2. まだ昼下がらない
始業式の日から一週間が経って、文花はまだ天方以外のクラスメイトと話していないことに気が付いた。
まさかそんなはずがない、と思う。考え直してみる。思い返してみる。この一週間のことを。結局あの不審者騒ぎは不審者騒ぎにもならずに終わった。それが金曜日のことで、週明けで登校した月曜日。自己紹介は「杢野文花です。趣味は読書です」という大量生産型ベルトコンベアに乗ってきたようなありきたりな台詞を早口で吐いて終わった。それから席順。いきなりくじ引きで決まった。引いたのは中央列一番後ろの席。隣が天方だった。文花は自分の左隣の椅子に手をかけた天方が「あれ、隣? よろしくねー」と言ったのを聞いた瞬間にこの学校生活には勝利してしまった、と確信して机の下で小さくガッツポーズを取った。
そしてそれ以来、天方以外と話していない。
おかしい、と思う。この流れはおかしい。
確かにクラスの空気はまだぎこちない。文花にもそれくらいのことはわかる。中途半端な時期にクラス変えのようなこと(まずこれ自体が初体験になる人が多いだろうと思う。どこも昔の建物だから教室数自体は多い者の、今となっては学年でひとつの教室しか使わないところが多かったはずだ)があって、教室内はほとんど知らない生徒ばかり。けれど全く知らない人ばかりというわけでもなく、田舎特有の小学校からの幼馴染(仲が良いかそうでもないかはともかくとして)は少ないながらも存在している。すると小集団が複数できてしまって、何となく全体が溶け込むまでに時間はかかる。
が、未だひとりとしか話していないのはおかしい。そう思う。
現に天方はどうだ。文花は思う。条件としては自分と同じ、もしくはそれ以下。にもかかわらず、すでにそれなりに周りとの会話に溶け込んでいる。前の学校でグループが組まれてしまっているから誰か特定のいつもいる友人がいるわけではなさそうだけれど、今だってホームルーム前のわずかな時間、ロッカーから教科書を取り出すついでに近くにいた男子と今日の夜にテレビで放送する映画の話をしている。一方自分はそれに背中越しに聞きながら、手持無沙汰に数学のワークブックの解答欄を埋めている。
この差。
「杢野さんは映画とか見る?」
天方の声がした。尻尾があれば振っていた。しかしそれを表には出さず平静を装って文花は振り向く。さっきまで天方と話していた男子生徒はすでに姿を消している。万事こんな感じだった。
「あ、本の方が好きなんだっけ」
「いえ、映画も見ることには見ます。これが好き、ってほどは見てませんけど」
あたかも本の方には詳しいという言いぶりだったが、本の方もそんなものだった。
「ホラーとかは?」
「ホラー?」
と、言われると先週のことをつい思い出してしまう。暗い密室、叫び声。
「あ、ごめん。今日やる映画がホラーらしいからさ。気にしないで。勉強の邪魔しちゃってごめんね」
それを察されたのか2回も謝られた。すると何だかこっちが悪いような気にもなってくる。文花は勉強がしたくてしているわけではない。他にやれることがないから問題集の穴を埋めているのだ。どちらかというとまだホラー映画の話をしている方がよかった。人間との接触があるという点で。
もう一度話しかけてくれないかな、と文花は思った。さすがに『邪魔』という言葉まで口に出された以上望み薄だろうが、それでも期待してしまう。もう一度話しかけてくれたら不穏な態度で返さず話題を広げよう。広げられる気がする。広げたいな。自分から話題を振るという選択は全く思い浮かんでいなかった。
しかしそんな望みに反して天方は1時間目の数学の準備を始めてしまい、文花は落胆する。ついでに緊張も解ける。
「あ、そっか」
