34 逃避行2
「何だと! 姫を人質に逃げられただと!」
高遠の屋敷で声を荒げたのは昌続である。そして弟の惣藏を睨みつけた。
隣の喜兵衛は、昌続とは対照的に冷静な面持ちだ。
「はっ…はい……申し訳ございません……それに弁も共に…」
惣藏は、萎縮してうつむいたまま、喜兵衛に息子の事を告げた。
「そうか…」
喜兵衛の返答は、これだけである。
「何故追わぬ!」
昌続が、更に声を荒げて割って入った。
「松様にもしもの事があってはと……それに、松様が追おうなと……」
「この、馬鹿者! 今すぐ追手を差し向けよ! この俺も直ぐに向かう」
「はっ!」
惣藏は、返事だけすると駆け出して行った。
「女、子供を人質に逃亡を計るとは、織田家の嫡男とは、なんたる卑怯者よ!そのような下郎ども、御屋形様の返事を待たずとも、この俺が八つ裂きにしてくれるは!我らも追うぞ! 喜兵衛!」
昌続が頭に血が上った様子で隣の喜兵衛に捲し立てた。
「うむ――しかし……逃亡を計ったのは、その逆ではないか…」
喜兵衛が、腕組して思案するように答えたが――既に友の姿は無かった。
「まぁ。見過ごす訳にもいかぬな」
一人つぶやく様に言うと、昌続の後を追った。
馬車は城下の宿場街道を疾走していた。
奇妙は、松を抱える様に柱につかまりながら、焦っていた。
(――このままでは、追いつかれる)
馬車の速度が遅い! 元々、早く走れるものでは無いし、人数も定員を超えている。追うなと言ったが相手が素直に従うとは思えない。騎馬に追われたら、追いつかれるのは時間の問題であった。
―――その時。
遠目に騎兵が見えた。
「追手だ! もっと速く走れないのか!」
奇妙の声が緊迫を帯びる。
「もう来たのか! 流石に武田の兵だ! ―――ハイヤァ!」
氏郷は掛け声を上げると手綱を思いっ切り振った。しかし、氏郷の気合と裏腹に、馬車の速度は変わらない。
「どうする? このままでは追いつかれるのは時間の問題だぞ!」
奇妙が声を上げた。
しかし氏郷は、それに応えず別の所に声をかけた。
「五徳ちゃん!」
「そうね。仕方ないわ」
氏郷に名を呼ばれ、五徳はその内容を察したのである。それは、元々五徳の考えでもあった。
「ドォウ! ドォウ!」
と手綱を絞ると、馬車を停止させたではないか。
「おい! どういうつもりだ?」
奇妙が驚いたのも無理もない。今は、一時でも惜しい状況である。
奇妙の問いに答えたのは五徳であった。
「あんた達は、二人で逃げなさい」
「そういう事だ! 俺達はこのまま街道を走る!」
氏郷が、五徳に続いて答えた。
「それでは、お前たちが………」
「なぁに、このまま一緒に逃げても捕まるのは時間の問題だ。少しくらいは時間を稼いでみせるさ」
氏郷の心は決まっているようである。
「お姉さま。ちょっと失礼」
五徳が松に声を掛けるとその羽織を脱がすと、
「はいっ」
と自分の羽織を松に羽織った。五徳は、松の身代わりになるつもりである。
二人の行動を見て奇妙は、
「すまないな……」
とだけ言った。
「なぁに。良いってことよ。天下の事、頼んだぞ!」
「ああ……」
奇妙は、答えたがどこか浮かない表情を見せた。
「あっ。そうだ、この銭は、貴方が持っていて」
五徳が、松の腕をつかむと、小さな巾着を握らせた。
「あっ。ありがとうございます」
松が、五徳に深々とお辞儀している。
「早く! 早く!」
と、せんが後ろを指差して皆を急がせた。
「五徳ちゃん! 乗れ!」
氏郷が、五徳に声を掛けてから、
「弁! お前は、俺達と松殿の為に一働きだ! いいな」
「うん! 信繁兄ちゃん、姉ちゃんをよろしくな」
弁が手を振りながら別れを言った。
「ああ! しかと承った!」
奇妙が強く凛として答える。
「ヤァァ!」
氏郷の掛け声とともに、馬車は再び疾走してゆく。
「さぁ。参りましょう」
奇妙が、手を差し出すと、
「はい」
と、松が手を重ねた。