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雨ヶ弥中学旧校舎組  作者: quiet
ハロー、旧校舎
1/8

1. こんにちは新しい学校(旧校舎)

 夏休みの間に学校が倒壊した。


 冗談だと思ったが冗談ではなかったらしい。自転車に乗って30分。車で7分。8月17日。杢野(もくの)文花(ふみか)が見たのは、見慣れた校舎が教室ごと盛大に崩れ落ちている景色だった。照りつける日差しも相まって、夏の幻でも見ているみたいだった。が、現実だった。文花の通っていた中学校は、片手間に封を切ったラングドシャみたいにボロボロになっていた。1階、家庭科室のあったあたりが2階の重みで潰れていて、窓ガラスは罅のないものを探す方が難しく、屋上はある種芸術的な傾きを見せている。怪我人はいなかった、というのが夏休みの恩恵によるのは明らかで、『思春期』と題して写真を展覧会に出せば、それなりに偉そうな先生がそれなりに偉そうな批評をしてくれそうな有様だった。

 実のところを言うと、元々中学校は廃校になる予定だった。

 原因は大多数の例に漏れず、少子化と過疎化。年々少なくなっていく生徒数。実際文花の学年――2年生――は30人を切っていたのだ。来年度には合併という名の廃校予定があった。それに先駆けて校舎は老朽化から自壊し、その役目を終えた。勝手に。廃墟のごとき有様になった教室から不真面目な生徒たちがロッカーで腐らせていた私物を運び出すのを見て文花は思う。もう少しだけでも待ってくれればよかったんじゃないかな。おそらく8月17日、集まった人間のほとんどがそう思っていた。

 何はともあれ、生徒に必要なのは代わりの学び舎だ。朝礼台に上った校長が言った。憲法の話を始めた。われわれ教師には責務がある。生徒たちの将来に対する責任がある。熱中症でひとり倒れた。ふたり目が体育教師の肩を借りたあたりで話はようやく核へと達した。とにかく、まずは学び舎だ。合併予定は来年度だったけれど、どうにか話を通して、9月から新校舎を使えるように進めている。安心してほしい。私たちが何とかする。3人目が倒れた。

 かくして、何の感慨もなく文花は1年半の間慣れ親しんだ校舎に別れを告げることになった。しかしかえってよかったのかもしれない――、文花は思う。

 ほとんど話せる友人がいなくて、退屈だったのだ。




 9月1日。

 通学バス――新たに手配されたらしく、これを逃すと一部の生徒は完全に通学手段がなくなる――何せ1日3本しか出ない――、に30分ほど揺られて辿り着いたのが、新しい学校、雨ヶ弥(あまがや)中学校だった。市街と言えば市街にある。ファミレスが自転車圏内にあるならそれはどう考えても市街だった。文花の感覚では。

 真新しい校舎を横目に見た。しかし吸い込まれる先は、これもまた老朽化の相当進んでいそうな体育館だった。腰かけただけで悲鳴を上げるパイプ椅子に座れたのは僥倖だった。後から後からどんどん制服の違う生徒が入ってくる。立ち見は相当な数に上り、それどころか外に溢れ出している。夏休みが終わってもまだ夏は続く。が、今日はたまたま涼しい日だったので、幸い熱中症の心配はせずに済みそうだった。

 予定より早く始業式が始まった。挨拶も省き省き、すぐに校長――文花の知らない顔だった――、が壇上に上る。曰く、こういうことだった。

 老朽化による倒壊事故があったことを重く見て、来年度の合併を早めることにした。しかし1校だけ早く部分的に合併するのも釣り合いの取れていない話で、当初合併予定だった6校すべてを一気に合併してしまうことにした。が、新校舎の建設はまだ最終段階にない。だから現校舎と旧校舎を上手く使って場所を確保していこうと思う。不便をかけると思うが、よろしく頼む。大人って色々あるんだろうけど全体的にもうちょっとどうにかならないのかな、と文花は思った。

 始業式が終わると、教師陣による生徒の選別が始まった。グループはふたつ。ひとつは現校舎に移動していくグループ。もうひとつは旧校舎に移動していくグループ。前者に選ばれた者の方が圧倒的に多かったにもかかわらず、運悪く文花は後者のグループに選ばれ、そして辿り着いたのは案の定廃墟予備軍みたいな建物だった。というか、ほとんど廃墟だった。廃墟と化した学校を出た先でまた廃墟が待っている。文花は人生のわびさびについて思いを馳せた。