右隣から声がした。今まで1週間隣に座っていたにもかかわらず一度も話したことのない女子生徒。
「来週実力テストか」
まさかそんなわけがないだろう、とは思うのだが、最近は往々にしてそのまさか、がそのまさかだった。
実力テストは2日に分けて行われる。だから月曜日と火曜日は午前中で終わることになっていた。そして今は月曜日の午後。
バスが来ない。というか、停まっていない。
学校の送迎バスは校内の駐車場まで乗りつける。そして何となく揃ったらしいころに出発する。規定時刻を10分過ぎても出発する。送迎バスは平日1日3本。文花の住む地域から学校に来るのは朝の1本だけ。学校から帰るのに使えるのが残りの2本。普段は授業が終わってすぐの15時50分と、部活が終わった後の18時(部活の終了時間は季節によって変わるので、たぶんこの時間も変わる)。そして今は11時30分。試験が終わったのが11時。
バスがない。
まさかそんなはずはない。が、そんなことになっている。おそらく送迎バスは来ない。駐車場の周りをうろうろと歩き回って時間を潰し続けていたけれど、そろそろ現実に向き合わなくてはならない。校庭からは野球部やサッカー部の元気に活動する声が、ごく近くではテニス部のラケットがボールを叩く快音が聞こえてくる。
どうしよう。
こういうとき、前の学校だったら自然に図書室あたりに足が向いていたのではないかと思う。だが今はその動きには大いに抵抗がある。何せ、図書室のある現校舎にはまだほとんど足を踏み入れたこともないのだ。2年9組。それが今文花が在籍しているクラスで、旧校舎に配属された生徒は基本的に座学以外の授業のときでもない限りそこから出ることがない。同じ学校に在籍しているのに、違う学校に通っているみたいだった。
となると。行く場所はひとつしかない。
下駄箱を開けるだけで甲高い音が鳴る。白い上履きとくすんだ廊下の色がアンバランスで、異邦人にでもなったような気分になる。一歩一歩、廊下が軋みを上げている。
旧校舎だ。
ついこの間あんなことがあったばかりだったが、それでも文花にはこの場所しか思いつかなかった。むしろついこの間あんなことがあったばかりだからこそ、かえって安全なんじゃないかという願望と区別のつかない推測もある。昇降口が開いたままだった。だから入っても問題はないだろう。1年9組。2年9組。真新しく浮き上がっているプレートの下。取っ手をつかんで、浮かせるようにして、一気に横にスライド。最近覚えたコツを使って、木製の引き戸を開く。
「あれ」
目が合った。天方がいた。文花の口も「あ」という形で止まる。声は囁くくらいしか出ず、おそらく天方には届かなかった。
「忘れ物?」
「あ、いえ」
詳しい事情を言いかけて、
「天方さんは?」
と先に聞き返すことにした。同じ理由だったら「同じです」で終わらせてしまおうと思ったからだ。しかし返ってきた答えは、
「いや、別に。何してるわけでもないんだけど」
と、微笑み。天方は窓を背に、椅子に座ったまま文花の方を見ている。夏のままの太陽が窓から逆光を射して、輪郭が白く溶けている。綺麗な人だな、と文花は思った。
「バスがなくて」
と改めて言った。天方は一度「バス?」と聞き返して、その後すぐに「ああ」と頷いた。
「え、帰りどうするの?」
どうしましょう、と文花は思った。そして目を逸らした。父母のうちどちらかが家にいれば迎えを頼めた。が、残念ながら文花の夏休みが終わるのとほぼ同時にどちらも夏期休暇は使い切ってしまったらしいし、今日も朝早くから仕事に出て行った。家には誰もいない。夕方になるまで帰る手段はない。が、
「しばらくしたら迎えに来てもらえると思うので」
