Story.6 失念、失態、失望
帰り道。寒風に晒され、自分の身体を抱きながらユキノは歩く。夜道、というべきなのだろうか。陽は昇っていないがむしろ早朝道とでもいうべき道を歩きながら、ユキノは一人、考え事に耽る。
この二日間――いや、三日間というべきだろうか――色々なことがあった。色々なこと、とは言い過ぎだろうか。発見だらけなので自然に体感時間が長く感じられた。奇妙な貼紙――というか、学校で配布されるプリントのような紙に目が留まったのが、始まりだった。あの時のユキノには、本当に実感のじもなくて、嘗めてかかっていることこの上なかっただろう。クレスには悪いことをしたかも知れない。そして、そこを起点に、昨日は街をぶらぶらしたり、射撃練習をしたりした。うん、列挙すると意外にも少ないな。色々とはやはり呼べないようだ。
だが、やはり実感が持てない。今も、実感が一切として存在しない。それが、逆に心中に蟠る。
ただの女子高生が、ただの高校一年生が、ただの十五歳が。《魔法可使用者》と傭兵と共闘する兵士? 友達に言ったら驚倒の末に虚仮にされるだろう。虚仮の後思案、とは少し違うかも知れないが、実感を持つ必要がある時に実感を持てないというのは、本当に愚者そのものである。
――また、自虐か……。
ユキノは自分の両頬を両手で挟むように叩く。何故かユキノは、自分をあまり好きになれない。あまり憶えがないのだが、もしかすると過去に何か大きなショックを受けたのかも知れない。例えば、虐待されていたとか。いや、それなら憶えているか。正直に吐露すると、ユキノは少し記憶が曖昧なところがある。例えば、物心は三歳くらいの頃には付いていそうなものだが、ユキノの記憶の始まりは五歳くらいだったり。恐らく、頭が悪いのと同じで記憶力が悪いだけなのだと思うのだが。
そんなことより、とユキノは話の軌道を修正する。自虐せずに言うなら、ユキノがやっている行動は勇敢な行動なのだ。流石にここまで来ると奇行ではあるが、そこはクレスも同じ。別に、気にする必要はない。ポジティブな世界に塗り替えるなら、友達たちには褒められ、自分にも自信と力が付き、戦えるようになるという世界。前者はともかくとして、後者は叶うだろうか。いや、むしろ後者の状況になって貰わないと――ならないと困るといったところか。ユキノは、戦う為にクレスのところに行ったのだから。
――これが、私の望んだ世界?
ふっ、とそんな疑問が浮かんだ。ユキノは喧嘩や、ましてや戦争なんて大嫌いだ。朧げな記憶の中にある、兵器や血や卑屈に歪んだ民衆の顔を思い出すと、反吐が出そうになる。あんな惨状は、もう二度と目にしたくはない。なら、何故ユキノは、わざわざそんな世界に踏み込んだのか。最初に思った、人とは違う力や経験を積んでみたい。何か一つの分野で、次元の違う人間になってみたい。それは、理由として間違いではないだろう。だが、きっともっとちゃんとした理由があるはずだ。
――私の正義が赦さなかったから。
無意識から浮かんだ答えはこれだった。そんな、クレスじゃないんだから。ユキノは鼻で笑った。それでも、その理由が何よりの気がして、その考えが頭から離れなくなった。ユキノは、何度でも立ち上がる、踏まれても踏まれても復活するそれを消すのは諦めた。まあ、これこそがこいつを消し去る最高の得策なんだけど。
そうして、ユキノは、自分の願望と……自分の正義に正直に行動したのである。
ユキノは、この二日で一つ学んだ。銃の扱い方とか、そういうものではなく、道理的な意味で、だ。ユキノは、この二日間で、一歩目より二歩目の方が軽い、ということを学んだ。
何であれ、何か新しいことを開始するのには勇気がいる。それは、今までの十五年の人生で、痛い程理解している。例えば、朝にランニングをしようと思っても、外に一歩足を進めることが出来ない、とか。だから、ユキノが人生で、一歩目を踏み出したことは殆どなかった。なのに、何故か今回は踏み出すことが出来た。それに関しては、ユキノは、恐らく著しく実感がなかったが為に踏み出せたのだろう、と推測している。普段は一歩進むのが、途轍もなく一段の高い階段を上るような感じでとにかく億劫だったが、今回は突然地面に穴が開いて落とされたような感覚だ。一歩どころか、三歩くらい進むまで何も気付かなかった。だが、これが幸いしてか、今日――日付的には昨日は想像以上に弾けることが出来た。基本的に人見知りで物怖じするタイプのユキノだが、クレスには長い付き合いの友達みたいに接することが出来た。何というか、今まで国民性に反して人に合わせることが多かったユキノが、突然独立した人間となった感じだ。昔の私よ、邯鄲の歩みという言葉を知らんのか。
