしまう可能性も高くなる。運動は苦手だ。天方のようにこの水の中を泳げる自信はまったくない。このまま待ち続けていれば、少なくとも、いざとなれば窓を閉めるだけで助かる可能性は高い。
怖い。
が、
「やります」
それは行動しない理由にならなかった。
窓枠に上がる。文花と鳴坂の体重差は精々身長分くらいの微々たるものしかない。だからそれほど大きく身を乗り出すわけにはいかない。まずは自分でも中に戻れるくらいの体勢で。それだけでも上から降り注ぐ膨大な水量に押しつぶされて倒れ落ちてしまいそうになる。それでも徐々に、徐々に前へと体重を移していって――、
「天方さん!」
水嵩はどんどん増していく。今や膝の高さを越え、腿、さらには腰の高さまで。
もう猶予はない。
荒れ狂う水面から天方が顔を出した。それからもう一度潜り、今度は窓のもっと近くで。
体勢は安定しない。が、それでも天方は上手く男子生徒の身体をこちらに向けてくる。
両腕を伸ばす。
手首のあたりに触れて、
「くっ――」
しかし離れる。
「もう一回!」
手を伸ばす。今度はもっと身体を前へ。支えている鳴坂の身体が浮き上がり始めるのがわかる。それでも、
「あと、ちょっと――!」
もう少しだけ、
「鳴坂さん! 引っ張って!」
「はい、よ!!」
掴んだ。一気に身体が後ろに倒れ込む。ざば、と男子生徒の身体が持ち上がる。
重い。
が、一点を超えると急にそれが軽くなる。
「うわわわわわわわっ!」
今度は後ろ側に倒れ込むような形になる。が、鳴坂が自分の身体ごと上手く倒れ込んだらしく、思ったほどの衝撃はない。
ずるり、と男子生徒の足まで中に入りこんで、
「ごめん、助かった!」
ざばっ、と音がしてずぶ濡れの天方も上がってくる。そして窓枠に足をかけたまま、また外へ手を伸ばして、
「ほら、君も!」
「くうるる!」
あの不思議な生き物も抱き上げて、廊下に下り立つ。それから素早く窓を閉め――、
「――間に合った」
数瞬遅れて、窓に映る景色まで、あっという間に水没してしまう。
ふう、と天方が安堵の息をついたのも束の間、未だに文花の腕に抱えられていた男子生徒の肩を叩き、
「しっかり! もう大丈夫だよ!」
それを合図にしたのか、
「げほっ、ごっ!」
と男子生徒は苦しそうに水っぽい咳をする。
「杢野さん! 溺れた人はどうするの!?」
「え、あ――」
突然の質問に一瞬思考が止まるが、しかしすぐに記憶が声を上げ、
「――意識と、呼吸。気道確保、AED――」
「だ、だいじょ、うぶだ」
遮ったのは、男子生徒だった。
驚いて見た。床に転がったまま。咳き込み続けたまま。けれど言葉を吐き出すくらいの気力はどうやらあるようでやがて落ち着き――、
「たすかっ、た。ありがとう」
それを聞いて、すとん、と。
助かったんだ、とそれが理解できて、
「……ごめん、杢野さん。そろそろどいてもらっていい?」
鳴坂を下敷きにしたまま、微動だにしていなかった自分にも、気が付いた。