 旧校舎組が最初にやることになったのは、自己紹介ではなく教室の清掃だった。先頭集団が教室に入るのを躊躇して立ち止まった。昇降口から上がるときにも躊躇していた。旧校舎は木造だった。信じられるだろうか。今どき木造校舎である。昇降口の扉まで木でできている。しかも開き戸ではない。引き戸である。教師が戸の縁を革靴で蹴りながら開けているのを文花はちらりと目にしていた。廊下は防犯意識高くなんちゃって鴬張りで、生徒の足音で激烈な不協和音が奏でられる。そして辿り着いた教室内は見事埃の香り高く、すでにくしゃみの止まらなくなっている生徒が複数いる。文花は平気だった。

 旧校舎に集められた生徒は全部で100人いるかいないかなのではないかと文花は思う。3学年でだ。前の校舎での全校集会のとき、これよりやや少ないくらいの人数だった記憶がある。使う教室は学年で各ひとつずつ、計3つだけらしい。が、旧校舎は古びてはいるものの、教室の数自体は多い。現校舎に入らなかった分の生徒が追いやられてきていることは明らかだった。

 そうなると当然清掃のやる気もない。文花の耳に聞こえてきた言葉は、なんで俺たちが、掃除くらい業者に頼めよ、ていうかこれもう汚れ落ちねえよ、とか、そのくらいだった。そして文花も黒ずんだ窓枠を拭きながら、これは明らかに中学生に落とせる汚れではないな、と思っていた。やがて完全に空気は弛緩して、掃除の手も止まってくる。文花はふと気付く。教室にいる若い先生。男性、30代には届いていないだろう眼鏡をかけた痩せ型の教師が、教室の隅を見つめて首を傾げている。知らない人だ。職員室内での権力闘争に負けて旧校舎まで追いやられてきたんだろうな、可哀想に、若手は割を食うんだな。失礼極まりないことを考えながら見続けていると、視線が合った。おそらくこれから担任になるのだろう、目を逸らすのも気まずい。文花から近付いて、口を開いた。

「何ですか、それ」

 聞いたのは、さっきまでその教師が見ていたものだ。窓際の棚の上。古そうな黒い機械が置いてある。安っぽい表面には、いかにもついさっき拭きましたという感じの跡が残っていて、結束バンドで巻かれた太いコードの先には綿ぼこりがついている。

「DVDプレーヤー、……の、はずだったんだけど」

 困った顔で教師はその黒い機械に触れる。持ち上げずに、棚の上で動かすだけして、

「VHSしか再生できないみたいなんだよな、これ」

 VHS。名前は知ってる、と文花は思った。実物も見たことがある気がする。前に両親がリビングで結婚式の頃の動画を再生していたときと、図書館のAVコーナーで。黒っぽい本みたいなやつだ。よく考えたら昔のホラー映画なんかでも見たことがあったと思い出す。

 はあ、と相槌を打った。ちら、と何かを期待するような目で教師は文花を見た。

「どこかに持っていきますか、倉庫とか」

「……頼んじゃっていいかな?」

 初めから頼む気だったくせに。思いながら、

「場所だけ教えてもらえれば」

 と答えて、その黒い機械、VHS再生機に手をかけると、別の方から声が飛んでくる。

「せんせー、この定規折れてますけど」

 男子生徒の声だった。が、一瞬文花はそれが男子だと認識できなかった。女子とも認識しなかった。一瞬だけだ。ただ、髪の長さが中途半端なのとやけにこざっぱりした顔立ちをしていたので、どちらでもないように一瞬だけ思えた。男子は手に大きな三角定規を持っている。30度、90度、60度。30度の部分の先が折れている。

「うわ、これ危ないな」

「教卓の中に入ってましたよ。他は大丈夫っぽかったですけど」

「あー、じゃあそれも倉庫にお願いしちゃうか。悪いんだけど、ふたりで行ってきてくれるか? 廊下進んだ一番奥が物置になってるから」

「はーい」

 間延びした返事をして、そのあと男子は文花を見た。そして文花の手にあるVHS再生機と、自分の手にある折れた三角定規の間で視線を行き来させて、

「重いのと危ないの、どっちがいい?」

 文花は危ないのを選んだ。




「何さん?」

 という言葉が名前を尋ねているのだと理解するのに少し時間がかかった。なるほど、同年代ではそういう聞き方があるのか、と文花は思う。田舎に生まれて田舎で育つと顔見知りでない同世代と新しく接触する場面は著しく限られてくる。杢野文花です、と答えたはいいものの、下の名前まで言う必要があったのかな、とかそういう居心地の悪さが舌の上に残る。男子は天方(あまかた)(かなめ)と名乗った。

