31 松の決意
翌日。
松は縁側に座っていた。既にお化粧も済ませて衣も羽織っている。
今日も差し入れを持っていこうと、はなが誘ったのである。
「うん。…よし!」
流れる雲に決意をこめて強く頷いた。
はなを、待っていると、話し声が聞こえてきた。
「ん?」
と、松がそちらを向いた。
それは、そこに信繁という名を聞いたからである。
屋敷の一室では、昌続と喜兵衛が囲碁を打ちながら話している。
「御屋形様は信繁殿を、どうなさるおつもりだろうな」
昌続が一手差し終えると喜兵衛に聞いた。
「いま、使いの者をやっておる。それまでは何とも言えん――確かに、織田家の嫡男に姫君か、東美濃一国の譲渡を交渉できるほどの駒ではあるな」
「喜兵衛。お前だったらどう考える」
「俺か――」
と、腕組すると少し思案した様子で、
「俺なら――三河に入っている、織田家の援軍を引かせる」
「ほぉう。それで……」
昌続は、友の話を注意深く、面白そうに耳を傾ける。
「まず織田の援軍を引かせてから三河の徳川を征伐して、三河を手中に収める。さすれば、東美濃と三河から織田を包囲出来よう。その状況が作れれば、西の浅井。朝倉。伊勢の本願寺、そして都の公方、もこれを好機とみて我らに加担するはずだ」
喜兵衛は、碁盤を見ながら淡々と答えた。
「おお!流石は御屋形様に目と言われるだけの事はあるな!四方から織田家を包囲できると言うわけか!いかに織田家といえども、これでは敵うまい。京の都に武田の御旗を立てる日も近いな!――御屋形様には、早く元気になって頂かなければ!」
昌続は、興奮気味で言った。
「そうだな」
喜兵衛は、少し笑みを浮かべて答えて、
「しかし、全ては、織田家の出方次第だ」
と、続けた。
「確かに――噂に聞く信長殿の気性を考えると、素直に交渉に応じるとおもうか?」
「わからん。応じねば、見せしめとして貼り付け、もしくは、切腹であろう」
「……そうなると生きては帰れんか」
「松殿の事を考えると気の毒ではあるな……」
喜兵衛は言いながら一手差し終えると、部屋から空を眺めた。
その時、縁側でコトコトと音がした。
喜兵衛は、音の方を見て、少し気になった様で有ったが、また碁盤に目を戻した。
「お待たせいたしました」
はなが菓子箱を持って戻って来ると、松が立っていた。
松の表情が強張っている。
それに気付いたはなが、
「信繁様は、昨日の事など気にしておりませんよ」
と、声を掛けた。昨日逃げ出してしまった事を松が気にしているのではと、気を使ったのである。
「菊さまぁ」
と、部屋の中へ声を掛ける。
「はぁーい」
菊が縁側で草履をはいて庭に立った。
「さぁ。参りましょう」
はなが言った――。その時。
「ごめんなさい。今日は、私一人で行きます」
松がいつになく真剣な表情で言った。
「えぇー!」
と、菊が声を上げたが、はなは、松の様子をみて、
(そうですわね。皆が居ては、話づらいかもしれませんね)
「菊様、今日は私とお散歩に行きましょう」
と、菊を誘うと、菓子箱と茶道具を松に渡した。
奇妙達の屋敷には、元気な声が木霊していた。
「エイッ! ヤァッ!」
「おお! その調子だ! いいぞ!」
氏郷と弁である。
弁は、朝から屋敷にやって来て、氏郷と槍に特訓に励んでいた。
「セイッ、ヤァッ!」
と、氏郷が弁の槍を絡めるように跳ね上げると、弁の肩を突いた。
槍を模した棒の先には布がまかれてはいるが、もちろん手加減もしている。
弁は後ろに転んだが、直ぐに立ち上がると、
「まだまだ!」
と槍を構えなおした。
「ちょっと貸してみろ」
氏郷が、弁の槍を持つと、その辺に有った短い棒きれを、槍の先に十文字に結んだ。
「何だよ、それ?」
「これか?これは、元々何処かの僧兵が始めたらしいんだけどな、最近の流行ってやつよ。これなら攻守共に使えるぞ」
と、弁に渡した。
「ふぅーん、変なの」
弁がその十文字の先っちょを眺めていると、
「俺が討ちこむ、その槍で左右に絡めて受け流したら、俺を打ってこい、行くぞ!」
「セエィヤッ!」
掛け声と共に放たれる突きを交わした弁が、横殴りにその槍で氏郷の槍を地面に抑え込んだ。
次の瞬間一気に、間合いに入ると氏郷の顔めがけて突いていく。速い! この少年の動き、元々戦いの素質が有るとみえる。
瞬足の一撃が氏郷の耳元で風を切った。
氏郷は、顔面に当たるという時、首だけ傾げるように寸でで躱したのだ。汗が中を舞うと、同時に右手でその槍を掴んだ。
「なっ」
氏郷が笑顔で弁を見た。
「こいつは凄いや!氏郷兄ちゃん!」
と、その槍をみて弁が喜んでいる。
木の塀で囲まれた奇妙達の屋敷の周りには、警備の兵が二十人ほどいた。
その中に惣藏の姿もあった。
屋敷の中から聞こえてくる、氏郷と弁の掛け声を聞いていたが、腰刀を抜くと、ブンブンと振り回した。流石に退屈だと見える。
「ご苦労様です」
突然声が掛かった。松である。
「あっ。はい」
慌てて刀を収めてお辞儀をしが、松が一人だという事が気になった。
「今日は、御一人ですか?」
「はい」
「では、私がお供します」
「いいえ。一人で大丈夫ですから」
惣藏は、心配そうに松を見たが、松の強い口調に、
「何かありましたらお呼び下さい」
と、だけ言った。
歴史紹介
三方ヶ原の戦いの後、武田軍が長篠にて一か月ほど動かなかったのは、信玄の病気の悪化が原因だと一般的には言われている気がします。
しかし私は、三河に相当数の織田軍が居たという見解です。
5話の評定の場面でも書きましたが、言い伝えでは3万と言われています。これは、言い伝えという域を出ないためか史実として、言われることが少ないエピソードです。
実際はここまで多くなくとも相当数の織田軍が居たので、武田軍は、動かなかったのではなく、動けなかったのではにかと思うところです。
武田軍が、浜松城を落とさないで長篠地区へ向かったのも、挟み撃ちを避けるためであると私は考えています。