6月7日 (月) 心つなげて
課題曲の練習を始めてから、あっという間に10日が過ぎた。自由曲も少し練習したし、課題曲については大分歌えるようになってきた。毎日の練習は課題曲を中心にして、自由曲をちらほら、あとはコンサートに向けて色々な曲を練習している感じだ。
土日も活動時間こそ短いが、休みなく練習を続けていた。以前までの私では考えられないくらい、くたびれつつも充実した毎日が少しずつ日課になってきていた。この日も授業を終えた私たちは音楽室に集合していた。
「今月末はテストだねえ。」
隣にいた豊島さんが憂鬱げにそうつぶやいた。すっかり意識の外に出ていたが、今月末から来月頭にかけて夏休み前の期末試験が待っている。合唱の練習ばかりに気をとられていた私は、家に帰ったらぐったり休む事を繰り返していたため、勉強らしい勉強はまるで手をつけていなかった。
「勉強ちゃんとやってる?」
桜庭さんの問いかけに、私だけでなく豊島さんや棚橋さんも首を横に振った。
「ダメねえ、みんなそろって。」
ため息を漏らす桜庭さんに、豊島さんが噛み付いた。
「むう。澄佳ちゃんはやってるのかよお。」
「みんなって言ったでしょ。私も含めてって事よ。」
「抜け駆けされたかと思ったじゃんか。それならいいんだよ。」
「いや、良くはないと思うけど・・・。」
桜庭さんは呆れ気味にそう言った。
「まあ、冗談抜きにして死活問題だな。部活ばっかりで勉強まで手が回らないんだよね。」
私が言おうとしていた事を、棚橋さんが100%の精度で代弁した。
「じゃあさ、みんなで勉強会やろうぜえ。」
名案といわんばかりに、豊島さんが声をあげる。
「お、それいいね。夏凪は理系クラスだし、数学教えてもらおうかな。」
「え、ちょ、ちょっと待って。私理系クラスだけど、数学苦手なんだけど・・・。それに私だけじゃなくて藍子ちゃんも同じクラスなんだから理系だよ。」
私は、期待の眼差しをこちらに向ける棚橋さんを牽制した。豊島さんは自分に振るなというオーラを出しながら首を横に振っていた。彼女も数学は苦手のようだった。
「えー!?じゃあ何で理系にいるのさ!」
裏切られたと言わんばかりに棚橋さんが追求してくる。
「理科系の科目が好きなだけだもん。数学は嫌いだし苦手・・・。」
「今回も終わったかな・・・。」
「終わったわね。主に数学は。」
「始まる前に終わっちゃったよお・・・。」
私の発言で3人のテンションが一気に下がった。でも仕方がないじゃないか!理系クラスでも数学嫌いはいるんだよ、多分。私には責任はない。一切ない。それに、理系クラスだからって頼られるなら、豊島さんだって同罪なんだからね。
色々と話していると、木村先輩が一人の男子を連れて音楽室に入ってきた。あれ?何か見覚えがあるようなないような?私はその男子の顔を見てそんな事を思った。名前は知らないけれど、顔には見覚えがあった。そうだ、隣のクラスの男子だ。うちの学校は体育のときに2クラス合同でやるから、その時に見かけたんだ。でも、どうして音楽室に?私は一人で首を傾げていた。
木村先輩とその男子は、西島先輩と何かを話していた。内容は聞き取れないけど、西島先輩の表情を見る限り、何だか嬉しそうだ。色々と思考を巡らせていたら、折原君が音楽室に現れた。
「ちーす。」
いつもの挨拶が音楽室に響く。その直後、折原君があっと声をあげた。
「早瀬!やっと来てくれたのか!」
折原君は大きな声でそう言うと、木村先輩が連れて来た男子の方に近づいていった。どうやら、早瀬君というらしい。とりあえず、ひとつ情報を手に入れたぞ。そんな事を思いながら、私が引き続き彼らの会話に聞き耳を立てた。みんなの雑談は続いているが、そっちは申し訳ないが頭に入ってこない状態だ。
「おう、折原。早瀬君は今日から参戦してくれるんだってさ。」
「マジか!ようやく木村君の説得に応じたか。」
あれ?折原君も木村先輩の事木村君って言った?豊島さんもそう呼んでたし、流行っているんだろうか、この呼び方。そんな事よりも、参戦って事は、前に木村先輩が話していた男子の助っ人って早瀬君の事?そんな事を考えていたら、耳元で大きな声が響いた。
「かーな!!」