「いやー、びっくりしたよね」

 というのが会話のとっかかりだった。文花は、「はい、びっくりしました」と鸚鵡返しに言った。

「まさかこんな廃屋みたいなところで過ごすことになるとは思わなかったよ。でもこれも逆に貴重な経験って感じ? 杢野さんは前の学校どんなだった?」

「倒壊したところです」

「え! ほんと? すごかった?」

「すごかったです」

 なぜ一方的に敬語を使っているのか。これには訳がある。文花はコミュニケーション能力が低く活発な性格でもないため初対面の人間に砕けた態度で接することができないのだ。親戚の小学生にすら敬語を使って接している。親戚の小学生からはナメた口を利かれている。しかし、相手は気安いぞ、と文花は思う。明るい感じがする。かといって、デリカシーのなさそうな感じもしない。ここを足掛かりにできれば新しいクラスでは浮かない気がする。どうにか自然な形で敬語を取り外そう。文花は虎視眈々と機会を窺う。心の底では向こうから「敬語いらないよ」と言ってくれるのを待っていた。

「へえー、そうなんだ。ちょっと見たかったなあ。あ、こっちかな?」

「たぶんそうですね」

 廊下の突き当りに達した。曲がる方向もひとつしかないので右に曲がる。するとまた同じような廊下が続いている。今さっき通った道を文花は振り返る。教室が8つ。これから進む道も同じくらいの数の教室がある。1階部分だけで16クラス分。外から見た限りだと旧校舎は2階建てに思えた。昔はこの旧校舎にも結構な数の生徒が通っていたことが窺える。右手――、廊下の内側の窓からは雑草が伸び放題――、というか草むらのようになっている中庭が見える。ふたつ目の廊下を歩くうち、その中庭に面した扉があるのを発見した。ひょっとすると渡り廊下のようなものもあるのかもしれない――。これから使うことがあるかはわからなかったが。

「それにしても広いね」

「ですね」

 喧騒はすでに遠くなっている。旧校舎でこれから使われるのは昇降口近くの3つの教室だけだ。今のように奥の方に進んでいくと、どんどん廃墟めいた静けさが目立ってくる。今なら世界が滅びても何の関係もないんじゃないか、文花は思った。一歩一歩、踏み出す足が廊下を軋ませる。通り過ぎていく柱は歴史と退廃の狭間にある。埃の臭いに混じって、湿ったような木の香りがしていた。

「でも正直言うと合併が早まって助かったかも。僕、元々2学期にこっちに転校してくるつもりだったからさ。中途半端にひとりだけ混ざるよりは、今みたいに色んな人が入ってきた方が気が楽でいいや」

「へえ、そうなんですか」

「そうなんですよ。っと、ここでいいのかな。それともあっちの建物が倉庫?」

 次の突き当りに至った。左手に教室よりも大きな部屋がある。が、中は覗けない。これまでの教室部屋と違い、そこだけが開き戸の部屋になっていて、廊下に面した窓がないのだ。一方、天方が『あっちの』と目線を向けたのは、突き当りの先。突き当りと言ってもひとつ目のものとは違い、壁ではなくまた引き戸になっている。ただし、小さな南京錠付きの。締め切りということだろうか、先は外に繋がっているが、同じく木造の、小さな倉庫のようなものもある。聞かれても文花にはわからなかった。だが、鍵のかかった先には進めない以上、取る選択は限られる。

「とりあえずこの中を見てみませんか」

「そうっすね」

 文花は天方が合わせて敬語染みてきていることに不安を覚えつつある。天方の両手は塞がっている。文花が先に扉を開ける。内開きの戸だ。ざらりとしたノブの手触り。油の足りてなさそうな音が盛大に響く。中に入って押さえている間に、天方も入ってくる。

 中は暗くて何も見えなかった。まさか窓がないわけではないだろうと思う。思う、が、それすらもよくわからない。

「そのへんに電気ある?」

 天方の言葉に探す。電気スイッチなんてものは大抵の場合扉の近くにあるに決まっている。だから適当にあたりをつけて手探るが――、

「いたっ」

 ささくれが指に刺さった。思わず手が跳ねる。体勢も変わる。ばたん、と無情な音を残して扉が閉まる。部屋は真っ暗になった。

「大丈夫?」

 と声。「あ、はい」と返した文花は一瞬指先に触れて、ささくれが刺さりっぱなしになっていないことを確認し、場所を忘れないうちに、とドアノブをつかむ。ひやりとした感触。よかった。回す。

