春を見守る
はじめまして、漣榎乃と申します。
拙い文章ですが、よろしくお願いします。
こんにちは。
とある商社で受付を担当しております、総務課の坂木明莉と申します。
企業さんによって異なるとは思いますが、当社の受付は総務課の勤めです。
当社の場合は受付専属の方を雇う予算は無い中途半端な規模(ごめんなさい)の会社なのですが、10階建ての本社ビルは当社しか使っておりませんので、1階ロビーで来客に対応する人間が必要です。
受付は新人に任せられず、かといってそんなに年齢を重ねた方もちょっと、という会社の重役による失礼極まりない理由と「会社の仕事内容や人間の顔と名前と役職を把握できているだろう」という、とってつけたような基準により、25歳から35歳の女性社員にしか任せないというルールが存在します。しかも未婚の。なぜ既婚者は不可なのでしょうか。正直法律に引っかかってしまいそうな基準なのですが、別にそんなに受付をやりたいと志願する人間も今のところいませんので、まあ良しとしましょう。
総務課の中でも受付業務担当は3人で、大体週2日ずつ担当しています。ちなみに私は26歳、受付係の中では一番若手です。先輩に学ぶ日々なのです。
受付を担当して初めて知ったのですが、当社のロビーは意外とトラブルが多いです。
当社のビルには役所と郵便局が隣接しているためか、税金のことを相談されたり配達を頼まれそうになるのは日常茶飯時です。かわいいものです。
ただ、人事部の美女と経理課課長の情事とか、営業部の若手社員とお局さんの姉さん女房カップルとか、営業部のエースと広報部の癒し系女子のお弁当デートの様子その他諸々を見ていると、ちょっとこれは人に言ってはいけなそうな情報を手にしてしまっているのです。というか社内の恋愛事情を知ってしまい大変気まずいのです。
もちろん業務上知りえた情報なので公開してはいけません。社会人としての義務ですね。もちろん存じております。ですが、皆さま企業内恋愛を満喫していらっしゃる様子を拝見していますと妬まし……いえいえいえ、切なくも微笑ましい気持ちになるというものです。
受付業務を始めてからひと月のうちに全てを知ってしまいましたので、とりあえず週2日担当していらっしゃる直属の吉池先輩に伺ってみました。もちろん完全に会社の方のいない状況で、単語のみで。するとすっきり美人の吉池先輩はにこっと笑って、
「良い子ね、明莉ちゃん。受付は知ってるから。わかってるわね?」
とおっしゃって、頭をなでてくれました。
はい、心得ております。たとえお酒を飲んでも社内の秘密は漏らしません。
要は、こんな状況を私たち受付とその横に立つ警備員さんたちは共有しているのです。
特に金曜日の午後3時から終業にかけての警備にあたる高倉さんなんて全てご存知でしょう。昼間の担当のおじ様方は税金どうのというあたりのトラブルは把握していらっしゃるでしょうが、夕方の担当の方々(少なくとも3名ほど)なんてそれはもうご存知でいらっしゃいます。というか翌日がお休みなのを良いことに、皆さま金曜の終業時なんて気が抜けっぱなしです。
いつもある景色のせいか、私たちのこと視界に入ってないのでしょうね……。目の前でいちゃこら……いえいえいえ愛を確かめられると殺意が……いえいえいえ居心地が悪いことこの上ありません。
そんな様子を高倉さんは見事なポーカーフェイスで流していらっしゃいます。きっと研修があるのでしょうね。感情を表すと逆に因縁つけられるって言いますし。大変お見事で、教わりたいくらいです。
なぜいつも金曜日はこの2人の組み合わせなのかと申しますと、そりゃあもう若手の義務でしょうね。金曜日なんて皆さん早く帰りたいに決まっています。受付はぎりぎりまで来社名簿のチェックやら入館章の確認やら色々と事務作業が残っています。その後着替えや帰り仕度をするわけで、どう頑張ってもサービス残業になってしまうのです。そんな厄介なこと、金曜日には誰もやりたがりません。
高倉さんもそういった事情なのでしょう。彼らの仕事は鍵をビルの管理室に戻すまでですから、オフィスに誰か一人でも残っていたら仕事が終わりません。やはり面倒な仕事は若手に回ってくる運命なのです。
ですが、私は高倉さんがいらっしゃる毎週金曜日の午後3時から終業までの時間が楽しみで仕方ないのです。
そろそろ夏になるという頃合いで飲み会の声がかかりました。新人を中心に他の課を横断した会だそうで、他課との交流を図るものです。もう新人とは言いがたいのですが、若手を中心にどんちゃん騒ぎをしたいようで、総務課の新人数名を含めた人間に声が掛かったようです。吉池先輩に相談すると、
