5月26日(水) パウンドケーキの天使サマ?
いつも通りの授業が終わった放課後、私は家庭科室にいた。週に一度の家庭部の活動の日だからだ。とは言っても、部員は私一人のようなものだから、自習みたいなもんだ。
それにしても、昨日と一昨日は合唱部の練習に出ていたから、家庭部の活動がとても久しぶりのように感じる。合唱部ではまだ声出しばかりで本格的には歌っていないけど、少しずつ慣れてきたように感じている。本当に少しだけだけどさ。
とりあえず料理の本をパラパラとめくりながら、何をしようかと考えていた。その時、あるページが私の目に止まった。簡単!おいしいパウンドケーキの作り方。これだよ!
「材料は・・・ある。よーし。」
料理は立派な家庭部の活動の一つです。決して個人的に小腹が空いたとか、そんな事じゃありません。技術の向上が第一の目的ですし、材料が余っているんだから有効活用すべきでしょう。まあ、たまーには自分にご褒美をあげてもいいよね。ご褒美を貰うような事は特に何もしてないけどさ。
心の中で苦しい言い訳と謎の理由付けを繰り返し、私は作業を始めた。最終的にただのご褒美になってしまったのはナイショ。いいんだよ、家庭部だもの。
今回は冷蔵庫にあった材料の都合により、オーソドックスなフルーツパウンドケーキにした。生地を作って型に入れたら、おもむろにオーブンに投入し、あとはひたすら待つだけ。基本的に並んだり待ったりするのは嫌いだけど、この待ち時間はたまらんね。幸せを感じるよ。
まだかまだかと焼けるのを待っているが、ただ待っているだけでは手持ち無沙汰である。退屈した私は、何の気なしにこの前から練習していた声出しを始めていた。自分ひとりの家庭科室だと、声がとても通る気がした。音を外したりすると自分でも気付いてしまい、恥ずかしくなった。そんな事を繰り返していたら、突然家庭科室のドアが開いた。
「はろー!遊びに来てやったぞお!」
慌ててドアの方に視線を向けると、ハイテンションの豊島さんがそこにいた。彼女の後ろには桜庭さんと棚橋さんの姿も見えた。
「み、みんなで何しに来たの・・・?」
私は一人で練習していたところを見られたかも知れない恥ずかしさで動揺していた。
「遊びに来たって言ったよ!言葉の通りだよ!」
「ごめんね。藍子ちゃんがどうしても行きたいって言うから。」
何故だか分からないが、豊島さんのテンションはハイのままだ。遊びに来たとか言っているが、本当にその通りなのだろう。桜庭さんはそんな豊島さんを見ながら苦笑していた。
「おー、いい匂いがする。」
棚橋さんは匂いの元をたどる様に鼻をくんくんと動かしながら周囲を見回した。
「あ、これね。パウンドケーキ焼いてたの。」
「へえ、女子力高そうなモノ作ってるねえ。」
「た、高いのかな?」
感心したようにそう言った棚橋さんを見て、私は口元が緩んだ。と、こんな事を話している場合ではない。合唱部は今日も練習があるはずなのに、何でみんなでこっちに来ているのだろうか。私は率直に疑問をぶつけてみた。
「ところでみんな、練習は?抜け出して来て大丈夫なの?」
「さぼりじゃないのよ。とりあえず、しばらく各自で声出し練習なの。ちょうど倉石さんもやってたみたいだし、せっかくだから一緒に・・・って事にしておこうかな。」
「やっぱり、聞かれてた・・・?」
桜庭さんの言葉を聞いて、私は赤面した。うんうんと頷く桜庭さんの隣で、豊島さんと棚橋さんがにやにやしているのが見えた。
「恥ずかしいなあ、もう・・・。」
「いいんだよ、やる気があって。私らも見習わないと。なあ、トヨ?」
うつむく私を見て、棚橋さんがそんな事を言った。
「何でボクに振るかね?」
「だって、遊びに行くとか言い出したのトヨじゃん。さぼる気まんまんにしか見えないって。」
「ふふん、さぼろうと言う訳ではない。さっき澄佳ちゃんも言ってたけど、あくまでみんなで練習をしたいがためにここに来たのだ。ボクは夏凪ちゃんと練習がしたかっただけさ。」
「登場時のセリフが遊びに来たよ!だったのは気のせいか?」
