3. パンダは邪悪な生き物なんですよ
「揉んでから決めない?」
と鳴坂が言うのを聞いて、思わず文花の喉からは「何が?」という素の声が出ていた。
「いやこの生き物が良いUMAか悪いUMAか決めるのを」
UMAであることは決定してるのか。文花はそう思い、そう天方がツッコんで話が進むのを文花は待っていたが、数秒待ってもその合いの手がない。天方の方を見た。見つめ合っていた。謎のUMAと。
「くぅ、くるる」
「…………」
何かを考え込むように天方はUMAを見つめている。
「……揉む、っていうのは?」
仕方がないので文花は自ら発言して会話を進めることにした。
「知ってる? パンダって案外ごわごわしてるんだって」
知らなかった。が、その情報を与えられた意味もよくわからなかった。はあ、と相槌だけ打ってみる。
「生き物っていうのはね、その肌触りで危険かどうかわかるんだよ。触って気持ち良ければ安全な生き物で、悪ければ危険なの」
「初耳です」
「たぶんわたしがこの世で初めて言ったんじゃないかな」
人はそれをでたらめと呼ぶんじゃないだろうか。
「だからどんなに愛くるしい見た目をしてわたしたちを騙そうとしてきても、その手触りだけは誤魔化せないってわけ。わかる? 何だかんだ言って熊だからね。誤魔化せないの。パンダは邪悪な生き物なんですよ」
この人はパンダと何か因縁があるんだろうか。思いながら、文花はまた、はあ、と相槌を打った。
「と、いうわけで。揉んでみよう」
好きにしてください。若干興奮気味に映る鳴坂を見ながら文花は思う。鳴坂はスカートを膝の裏に挟み込んで屈み、それから両手を突き出して「へい、へい!」と威勢よく注意を引き、
「ふかーっ!」
威嚇されている。が、鳴坂はそれを気にすることもなく「へい、へい!」とさらに叫びながらじりじりと距離を詰めていき、
「とりゃ!」
と跳びかかる。つかまれた謎の生き物は、ふかっ、とかなんとかとにかく不機嫌そうな声を出してはいるものの、噛みつくこともなくただ手足をばたばたと振り回すだけで、
「……これはね」
されるがままに腹を揉まれ、
「良い生き物です!」
「……そうですか」
「あっ」
瞳を輝かせた鳴坂が文花の方を向いた瞬間に、ぱっ、とその生き物は手の中から逃げ出してしまう。ふーっ、と威嚇の声を出しながら逃げた先は、
「なんか天方くん、懐かれてるね」
「え、うん。なんでだろ」
天方の後ろだ。前片足を天方の足に触るように持ち上げている。「あ、肉球」と呟いたのは鳴坂の声。天方は困ったように首を傾けて、その生き物を見ていた。
「で、どうしよっか、その子」
「どうするの?」
「どうしよっかねー」
「……あの、先生に届け出ればいいのでは」
控え目に文花がもっともらしい発言をすると、鳴坂は頷き、しかし微妙な顔で、
「それが普通なんだろうけどさ。でもここにずっと住んでたとかだったら、ちょっと可哀想じゃない? いきなりどかどか人が入ってきて、住んでるところ追い出されてさ。そのうえあれだよ。新種とかだったら色んなところたらいまわしにされてさ……」
「あ、それはそうかも」
「え?」
口を挟んだ天方に、鳴坂は聞き返す。すると天方も、その聞き返しを予想していなかったような、ちょっと驚いた顔をして、
「いやほら、住んでたって話。鳴坂さんも聞かなかった? 僕と杢野さんが倉庫の中で野良犬みたいなのに襲われそうになったって話」
「あー、あーあー。聞いた聞いた。え、」
鳴坂は大きな瞳を開いて、謎の生き物に視線を向け、
「それこの子?」
「じゃ、ないかな」
だよね? と視線で問いかけてきた天方に、文花は頷く。判断材料が声だけではあまり自信はなかったけれど、今目の前にいる生き物と、倉庫の中で出会った生き物が別だとしたら、あんな声で鳴く生き物がもう一体はいることになる。それは可能性としては低い、というか低くあってほしい――たとえその一体が人間だとしても。
「このへんに住み着いてるんじゃないかな」
「それでうっかり倉庫に閉じ込められてた、と。馬鹿だねー、お前」
「がうっ!」
「おお、怒ってる……。頭いいねー、お前」
素早い前言撤回だなあ、と文花は思うが、しかし確かにこの生き物は賢そうだ、とも思う。まさか言葉の意味が理解できているわけではないだろうが、人の振る舞いを見てどういう態度か察するくらいのことができるのかもしれない。
「そしたらやっぱり放置かなー。ふたりはどう思う?」
「……いいんじゃない?」
「いいと思います」
「……ふたりとも、もしかして結構どうでもいい感じ?」
「んー、どうでもいいっていうか……。どうせここにいたらそのうち僕ら以外にもバレるよね? 今伝えるか後でわかるかだけの問題だと思うんだけど」
天方の言葉に文花も頷く。自分たちが話さなければ誰にもわからない、なんてことはないだろうと思う。奇抜な色合いの哺乳類。野良猫くらいなら何も言わずに放っておいてくれることもあるかもしれないが、これではそんな温情も望めそうにない。
「うーん、まあそうか。そうだよね。そんなもんかあ」
言った鳴坂は溜息ひとつ。
「結局子供じゃ何もできないよね」
大人でも何もできないんじゃないだろうか。文花は思った。
