5月17日(月) 約束の月曜日
先輩との約束の月曜日。今日の最後の授業が終わった。心なしか、今日は朝から授業に集中出来ていなかった気がする。まあ、普段からそんなに勉強を頑張っているかっていうと、そんな事は無いんだけど。ただ、気持ち的に集中出来ないなって思いながら授業を受けていた。
これも全て、先輩から今日話してもらう『相談』とやらのせいなのだろう。ああやって改まって言われると、あの時は何でもなかったけどやっぱり緊張するものだ。
さて、今日の授業の間ずっと心を乱し続けていた先輩の相談とやらを聞きに行こうか。土日の休みの間に、私なりに少しばかり考えた。金曜日に先輩に言われた際に感じた、あまり重大な内容ではないという直感は恐らく正しいだろう。ただ、あえて日を空けるくらいだから、重大ではないにせよそれなりに重要な事って捉えていいはずだ。
まあ、それがどんな内容でも、私なりの言葉で意見を伝えればいいだろう。さあ、行こうか。心の中で少し自分に気合を入れて、私は図書室へと向かった。
階段を下りて、廊下の曲がり角を曲がる。もうすぐそこは図書室だ。心の準備はいいかい、私。いいならさっさと開けてしまえ。図書室のドアに手をかけて、ゆっくりと力を入れる。ギシっと音を立てて、ドアが引っかかる。
「・・・開かないじゃないか。」
ドアは施錠されたままだった。特権階級の貴族サマはどこへ行ってしまったんだい。もう一度指先に力を入れてみた。ガコンとドアが引っかかる。うん、開かないね。
私は一つため息をついた。仕方がない、どこかで時間を潰してまた少し経ったら来てみるか。そう思ってドアから手を離した時、廊下の向こうからバタバタと足音が聞こえてきた。
「おい、木村!走るな!」
「すんませんッ!」
先生の怒声と、それに謝る先輩の声が聞こえてきた。
そして数秒後、曲がり角の向こうから先輩が姿を見せた。
「悪い悪い。ホームルームが長引いてさ。」
肩で息をしながら先輩はそんな事を言った。
「いえ、私も今来たところなんで。」
「そっかそっか。」
先輩はそう言いながらドアの鍵を開けて、どうぞどうぞと言わんばかりのジェスチャーで私を図書室の中に誘導した。
「どうぞ、お掛け下さい。」
「何で面接風なんですか・・・。」
「こういうのは形から入らないと。」
「こういうのってどういうのですか・・・。」
「ま、細かい事はいいじゃないか!」
私の突っ込みに返すのが面倒になったのか、先輩は強引にやり取りを終了させた。
図書室の大きなテーブルに向かい合って座って、何やら本当に面接のような雰囲気だ。
「最近、そっちの部活はどう?」
早速本題に入るのかと思ったら、物凄く普通の世間話が始まった。
「私ですか?先輩の部活の話じゃなかったんですか?」
「そうなんだけど、近況報告ってやつ?」
「私の方は特に変わった事もなくって感じですよ。週1でしか動いてないですし。」
私の部活、家庭部の事だ。この学校は全員何らかの部活に入らなければいけないため、運動部という柄でもない私は、とりあえず無難にそれほど面倒な事が無さそうな家庭部に入部した。家庭科室と被服室を活動拠点にしていて、部室は無い。お菓子を作ったり裁縫をしてみたり、家庭科の授業の延長線の様な事を、週1回水曜日に行っている。部員は私を含めて3人しかいない。3年生が2人と2年生の私。まともに活動しているのが私くらいしかいないため、私が部長って事になっている。まともにと言っても、週1回だから、ほとんど惰性で続けているようなものだ。今更他の部活に移るって選択肢は私の中にはないし。やりたいことがあるわけでもないし。
「そっかそっか。部活の無い日は何してる?」
「部活が無い時は、知っての通り図書委員の仕事してたりとか、あとはそのまま家に帰ったりですね。」
「なるほどね。」
先輩は私の話に相槌を打った。何かを話したさそうにしているが、私に話題を振ってくるだけで、なかなか話を切り出してこない。
その後、二言、三言会話を交わした後、ようやく先輩は合唱部の話題を出し始めた。
「先週、俺が合唱部って事は話したけど、合唱部って毎日フル活動なんだよね。」
「休みの日は無いんですか?」
「んー、大会が近くなると土曜もやったりするよ。日曜くらいは休む事にしようって部員同士で決めてるけど。」
「文化系の部活なのに大分ハードですよね、それって。」
「だと思う。平日も夜8時くらいまで練習してたりするし、半分運動部みたいなもんだと思ってる。」
先輩はそう言いながら笑った。
週6日活動で、平日でも授業が終わった後に4時間以上活動しているようだ。そもそも、そんなに歌の練習をしていて、喉は平気なのだろうか。
合唱なんて、中学校時代にクラス対抗の合唱コンクールで歌ったくらいで、あとは音楽の授業で少しやったくらいだ。そんな私には、まるで想像がつかない世界だった。
「でさ、合唱の大会が8月末にあるんだよね。」
「8月末だと、夏休みが終わる直前くらいですよね。」
「そうだね。8月末に県大会があってさ、そこで上位の団体が9月末の地方大会に進めるんだ。その後は全国大会ってのもある。」
「うちの学校って、どんな感じなんですか?強さ?っていうんですか。いいところまで行くんですか?」
「うちの学校は、ずいぶん前に地方大会まで行ったらしいけど、ここ数年はずっと県大会止まりなんだよね。」
「じゃあ今年は、頑張らないとですね。」
「うん、そうだね。そのつもりではいる。」
先輩はそう言うと、そこで言葉を止めた。
ちょうど合唱部の話題になり、ここで話の腰を折る事も出来ないため、私は先輩からの次の言葉を待った。
「うちは混声五部の合唱団でさ。」
「混声五部?ソプラノ、アルト、テナー、バスってありますよね。あれプラスもう一個?」
「女声のメゾソプラノね。ソプラノとアルトの間のやつ。」
「ああ、名前だけ知ってます。中学の合唱コンクールの時は、私が言った構成でやってたもので。」
「授業とか、学校でやるのだと大体そうだよね。」
先輩は再びここで言葉を止めた。相変わらず何かを言いたそうな雰囲気は出しているものの、なかなか核心には触れてこない。
一体何についての相談なんだろうか。部活でうまくやれてない?この先輩に限ってそういう事は無さそうだ。すぐに誰とでも友達になってしまうような人だし、何より悩みとか抱えて無さそうに見える。そんな事を言ったら本当に申し訳が無いが。
「元々男は少ないからどうでもいいんだけどさ、今女子の人数がメゾとアルトに寄っちゃってて、ソプラノが弱い感じなんだよね。」
「ええ。」
返事はしつつも、音楽知識などほぼ皆無の私にとってはよく分からない。そもそも、合唱部の人数構成も分かってないわけだし。
「それでさ。」
「はい。」
「倉石に助っ人に来てもらえたら、嬉しいなって思ってさ。」
「・・・はい?」
先輩がさらっと何かを言った。この人、何て言った?・・・助っ人?・・・え?
