5月27日(木) 1に筋トレ、2に筋トレ、3は何?
今日は思ったよりも余裕を持って学校に到着できた。教室のドアを開けると、豊島さんと目が合った。彼女は私に向かって軽く手を上げると、何やらカバンをごそごそと漁り始めた。
「おはよ!」
「おはよう、藍子ちゃん。」
やけに元気のいい挨拶に軽く返したところ、彼女が何かを差し出してきた。プリントだろうか?
「ほい、これ。」
「なあに、これ?」
私は渡されたプリントをパラパラとめくってみた。これは楽譜だ。みんなが昨日話していた、課題曲のものだろうか。
「これ、課題曲の楽譜?」
「そそ、自由曲のもあるよ。部活の時に渡そうと思ってたんだけど、もう我慢出来なくてなー。」
豊島さんはそう言いながら笑った。
「我慢出来ないほどの何かがあったのかな・・・。」
「そりゃあもう。」
何が我慢出来なかったのかは結局分からずじまいだ。胸を張って答えた豊島さんをそれ以上追及する気も起きなかった。
私は渡された楽譜を流し見ながら、これまでに音楽の教科書などで見た事がある楽譜とは大分違う事に気がついた。何となくは読めるけど、明らかに難しい。この前聴いた曲だという事は分かっているため、頭の中で再生しながら楽譜を追ってみる。漠然としたイメージだけは何とかつかめるけど、実際に歌えるかどうかはまた別問題だ。
「夏凪ちゃん?」
「うわあ、藍子ちゃん近い近い!」
突然、私の顔と楽譜の前に豊島さんの顔が割り込んできた。なんという体勢をしているのか。
「ごめんよお。何か難しい顔してたから、ちょっかい出したくなった。」
「私、そんなに変な顔してた?」
「変ではないよお。何か楽譜で分からないところあった?」
「うーん、私ほとんど楽譜なんて見た事ないから、あんまり分からないよ。」
分からないところが分からない、と言ったほうが正しいかもしれない。典型的な初心者が陥りがちな状況だ。あくまで曲の流れのイメージがついているだけであって、詳細はさっぱりだ。所々についている記号の意味すら曖昧なんだもの。
「歌っていくうちに慣れるさー。とりあえず音程覚えて、あとは強弱のつけ方とか、流れを覚えていく感じだよ。」
「んー。今見た感じだと漠然としたイメージしかつかめてないけど、大丈夫かなあ?」
「イメージがつかめるだけでも大したものさ。ボクなんか、最初は何も分からなかったもの。」
「そっかあ。でも、大会まで3ヶ月なんだなって思うと、何か焦っちゃって。」
「正直、3ヶ月しかないって考えると不安に思う気持ちも分かるよ。でも、ボクは夏凪ちゃんが来てくれただけで嬉しいよ。だから、夏凪ちゃんももっと気楽に楽しんでほしいな。」
面と向かってそんな事を言われると、何だかむず痒くなってしまう。でも、私も嬉しいんだ。こうして豊島さんと知り合えた事、みんなと出会えた事が。もっとも、そんな事恥ずかしくて口に出す事は出来ないけども。
「ありがと。何だか少し気持ちが楽になったよ。」
「おう!その意気だよ!」
何だか、豊島さんはいつもハイテンションでおどけているイメージがあったけど、こうして真面目に話す事も出来るんだなと感じた。普段はおふざけキャラみたいにしているけど、私の気持ちを理解して思いやってくれている。私は少しだけ、豊島さんの事が理解出来た気がした。
「そうだ、ついでにこっちも渡しちゃおう。」
豊島さんはぽんと手を叩くと、今度は廊下のロッカーから大きめのファイルを取り出してきた。
「ほい、これもあげるよっと。」
「何これ?」
豊島さんから渡されたファイルはずっしりと重かった。開いてみると、中には多数の楽譜が収められていた。
「これはねえ、夏休み中のコンサートで使う楽譜だよ。大会の自由曲も入ってるからね。こっちはたくさんあるから、頑張って覚えておくれよ。」
「コンサート?」
「あれえ?木村君から聞いてないのかい?」
木村君って先輩の事?何で君付け?突っ込みを入れたいところはあったが、それは後回しだ。
