Ⅱ-ii 女優の舞台拒否
「……絶対嫌ですわ!」
絶叫は小さな寝室一杯に響き、上階のカイとブレッドの部屋に届きそうで、レントは一瞬肝を冷やした。そんなレントに気がつき、アズリルは余計苛立ちを募らせる。
「ご心配しなくとも、どこかの間抜けな誰かさんと違って結界も張らずにこんな大声出しませんわ!」
「間抜けってなんだよ、間抜けって。」
いつもの突っ込みをすると、レントは力なく溜息を吐く。
「シーナ様とあなたが何を話したかなんて、私は知りませんわ!ですがシーナ様が私にそうして欲しいなら、はっきり直接私にそう言います!」
「だから言ってたじゃないか。『さすがに今夜の舞踏会にチィは連れてゆけぬな』と。それにあのドレス、明らかそういう意味だと思うぞ。」
「ですが……今まで一度だってそのようなこと強要しませんでしたわ!」
語気を荒げてアズリルは言う。その荒げ方が、逆に自信のない虚勢に聞こえる。強要、しなかったのではない。できなかったのだろう。レントはそう思った。
舞踏会に侍従が細々した世話をするためについていくことはよくあることだ。しかしアズリルはこの十年間死んだ存在として、黒猫に身をやつしていた。当然そんなことできるわけがない。その上、今回シーナがアズリルに要求しているのはそういうことではないのだ。侍従としてではなく、賓客としての参加――。身分はレントの付き人、当然あの引っ越し祝いのドレスを着ることを期待している。
昼の政務の合間、アズリルは相変わらず城内では黒猫チィに身をやつし、前とは違って四六時中レントの傍にいるのだが、時折元飼い主としてシーナが戯れに彼女に触れる。その時もそうやって戯れながら、レントに向かって、正確にはアズリルの瞳を見つめながら言ったのだ。『今夜の舞踏会には連れてゆけぬな』と。そして続けて今度はレントの瞳を見つめて言ったのだ。『まさか一人身で来るつもりではないな?お前を狙ってる貴族の娘はたくさんいるぞ。望み通りの平穏がほしいなら、嘘でも付き人の一人くらい連れてこい。』と。……明らかにその付き人はアズリルのことであり、黒猫の額には思いっきり皺が寄ったのだった。
それでもシーナの命令を汲み取ればいつもなら従うし、長年あのシーナに仕えている腹心の部下ならむしろわかりやすすぎる彼女の言葉の含みに気付かないわけないはずだが、よほどレントの付き人なのが嫌なのか、支度のために一度帰宅してからずっとごねている。
レントは辛抱強く続けた。
「まあ各国の要人が集まってんだ。滅多なことがないようがっちり警備は敷かれてるがな。それでもお前は四六時中傍を離れるな、と命じられたんだろう?」
「それは……ですが、今更どうして……。」
途端に声は弱弱しくなり、消え入りそうになる。レントはそれを見て苦い思いが胸に広がる。いつもならばシーナの企みに乗るくらいならアズリルの気持ちを優先させるのだが、今回ばかりはそうもいかない。……数日前にアズリルのいないところで話した企みをぶちまけたい気持ちと、弱っているアズリルを前にしてぐらつく理性をぐっと抑えて、辛抱強く言葉を重ねる。
「素顔ならともかく、仮面を着けるんだ。誰も十年前に消えた従者だなんて思いもよらない。それどころか、俺との繋がりも隠しておける。」
「そういう問題じゃありませんわ!」
きっと、アズリルが噛みつく。しかし次の瞬間、途端に語勢は弱まる。
「そういう、問題じゃあないんですわ……。」
そして何が問題なのかわからぬまま、掌に顔を埋めて泣き出してしまった。これにはここまで何とかぐっと抑えていたレントも、ぐらついた。思わず腕がアズリルに伸び……。
「師匠!お迎えが来てます!」
伸びかけた腕は止まり、飛び退くようにしてアズリルから離れ、扉へ向かう。相変わらずアズリルは掌に顔を埋めていたが、既に肩は震わせていなかった。
「……わかった。まだしばらく支度に時間がかかるから上がって待ってもらえ。」
「了解っす。」
ちらり、とカイの視線はレントの背後のアズリルに向けられるが、すぐさま踵を返して玄関へと向かう。レントは扉に手をかけたまま、アズリルの方を見やって言った。
「まあその……なんだ、あいつは…………せっかく贈ったドレスを着てもらえなかったら、多分かなり落ち込むな。お前に似合うように……かなり苦心して考えたようだぞ。……俺も支度してくる。」
呟くようにしてそれだけ言うと、静かに扉を閉めてアズリルの寝室を出ていく。後に残されたアズリルは、レントがいなくなってしばらくしてからようやく埋めていた顔をあげ、鏡で見る。……ひどい有様だった。シーナの母、シェーハザードの言葉が蘇る。
『そなたは笑っておれば、我が息子にふさわしい美貌じゃのう』
「……そう、でしょうか。」
無理矢理に、笑顔を作り、一つ溜息をつくと、次の瞬間涙の跡は消えていた。今も昔も、彼女の主はただ一人、彼女にとって大切なものはそれだけだった。
だから、全てを捨てた。
父も母も、彼女の死を悲しんだ。……両親を悲しませることに、躊躇いがなかったわけではない。しかしそうしなければ、シーナへの証明にならないと思った。母君が亡くなり、数少ない味方だったはずのレントも去り、母御の死と共に何人かの使用人も暇乞いをした。そんな中シーナは、ただ静かに別れを受け入れた。乳母であるヘーゼルにも、それ以上に親しかったはずのアズリルにさえも泣きごと一つ言わず、ただ諦めた。……全ては己の無力さ故だと。
その思いがあったからこそ、彼女はここまで登りつめることができたのかもしれない。無力であったからこそ、力をつけようと這い上がり、ついには良かれ悪かれ誰もが彼女の存在を認めた。……だがアズリルにその姿は痛々しく映った。
全てを捨てた彼女の前で、シーナは泣きながら笑った。シーナが泣いている時も、アズリルは微笑んだ。まるでそれがシーナの隣に相応しい証であるかのように。
ゆるゆると着替えを済ませ、鏡の前に立つ。……魔法を使えばあっという間に身なりなぞ整えられるが、ゆったりと服の後にシーナが送って寄こした化粧品やら何やらを使って整える。……シーナを相手にやっていることを自分にやっているだけだ。自然、どことなくシーナの化粧と雰囲気が似る。
シーナの化粧は本来王女がするようなものよりも大分薄く、男の姿をしているから却って自然でありその役割を果たしているのだが、当然女として立派なドレスを身に着けるのならばやはり薄い。そんなことはわかっていた。だが、それ以上白粉を重ね紅を引くことはできなかった。……本当に飾り立てるべきはただ一人なのだから。
アズリルが部屋を出ると、ただでさえ気が滅入っているのに見たくない顔がそこにいた。
「……あ、すみませぬ。思わず見とれてしまいました。」
そう言って、ブレッドはてれっと笑う。いつもの軽い笑いとは違う。しかしながらアズリルはそんな笑いにほだされたりはせず、にこやかに言った。
「ありがとうございます。ああ、もうこんな時間!急がねば……。」
そう言ってぱたぱたと階段を駆け降りる。ブレッドは後を追わず、ふうむとその後ろ姿を見つめ、今しがたアズリルの出てきた扉を見つめるのだった。