ともかく、そんな訳でユキノはふっと戦場に立つ決意が出来たのである。実感が湧かないのが課題だが、今は自分の目的が生まれただけで満足だ。目の前の景色が全て輝いて見えるというのはこんな感じだろうか。って、それ恋焦がれて浮かれてる奴の脳内だし。
その時、偶然近くにあった柱時計が目に入った。遅刻防止対策だろうか、割と近距離に等間隔で時計が設置されてあるのだ。どれだけの金が国から下りているのかは知らないが、この学生寮の総額はそれは恐ろしいことだろう。数億どころでは到底済むまい。そんな時計が指している時刻は四時二十二分。のんびり歩きながらだと、本当に時間がかかる。帰り道に差掛かって早二十分だが、まだ半分も進んでいない。もう少しお付き合いいただきたい。脳内で、ユキノはまるで誰かが大衆に向かって話をしているかのようにそう言う。
さて、明日は何をするのだろう。傭兵のエルヴィンがいて、それをあの紙に書いたらもう少し仲間が集まるだろうか。或いは、エルヴィン自ら表に出て宣伝しないと駄目なのだろうか。まあ、そんなことを検討しながら仲間集めの続きでもするのだろう。射撃特訓は、またするのだろうか。今でも鮮明に思い出せる、銃器から伝わる強い衝撃。火薬と鉄の不愉快な汚臭。そして、対して一人前の戦士になったような優越感。あれをもう一度体験するのは、したいようなしたくないような複雑な心境である。
それと、クレスは《魔法》の特訓もするのか。ユキノには無縁のものなのだが、クレスの《魔法》が恰好良かったので、また見てみたい。子供がトランプのマジックを見て、興奮しているみたいだ。そう言えば、特に冬場に、時々ユキノの足許からしゃり、という音が聞こえるときがあって、幻聴かなと無視しているのだが、それが何か音系の《魔法》だったりして。
ひゅう、ひゅう、と一陣の風が吹く。寒風に晒された身体が、文句を言うように震える。ユキノは一層強く自分の身を抱いた。十一月上旬。そろそろ本格的に冷え込む時期だ。こんな時期だと、凶暴な熊でも冬眠して亡骸のように動かなくなってしまう。そういや、熊の冬眠のメカニズムって不思議な感じじゃなかったっけ、なんて考えていると、もう一つ突風が吹き荒れ、歯という名のオーケストラが互いにその身をぶつけながら行う合奏の音が一段と増す。曲が佳境に入ったか、その音量と振動に耐えられなくなってユキノは家路を走り出した。
何か、重要なことを失念している気がした。
*****
朝が来る。陽は、今日も懲りずに地平線を跨いできた。寝惚け眼を焼くように、陽は容赦なくユキノの眼球を攻撃した。眼球を守るため、瞼という盾を構え、手で太陽を覆い隠しつつ身体をベッドから起こす。
昨日約束した集合時間は、確か朝十時であったはずだ。今日は曜日的には日曜日にあたる。学校は休みだ。そして、不安なことが一つ。
「……どうしよ……」
ベッドのヘッドボード右に置いた置時計を恐る恐る見た。時計が指す時刻は十時五分。これが意味することは、もう言うまでもなかろう。
「急がないとっ!」
ユキノは弾かれたようにベッドから立ち上がり、ドアを開け放って廊下、階段と駆けて行く。二階にある寝室から、一階に到着するなりリビングと合体したキッチンに入ってポップアップ型トースターに食パンを差し込み、焼き始める。待ち時間に撥ねた紙を整え、顔も洗い、服も着替える。計、二分。我ながら実に俊敏な行動であった。そして、階段を駆け下りたのも束の間トースターがチン、と鳴り、焼き終ったことを報せてくれる。それを聞き、ユキノはトースターから半ば飛び出たパン二枚を引っ手繰るとジャムもバターも塗らずに口いっぱいに頬張り、家を飛び出した。この結果だけを見ると順風に帆を上げているように見えるのだが、最初に遅刻しているという段階で既に順調ではない。
