Ⅲ-ⅴ 従姉弟と過ごす夜
夜――。首都でもどこでも、大きな都で夜賑わう場所と言えば決まっている。荒ぶる男たちが金を賭けて札を並べ、麗らかな娘たちの春が売られる場所――そう、“花屋”あるいは“花街”と呼ばれる裏の街並であった。
王都セイジェンの場合、ラカ最大級の花街は、丁度放射状区画の中でも王城の裏側に位置し、王のお膝元ながら、いくつかの法律的な例外の恩恵を賜っている。……正式名称例外区画、王都の至る所に配置されている軍帥所属の治安隊はここには存在せず、代わりに自治自律の精神の元、各花屋の雇う用心棒が睨みを利かせる。……表で違法行為を起こしても牢獄行きで済むものが、こちらで事を起こせば指の一本や二本は覚悟せねばならない。ある意味、表以上に統制の行き届いている区画である。
足を運ぶのは表裏も貴賎も出身も問わない多様な人種であるのだが、まさか玉座に着いたばかりの女王が、長年の花屋の顧客であるなどとは、国民の誰一人として思っていないだろう。
ざっくり刻まれた右頬の十字傷に気が付く者は何人もいたが、馴染みの女たちや用心棒を除き、まさか女王シーナだと思う人間は一人もいない。シーナも、体型のわからぬようマントを羽織り、普段決してしない紅い隈どりと口元に色気黒子を差し、ぱっと見た印象が違えるようにしている。すっかり馴染みなので、ジェンヌの花屋に入る時も、人目につく表ではなく、裏口から入れてもらう。――花屋は格好の密談場所であった。
突然のシーナの訪問に備え、最上階の一角、景色のよい小部屋は、いつも空けてあった。ジェンヌの手が空いていればレントも以前訪れた天井に水晶のあしらわれた大きな部屋を使わせてもらえるが、滅多にない。
「小部屋でお待ちです――。」
「わかった。ありがとう。」
裏口に入ってすぐ囁いてきた坊主に、わずかばかり、坊主にとっては大金を握らせる。――そこで騒いだりせず、静かに礼をして再び仕事に励むのが、さすが花街最大の花屋が雇っている坊主だと思う。
シーナは慣れた足取りで裏方の人間が使う階段で最上階を目指す。すれ違う店の者が、静かに頭を下げ、軽く挨拶をする。
と、上が騒がしい。……滅多なことで走らない店の者が、走る足音がしている。
「捕まえて――!」
見上げれば、女にしても小柄なシーナより背の低い、まだ少年ともいえる男子が、階段を駆け降りてくる。
「危ない――!」
悲鳴があがったと思った次の瞬間、シーナは段につまづいて頭から転げ落ちそうになった坊主を抱え、後ろに跳ぶ。……後ろ向きだったので軽やかに着地、とはいかなかったが、綺麗に受け身を取ったので二人とも怪我はなかった。
「離せっ!余を誰だと思っておる――!」
「――これは驚いた。ルフス王子ではないですか。」
ぴたり、と暴れていた坊主の動きが止まる。そしてまじまじと、シーナの右頬に、視線が注がれる。
「もしや……ラカ十二世、か――?」
驚愕で見開かれた目――。と、背後から彼を追って降りてきた妓女の声がする。
「大丈夫ですか!?あ、シー様――!申し訳ありませんっ!」
すぐさま、妓女が床に頭をこすりつけるようにして、謝る。シーナは笑い、顔をあげさせた。
「この通り、私も王子も怪我はない。蘭菊殿こそ、そのような衣装で走られて怪我などありませんか?」
「まあわたくし目の名前を覚えてくださってたなんて――!ええ、大丈夫にございます。それよりも王子と言われましたが、もしや王城に来ている他国の――?」
シーナはまじまじと王子を見つめ、決して今ついたわけではない頬の切り傷と、青痣とを確認し、呆れた。
「ああ、シャシーの末の王子、私の母方の従弟さ。――さて、こんなとこで話していて見つかっても困るな……。空いている座敷はあるか?」
「それでしたらわたくしの座敷が。本日はお休みをいただいておりますので。」
「休日の妓女に働かせるなんて贅沢者だな。――案内してくれ。」
容赦なく、シーナは王子の首根っこを掴んだ。王子は「何をするっ!」と叫んだが、シーナは笑顔で言った。
「お付きの方がおられないのを見ると、王子も見つかってはまずい身分でしょう?あまり騒ぐと表に聞こえますよ。」
……図星だったらしく、不服そうにしていたが大人しくなった。そのまま軽々ぶら下げて、蘭菊の後について行った。
座敷に着くと、つい先ほどまで王子の傷の手当てをしていたらしい。傷薬やら包帯やらが出され、そのまま放置されていた。
「全く……。蘭菊殿が拾ったのですか?」
「はい。休日で昼の内に他の花屋の友人を訪ねていた帰りに、絡まれていたので……。」
あまりいいとこの坊ちゃんがトラブルに巻き込まれて、後々貴族と花街との揉め事になるのも面倒だと思い、用心棒を呼んできて救出したらしい。既に殴られてはいたが、幸い大した怪我でもなかったので連れ帰り用心棒を下がらせて手当をしていたところ、逃げられたらしかった。
王子の治療をしてやりながら蘭菊が説明を終えると、シーナは「わかった。」と言った。
「休日のところ申し訳ないが、連れに、今日は行けぬと伝えてくれ。」
「わかりました。童に行かせましょう。」
座敷の隣を開き、休日で童が既に眠っているのを見やると、襖を閉じた。