わざわざ口に出して心配させる必要もないだろう、と思う。「そうなんだ」と天方も頷いた。ということで待たせてもらいます、そういう空気を作って文花は自分の席に座る。やることがない。また数学のワークブックでもやるか、と思う。そして思い出す。今日はテストしかないから教材を何も持ってきていない。他の人たちみたいにロッカーに置いておけばよかった。
気まずいような気がしてきた。思い、隣を見ると、天方が自分の鞄を漁っている。そこから袋を取り出した。コンビニ袋。
「メロンパンと焼きそばパン、どっちが好き?」
どっちかと言えばメロンパンだった。が、さすがに文花でもわかった。これは好きだと言った方を分けてもらえる展開だ。図々しいような気がして、一瞬口ごもると、
「今日暑いから食欲なくて。どっちか食べてもらえると嬉しいんだけど。賞味期限短いし、これ」
古びた凸凹だらけの机の上に出したビニールに包まれたパン。天方が指先で押さえると確かに『9.11』と賞味期限の記載が見える。
そこまで言われると、断るのも悪い気がする。確かにあまり食の太そうな人には見えないし。文花はそう思い、「メロンパンの方が好きです」と素直に答える。すると、「はい、お願いします」と天方がパンとペットボトルを渡してくる。
「あれ、飲み物」
「今日暑そうだから2本持ってきてたんだよね。そっち口つけてないし、メロンパン食べたら口の中ぱさぱさになっちゃうだろうから」
「……今度、何か返します」
飲み物なしでの食事は無理だ、と冷静になると思える。旧校舎には空調がついていない。
空調がついていない。
信じがたいことに。
当然のことながら非常に暑い。代わる代わるやってくる教科担当の教師たちは5分もすれば必ずネクタイを外してしまうし、担任の伊倉先生は常にポロシャツを着ている。生徒からずるい、と言われると、ははは、と笑って煙に巻く。けれど旧校舎組の服装はどうせまだ統一制服もないのだしある程度気温に合わせて自由に調節してもいいんじゃないか、という話を職員室で提起してくれているらしい、とも聞く。噂で。噂しているのを文花は聞いた。会話自体には混ざっていない。ちなみに文花は服装自由になってしまうと何を着て学校に来ればいいのか全くわからなくなってしまうので、制服指定のままの方がいいなと思っている。
つまりはそれほど暑いということで、暑いということは喉が乾くということだった。
「……暑いですね」
「ねー」
じりじりと射し込む陽気が教室を炙っている。窓からの光は天方の背中で止まって文花に直接届くことはないが、それでも暑い。入ってきた瞬間だけは夏の景色という感じで好ましく思えたけれど、段々と環境の劣悪さが際立ってくる。
「旧校舎組は損ですね」
「でも現校舎組は現校舎組で大変らしいよ。教室足りてないから、ひとクラスの人数がおかしくてさ。通路歩くのも狭いんだって」
「そうなんですか」
「だからクーラーも28度じゃ全然効かないんだってさ。あんま変わんないよね」
全然知らなかった。何で知ってるんだろう。
「ダメですね、この学校」
「ひどいよね」
天方が笑った。そして文花は思う。なんだか久しぶりに友達っぽい会話ができている、と。実を言うと天方と食事を取るのはこれが初めてだった。給食の時間になると周囲と机を合わせて班ごとに食べることになるが、ちょうど文花と天方の間に境界線がある。よって9月が始まってから、誰かクラスメイトと話しながら摂る昼食は初めてだった。バスがないのも悪いことばかりではないな、と。
そしてデジャヴ。
つい最近も似たような展開があった気がする。気がするどころではない。あった。この間も『閉じ込められたおかげでクラスメイトと話すことができた』なんて喜んでいた。そしてその後ひどい目に遭った。ということは――、