棚橋さんに痛いところをつかれた豊島さんは、目に見える形で大げさに焦りを表現した。
「き、気のせいだよ。嫌だなあ千穂太郎は、ボケちゃうにはちょっと早いんじゃ・・・うぐっ」
豊島さんの話が終わる前に、棚橋さんのヘッドロックが決まった。もはや、得意技と言っても過言ではない早業である。豊島さんは抵抗する事を諦めてギブギブと言いながら棚橋さんの腕を叩いていた。私はそんな二人のやり取りを見ながら和んでいた。
「ほら二人とも、もうすぐケーキ焼けるから、折角だからみんなで食べよ?練習はそのあとで付き合ってもらうから。」
「おっ、やったね!」
私の言葉を聞いて、棚橋さんはすっとヘッドロックを解いた。豊島さんはその場にへたり込みながらぐったりしている。思った以上に深く決まっていたようだ。
オーブンに目を向けると、いい具合にパウンドケーキが仕上がっていた。扉を開けると、何ともたまらない匂いが広がった。我ながら良い出来だ。取り出したケーキをみんなに切り分けて、紅茶も用意した。3人とも目が輝いている。知り合ってからそんなに時間は経っていないけど、初めて見る表情で少しだけ新鮮だ。
「おいしいねえ千穂太郎、出来たてだよ。」
ケーキを頬張りながら、豊島さんが明るい声をあげた。ヘッドロックのダメージからはすっかり立ち直ったようだ。
「ほんと、出来たてっていうのがいいわね。」
桜庭さんもご満悦のようだ。
「夏凪、料理うまいな。才能あるよ」
「へへ、ありがと。でも、このくらいなら誰でも出来るよ。」
棚橋さんの褒め言葉が純粋に嬉しかった。私にとっては大した事がない事でも、こうやって喜んでもらえる事があるんだなと思った。いつも部活の時は一人で何かを作って、食べるのも一人だったから、みんなでこうやって食べるのがこんなに楽しいとは思っていなかった。
「ところで、才能って言えばさ。」
一人で満足していた私に、棚橋さんが続けて言った。
「夏凪、歌もうまいよね。良い声してた。」
「へ?さ、さっきのやつ?」
「うんにゃ。先週の木村先輩と部室で声出ししてたときのやつ。」
「え?何であの時の事知ってるの?」
「いや、ベランダから丸見えだったから、こっそり窓開けてずっと聴いてた。若生さんにすごい褒められてて、こいつなかなかやるなーって思った。」
「えっ、ちょっ・・・。」
そう言えば、あの時は集中してたから、ベランダなんかに意識が向いていなかった。あの時の練習を全部見られていたのか・・・。
「そうなの?」
桜庭さんが興味を持って棚橋さんに尋ねた。
「うん。若生さんが絶賛してた。私なんて扱いが合唱部員Aって感じだから、たまには褒められてみたいわ。」
棚橋さんはあの時の事を話しながら、自身の境遇を嘆いていた。
「合唱部員的にはそれでいいんじゃないの?周りに溶け込んでるって意味でね。某折原君みたいに俺が折原だ!ってインパクト出されると合唱として成り立たないじゃない。何とかならないのかしらね、あれ。」
某をつけている意味がないよ桜庭さん。折原君がどんな感じで歌っているかは分からないけど、私も桜庭さんに同意だな。合唱って言うくらいだから、一人だけ目立ってしまってもいけないだろうし。それにしても、桜庭さんの表情を見る限りだと結構うんざりしているような印象を受ける。でも、折原君がどんな風に歌っているのか、私は少しだけ興味がわいた。
「まあそう言う訳で、夏凪には同じソプラノとして期待してるから。」
棚橋さんは私の肩をバンバン叩きながらそう言った。私は苦笑しながら心の声を漏らしてしまった。
「あんまりハードル上げられると困る・・・。」
「私的には、夏凪は多少プレッシャーをかけておいた方が伸びる子だと見ている。」
真顔でそんな事を言う棚橋さん。彼女の中で私はどんなキャラ設定になっているのだろうか。
「あ、そうだ。そう言えば、明日から夏凪ちゃんにも課題曲の練習に入ってもらうって先生が言ってたわよ。」
桜庭さんが思い出したようにそう言った。
「課題曲?」