「大会の事しか聞いてないよ。」
「もー、ダメだなあ木村君は。コンサートは8月7日なんだけど、これは大会とかじゃなくて、発表会って言うのかな?ボクたちだけでやるんだよ。」
「学内のコンサートって感じ?」
「お客さんは外部の人たちも来るよ。課題曲とかあるわけじゃないから、自分たちで歌いたい曲決めて、演出とかも全部決めてって感じ。楽しいよー。」
「そこで、こんなにたくさん歌うの?」
私はファイルの中に納められた楽譜を見ながら尋ねた。ざっと見ただけでも10曲くらいはある。でも、合唱曲ばかりというわけではなく、校歌だったり、普通のJ-POPも混ざっていた。
「ふふん、集大成ってやつだからねえ。3年生は大会終わったら引退しちゃうから、思い出作りって意味合いもあるのさ。」
「なるほどねえ。それにしても、こんなに覚えられるかな・・・。」
「大丈夫大丈夫。こっちは気楽に考えてればいいよお。基本的には大会の曲の練習が優先だし、こっちは疲れたときに気分転換に歌うのさー。」
大会の課題曲と自由曲が一曲ずつ。コンサート用の曲が10曲以上。それを3ヶ月でやるとなると、逆算すると一曲あたり何日で覚えればいいんだろうか・・・。だめだ、考えると気が遠くなる。みんながやってる練習の中で、少しずつ覚えていくしかない。
その日の放課後、私はいつもの3人と合流して音楽室に向かった。
「トヨ、ちゃんと楽譜渡したか?」
「おう!ちゃんと渡したぞー。見ての通りさ。」
棚橋さんに尋ねられた豊島さんは、私が小脇に抱える荷物を指差してそう答えた。
「何か、顔を見る限りだと思ったより多くてびっくりしたって感じ?」
棚橋さんが私の顔を見ながらそんな事を言ってきたので、私は苦笑しながら返した。
「どっちかと言うと絶望に近いかも?」
「ははは、量だけ見るとそうだよね。でも、実際歌ってみると案外すんなり頭に入るから大丈夫だよ。」
「そうだといいんだけどなあ。」
不安げにそう答えた私の肩を揉みながら、棚橋さんはケラケラと笑っていた。
私たちが音楽室に到着したとき、練習が始まるまであと10分くらい時間があった。部員は大体集まり始めていて、それぞれ適当に雑談をしている状態だった。とりあえずいつ練習が始まってもいいように自分のポジションに移動して、棚橋さんと話しながら時間を潰していると、西島先輩が近づいてきた。
「あ、倉石さん。豊島さんから楽譜受け取った?」
「はい、朝に貰いました。結構多いんですね、びっくりしちゃいました。」
「あはは、そうでしょ。今日はとりあえず大会用の課題曲の練習して、もし時間があったらコンサート用のやつも何曲かやると思うから、まずは聞いて慣れてみてね。」
「分かりました。まだ全然知らない曲ばかりなので、よろしくお願いします。」
「大丈夫、ちゃんとサポートするからね。さて、そろそろ練習始めようかな。」
西島先輩はそう言うと、手を叩いてみんなの注目を集めて、声出しの練習を始めるよう促した。
声出しの練習は先週からやっていたため、もう大丈夫だ。私はいつものように棚橋さんの隣で練習を始めた。最初に比べて音もちゃんと取れるようになったし、声の出し方も何となく分かってきた。慣れてきた上で感じるのは、隣で声を出している棚橋さんの声はとても音が通るという事だ。まっすぐに飛んでいると言うか何と言うか、表現の仕方が分からないけど、とにかくぴしっと通る声をしている。どうやったらこんな風に声が出せるのか、そういう部分はまだまだ分からない事だった。
一通り声出しが終わって一息ついてると、部長が全体に指示を出した。
「じゃあ次は腹筋と背筋いつも通りね。」
そうだった、これがあるんだった。隣にいる棚橋さんを見ると、既にこちらを見ながらニコニコしていた。
「さーて、今日も夏凪を鍛えるぞー!」
「いやあああああああ・・・。」
毎回棚橋さんとペアを組んでいるが、彼女はとてもスパルタだ。腹筋背筋の合図が他の人たちよりも明らかに早い!早すぎる!
