39 村での暮らし
翌日、奇妙は源助と一緒に鍬を振っていた。額から汗が流れるのを袖で拭くと、ふぅと息をした。
「なんだか悪ぃなぁ」
「働かざるもの食うべからずと言いますからね」
世話になってばかりでは、申し訳ないと思い奇妙から手伝いを申し出たのである。
「なれない事は、大変だろ」
「はい。――お百姓殿には頭が下がります」
奇妙は、黙々と地面に鍬を突きたてた。
それは、心を乱す渦を打ち消すかの如くであった。
松の事、氏郷達の事、そして己自身の事、つかみどころの無い迷いが心を乱す。それを制するように、また鍬を振るった。
「奇妙様ぁー。お疲れさまです」
と、声が聞こえた。松である。
見ると、お竹と共に歩いて来る。
「松殿、具合は良いのですか」
「おかげで熱は下がったみたいです」
「それは、安心しました」
笑顔で答える松を見て、奇妙は、その心の迷いを悟られまいと明るくふるまった。
「少し休むか」
と、源助が言った。お竹が、鍋を持ち、松が風呂敷を持っていた。差し入れを持って来たのである。
皆が、土手の草むらに腰掛けると松が風呂敷を解いて、
「どうぞ、奇妙様」
と、握り飯を差し出した。
(でっ! ……でか!)
「ありがとうございます」
と、奇妙が受け取ると、松は、
「源助さんもどうぞ」
これまたでかい握り飯を渡した。
「これは、食いごたえがあらぁ」
と、驚いている。
「お松ちゃんが用意してくれたのよ」
お竹が、味噌汁と椀に盛りながら言った。
握り飯を、眺めている奇妙を松は見て、
「大きすぎ……ましたか?」
「なに。この程度、腹が減っていたので丁度良い」
と、一気にかぶりついた。
「ゲホゲホゲホ!」
「まぁ。はいはい」
お竹が、慌てて渡した味噌汁を奇妙は流し込んで、胸を叩いている。
「あっ……あぶねぇ」
奇妙は命拾いしたようである。
「そんなに慌てなくても……」
と、松が、目を丸くしながら見ていた。
「あははははは!」
その様子を見て、源助とお竹は笑っている。
握り飯を平らげた奇妙は、
「松殿。とても美味しゅう御座いました。御馳走様です」
箸を椀に置いた。
「いえ。不慣れなもので、申し訳ありません」
と、松が答えた。
「うーん。なんだかなぁ……夫婦ならもう少し気楽に話したらどうだ」
「お侍様は、私達とは育ちが違うんだから、余計なこと言わないの」
お竹が、旦那につっこみを入れている。
「そうでしょうか……」
奇妙は、少し考えたように、
「とても美味かったぞ。感謝する」
「そっ、そうであるか、また作ってやろう」
松が、可愛く奇妙に調子を合わせた。
(ぎ、ぎこちねぇー。それに・・・・そうじゃねぇー)
源助は、思った。
お竹が、ほらみなさいと言わんばかりに、源助を睨んだ。
「奇妙さん、味噌汁のお替りありますよ」
お竹が、微妙な空気をなんとかしようと話しかけた。
「あっ。頂きます」
奇妙が一度置いた椀を差し出した。
「流石若いわね」
お竹が、奇妙の食べっぷりに感心している。
「腹が減っては、戦は出来ぬと言いますから」
奇妙が、鍬を持ってみせた。ここでの戦とはこれである。
「おっ。戦と言やぁー、武田の衆は、遠江じゃ勝ったって話じゃねーか、そろそろ戦は終わるのかねぇ? 噂じゃ、何と言ったか……美濃の殿様は……おか? ……おけ?」
「織田ですか」
「そうそう、それだ。次はその織田と戦になるって話も聞いたが、どうなんだ?」
「……すみません。私の知る所ではありませんので……」
「そうか……。もうじき田植えだってのに、村の若い衆も帰って来ねえとなりゃ、俺の仕事が増えて、やりきれねーぜ。お侍様には、戦も程々にして、俺達百姓の事も考えて貰いてぇーもんだ」
「あんた!この子に言ったって仕方ないでしょう」
お竹は、旦那を制したが。
「いえ。かまいません」
奇妙は、聞いていた。
「でも、お松ちゃんの旦那様は、こんなに素敵なひとですもの、きっと私たちの事を考えてくれる、お侍様になってくれますよ。ねぇ」
と、お竹は松に笑顔で言った。
「はい。もちろん」
松は、自分が褒められたように、にこやかに返事をした。
春の暖かな日差しの中で、澄み渡る空の様な、松の笑顔を奇妙は愛おしく思った。
そして、奇妙は、松の返事に応えたいと思った。
――しかし、今の自分に何が出来るのだろう、迷いと不安は、心の隙間を吹き抜けて行く。
奇妙は大きく息を吸いながら空を見た。その雄大な青さに吸い込まれそうになる。
――――。
春風に奇妙の髪がはためいた。
「松……天は広いな」
松も奇妙の見ているものを共に見ていた。
「うん。ほんとうに……」
――――。
どこまでも澄み渡る空に雲が流れて行く。