がらり、と。
聞こえた音に、飛び上がるばかりに驚いた。しかし視線を向けた先にいたのは深海から一度も陸に上がったことのないような体毛のない人間ではなかった。
「ありゃ、お邪魔すか」
普段は文花の右隣に座っている女子生徒だ。記憶を漁る。名前は――鳴坂日奈子。自信があった。5回くらい名前を呼んで話しかけようとしていたので。ちなみにすべて挫折した。
「後は若いふたりでごゆっくり……」
「いやいや、違う違う」
訳知り顔で瞳を閉じて、すすす、と立ち去ろうとする鳴坂を天方が呼び止める。
「またまた、おばさんは退散しますよ……」
それを意に介さず鳴坂は扉を閉めて出て行こうとするが、
「あれ、あれれ」
上手くいっていない。突っかかっている。扉が。
「なにこれ」
天方が席を立った。自分だけ座ってるのもな、と思い文花も続いた。
「閉まんないんだけど。というか開きもしないんだけど」
鳴坂は扉を掴みながら左右に揺する。が、確かに角度が変わるばかりでスライドする気配はない。軽く足でも蹴っている。
「ちょっと貸して」
天方がその扉をつかんだ。がたがたと揺する。文花が横から口を出す。
「浮かせる風にすると開きますよ」
「あ、やっぱりそうだよね。よっ、と」
天方が扉を揺らしながら浮かせる。が、角度が悪いのかやはりスライドしない。鳴坂も手を添えるようにしていて、文花は横から見ている。
天方が体勢を変えた。上履きの裏でまっすぐ扉を押すような体勢になって、両手で挟み込むようにして浮かせながら、
「よいっ、しょ!」
ばきっ、と。
致命的な音がした。
「…………」
「…………」
「…………」
無言になった。無言で扉を見ていた。沈黙を破ったのは天方で、
「……ごめん、どこ壊れた?」
と。文花は一通りみて、
「こっちは何ともないですよ」
と答えると、鳴坂の方も、
「あ、こっちも大丈夫」
と答える。が、さすがに天方はこれ以上扉を動かせないでいた。なら一体今のは何の音だったのか。また無言になったが、次は鳴坂が、
「……よし、聞かなかったことにしよう」
と呟いて。天方は「うん」と、文花も「はい」と返事をした。それで空気が弛緩する。
「ところで鳴坂さんは何か用事あったんじゃないの?」
「あ、そうそう。忘れ物取りに来たんだよね。ちょっと入ってってもいいすか」
「どうぞうどうぞ」
「へへへ、悪いすね。じゃ、ちょいと失礼」
言って、鳴坂は手刀を切りながら文花と天方の間を抜けてロッカーへと進んでいく。ロッカーと言っても簡易的なものだ。金属製のものではなく当然のごとく木製。その上蓋すらついてない。ただの棚である。だからパッと見ただけでその人のロッカーがどのくらい汚くなっているのかわかってしまうのだが――、鳴坂のロッカーは綺麗か汚いかはともかくとしてすでに多量の荷物が詰め込まれている。中のものを取り出しては床に置きながら掘り進めていた。
「ごめんね~、邪魔しちゃって」
邪魔、と言われたのは2回目だった。文花は首を傾げる。何をしていると思われていたんだろう。鳴坂は視線をロッカーから外さないまま言う。
「やっぱり付き合ってる感じなの?」
付き合ってる感じ。
文花は頭の中でその言葉を反復する。
付き合ってる感じ。
「……何とですか?」
「な、何とですか?」
驚いた顔で鳴坂が文花を見た。
「いや、ふたりが」
「ふたりが……、何と?」
「いや、あの……」
天方が口を挟む。
「違う違う。そういうんじゃないって」
「あ、そう……? 何かごめんね、天方くん。脈なし通り越して埋葬中みたいなの暴いちゃって」