走り際、吹いた寒風に肌が粟立ち、コートを羽織ってき忘れたことを後悔したが、後ろを振り返ったりせず、前を見続ける。洒落た言葉を言えるだけ、まだマシということだろうか。自転車も一応あるのだが、ユキノはこの閑静な住宅街ならぬ寮街をゆっくり歩いて趣を味わうのが好きなのであまり乗らないようにしている。後、運動の為というのも兼ねて。いや、待てよ。今度こそ立ち止まった。どうせ走るのなら、自転車に乗るべきなのでは? そんな疑問が浮かんだからだ。だが、ユキノは、誰かに背中を突き飛ばされたように唐突に、再び走り出した。
ただ、走っているだけというのも退屈なので、走りながら何か考え事をする。ユキノは頭が悪い癖に、色々と考えたりするのは不思議と嫌いではないのだ。勉強は出来ないが、嫌いではない。こう纏めると、何となく優等生より優等生らしい。
というか、ユキノはいつになったら遅刻しないようになるのだろう。ユキノは、度々、という程でもないが、相対的に高頻度で学校に遅刻する。遅刻する、といっても数分のことが多く、さほどきつく怒られた記憶はないのだが、それでも遅刻常習犯のような言われをするのには少し嫌気が差していた。自分でも改善したいとは思っているのだが、遅刻常習犯のレッテルを貼られて早数年。そろそろ諦めかけている自分がいた。ちなみに言うと、先刻の驚異的な準備の速さは遅刻への慣れによるものである。なので、早く準備が出来てもあまり嬉しくない。
だが、愚痴を零すなら距離にも問題があると思うのだ。この学校は、主にこの学生寮に於いて、学力の高いものから順に高設備で、豪邸で、しかも学校に近い場所の部屋が宛がわれることになっている。その中で、学力が最低ランクのユキノは、一番遠い所。学生寮はフローリス中学校、高等学校、大学で三分割されていて、全貌としてはおよそ円形をしている。ケーキを三等分したような変な形だ。そして、それら学生寮を取り囲むかのように、等間隔で三つの校舎が建てられているのだ。もう解るだろうが、一番校舎から遠いところにあるユキノの部屋は、学生寮のほぼ中心に位置しているのである。例えるなら、台風の眼のような位置だ。台風の眼の中で、台風の端にいるような振る舞いをする私って、なんか情けないな。一言で言うなら、台風の眼から遠ければ遠い程、学校で台風の眼になりやすいということだ。
クレスは確か、学年首席と聞く。高校三年生で主席ということは、恐らくだが学校一の学力ということになるのだろう。どちらかというと秀才タイプといったところだったので、鳴りを潜めているかも知れない天才に追い抜かされるかも知れないが。だが、そんな天才がいるかどうかはどうでもよく、結果論として学校一の学力を有するクレスには、普通では住めないような豪邸が渡されるのだ。昨日クレスが料理を作ってくれている間にクレスの家内を探索した結果、どうやら7LDKということらしかった。三階建の7LDK。充分過ぎる広さである。こんな大きな豪邸に住みたいな、とつくづく思ったが、まあ仕方ない。それに、言い訳みたく聞こえるかもしれないが、ユキノは自分の2LDKの家で既に満足しているのだ。色々と家具が足りないこともあったりはするが、一人暮らしに二部屋もあれば充分なのだ。そう考えると、一人に七部屋渡す学校が馬鹿なんじゃないかと思えてくる。
ああ、息が切れてきた。駄目だ、もう動くことが出来ない。ユキノは、両膝に手を付いて、肩で息をする。そう言えば、口にあったはずの二枚の食パンは消滅していた。いつの間に食べ終わってしまったのだろう。考え事をしていると、このように時々本気で記憶が飛ぶことがあって何となく危なっかしい。アスファルトの地面に、汗がぽとりと滴る。横の髪が重力で真下に垂れ、汗で頬に張り付いた。
暫くそのまま肩で息をし続けた。街中でここまで激しく困憊している人間を見た人は何を思うだろう。いや、ここは街じゃなくて寮だった。いつ見ても、この異様な寮は、住宅街にしか見えない。住宅街風の寮の異質感はいつまでたっても抜けない。
そして、数分が経過し、ようやく息が整ってくる。かなり近くまで来ていたので、走るべきか、歩くべきか迷った。顔を落としたまま、少しだけ顎を上へ向け、同時に少し右へ回転させて、頭上左の柱時計を見る。時計の指し示す時刻は十時二十一分。クレスならきっと怒らないだろうけど、それでも遅刻に負い目を感じる自分がいた。五分くらいの遅刻なら慣れたので負い目の一つも感じないが、二十分超えは流石にきつい。
それでも不安にさせまいとユキノは歩き出そうとする。いや、既に不安になっているだろうが。手遅れか。それでも、出来るだけ早く到着する為に。