明らかに図鑑に載ってないような――少なくとも外来生物以上の――奇妙な生き物が生活圏にいたのを見つけたとして、普通の人間がどうこうできる余地はほとんどないんじゃないか。精々できるのは通報、見て見ぬふり、ちょっと冒険して飼育くらいだろうし、飼育だって似たような生き物の育て方を知っているならともかく、その見当もつかないような生き物が相手では難しい。この状況で取れる選択なんて大人も子供もそう変わらないんじゃないだろうか。
くう、とまたひとつ、その生き物が鳴いて、
「じゃあ、そういうことで」
と天方が言った。合図に鳴坂が立ち上がる。
「っすね。元気でねUMAくん」
撫でるでもなく謎の生き物に向かって手を振る鳴坂。それからあたりを見回して、
「出口は――、さっき入ってきたとこしかないのかな?」
言われて文花も気付く。この中庭、どうも旧校舎の建物にぐるりと取り囲まれているらしい。不思議だ、と思う。この間倉庫に行くときにわかったこと――、1辺が8教室分。しかも2階建て。あまりにも広すぎやしないだろうか。教室が16個で2辺分。残りの2辺もまさか教室になっているわけではないと思うのだけれど、それなら残りの2辺は何に使われている建物なのだろう。自分の家の中にすらまだ立ち入ったことのない部屋のある文花には知る由もない。
「みたいだね」
と天方が頷いて、3人は来た道を戻ろうとするが、
「くぅ、るるる」
「ありゃ、ほんとに懐かれたんだね」
天方の足が止まる。謎の生き物が天方の制服の裾を軽く咥えて引っ張っていた。天方は困ったような顔でそれを見つめている。
「くう、くうるる」
呼んでるみたいだな、と。
なぜかそのとき文花は思って、
「くう?」
目が合う。すると、謎の生き物は天方から離れ、文花の足元に近寄ってきて、
「きゅう」
と鳴いて前足をぽん、と上履きに乗せる。それを見て、うっかり中庭まで上履きで出てきてしまっていたことに文花は今更ながらに気づいた。
「威嚇されてるのわたしだけ?」
やや拗ねたような鳴坂の声も介さず、謎の生き物はてぽてぽと草むらの、さらに奥へと歩いていく。なんとなく、文花はそれについて歩いていく。背の高い草に膝の裏を削られて足が止まる。
「……行くなら僕が先に行くよ」
言って、天方が文花を追い越した。謎の生き物はちらり、と時たまついてきているのを確認するように振り返り、天方はゆっくりとその後について、文花、そして鳴坂も続く。
ぴたり、と足が止まる。そして謎の生き物が、また振り返る。じっと天方を見つめていた。ここだ、と言っているように、文花には見えた。
「あの、先に行っていいですか」
文花が声をかけると、
「あ、いや。僕が行くよ。なんか嫌な予感がしただけ」
言って、天方が、謎の生き物を追い越して、草むらの先へ進む。天方の足が背の高い草をかきわけて、その先が文花にも見えた。
人間よりも大きな蛇がいた。
「きゃっ――」
「ぅわーっ!!」
咄嗟に後ずさった文花の身体が誰かにつかまれる。視界の端でそれを捉える。鳴坂だった。驚愕の浮かんだ顔。気付くと文花も鳴坂の身体にしがみついている。
「大丈夫」
声がした。天方の。それで幾分、判断力が戻る。
「抜け殻だよ、これ」
文花の目には、天方はまるで動揺していないように見えた。そして視線の先。抜け殻と称された巨大な蛇の姿。あまりにも大きすぎる。身体の太さは大人の胴回りよりやや大きいくらい。長さはくらべものにならないくらい。天方は何のためらいもなく、一歩、二歩と近付いて、
「ほら」
ぽす、とそれを叩いた。
思わず叫び声を上げそうになって、実際、ひっ、という声は聞こえてきて、それが自分のものなのか鳴坂のものなのか文花にはわからなかったけれど。
確かに、それはそんな気のない手の動きだけで、すっかり形を崩して平べったく縮んでしまった。日の光がその裏地を透かしてる。干からびているのだ。
しばらく、何も言えないでいた。目の前の出来事を、正しく処理できる自信がなくて、ただ自分が落ち着くのを待っていた。天方も何も言わずその抜け殻の前に佇んでいて、それからどれくらい時間が経ったろうか、聞こえてきたのは
「で、でっか……」
という鳴坂の言葉で、それから続けて、
「動物園かここは……」
という言葉で、一気に気が抜けた。
動物園。こんな動物園があったらさぞ大人気だろう。過疎地域の町おこしにも多大な貢献をするに違いない。ただし、放し飼いでなければの話だが。
「……どうしますか?」
「どうするったってさあ……。そりゃさすがに……、いやでもこれ報告したらこっちもバレちゃうのか……」
鳴坂の視線の先には謎の生き物。また天方を見つめている。ふと文花は鳴坂の腰に回している自分の腕の存在に気が付く。そろりそろりと引き抜いていく。
「どうしますか、天方くん!」
鳴坂が丸投げた。
丸投げられた天方は、はあ、とひとつ溜息をついて、
「見なかったことにして、」
それから腹を押さえて、ぐう、と鳴らして、
「お昼ごはんが食べたいよ」
ああ、確かに、と。
乾き始めた喉と、シャツに触れずに肌を伝って肩から腰まで器用に流れ落ちた汗。
日差しに焼かれて熱を帯びた髪。
蝉の声。
遠くで聞こえる、火傷しそうなトランペットと金属バット。
未だ思い切りがつかずに触れたままの鳴坂から伝わってくる体温。
息の詰まるような夏の風が空から降りてくる。
お腹が減ったな、と文花は思った。