41 盛信登場
翌日。
松の体調は、だいぶ回復した様子であったが、奇妙は大事を取って村に滞在することにした。それには、源助やお竹の遠慮させない気さくな人柄もあっての事である。
奇妙は、鍬を担いで源助と家を出た。その日の作業は、近所の者達が集まっての水路の整備であった。
昼には、松やお竹、村人の妻や子供たちも一緒に食事をとった。
「二人は、いつから夫婦に?」
村人が聞いた。
「五年ほど前なのですが、こうして会えたのは先日でして……」
「おぉ!そうか。それは、新婚ほやほやじゃねーか」
「それは、めでてぇ! 儂らにも祝わしてもらおう」
他の村人が声を上げた。
「初夜はどうだ? もうすませたのか?」
奇妙の隣の若者が興味津々と口に手をかざして聞いて来た。
「え! そっ……それは……」
奇妙は、動揺したように答えた。隣の松にも聞こえたようで、赤い顔をしている。
「ばか! お前、野暮な事、聞くんじゃねぇよ」
と、隣の村人が若者の頭を叩いた。
「では、二人の門出を祝して私が一番」
と、村人が歌いだした。
「はぁーあ、あぁー。めでたなぁーあ、めでたのぅえー、わかまぁつぅうさぁまぁあわぁ、えだもなぁあーあ、さかえっええるぅー」
と男が調子よく歌うと、今度は皆が一斉に、
「はもしぃーい、げるだぁあよぅー。はぁーどっこい、どっこい、どっこいな」
と、手拍子で音頭をとった。
すると、別の者がまた歌いだし、3番歌うと、皆が奇妙と松を手を叩いて祝福した。
奇妙は皆に深々と礼をした。誰かに祝福して欲しいと思っていたわけではない。しかし、皆の気持ちが嬉しかった。
その横で松は、ちょこんと恥ずかしそうに座り、奇妙に習ってお辞儀をした。
昼を過ぎると松とお竹、村の女たちも先に帰った。
夕刻の事である。お竹が夕飯の用意をしていると、
「お竹さん、何かお手伝いすることは、ありませんか?」
松が声をかけた。
「あなたは、休んでいなさい」
「なにか手伝いたいんです。ほら、もうこの通り元気になりました」
そういうと、腕をクルクルと廻している。
「そぅう。じゃ裏庭の臺の下にお芋があるから、取って来てもらえるかしら」
「はい!」
松は元気よく返事をした。
「おいも。おいもぅ」
と、楽しそうに裏庭へ行くと、
「!!!!!!! ああー!」
猪だ! まだ背中に縞模様がある小猪が何頭も群がって芋をあさっている。裏庭の向こうは山である、猪が出ても不思議ではない。
「こらーーー!」
松は、見るなり駆け出した。それに気づいた猪たちは、一目散に山へと逃げ出した。
「こら、待てーー」
拳を振り上げて猪を追い立てている。また来ないように少し懲らしめようと思ったのだ。
山裾まで追ってきた時、松の足が止まった。
「えっ!!」
そこに居たのは、でかい猪だ! こちらを睨みつけている! かと思うと、松をめがけて突進してくるではないか。
「いやーーー!」
今度は、松が一目散に逃げ出した。走りながら振り返ると、直ぐそこまで迫っている。
家に逃げ込む余裕など無い、
「たっ! たすけてー!」
そのまま街道へと猪に駆り立てられ松は、走った。
山添の木々の生い茂る街道を騎馬が二騎、風のように駆けていた。
先頭を行く若武者に、少し後ろを走っていた巫女装束の女性が馬を寄せた。
「盛信殿!そろそろ日も落ちます。ここからは私が、道案内をいたしましょう」
「よろしく頼みます。姉上」
盛信に姉上と呼ばれた女性は、巫女装束に身包んでいる。名を、望月千代女という。歳は二十七である。髪を風に靡かせて、見事な馬さばきである。
二人が、馬の速度も緩めずに、村へと入ってゆく。
前方に、少女が走っているのが見えた。
「いやーーー!」
と、叫び声を上げている、見ると猪に追われているではないか。
盛信と千代女は、顔を見合わせてると、面白そうに微笑んだ。
「元気の良い事だ」
その村娘の必死な悲鳴とは裏腹に、二人には、微笑ましく映ったのだ。
「ハアァ!」
盛信は、馬に気合を入れると、駆けてくる少女と猪の間に割って入るように駆け抜ける。猪は、疾走する騎馬の迫力に驚くと、慌てて山へと逃げ帰っていった。
――次の瞬間。
「どおぉ! どおぉ!」
盛信は、馬を急停止させた。盛信は村娘を見ようとしたわけではない、ただ通り過ぎざまの一瞬、視界に入っただけである。
しかし盛信には確信があった。武田家の家臣でも、盛信で無ければ気が付かなかったかもしれない。
「松! こんな所で何をしている」
「あっ…………」
松は、目を丸くして盛信を見ている。
歴史紹介
村人の歓迎の歌は、諏訪大社地方に伝わる長持ち歌を元にしています。
今回、新たに望月千代女を登場させました。
戦国ファンの間では「くのいち」「歩き巫女の頭領」としてとても有名な人物ですね。
武田信玄の命令で、歩き巫女(巫女姿で各地の情報を入手する)達を育成して、その宰領取り締まりを行っていた人物と言われています。
望月千代女については、諸説あるそうです。信濃巫女の宰領であった可能姓は高いですが、その巫女たちが情報集めをしていたのかは、定かではありません。
今回、私の小説では、一般に広く言われている説を採用しています。
第四次川中島の戦いで、夫(望月信頼)を亡くし、歩き巫女の宰領としての人物です。
小説では、盛信が、千代女を「姉上」と呼んでいます。もしこの説が正しければ、千代女は従妹のお嫁さんです。現代でも年上の従妹のお嫁さんを、「姉さん」なんて呼ぶこともあります。
当時も、こんな感じだったかもしれないなと考え使ってみました。
千代女の年齢を、二十七歳に設定しました。これは、亡くなった夫(望月信頼)の一歳下の設定です。