ユキノは疲労困憊としたその身体に鞭を打つ。ゆっくりと肩の位置を上へと持っていき、なまじ身体を起こした状態で、猪が突進するような状態で走り出す。そして、走りながら更に少しずつ体制を起こしていき――
「うおっと! ……いったあ……!」
ユキノは何か硬いものに衝突した。昨日クレスが的代わりに創った鋼鈑に似た、しかし金属質ではない硬さ。吃驚したユキノは、それに弾かれたように仰け反り、尻餅を搗く。暫くは身体の中心を何かに押されているような、腰の曲がった海老のような体勢でいたが、数秒経って恐る恐る身体を起こし顔を上げた。
そこにいたのは、人。人だが、魁偉で少し日常では見られないクラスだ。筋肉なども堆く積もられた岩石の様で、例えるならまるで巌のようだ。と、言うと失礼だろうか。ユキノの顔が衝突したのは、その強靭な胸板だろうか。大物感を感じさせる大き目なコートを羽織っており、服装からも威厳が染み出ているようだ。髪は短髪……だろうか。特別短いという訳ではないので断言はできないが、クレスやエルヴィンよりは短い。双眸からは威圧感が染み出ており、表情を正確に描写するのなら不思議そうな顔、なのだがまるで睥睨しているようだ。鼻梁は整っており、高い。鼻の骨は折れやすいというが、たとえハンマーで殴っても罅一つ入らなさそうである。この人は、恐らく軍人か、傭兵だ。
「何だ、どうした」
目の前にいる、剛健なその男に声を掛けられる。ユキノの肩が、無意識にびくりと跳ねた。瞳孔が限界まで開かれ、唇が戦慄くように震える。ひしひしと恐怖が込み上げ、逃げたい衝動に駆られ、気が付けばユキノはその男を躱すように身を捩って、鎮座するようなその男から遠ざかろうと走り出していた。横を擦り抜けられたことだけでも奇跡だったと思いながらユキノは走り続ける。後から思えば、男は別に威嚇している訳ではなかったので失礼だったのだが、その時のユキノにはそこまで考えが至らなかった。
「お、おい、ちょっと待て」
後ろから呼び止める声が聞こえた。瞬間足が地面に吸い込まれるかのように止まったが、強引に前へ蹴るように出して進む。その時、足が動かなくなったのは、罪悪感故だろうか。
そして、再び何かにぶつかる。
「あ、すいませ――」
一心不乱に走っていた為か前が見えず、他の生徒か教師かにぶつかったのかと思ったが、違った。眼前に立っているのは、先刻の偉躯だった。
「待てと言っているだろう」
再び肩を震わせ、激しく聳懼する。また逃げそうになったが、今度はしっかりと踏み止まり、普通に会話をしようと思った。
「え、え、何ですか、何なんですか……!」
恐怖のあまり、逆に挑発的な口調になる。これが、気が動転している、ということだろうか。こんなことでは、戦場に踏み出すだなんて、到底無理なのに。
「いや、別に何かあるって訳じゃないんだが。ただ、ぶつかられて何もなく逃げられるというのは、少し気に食わなかったのでな」
「す、すいません……。ちょっと……怖かったので……」
「そうか、威嚇してしまっていたのならすまない」
軍人は、割と本気で申し訳なさそうに謝った。軍人というと鬼教官のような厳ついイメージがあったので、勝手に脅えていたのだが、どうやらそういう訳でもないらしい。勝手に襲われるかと判断していた自分が急に恥ずかしくなった。
「あー、ちょっと聞いていいか」
軍人は蟀谷の辺りの髪を乱暴に掻きながら訊く。断る理由もなくユキノは首肯した。
「はい、構いませんけど……」
軽く首を傾けながらそう答える。質問とは、一体何だろう、とユキノは考えた。
「ちょっと人を探していて、名は……クレスって言うんだが……」
そして、考えて、自分の察しの悪さに辟易させられる。虚仮の後思案とはこのことだろうか、少し違うだろうか。元来軍人など来るはずのない学生寮に傭兵であるエルヴィンが来たのはクレスに用があったからだ。つまり、軍人達はクレスの貼った貼紙によって、僅かだろうが動かされている。ということは、恐らく軍人だろうこの男もまた同じくクレスに用があるのだ。そんなこと自明しているといっても過言ではないのに。
そして、こちらはどうも参戦者という感じではない。顔と身体から染み出る圧倒的威厳からして、この男は恐らく幹部的人間。軍の代表格だろう。そして、そいつがクレスを捜している。つまり、そこから導き出される答えはただ一つだ。
――勘付かれたっっ!!