棚橋さんの声だった。
「ひゃいっ!?」
私は驚いて変な声を出してしまった。
「何をボーっとしてるんだよ。何回も声かけてるのにさ。」
「あ、あれ?そうだったの?何の用事?」
「いや、特に用事はない。」
「もー、びっくりしたじゃない!」
「いや、立ったまま気絶してるのかと思って・・・。」
「どんな器用人間なのかな、私は・・・。」
私と棚橋さんのやり取りを見て、豊島さんと桜庭さんは笑っていた。そんな事をしていたら、木村先輩が声を出しながら手を叩いた。
「はい、みんな注目ー。」
それに合わせて部員の視線が木村先輩に集まった。
「練習始める前に、みんなに新しい助っ人紹介するよ。じゃ、あとよろしく!」
木村先輩は軽い感じでそう言いながら、早瀬君に話を振った。早瀬君は少し困ったような顔をしながら、話し始めた。
「今日からお世話になります、2年8組の早瀬悠貴です。合唱は経験無いですけど、少しでも役に立てるように頑張るので、よろしくお願いします。」
彼は淡々とそう言いながら頭を下げた。落ち着いた口調から、何となく真面目な性格なんだろうなと想像できた。
「ってなわけで、みんなよろしくね!強力な助っ人を獲得した俺に皆さん拍手を!」
木村先輩はとても上機嫌にそんな事を言った。
「いいぞお、木村君ー!」
その場のノリに合わせて、豊島さんが手を叩きながら先輩を褒め称えた。
「まったく、木村君にも困ったものねえ。」
近くで西島先輩がそうつぶやいた。だが、西島先輩も嬉しそうにしていて、まんざらでもなさそうだ。私のときは緊張していて気がつかなかったが、こうやってみんな歓迎してくれていたのかと今更ながら感じる。早瀬君が気恥ずかしそうに振舞っているのを見て、私自身も助っ人に来たときの事を思い出して何だか恥ずかしくなった。
「男子の助っ人が増えるのは喜ばしい事だよ!」
隣で豊島さんがそんな事を言った。
「男子は少ないからなあ。一人増えるだけでも大分違うだろうね。」
「そうねえ。これで折原君のワンマンショーが少しは落ち着けばいいんだけど。」
棚橋さんと桜庭さんも、期待をこめているようだった。
「夏凪ちゃんさー、早瀬君とは面識ないの?」
豊島さんが何か期待をこめた視線を私に向けてくる。
「ないよ。見た事はあるけど。藍子ちゃんは?」
「ボクも体育の時に見かけたことがある程度さ。ちぇっ、面識があるなら、それを利用して数学を教えてもらおうと思ったのに!」
「何なの、その打算的な話は・・・。」
「ボクにとって数学は死活問題なんだよお。前は赤点とって手厳しい補習を受けたんだよ・・・。だから夏凪ちゃんが早瀬君と面識あるなら、架け橋になってもらおうと思ったのに!」
「うわあ、めちゃくちゃ打算的だあ・・・。」
私はぐったりとうなだれてしまった。
「これなれば仕方あるまい。自ら突撃あるのみさ!」
豊島さんはそう言うと、木村先輩、折原君、早瀬君の3人で話しているところに突撃していった。
「ちょ、ちょっと!何なのその社交性は!」
「面白そうだから私たちも行ってみよ。」
慌てる私を尻目に、桜庭さんはとことこと豊島さんの後を追って行った。棚橋さんも黙ってその後に続いた。人見知りの私からすると、みんなのこの行動力は理解に苦しむところだ。一人取り残されるのも何だか嫌なので、私は棚橋さんに隠れるようにこっそりと後を付いて行った。
「折原君、木村君、ちーす!」
「豊島さん、ちーす。どしたん?」
「ボクたちの事も紹介しておくれよ!」
日頃からノリのいい折原君を利用して、豊島さんがぐいぐい攻め込んでいく。
「おお、そうだな。こいつは早瀬っていうんだけど、俺と木村君のゲーセン仲間なのさ!」
「ほほーう、そいつは楽しそうだねえ。ボクはアルトの豊島藍子。藍子でいいよお。ボクは7組だから、お隣のクラスだよね。で、ボクの隣にいるのが千穂太・・・むぐう!」
「自己紹介くらい自分でするからいいって。私はソプラノの棚橋千穂。トヨの言う事は基本的に気にしなくていいから。」
「私は桜庭澄佳。よろしくね。担当はメゾソプラノ。」