「あれ」

 回らない。いや回る。回るのだが、回っていない。回しても扉の留め金になっている部分に連動する感触がない。そのまま引いてみる。がたん、と扉が揺れる音。動きはしない。もう一度回してみる。一回転した。

「オートロック?」

 天方の言葉。それならどれだけよかっただろう、思う。

「……壊れたかもしれません」

「えー、ほんとに?」

 よいしょ、と暗闇で声がする。それから物を置く音。ごそごそ衣擦れの音がした後、急にパッと明るくなった。

「どんな感じ?」

 天方の手には携帯があった。ライトを点けて扉のあたりを照らしている。それからノブに手をかけてくるくる回し、「ダメそうだねこれ」と言った。文花はまず携帯を学校に持ち込んでいる中学生がいることに驚いた。そして次に安心する。最悪の場合でも外との連絡手段がある。

「しかも電気見つかんないし」

 ドアのあたりを照らしていた天方が言う。それからふと思い出して文花は言う。

「あの、すみませんでした」

「え?」

 心底不思議そうな声が返ってきて、

「あ、別にいいよ。全然。お化け屋敷みたいで楽しいよね」

 と軽い声が返ってくる。「しゃーない、窓から出よっか」と天方が足元を照らしながら奥に進んでいくので、文花も後に続く。二、三度脛をぶつけたあたりで天方が後退して歩幅を合わせた。ダンボール箱や椅子を初めとして、雑多なよくわからないものが床に散乱している。結局たどり着くまでにもう一度転びかけた。

「あれ」

 しかし、窓辺で天方は声を上げる。文花も同じく首を傾げた。

「カーテン、じゃない?」

「だよねこれ。壁?」

「そんな感じですね」

「ありゃー、外れたなあ」

 てっきり遮光カーテンになっているのだと思っていた。そのせいで部屋に光が入っていないのだと。が、実際には。ライトで照らしてみても黒色以外にわかる部分はほとんどないが、どうやら部屋の奥も純粋に壁になっていて、単に窓のない部屋だったらしいことがわかる。一旦扉の前に戻ることにする。「おーい」と天方が声を上げて扉を叩く。が、人の来る気配はない。この倉庫と教室は随分離れている。そこでふと文花は三角定規を持ちっぱなしだったことに気が付く。少しだけ奥の方の床に置いて、それから危ないな、と思い何だかよくわからない棚だか机だかの上に置いた。天方が揺らし続けていた扉の音が止まる。

「いっそ蹴破ってみる?」

 冗談めかした口調で天方が言った。やってみたい。内心文花はそう思ったが、新しい学校でいきなり問題はごめんだ。「どうしましょうか」と言うに止める。

「うーん、どうしよっかね」

 もう一度天方が扉を揺らすと、

「あ」

 ごん、と鈍い音がした。

「取っ手とれちゃった」

 あちゃー、と天方は言った。

「なら動かせるようになったりしません?」

「……ダメっす」

「内開きですけど」

「ダメっすねー」

「ダメっすか」

 困った。こうなるとやれることも大してなくなってしまう。窓のない部屋。唯一の扉はドアノブが取れている。まさか隠し扉があるわけもない。

「ていうかこの校舎やっぱりボロボロだね。ここも倒壊しちゃうんじゃない?」

「確かにそうですね」

 文花は大いに同意する。倒壊したから新しい校舎に移る。これはわかる。ついでに全員移動させることにしたら現校舎からあぶれる生徒が出たのでさらにボロボロの校舎に押し込める。これがわからない。さすがに前に倒壊した校舎だって木造ではなかった。誰もおかしいと思わなかったのだろうか。

「いつ頃先生気付くかなあ」

 天方の呟きに、文花は首を傾げる。

「携帯で呼べばいいんじゃないですか。学校の電話番号とか調べて」

「圏外なんだよね」

「え?」

「圏外」

 ほら、と天方が見せたのは暗闇の中では目に痛いくらいの輝き。携帯の画面。電波はひとつも来ていない。「地下鉄以外で初めて見たかも」と天方が言う。これでやれることは大してない、どころか完全になくなってしまった。

