37 二人の夜
神社の境内を月明かりが青く染めている。奇妙と松は、社殿に上がり身を潜めていた。
「松殿、迷惑を掛けました」
「いえ……迷惑などでは」
「御帰りに成る時は、いつでも言ってください。近くの城へお連れしますので……」
松は、迷惑では無いと言ったが、奇妙は気を使った。
この様な状況で松に迷惑をかけることになったのは、全て自分の身勝手な行動が招いたことは、分かっていた。
少しの無言の後、松が、
「そのような寂しい事を…………私を岐阜にお連れ下さらないのですか」
と、ぽつりと言った。
「しかし……」
奇妙の言葉が止まった。
松の言葉は嬉しい。しかし、松は武田家の姫君である。十七の少年に付きつけられた決断として、それが重く圧し掛かった。
「! 奇妙様は全然分かっていません!」
松が、突然大きな声を上げた。
「私は、貴方の妻として五年間過ごして来ました……私の気持ちに迷いは有りません!」
「しかし、私達だけの問題では……」
奇妙が言った。
「お父様達の決められた事だからですか……奇妙様のお気持ちはその程度だったのですね……あの文の言葉も嘘…………」
松が先ほどとは打って変って、泣きそうな声で見つめている。
「何を申されるか! 私はこうして貴方に会いに来たのです。私の気持ちに偽りが有るわけが有りません」
そこまで言うと、奇妙は神妙な面持ちになった。
「実は、私は家を飛び出して来てしまいました、私が帰っても居場所が有るかどうか、松殿をお連れしても、苦労を掛けてしまいます……」
「私は、貴方が織田家の嫡男であらせられるから想っていたわけではありません。私たちの立場など…………」
そこまで言うと松が言葉を詰まらせている。
「ははは」
奇妙は、自分の不甲斐なさを恥じるように目を逸らせて、うつむきながら奥歯を噛みしめ、口元に笑みをつくった。
「申し訳ない。格好の悪いところをお見せした。織田家など……武田家など……関係ない。――松殿! 私の妻に……妻になって頂けますか」
凛として、優しく話す奇妙に、松が笑顔で答えた。
「はい。私は五年前から貴方の妻です」
――――。
「あの……これ。――大したものでは無いのですが」
奇妙がそう言って取り出したのは、金の細工模様の櫛である。
「――綺麗。……大切にします……嬉しい――」
月明かりでも、松の嬉しそうに喜ぶ顔が良くわかる。櫛をかざすと細工がキラキラと輝いた。
神棚から盃を拝借すると二人は、向かい合って座した。
松が、櫛で髪をすいている。さらさらと流れる髪に月光が反射して輝いている。
竹筒を取り出すと、松が盃に水をそそいだ。
緊張した面持ちで奇妙が三度口をつける。盃を松に渡し奇妙が水をそそぐと、松も三度口を付けた。もう一度奇妙が盃に三度口を付けてから盃を置いた。
奇妙が静かに微笑むと、松もまた静かに微笑んだ。
――――――。
その様子を、社殿の入口から淑女が二人、優しい眼差しで見守っていた。
しかし。――その姿は、人には見る事が叶わない。
(まぁ。なんて可愛いお嫁さん)
(とても素敵なお方で、安心いたしました)
(そうでしょうか? 危なっかしくて、心配は絶えません)
(ふふっ、それは私も同じです)
(ほら見てください。二人とも、とても幸せそうにして)
(そうですわね)
二人を祝福する微笑みは、奇妙と松を包み込むように暖かなものであった。
夜風が格子から流れると松が身を震わせた。
「こちらへ」
奇妙が松に声を掛ける。
松は奇妙に寄り添い壁にもたれた。
二人は他愛もない話をしていたが、時は、静かに――そして優しく、流れてゆく。
松が、奇妙の肩に頭を傾けて瞳を閉じた。
「お母様がね、私の婚姻をとても喜んでくれたんですよ。良かった、貴方にこうして会えて。……暖かい…………」
「私は、母上に不甲斐ないと叱られそうです」
松は瞳を閉じたまま話を聞いていた。
その時。奇妙は、懐かしい声を聴いた気がして戸口を見た。いや、確かに聴いたと思った。
(奇妙……おめでとう……しっかりね)
それは、優しい母の声であった。
「はい」
と、静かにうなずいた。
その時。松もまた――懐かしい声を聴いた。
(良かったわね……松……お幸せに……)
松は奇妙の肩に寄り添ったまま、瞳を静かにあけた。
「ありがとう……お母さま……」
月光が白く青く境内を包んでいる。
それは、八幡の神が二人を祝福しているかの如くであった。