1 少年の想い1
淡い光の中に少年は居た。
視界いっぱいに、広がるのは満開の桜であった。
柔らかな風に、花びらがひらひらと舞っている。
しかし、少年の瞳に映るそれは、桜ではなく目の前に立つ少女であった。
正確には、少年がそう感じたのである。
光を返す髪が風に流れて煌めいている。
少女は、強い瞳で優しく微笑んでいると思った。
光と舞い落ちる桜で顔は分からない。
「……松……殿……」
少年は、少女をそう呼ぶと胸が高鳴った。
そして、少女へと手を伸ばした。その手が少女に触れる、その時…………
風が吹いた、目前を桜吹雪が覆い尽くして視界を遮ってゆく。
少年はそれでも手を伸ばした、刹那。
風は一瞬で止んだ。
しかし…………
そこに、少女の姿は無かった。
少年の瞳には、少女の笑顔だけが残っていた。
満面の笑顔……それは……とても悲しい笑顔であった。
元亀四年(一五七三年)三月。
美濃の国、岐阜城の麓の天守の一室に少年の部屋はある。
少年は、美濃、尾張を統べる国主、織田信長の嫡男(正式な跡取り)である。
名を奇妙という。
歳は、数えで十七歳。
(現在で言えば、中学卒業、高校入学時の少年という事になる)
少年の部屋は、淡い朝日に包まれていた。
奇妙は目を覚ますと、今見た光景に心を囚われていた。
その手には、確かに少女の温もりが残っているのだ。
「夢を見ていたのか……」
と呟くと、
「……松……殿……」
と続けた、
心臓の鼓動を感じながら少年は、温もりの残る手を握りしめた。
部屋の外を誰かが歩いて来る音がした。と思ったその時、障子が活き良いよく開かれた。
「あんた、まだ寝てるの! 何時だと思ってるのよ!」
そう言い放った少女は、朝日を浴びてキラキラと輝いていた。
この国には、こんな起こし方で奇妙の部屋にやって来るものは居ない。
だが奇妙には、その少女が誰か直ぐに分かった。
「五徳!」
二歳下の妹で名を五徳という。織田家は、美形で有名だが、十五歳になる五徳もまた絶世の美女と有名である。
「おまえ何でここに居るんだ?」
五徳は、徳川家康の嫡男信康に嫁いで岡崎に居るはずである。
奇妙の問いかけを気にする風もなく、五徳は、ズカズカと部屋に入ってきた。
書記台に置かれた物が目に入ったのである。
「綺麗な櫛ね」
ふーん。と言った具合に手に取った。とその時、櫛の隣の紙に目を止めると
「なになに……松殿、いかがお過ごしでしょうか? 文が途絶えて久しく、貴方の事が気がかりでなりません……一目お会いしたい気持ちは募るばかりです……」
「わぁぁぁぁぁぁぁー!」
五徳が声に出して読んだものだから、奇妙は慌てふためいた。恥ずかしい事この上ない。恋文なのだ。
奇妙は慌てて、五徳から手紙を取り返そうとするが、五徳はヒョイと交わしてピョンピョンと跳ねた。
手に持った櫛の金細工がキラキラ輝いた。
「おい! 勝手に人の部屋に入って何してんだ?」
「私が、何をしようと勝手でしょ!」
「なんだ! その言いぐさは、お前は姫様かよ! ……って姫様か……ってそうじゃない! 返せ!」
奇妙の焦りとは裏腹に五徳は楽しそうである。
奇妙は、文(手紙)を取り返そうと五徳に詰め寄った。
五徳は反射的に後ろへ下がろうとしたが、奇妙の足が五徳の着物の裾を踏んでいる。体制を崩した五徳は、背中から床へ倒れた。
勢い余った奇妙も、五徳に重なるように床に倒れた。倒れる寸前、奇妙は、五徳の頭と背中に手を回して抱きしめる形で倒れたので、五徳にはさほど衝撃は無かったであろう。
「大丈夫か?」
奇妙は右手を支えに上半身を少し起こして、五徳を見たが、