「いいよ、行っておいで。金曜って一番忙しいのに春からずっと明莉ちゃんに任せきりでさ。井上チーフとも話してたの。久しぶりに羽目外しておいで」
と快諾してくださいました。
井上チーフはきりっとした美人受付さまで、私たちの一番上司の方です。婚約中ですが、仕事ができすぎるので重役も「結婚はしてない」とかわけのわからない理由でチーフを受付係から外したがりません。世の中よくわからないことばかりです。
お言葉に甘えて飲み会に行くことにしました。総務部の新人さんと飲むのも久しぶりで、他課の同期と飲むのも久しぶりだったので、だいぶはしゃぎすぎてしましました。
ふう。若干足元がおぼつきません。後輩ちゃんたちの前では強がって見せていましたが、駅に辿り着くまでが限界だったようです。終電までは余裕があるので、水を飲んで一休みしましょう。
ホームのベンチに座ってぼんやりしていると、心配そうな声で呼ばれました。
「あの、坂木さん」
「あれぇ、高倉さん?」
なんと当社の警備員の高倉さんです。今日は遅番だったのでしょうか。制服もかっこ良いですが、スーツも良くお似合いです。
舌っ足らずでかなり危ない顔をしていたのでしょう、高倉さんの顔が引きつっています。
「飲み会だったんですって?顔、赤いですよ」
「ふふふ、久しぶりだったんでいっぱい飲んじゃいましたぁ。高倉さんはぁ、いまお帰りですかぁ?」
「いや、えっと」
少しまごついてから、高倉さんは思い切ったように顔を上げて言いました。
「吉池さんが、坂木さんが調子乗って飲んでるから俺の家で少し休ませるようにって」
「ほえ?」
今日は吉池さんはいらしていなかったはずですが……。ああ、内通者がいらっしゃるのですね、吉池さん。今回参加の女性社員は吉池さんと顔も合わさない階にいるので、男性社員のあのあたりでしょうか。黙っておきます。もちろん。私はできる部下でいたいので。
そうは言っても、そんなに悪目立ちするほどだったのでしょうか。しょんぼりです。
まあ、それは良いとして、
「高倉さんのおうちはぁ、ご近所なんですかぁ?」
「一つ隣の駅ですけど、駅からは近いですよ」
「ほぉー。では、お邪魔しますぅ」
ぺこりとおじぎをします。何事においても挨拶は大切です。ちょうど顔を上げたタイミングで電車が入ってきたので、すたすたと乗り込みます。高倉さんが慌てて追ってきます。
席は全て埋まっていたので、ドアのすぐ近くに立ち、外を眺めます。外が暗いせいで窓が鏡となり、隣に立つ高倉さんも映っています。
よく考えると、高倉さんと並んで立ったことがありませんね。受付はいつも座っているし、終業の挨拶は受付のデスク越しでしたし。
私は身長が159センチと標準的?ですが、今日は踵の力を借りて4.5センチ嵩増ししています。そんな私に対し、高倉さんの肩は私の目線くらいです。ということは180センチいかないくらいでしょうか。よくわかりませんね。
そんなことをぼんやり考えるうちに駅に着きました。
途中のコンビニでお水とお茶とお菓子を買い込みます。重いからと高倉さんが持ってくれました。ありがたいので高倉さんの買い物分を代わりに持とうとしたら断固拒否されました。まあ確かにふらふらしてたまに高倉さんの腕を支えにしている女に何を持たせても危ないだけでしょう。
着いたのは小奇麗なマンションでした。しかもオートロックです。2階の角部屋という好立地。やりますね、お客さん。
よそ様のお宅にお邪魔するのなんて高校以来です。うきうきです。お菓子を献上します。
「どうぞお納めくだされぇー」
もう酔っ払いのテンションです。目を白黒させる高倉さんを見てけらけらを笑います。
それが、どうしてこうなったのでしょう。
「ふ……うん?」
いつの間にか、顎が筋張った手に掴まれていて、目を開くといつもの生真面目な瞳をぎらつかせた高倉さんがどアップで視界を覆っています。
もう26歳です。どういう展開かわからないなんて言いません。酔ってはいてもそれはきちんと自覚していたのです。でも真面目な高倉さんのことだし、私なんぞではそんな気にはならないだろうなとか思っていたのも事実です。
なんだかんだ高倉さんも男だったわけで、そりゃ酔って無防備な女が自分の部屋にいれば手を出したくもなるでしょうね。高倉さんのせいにするのは酷ってものです。
ごちゃごちゃといろいろなことを一瞬で考えましたが、結局こんな私でも高倉さんがその気になってくれたなら、まあ良いかな、と思いました。これが浮気とかじゃなかったら良いな、とも思いつつ、私はその熱い掌を感じることだけに専念するために目を閉じました。