「残念、わたくしが行って参ります。」
「すまん。ついでにシャシーの人間にはまだ言うなと言っといてくれ。」
「あいわかりました。では。」
営業日と同じ作法で、襖を開け手をついて礼をして、部屋を出る。
「……なぜ内緒にするのだ?」
ふてくされたまま、王子が尋ねる。シーナは笑顔で答えた。
「わたくしも息抜きできておりますので……。女の身でこのような場所に通ってるなど、あまり知られるとまずいですからね。」
そう言って、ウィンクする。……王子はますます膨れた。
「ならば……あの噂は本当か。ロッタリーニの馬鹿王子の言った通りの勝負をして、真っ向から負かしたと。」
それを聞いて、シーナはからからと笑った。……昼のゴンザレスの方が、目の前の子供より何倍も初心である。
「言った通りはしてませんよ。王の身で軽々しく子を作る行為なぞできませんので。そうですね、ここの妓女たちに聞けば喜んで手取り足とり教えてくれましょう。」
さすがにまだ子供で、心なしか頬が赤く染まる。しかし妓女に聞けば手取り足とりの意味がわかってしまう時点で、やはり王族の子供だと思う。……ゴンザレスとは大違いだ。
「それでは……そなたに勝つ術なぞないではないか。」
恨めしそうに、悔しそうに、ルフスは言った。その一言でシーナにも、まだ花屋通いするには若すぎる王子が、どうして連れを撒いてこんな場所に来たのか察しがついた。
「……つまり、わたくしに勝つ術を探そうとここまで来た、と?」
思わず、笑ってしまう。……ゴンザレスとは違った意味でかわゆい。
「王子には何か得意な物事はありませぬのか?」
意地悪い質問だとわかっていながら、聞いてしまう。……案の定、ルフス王子はこれ以上ないふくれっ面になった。
「あればあやつらが慌てふためいて交渉に走るわけがなかろう。……まともにやって我に勝てるわけがないと決めつけおって。」
シーナに対して、ではなく、同じ使節の大臣などを指しているらしかった。
確かにシーナの聞いている限り、一早く執政官三人全てに声をかけてきたのはシャシーの人間だった。レントなぞはアズリルの協力もあってそういった煩わしい取引を持ちかけてくる相手には会わないようにしていたのに、見事に捕まったらしい。シーナの母がシャシーの出身で現王の妹であることも熱心さの一因だったが、それ以上にこの見た目脆弱な王子ではまともにやって勝てるはずがないという思いがあるようだ。
「それで女であるわたくしに絶対できないはずのことを身につけようと?残念ながら、ロッタリーニに先を越されたようですが。」
からからと、笑う。ロッタリーニに先を越されたばかりでなく、ルフスではそういったことをやるにはまだまだ早すぎるだろう。その気持ちが伝わったのか、むっとした様子だったが、言い返せるだけのものもなく、無言になる。
一しきり笑った後で、笑顔でシーナは王子を慰めた。
「……ロッタリーニのような方法では馬鹿王子と呼ばれるのがオチですよ。そうですね、私に勝ちたいのでしたら明日から四六時中私を観察なさればいい。」
「はっ――?」
意味が飲み込めない様子の王子に、シーナはしれっと説明してやる。
「戦で敵を知らずして勝利するなぞあり得ません。情報収集こそ、戦における基本であり真髄です。母上の故郷の話も聞きたいですし、お好きなだけ傍で観察なされるがよい。」
余裕綽々のシーナの態度に、ルフス王子は再びふくれっ面になった。――なめられている、完全になめられている。……悔しいが、しかしそれだけの実力しかないのも知っていた。
「――執務しているところも見せてくれるのか?」
「いえいえ、まさか知られてまずい情報をわざわざ敵の目前にぶら下げる真似はいたしませぬよ。――そうですね、午前の執務は王子も見ていてつまらないものでしょう。昼から午後にかけてこそ、私の雄々しさの秘密がございます。」
勝ちたいのならば来るがいい――そう言われては、花街まで単身乗り出した王子なのだ、来ないはずがない。
「ふんっ……。」
相変わらずふくれっ面である。……先日までの単なる脆弱な従姉弟殿のイメージは、少なくともシーナから全く消え去っていた。リーナ姫といいルフス王子といい、直接話さねばわからぬ人間のなんと多いことだろう。
「失礼致します。お連れ様に、しかと伝えて参りました。」
「おお、すまんな。ところで今からでも空いている座敷があれば王子と酒を交わしたいのだが……。」
「シー様でしたら喜んでお相手する妓女が五萬とおりますわ。もちろんわたくし目もそうでございますが。」
微笑んで、蘭菊が言う。シーナは笑い、首を振った。
「せっかくの休日なんだ、ゆっくり休まれよ。」
「噂どおりお優しいですのね。そうおっしゃってくださるのでしたら、ありがたく休ませて頂きます。……そうですね、裏衆に言って用意させますので、それまではこちらでお寛ぎくださいな。」
言って、手を叩き裏衆と呼ばれる黒子の男を呼ぶ。黒子は蘭菊の言葉に頷き、すぐに消えた。そこでやっと蘭菊は座敷に上がり、裏に通じる襖を閉じた。
そうして、ルフス王子とシーナの、奇妙な長い夜は始まったのであった。