文脈からすると。文花は考える。自分と天方さんが付き合っているかのように尋ねられた気がする。気がする、が、自分に向けられる言葉としては似つかわしくない。そういう文脈だと思って話を続けて勘違いだったら恥ずかしい。よって思考を放棄して黙っていることにした。黙って初めて天方以外の9組クラスメイトと会話をこなした達成感を噛みしめていた。
「いや別にいいけど……。何探してんの?」
「地図帳。先週持ってきて入れといたはずなんだけど」
と言いながら鳴坂はロッカーの中身を全部取り出し終えて、ふう、と一息。真面目な顔で、
「逃げたか」
「いや逃げないでしょ」
「あっれー、どうしたかなあ。誰かに貸したんだっけ?」
床に置いた教科書をひとつひとつ取っては、がこんがこんとロッカーに詰め込んでいく。その姿を見て、天方が、
「貸そうか? どうせ僕は使わないし」
「おっ、ほんと?」
言って、自分の机まで歩いていく。それからごそごそと引き出しに手を入れて探り、
「はい」
「おっすセンキューすけこまし!」
「こましてないから」
「まったまたまた~」
人間が盛り上がっている。
思いながら文花はふたりを見ていた。人間が盛り上がっている場面を目にすると文花は一歩引く習性がある。盛り上がっている人間の勢いについていけないのだ。仮についていけそうでも変なことを言って場の空気を悪くしそうなので何も口を出せないのだ。
「ていうか地図帳って何に使うの?」
「そら試験勉強よ」
「勉強するときにそれ使う?」
「え、使わない?」
「僕はあんまり……。杢野さんは?」
「えっ、はい」
ぼうっとしていたら話が自分の方に飛んできて焦った。
「私もあんまり使いません」
「えー、じゃあいいや。返す。サンキュー天方くん。ごちそうさまでした」
「それでいいの?」
「いいんじゃない? よく考えたら地図帳とかさ……、紙だよ?」
「それは教科書全部そうだけど……」
目の前では会話が繰り広げられていて、文花は窓の外を見ていた。鳥が飛んでいる。入道雲が大きく浮かんでいる。意識してみると、みーん、みーん、と蝉の鳴く声がまだしていることにも気付いた。まだまだ暑くなりそうだなあ、と思う。
「うぅるるルルるるるるるるる」
何か聞こえたくないものも聞こえてしまった気がする。
幻聴だったらいいな、とさっきまで楽しく話していたふたりの方に目を向けた。会話が止まっている。
「犬かな?」
鳴坂が言った。
「くぅきゅぅうるぅぅるううるるうぅる」
「鳥かな?」
鳴坂が言った。そして間を挟んでもう一度。
「猿かな?」
「鬼かも」
天方が返した。文花は水深200mの水底に沈んだ桃の中から人間が出てきたのではないかと思った。
声は廊下の方から聞こえてきた。
「言っていいかな」
鳴坂の言葉に天方が「どうぞ」と先を促す。
「わたしこういうのめっちゃ好き」
言い残した鳴坂は上履きをぱたぱた鳴らして、廊下に出て行った。残された文花は天方と顔を見合わせる。
「……行ってみる?」
あんまり行きたくはなかった。
「どっちから声した?」
「くぅぅるるるるるる」
「親切にありがとう!」
鳴坂が謎の声と会話している。一見そう見えた。
廊下をぎっしんぎっしん鳴らしながら鳴坂が奥へと進んでいく。
「……やっぱりあの倉庫ですかね」
「かなあ」
その後ろを天方は歩幅大きく歩いていく。一方文花はてとてと小走りでついていく。
すぐに突き当たった。が、
「かるるぅぅぅうるうぅる」
「あれ、行き過ぎ?」
声のしたのは、3人の背中側からだった。振り向いて見るが、ここまでは一本道だ。いるとしたら教室の中だけれど、
「いた?」
「いなかった、と思うけど。どう?」
「見ませんでしたね」
「だよねー」
うーん?と鳴坂は親指と人差し指を立てて顎に当て、探偵のポーズ。唇はむむむ、とへの字に曲がる。