がばり、と身体を起こしました。それはもうがばりと、勢い良く。
自分の身体を見下ろすともうそれは一糸纏わぬというやつでひええとなりました。
あたりを見渡すと、昨日私が着ていた服が丁寧に畳まれていて、遮光(たぶん)カーテンから朝日的な明かりが差しています。ベッドから出ようにも、むき身の腰をしっかりとした腕で抱えられているため下半身を動かすこともできません。それ以前に、
「ああ……惜しいことしたなぁ」
心の底からがっかりです。ほとんど昨日のことを覚えていません。何となく思い出せますが、ぼんやりとおぼつきません。何より、
「私、ちゃんと好きって言ったかな?」
大変恐ろしい疑問です。これは本人に確認するしか解決する方法は無いのですが、高倉さんがただの遊びと考えているとしたらそんなに重りになりたくはありません。さすがに業務で気まずい思いをしたくはないのです。突発的なものだろうし、まあ流してくれますよね。
「よし、帰ろう」
「帰るの?」
盛大に肩がびくりと揺れました。ぎこちなく声の方に顔を向けると、寝起きの色っぽいお兄さんがこちらを見上げています。にこりだかにやりだか判別できない笑顔で私をまたベッドに戻しました。反動に目を瞑っている間に高倉さんが上から見下ろしてきました。
「俺の質問に答えてくれたら、さっきの坂木さんの疑問にお答えするよ」
シーツ越しに見下ろされているのでまだ何とかなりますが、今にもひん剥かれそうです。ちょっと怯えていると、意地悪く目を細めて耳元に口を寄せてきました。
「惜しいって、何が?」
目を見開きました。聞かれていたようです。瞬間顔が真っ赤になったのがわかりましたが、ぱくぱくと口を動かすだけで一向に声が出てきません。
「明莉」
教えて?と耳たぶを甘噛みされ、喉が引きつります。楽しそうにくつくつと笑いながら再度聞かれると、私はあっさりと白状してしまいました。
「だ……って。昨日の、こと、あんま、覚えてない、から……んっ」
「それで惜しいって?」
いやいや、息が耳にかかってくすぐったいんですけど!変な声出ちゃうでしょ!!
「だってぇ……、せっかく、好きな人と、して、もらえた、かも、しれない、のに」
もう無いかもしれないのに、覚えてないなんて悲しすぎると言うと、
「ふうん」
と意地悪い相槌をうってきます。
ところで、耳の後ろ舐めるのそろそろやめてもらませんかね?
「じゃあ、教えてあげる。昨日、坂木さんは俺に好きだって言ったか」
びくりと身体が揺れました。恐る恐る目を上げると、いつもの生真面目な様子からは想像もできないような獰猛な瞳で言いました。
「坂木さんはキスしただけで爆睡してたから、何もしてないし聞いていない」
「え」
信じられずにぽかんと口を開けると、それを覆うように口付けられました。少し苦しくなった時に外してくれましたが。
「でも服は起きてる時に坂木さんが自分で脱いで畳んでたから。決して寝込みは襲ってない」
弁解するような口調がおもしろいですがなんとも言えずはあ、と返事をすると、またにこりともにやりとも言えない顔で笑って言いました。
「つまり、さっき初めて坂木さんが俺のこと好きだって言ってくれたわけだ」
嬉しいな、と呟いて、
「俺も、坂木さんのことが好きだ。付き合ってください」
と、至近距離で真摯な瞳に言われたら、それはもう
「はい」
と言うしかないでしょうよ、ええ。もう即答でした。
「ありがとう」
お礼を言いながら額にキスしてくれましたが、掌が不穏な動きを見せ始めました。
「あの……高倉さん?」
「和史って呼んで。俺も明莉って呼びたい」
「かず……し、さん。手……」
「ごめん、不完全燃焼。好きな女抱いて何もせずに寝ただけでも褒めてほしいくらいだ」
「え、そんな、ああっ」
そんなわけで、私の思いは実ったわけですが、朝からなんかいろいろされてしまいました……。
ちなみに和史さんは私の一つ年上でした。そろそろ警備本社の企画課に異動だそうです。実は夕方シフトの中では年長者だそうで、受付の中では一番若い私は結構話題になっていたそうです。ちょっと焦っていたそうです。金曜日は私が担当になった途端に年長者の権力を使ってねじこんでいたそうです。
うふふ。それなりに嬉しいです。
当社のロビーの平和と秘密は、今日も私たち受付と隣に立つ警備員さんのチームワークによって護られております。どなたさまも安心してご利用くださいませ。
お読みいただき、ありがとうございました。