五徳は目線を外して、
「退きなさいよ……」
と答えた。兄弟といえども、これだけ近いと気まずい。
その瞬間、部屋に誰かがやって来る。間が悪いとはこの事であろう。
「おい! 奇妙起きてるかぁー?」
元気のいい少年の声である。奇妙の奥座敷は誰もが容易く入れる場所では無い。
しかし、その声で誰なのか直ぐに分かった。
蒲生氏郷である。
氏郷は、奇妙より一歳年上で、力強い風体の少年である。
元は、織田家の人質であったが、今では奇妙の二番目の妹、冬と結婚して織田家一門であった。
奇妙とは、子供のころから武芸やら、学問やらを共に学んできた仲である。
元服の時は、奇妙の父親が自ら執り行っている。家族ぐるみの付き合いなのである。平たく言うと親友といったところであろう。
氏郷は、声をかけてやって来たが、奇妙の返事も気にする風もなく部屋に入ってきた。
…………が、止まった。
氏郷が見た物は、女の子に馬乗りになっている奇妙であった。
奇妙は慌てて五徳の上から退いた。
五徳も倒れた拍子にはだけた着物を直している。
「よう、氏郷」
奇妙は、軽く返事をしたが、氏郷は固まっている。まさか奇妙の部屋に女の子が居るとは思わなかったのだ。
「あ……これは邪魔したな」
氏郷は、何も見なかったとばかりに、その場を立ち去ろうとすると、
「ちょっと! あんたバカ!? なんか勘違いしてない! 私がこんな奴と、なんかあると思ってんの!?」
「……お! この暴言は、五徳ちゃんか! あんまり綺麗で気が付かなかったぜ! 一年ぶりか?」
「何か用?」
奇妙が氏郷に聞こうと思った事を五徳が先に聞いた。
「今日は、相撲会が有るんだ! 俺達も出ようかと思ってな!」
「ちょっと待て! 俺達って、俺も出るのか?」
慌てて返したのは、奇妙である。
「当たり前よ! 俺達は一心同体だぜ! 兄弟!」
と豪快に言い放つと、
「うぉぉぉぉぉ燃えて来たぜ!」
と拳を作っている。
まったく、朝っぱらから熱い奴だと奇妙は呆れたが、いつもの事なので気にもならない。
「へー。あんた達じゃ初戦敗退じゃない。出るだけ無駄よ無駄」
「今の俺たちは、昔とは違うぜ!」
声高らかに、氏郷は答えたが、五徳は、相手にするのも面倒といった感じに、部屋を出て行った。
スタスタと部屋から出ていく五徳の後ろ姿を氏郷は見ていたが、
「ヒュー」
と口を鳴らして振り返った。
「冬も、将来が楽しみだぜ! くぅぅぅぅ燃えて来たぜ!」
「おいおい、今度は何に燃えてんだ」
奇妙は、呆れて突っ込みを入れたが、
(まぁ、男としては健全か)
と思った。
奇妙は、相撲会に出るのは、あまり気乗りしなかったのだが、断るのも悪いと思い、一刻ほど後に待ち合わせをすると、朝飯を食べることにした。
登場人物の年齢設定を数え年にしてあります。
奇妙、十七歳。現在でいえば十六になる歳。高校一年の始まり。
氏郷、十八歳。現在でいえば十七になる歳。高校二年の始まり。
五徳、十五歳。現在でいえば十四になる歳。中学二年の始まり。
歴史一言紹介
史実では、信長は家族と共に山頂の天守に住んでいたと、されてきました。それは、フロイスの伝記に書いてあるためです。私は以前より、不便すぎるでしょ、、、と思って、こっちの山裾の天守(以前から存在は紹介されていた)に住んでいたのをフロイスが書き間違えたんじゃないの?と思っていました。
最近では、この山裾の信長の屋形の調査が進んでいますので、ここが信長の住まいと言われる日も来る可能性があると考えます。
小説では、この山裾の天守を住まいとさせて頂いております。