「夏凪ー、しっかりやれー。1に筋トレ、2に筋トレだぞー。」
私の足を押さえながら棚橋さんが檄を飛ばす。それに応える余裕は私にはまるでない。相変わらず運動不足だと痛感させられる。
「夏凪、死ぬなー。」
背筋が終わって床にべったりとへばりついている私を見て、棚橋さんは笑っていた。
今度は私が棚橋さんの足を押さえる番だ。さっきの仕返しというわけではないが、いつもよりも少し早めに合図を送ってみる事にした。たまには意地悪もしたくなるってものさ・・・。
「よーし、終わり終わり。余裕余裕。」
私の予想に反して、棚橋さんは腹筋・背筋ともに軽くこなしてしまった。物足りないと言わんばかりに、腰をひねってみたり腕を回してみたり、ストレッチのような事を始めている。
「えー、いつもより早くしたのに!?」
「ほほーう?そうだったのかあ。じゃあ、明日は私もそれに応えないとね。覚悟はよろしいな?」
「や、やだあああああああ!」
我ながら余計な事をしたと自分の行動を恨みたくなった。
「はい、それじゃ先生が来るまで課題曲やるよ。」
西島先輩が部員に声をかけると、みんなは手馴れた様子で配置についた。私はどこにいればいいのか分からなかったため、とりあえず声出しのときと同じように棚橋さんの隣についてみた。
「千穂ちゃん、私ここでいいのかな?」
「多分大丈夫。一応これって大会のときと同じ配置になってるんだけど、まあ夏凪がここでよければひとまずはオッケー。あとで変わるかも知れないけどさ。」
「並び方って何で決まってるの?」
「うーん、基本的にはうまい人が前って感じ?パートの境目には音程がしっかり取れている人を配置するみたいだし、色々あるんよ。」
「へえ。じゃあここってどんなポジション?」
私と棚橋さんがいるのは3列目だった。
「後列は、声が通りやすい人が配置される傾向があるけど、自分じゃよく分からんね。ま、背が高いからかな!あはは。」
「へー、それじゃ千穂ちゃんにピッタリだよね。声出しでもすごく声通ってるもの。」
私は妙に納得してしまって、そう言った。
「何か恥ずかしいからヤメテ・・・。」
棚橋さんは珍しく照れたような複雑な表情を見せた。彼女は恥ずかしそうにしながら頭をかいている。私にとってはとても新鮮な光景で、笑いがこぼれてしまった。
「とりあえず最初から最後まで通してみよう。倉石さんはまずは聴いてみるだけでもいいからね。」
西島先輩はそう言いながら指揮を始める。ひとまず、言われたとおり聴いてみる事にしよう。ほとんどうろ覚えだし、いきなり歌うってのは無理そうだしね。
私はみんなの歌を聞きながら、課題曲の楽譜を目で追ってみる。何となくだが、流れは理解出来る。合唱部だから当たり前なんだけど、練習とはいえみんなしっかりと合唱になっている。聴いていても心地良い。私は自分のパートであるソプラノを中心に楽譜を追う。隣で歌っている棚橋さんの声は聞き取りやすいから、その作業もとても捗る。集中していたら、あっという間に曲が終わってしまった。そんなに長い曲というわけではないみたいだ。
「はい、OK。」
西島先輩がそう言った。
その後西島先輩は、気がついた事をそれぞれのパートに伝えていった。どこの部分の音程がイマイチだとか、強弱のつけ方が足りない部分があるとか、楽譜を目で追いかけるのが精一杯だった私とは比べ物にならないくらい、西島先輩にはいろいろな事が見えているようだった。
「じゃあ、今言った事を踏まえて、もう一回通すよ。」
私への指示は特になかった。だけど、一度聴いた事で何となくだが歌えそうな気がしていた。私はさりげなく加わってみる事にした。音程間違えてみんなの邪魔になりませんように・・・。そんな事を祈りながら。
曲が始まって、私は出だしから一緒に歌い始めた。その事に気がついた棚橋さんが、一瞬おや?という表情を浮かべた。でも、やってみればいいさ。そんな風に言ってくれているような気がした。
さっき聴かせてもらったとおりに声を出してみる。強弱をつける部分とか、正直まだ分からない部分もあるけど、とりあえずは音程だけでも覚えたかった。思っているよりも簡単に声は出る。隣の棚橋さんがリードしてくれるから、安心して声を出せる。全体の中で一番音が高い部分に差し掛かったとき、私は自分の声が上擦った事に気付いた。当然、周りも気付いた事だろう。急に恥ずかしくなった私は、そこで歌うのを止めてしまった。