3人は次々に自己紹介を始めた。初めて会う相手によくもまあこんなにスムーズに挨拶が出来るものだ。見習いたいけど社交性などゼロに近い私には絶対に真似出来ない。でも、一人だけ黙っているのは変だから、出来る限りの笑顔を作って自己紹介をしてみた。きっと、引きつってただろうけど。
「あ、あの、私は倉石です・・・。7組の・・・。」
「そそ。早瀬君の前に助っ人で入ってもらった倉石さんって言うんだ。」
固まって言葉が出ない私の代わりに、木村先輩が助け舟を出してくれた。
「みんな、よろしく。全然分からない事ばかりだから、色々教えて欲しいな。」
早瀬君は少し表情を緩めて静かにそう言った。さっきの自己紹介のときに感じた印象に加えて、大人しそうな雰囲気があった。木村先輩や折原君と仲がいいみたいだけど、同じタイプにはあまり見えない感じだ。この3人が一緒に遊んでいるところって、あんまり想像がつかないなと思った。
「早瀬君は合唱は初めて?」
桜庭さんがそう質問した。
「うん、そうだね。授業でやったくらいかな。楽譜も全然読めないんだよね・・・。」
「慣れるって!俺でも大丈夫だったんだから!」
横から折原君が勢いよく会話に割って入った。そんな折原君に対して、早瀬君がぴしゃりと言った。
「折原でも大丈夫なら、俺も出来るかなあ。多分だけど。」
「早瀬君、それ正解かも。」
桜庭さんはくすくすと笑い始めた。
「なんか、俺の扱いひどくないですかねえ・・・。」
「いや、お前が自分で言い出したんだろ・・・。」
「・・・でしたね。」
抵抗を試みた折原君だったが、木村先輩の的確な一言で全てを打ち砕かれたようだった。ぐったりしながらも、折原君は何だか嬉しそうだった。男子が少ない中に早瀬君が入ってきてくれたから、内心喜んでいるのだろうな。そんな風に感じた。
「木村君、助っ人さんはこれで全部なのかい?」
「ああ、助っ人探しの旅はひとまず終了さ。この面子で、大会まで頑張ろう。」
豊島さんの問いかけに、木村先輩は安堵したようにそう答えた。
「そういや、三国坂って今年は名誉の欠場なんだっけ?」
折原君が唐突にそんな事を言う。三国坂というのは私たちの隣の学区の高校の事だ。正式名称は県立三国坂女子高等学校で、偏差値はうちの学校よりも結構高い。でも、なぜここで名前があがるのか私には分からなかった。
「そうだね。だから、今年こそは地方大会まで行きたいところなんだよね。」
「名誉の欠場って何ですか?」
私は木村先輩にそう尋ねた。
「ああ、名誉の欠場ってのは、全国大会に3連続で出場した団体が、次の大会には出られないっていう規定の事。三国坂は全国常連だから、今年は欠場なんだよね。だから、前回ダメ金だった俺らにも、今年はチャンスがあるってことさ。」
「木村君、夢がなさすぎだろ。そんな空き巣みたいな勝ち方は俺はごめんだね!狙うは1位よ!圧倒的勝利をこの手に!」
折原君が力強くそう言い放ちながら握りこぶしを作った。冗談ではなく、本気でそう思っているようだ。
「そうだな。助っ人も揃った事だし、みんなで頑張ろう。」
木村先輩は微笑みながらそう言った。
その後、声出しのために定位置に着いた私は、棚橋さんに尋ねてみた。
「千穂ちゃん、三国坂って合唱強いの?」
「ああ、あそこはちょっと別格かな。毎年多少は増減するけど、100人規模の合唱団だし、人数が多いから迫力も段違いなのよ。」
「100ってすごいね・・・。」
「うん。折原はバカだけどさ。」
「えっ?」
「バカだけど、あいつが言う事はもっともだと思うんだ。やるからには、どこが相手だろうと勝ちたい。」
棚橋さんは前を向いたままそう言った。その言葉には、決意が込められているようだった。折原君が言っていた事っていうのは、1位を狙うの部分だろう。私は、三国坂がどのくらい強いとか、他の学校の強さとかそういうのはまだよく分からない。でも、木村先輩の思いや、折原君の意気込み、棚橋さんの決意は私にでも分かる。
「私も頑張るから。」
私はまっすぐに棚橋さんを見つめた。そんな私を見て、彼女は微笑んでくれた。
「夏凪、ありがと。あと二ヵ月半、がんばろ。」
「うん、色々教えてね。」
私も、みんなに負けずに頑張りたい。知識も経験も足りないけど、心だけはせめてみんなと一緒に。それが今の私の願いだった。