「……待ちましょうか。すみませんでした」

「まあまあ。どうせ僕が扉持ってても同じようなことになったよ。むしろ誰かに気付いてもらえそうなときに扉が壊れたんだから、かえってラッキーだって」

 すさまじく前向きだ。文花は思う。相当性格の良い人に違いない。

「……ありがとうございます」

「いいのいいの。お昼前には気付くでしょ。今11時ちょっと前くらいだし、すぐ来るよ」

「そうですね」

「それより新しいクラスどう? どんな感じ? 前の学校の友達とかいる?」

 急な話題の転換に戸惑う。が、ただ黙って待っているよりは何か話している方がましだろう。文花は答える。

 答えようとした。「友達いません」と。直前でやめた。

「……いや、その。あんまりまだ誰がいるか見てなくて」

「ああ、そうだよね。それに6校から集まったんだから、単純計算で――、ひとつの学校から5人ずつくらい? あんまり被ったりしないよね」

「はい」

 ついさっき清掃のときに見た、クラスメイトたちの制服はバラバラだった。おそらく夏休み前のクラスや学校なんかは関係なくて、改めてクラスを編成したのだと思う。だから誰がいるか見ていないのは本当だった。が、たとえクラスがそのまま移動してきたとしても「前の学校の友達とかいる?」という質問には「いいえ」と答えなければならなかっただろう。一年半。ほとんどクラスが持ち上がりだった小学生時代を含めると七年半。七年半かけて文花の交友状況は今日初めてやってきた転校生と同等だった。

 考えていると虚しくなってきた。

「とりあえずこれから半年よろしくね。こんなときに言うのもなんだけど」

「あ、はい。こちらこそ」

 言われると、何だか逆にラッキーだった気がしてきた。天方の言い分ではないが、そのうち助けが来るのは間違いない状況だ。教室にいたらまず誰とも話さず家に帰って余ったそうめんでも食べて寝ていただろうが、今この場では「よろしくね」とまで言われている。「よろしくね」。一生聞くことはないだろうと思っていた言葉だ。

「よろしくお願いします」

 改めて言った。ん、と声が返ってきた。

 それからしばらく時間が経つ。文花の体感では20分くらい。実際には10分過ぎるかそこらだっただろう。

 突然、部屋の奥で物の崩れ落ちる音がした。

「ひゃっ」

 と思わず声を出してしまう。一方隣にいるだろう天方からは動揺の声は上がらない。

「なんだろね」

 その声があまりにも平常すぎるので、文花は妙に反応してしまったことに気恥ずかしくなる。が、それだけでは終わらなかった。

 立て続けに物の崩れる音がする。積み上げたものが何かの拍子に自然に崩れたような、そういう一過性の音ではない。何かの暴れるような音だ。何か動物が、暴れているような音。後ずさる。拍子に天方と身体が触れる。音はどんどん激しくなっていく。

「うぅうううぅぅううううづうふぅふヴづふづうう」

 声が響いた。文花のものではない。隣の天方のものでもない。暴れる音のする倉庫の奥から、唸り声が響いている。狂犬のような声だった。が、文花にはわかった。

 人の声だ。

 この倉庫にいたのはふたりではなかった。窓のない部屋だ。そして扉の壊れた部屋だ。他に入り込める場所はない。だから、初めから3人いたのだ。この光のない部屋に自分と隣に立つクラスメイトが入ってきたとき、すでにもうひとり、奥でじっと息を潜めていた人間がいたのだ。

 そしてそれが今、狂ったように暴れていた。

 もう担任の迎えを待つとかそんな状況ではなかった。密室だ。逃げ場がない。にもかかわらず何も見えない。どんな人間が暴れているかもわからない。文花の頭の中では深海から一度も陸に上がったことのないような体毛のない人間が包丁を咥えて目玉をかっぴらきながら手足をむちゃくちゃに振り回すイメージが浮かんでいる。頭の中で恐怖は加速していた。

「うヴっふうヴぅぅヴぅヴうふふヴうううううふぅぅううぅううううう」

「あー、どうしようかな……」

 場違いなくらいのんきな声がした。天方の声だった。どうしようって、どうにかできるんだったらどうにかしてほしい。思う。思って、思わず天方を盾にするように背中側に回り込んだ。