棚橋さんが私の背中をとんとんと軽く叩いた。大丈夫だよ、そんな彼女の意思表示のように思えた。彼女に背中を押され、私はまた歌い始めた。そこから最後までの事は、あまり覚えていなかった。ただただ音程をとる事に必死だった。
曲が終わったあとも、私はさっきの出来事を引きずっていた。各パートが西島先輩の指摘を受けている間も、どうしようという思いで俯いていた。
「この後は各パートに分かれて練習ね。」
西島先輩の指示を受けて、各パートリーダーを中心に分かれて練習が始まろうとしていた。ソプラノのパートリーダーも兼ねている西島先輩がこちらに近づいてきたため、私は慌てて頭を下げた。
「あ、あの、さっきすみませんでした。高くなるところで上擦ってしまって・・・。」
恐る恐る西島先輩の顔を見ると、彼女はきょとんとした表情で私を見ていた。
「何も気にしなくていいのよ、練習なんだからね。むしろ2回目から入れるなんてすごいじゃない。ねえ、棚橋さん。」
西島先輩は静かに微笑みながらそう言った。
「そそ。一回外したくらいで落ち込みなさんな。みんな経験ある事だから、誰も気にしないって。むしろ先輩が言ったとおり、2回目で入ってこれるなら大したもんさ。」
棚橋さんの言葉に、周りの部員たちもうんうんと頷いた。私は恥ずかしさとみんなの温かさを感じてしまって、すぐに顔を上げる事が出来なかった。
その後、しばらくパートごとの練習が続き、私は周りのみんなのサポートを受けながら順調に音程を覚える事が出来た。声の出し方も色々あるみたいだし、思っているよりも奥が深いなと感じた。
「やあ、やってるね。」
若生先生が、そう言いながら音楽室に入ってきた。
「あ、先生。今パートごとの練習にしてたんで、他のパート集めてきますね。」
先生に気がついた西島先輩は、そう言いながら他のパートの人たちを呼ぶために小走りで音楽室の外に出て行った。パートごとの練習のときはそれぞれ空いている教室や部室に散らばって練習しているため、西島先輩が召集をかけに行ったのだ。
少しして、西島先輩と他のパートの人たちが音楽室に戻ってきた。
「遅くなってしまって悪かったね。それじゃ、時間も時間だし、最後に合わせて終わろうか。」
若生先生がそう告げると、ぴりっとした緊張感に包まれた。どうやら、先生が指揮を執るらしい。私もさっきのポジションについて待っていると、先生が視線をこちらに向けた。
「倉石さん、もう入れるのかい?」
「大丈夫でっす!」
私が返事をするよりも先に、棚橋さんが元気良くそう言った。
「そうか、じゃあやろうか。」
先生は手を上げて各パートに目配せをした。
曲が始まった。最初の練習のときよりも、先生が指揮を執っているせいか緊張感がある。パートごとの練習で音程は大体覚える事が出来た。あとは実際に声が出せるかどうかだ。結構歌ったせいか、声は最初よりも出しやすくなっていた。曲は徐々にさっき失敗してしまった高音部分に差し掛かろうとしている。それに合わせて私の鼓動も徐々に早くなる。また失敗したら・・・そんな事が頭をよぎる。だが、先輩も言ってくれた。練習だから気にする事はないと。その言葉を信じて、私は思い切って声を出した。
当たった・・・。一か八かのような感じだったけど、私の声はしっかりと正しい音に当たってくれた。そのまま順調に曲は進み、いい感じで締める事が出来た。
「いいね。じゃあ今日はこのくらいにしようか。」
指揮を執っていた先生は、満足げにそう言った。
時間は六時半、いつもより少し早い終了時間だった。棚橋さんと話しながら後片付けをしていると、若生先生が近づいてきた。
「倉石さん、お疲れ様。」
「あ、お疲れ様です。」
「今日から課題曲の練習始めたって聞いたけど、もう随分歌えてるみたいだね。」
若生先生にそう言われ、なんだか照れくさかった私は黙ったままぽりぽりと頭をかいた。
「コーチがいいんです!コーチが!」
棚橋さんが声をあげた。
「ははは。倉石さんも声が通るみたいだし、棚橋さんの隣でいいと思うよ。これからもしっかり頼むよ、コーチ。」
「お任せあれ!」
自信満々でそう答える棚橋さんを見て、若生先生は笑いながら去っていった。
「千穂ちゃんがコーチなの?」
「明日からもビシバシ行くぞー。主に筋トレとか。」
「筋トレはいやだよお・・・。」
筋トレ以外のコーチなら大歓迎だけど、やる気満々の棚橋さんはきっと許してくれないだろうな。明日は今日の仕返しが待っているかと思うと、私は少しだけ憂鬱になった。