私はこちらをじっと見つめてくる先輩に聞き返した。
「助っ人って?私がですか?歌うんですよね?」
「そう。夏の大会が終わるまででいいから、頼めないかな?」
相談ってこれの事か。思っても見なかった先輩の言葉に、一瞬目の前がぐわんと揺れる。事前に色々と想定問答的なシミュレートをして来たけれど、これはさすがに予想外すぎた。ああ、眩暈がする。もう一回視界がぐわんと揺れた。
「いやいやいや、ちょっと待って下さい。私歌えませんよ!何で私なんですか!?」
私は全力で拒絶した。無理!絶対!そもそも歌なんて本格的にやった事無いし、何より人前で歌うとかあり得ない。私は、何故先輩に助っ人として勧誘されているのか、全く理解出来ないでいた。
「日頃から倉石の声を聞いてるけど、倉石は歌えると思うよ。仮に今は歌えなくても、ぶっつけ本番で大会に出るわけじゃないし、練習すれば絶対歌えるようになる。俺の目に狂いは無い!」
「ちょ、ちょっと待ってくだひゃい・・・。」
壮絶に噛んだ。上がり症の私は、緊張したり焦ったりするとすぐにこうなる。こんな状態でどうやって人前で歌えばいいと言うのか。先輩よ、こんな事を言ったら申し訳が無いし口が裂けても言葉には出来ないけど、私を選んだ時点でその目は節穴だと思うんだ。私は心の中でそう叫んでいた。
「俺は、倉石なら出来るって思ったから相談させてもらったんだ。もし良かったら、頼むよ。もちろん無理にとは言わない。」
さっきまでの多少おふざけが入った表情からは打って変わって、先輩は真剣な眼差しを私に向けた。
私はどう応えればいい。先輩の思いは分かった。でも、どう応えたらいいか分からない。私は、先輩が思うような能力があるわけじゃない。どう応えたらではなく、そもそも応えられない。そう表現した方が正しいだろう。
「か、考えさせて下さい・・・。」
色々な思いが渦巻く中、私がようやく搾り出した言葉は、そんな言葉だった。ばつの悪さから、私は先輩にぺこりと頭を下げると、そのまま図書室から外に出た。早足で昇降口を出て、その勢いのまま自転車に飛び乗った。
いつもこう。私の性格。ずっと昔から。いつも逃げ腰。
何かを素直に『やってみよう』なんて思う事は殆どない。何もする前から『自分に出来るか出来ないか』まずそこでひたすら悩む。そして大体は『きっと出来ない』そんな方向に舵を切る。基本的にマイナス思考なんだ。挑戦してみようとか、思わない。思えない。自信がないから。目立ちたくないから。
そして、はっきりと断る事も出来ないから、ああやって曖昧な言葉で逃げ出してしまう。はっきり断って、嫌な奴だとか思われたくないから。思いっきり後ろ向きなくせに、見かけだけ前向きな振りをする。何もしない政治家に限ってよく言う「善処致します。」あんな感じ。今回もそう。
答えは決まっているんだ。『私には無理です』って。でも、その場で即答したら先輩に申し訳がないから、時間を空けて考えた振りをして少しでも悪い印象を減らそうとしている卑怯な私。
(合唱って事は、人前で歌うって事でしょ。大勢の前で。自分の声を出して。仮にそこで間違ったら・・・変な声が出たら・・・ああ、無理!やっぱり無理無理無理!絶対に!)
自転車に乗りながら、私は何かを振り払うようにぶんぶんと頭を振った。考えれば考えるほど、無理だとしか思わない。新しいクラスになって自己紹介をする時でさえ噛み噛みになって赤面しまくっていた私には絶対に無理だ。さっきだって、少し緊張しただけで思いっきり噛んでしまったくらいだし。
「何で私なんだろう・・・。」
頭の中にある疑問が独り言になって口から漏れた。
重くなる気持ちとは裏腹に、自転車をこぐ足だけはやけに回る。まるで何かを振り切りたいという私の気持ちを映し出しているかのように。