「アァアアアアッ!! アァアアアアうぶヴヴうふふうぶふううヴ」

 声はますます激しさを増す。断末魔のようにすら聞こえてくる。そのとき文花の口から出た言葉は、

「た、助けて……」


 それで、音が止まった。

 声が消えた。


「あ、やば」

 次の瞬間、抱き寄せられた。

 不意の体勢変化に足が引っかかる。転びそうになる身体がちょうど体重を預けたように誰かの両腕の中で抱え込まれて動く。

 次の瞬間、光った。

「オァアアァアアアアアア!!」

 一際大きな声は、すぐ近くで聞こえた。

 聞こえて、通り過ぎて行った。

「あっぶなー……」

 耳元で声がした。安堵の息も聞こえる。天方のものだった。

「え……?」

 何が起こったのかわからなかった。だからまずは周囲を見渡して状況を確認することにした。

 光。それはすぐ近くから差し込んでいる。この部屋で唯一光の通り道になる場所。扉だ。扉が開いている。さっきまで少しも動かなかった扉が。

 さっきの声。文花のすぐ近くを通り過ぎて行った声。今さっきのことだから何となくどちらに行ったかはわかる。扉の先だ。外へ出て行った。あの声は、扉を抜けて、廊下に出て行った。

 自分。扉のすぐ横にいる。壁を背にしている。

 そして目の前に天方の顔がある。

 抱きかかえられている。両腕で。結構きつめに。

「あの」

 声をかけたら目が合った。

 2秒くらい、見つめ合った。瞳に映った自分の顔が、見えそうな距離で。

「わ、ごめん!」

 天方がそう言って手を離したのを合図に、文花の気力は限界に達して、

「死んじゃうかと思った……」

 へなへなと、その場で腰を抜かした。




 新学期早々の不審者騒ぎは、結論から言うとほとんど問題にならずに終わった。

 あの後戻った先の教室では、倉庫に向かったときと変わらず気の抜けた清掃が続いていた。「悪いね、ありがとう。倉庫の場所わかった?」と優し気な顔で尋ねてきた担任に、「何かヤバイ人来ませんでした?」と天方が尋ね返すと、首を傾げられた。

 不審者がいたかもしれない、と報告すると、担任は血相を変えた。が、すぐに天方が言い直した。野良犬だったのかもしれない。暗かったから姿は見てない。けどすごい声で唸ってて怖かった。すると話は一気に単純になる。そういうこともあるから気をつけましょう、だ。「後で戸締り確認もしてみるよ」との担任からの言葉もあった。が、全体的に言ってしまえば校庭に犬が迷い込んだときと同じくらいの騒ぎにしかならずに終わった。

 しかし、文花は思う。あれは野良犬なんかじゃなかった、と。天方の言葉に自身、本当にあれが人ではなかったような気もしたが、一瞬だった。なぜ、と考えても理由はわからない。が、文花は思う。あれは少なくとも野良犬じゃなかった。人だった、と思う。

 何となく、あの唸り声には、言葉があったように思えたのだ。

「天方さんは、あれは犬だと思ったんですか」

 事情を説明し終えて担任が席を外している間、文花が尋ねると、天方はこう返した。

「さあ? 正直言うとよくわかんなかったよ。でも違うかもしれないのにあんまり大事にするのも、ほら。転校してきたばっかりだしさ」

 その言葉には文花も同感だった。新しい環境でいきなり悪目立ちはしたくない。実際のところ姿を見ていない以上、「人だった」と言い張るのも無責任に思える。倒壊事故のあった後だ。「かもしれない」と伝えるだけで学校側も対策してくれるだろうことはわかる。落としどころだろう。そう思える。けれど、何か引っ掛かりも感じている。

「そうですね。……天方さん、今更ですけどありがとうございました」

「いやいや気にしないで。こっちこそごめんね」

 ごめんね、と謝られたのがなぜか、よくわからなかった。が、数瞬遅れて思い出す。ああ、あの抱きしめられたことか、と。けれど文花は気にしていなかった。あれがなかったら自分だってどうなっていたか――、

「あ」

 と、思い出した。

「天方さん」

「ん?」

「どうやって、あの扉を開けたんですか?」

 そもそも自分たちがあの倉庫にとどまっていた理由。密室になっていたはずの部屋が、あの一瞬で解き放たれた理由。偶然にしてはタイミングが良すぎる。

 天方はその質問を受けて、一瞬、視線を逸らして、考え込むようにした。

 その後、隣に立つ文花に軽く顔を向け、片目を閉じて、右の人差し指を唇の前に。そして言った。

「さあ、なんで開いたんだろうね」

 その表情は、ひみつ、と言っているようにしか見えなかった。

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