それにしても、と文花は思う。何か前とは声の感じが違う気がする。前のは近所の狂犬という感じだったけれど、今聞こえてきたのは動物園で聞こえてくる得体の知れない生き物の声、という感じだ。つまり、あまり危なそうな感じがしない。それにどうやら向かう先は倉庫ではない。なら、別に、いつだって逃げられる。
「くるぅううぅうるるうるるる」
「あ」
もう一度、声が聞こえて、鳴坂が首を曲げる。
「中庭かー。どうやって行くんだろ」
「あ、それなら向こうの廊下に扉がありますよ」
「ほんと? やったね」
前に倉庫に行くときに見つけていた。突き当りを曲がって教室を4個通り過ぎると、ちょうど真ん中に扉がある。また引き戸だ。が、一番奥の扉と違って、ここにはパッと見南京錠はついていない。
「いけるかな?」
鳴坂が扉に手をかける。がちゃん、と古いガラスの軋む音。二、三度揺すると、「あ」と声を出した天方が横から手を出す。2枚の扉の重なっている場所。通常鍵穴になっているだろう場所に、コインのようなものがついている。それを天方が指先でつまんで、くるくると回す。すると、ネジのように差し込まれていたらしく、コイン、というよりつまみとその先の棒が、かたん、と音を立てて降りてくる。鳴坂がもう一度扉に力を入れる。
「よし」
開いた。瞬間、夏の草いきれが文花の顔まで覆うように入りこんでくる。中庭の雑草は腿ほどまで伸び放題で、昆虫がいればさぞ住みやすかろう、という風景だった。
「かるるぅ」
声は近づいた。
「気をつけてくださいね」
言って、さりげなく文花は天方の背中に隠れた。が、「まっかせなさい」と半袖のシャツを肩までまくって草をかき分けていく。
すぐに戻ってきた。足を押さえてぴょんぴょん跳ねながら。
「あっ、無理これ。草痛い。誰か長ジャージ持ってない?」
文花と天方は顔を見合わせる。ふたりとも軽く横に振る。それから今度は天方が一歩踏み出して、
「なら僕が行くよ」
「あざす」
草を分けながら天方が入っていく。
「どのへんから声したっけ?」
「もうちょっと右! そして奥!」
「スイカ割りみたいだね」
わっしゃわっしゃと天方が歩いていく。「うわっ」と顔を庇ったときは文花の肝が冷えたが、実際には単に虫柱か何かに突っ込みかけただけだった。
「かぅるるるる」
最後にもうひとつ声がして、天方が辿り着く。そしておそらくその声のした場所を見下ろして言うことには。
「…………あー」
と、困ったように一声。「くるぅ」とまた下から声。不思議にも、文花にはその声が甘えているように聞こえた。
「なに、何がいた!?」
「えー……、ちょっと待って」
一瞬がちゃん、と鳴坂の動きが止まる。そして1秒置いて、
「よし待った!」
と高らかに叫んで天方が歩いた跡をざっかざっかと進んでいく。そして天方の隣に立ち、見下ろし、
「…………あー」
困ったように一声。こうなると当然文花も気になってくる。
ふたりの歩いた跡を辿って進んでいく。さすがにもうほとんど肌に触れてくるような草もない。楽々その場所に辿り着いて、そこに見た。
「かぅるる」
見た、のだが。
そこにいたものを形容するのはとても難しかった。イヌ科の生き物です、と言われればどうにか納得できないこともない。カラーリングはウミウシを参考にしました、と言われれば、まあそれも納得できる。
が、なぜそこにウミウシのように鮮やかな色の毛並みをした犬っぽい生き物がいるのか。それはわからない。
「……かわいいっちゃかわいい、けど」
ぼそり、と鳴坂が呟く。文花も心の中で同意した。かわいいと言えばかわいいのだ。けれど、明らかにそれはこれまで見たことのある生き物ではなく、そして――、
「限りなく神様っぽいね。この子」
座り込んだその生き物の横、文花たちの足元に、小さく古びた、ボロボロの社が立っていた。