「そう。8月末の合唱コンクールで歌う曲ね。夏凪ちゃんはまだ練習始めたばかりだけど、大会まであと3ヶ月だしね。自由曲もあるし、結構大変かも。」
首を傾げた私を見て、桜庭さんが説明してくれた。それに続いて棚橋さんも説明に加わった。
「あー、夏凪。大会ではあらかじめ決められている何曲かの中から選択した課題曲とこっちで好きに選ぶ自由曲を1曲ずつ歌うのさ。」
「課題曲は毎年違うの?」
「うん。今年のは前に夏凪が見学に来たときに歌ってたやつだよ。」
「あー、あれかあ。賛美歌みたいなの?」
「そそ。で、自由曲はナントカ語の曲。なんだったっけか、まあ夏凪はまだ聴いた事ないと思う。」
適当に済まそうとする棚橋さんに、桜庭さんが耳打ちした。
「千穂ちゃん、マジャール語よ。」
「そう、マジャール語!・・・ってどこの言葉なんだ?」
棚橋さんはぽんと手を叩いてそう言った後に、再度視線を桜庭さんに向けた。桜庭さんは首を傾げて豊島さんの方を見た。豊島さんも無言で首を傾げた。3人は揃って首を傾げている。何だろうこの光景は。
「細かい事は、いいって事よ!とにかく、明日から夏凪ちゃんの促成栽培が始まるって事さ。」
目の前の何かを振り払うような動作をしながら、豊島さんが宣言した。私はどうやら彼女らに栽培されてしまうようだ。しかも促成。もやしか何かか?私は。
そんな事を話していると、誰かが家庭科室のドアをノックする音が聞こえた。
「ちーす。」
軽い挨拶が聞こえ、少しだけ開いたドアの向こうに折原君の姿が見えた。
「お、やっぱりここにいたか。合わせるから集まれって部長が言ってたぜ。」
「あ、折原君だ。ちーす。」
豊島さんがケーキを口に運びながら挨拶を返した。
「あ、いい物食ってんなあ。って、そうじゃない。早く来てもらわないと俺が折檻されちまう。」
「女子会の邪魔をするとか無粋ねえ。」
桜庭さんは折原君の来訪を意にも介してない様子だ。
「みんな行かなくていいの?」
私は3人に声をかけた。
「もうちょっとだけ。せめて食べ終わるまでいいじゃないか。」
棚橋さんはそう言いながらケーキを口に運ぶ。
「早くしないと俺がお仕置きされてしまう!」
「折原君の業界ではご褒美なのでは?」
「どんな業界だよ・・・。人を勝手に変な業界の住人にしないでくれ!」
豊島さんは折原君の反応を見てケタケタ笑っていた。
「ケーキまだあるけど、折原君も食べる?」
私は何だか折原君が気の毒になり、そう声をかけてみた。しかし、棚橋さんから厳しい一言が飛んだ。
「野生動物にエサを与えないでください。」
「どういう扱いなんだよ、俺は!それに、俺がそんなエサに釣られるわけが・・・あってもいいかな。」
ケーキを目の前にして折原君の表情が緩む。
「バカだな。」
「バカね。」
「バカだのう。」
女子3人組は口々にそう言った。
「食い終わったらすぐに行くんだからな。あ、倉石さんありがとね。この3人と違って倉石さんは天使だわ~。」
折原君はケーキを頬張りながらそんな事を言った。後半部分は全力でスルーしておこう。何となくその方が身のためだと思った。
「天使じゃなくて悪かったなあ。部長の前に私らで折檻してしまおうか。」
「そうねえ、ベランダから吊るしましょうか。」
「夏凪ちゃんのケーキの材料にされるがいいさ!」
「・・・すみませんでした。ケーキおいしいです。」
3人の威圧に屈した折原君は、黙々とケーキを食べ続けた。ニンゲンはケーキの材料に向かないよ、豊島さん・・・。
そして、ケーキを食べ終えた4人は音楽室に戻っていった。また一人に戻った私は、後片付けをしながらこの前聞いた課題曲をうろ覚えながら口ずさんでみた。思ってみれば、大会まであと3ヶ月しかないのだ。通常、どのくらいで歌えるようになるのかなんて経験がない私には見当もつかない。それでも、以前から練習している他の部員よりも頑張らないといけない事だけは分かる。
「よーし、やるぞお。」
私の決意の独り言が家庭科室に静かに響いた。細かい事は今は考えずに、やれる事をやるしかない。本格的な練習に向けて期待と不安が入り混じる中、一人の時間はゆっくりと過ぎていった。