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バッドアルケミスト  作者: 鈴木 倖
道を外れし者
2/2

前触れ

実際の個人、団体、企業、その他名称とはなんの因果関係もありません。ご了承下さい。

凶治が生徒会長に就任したのは去年の秋頃のことであったが、彼自身は遠い過去の事のような感覚を覚えていた。

 その件自体はあまり愉快な出来事ではなかったし、半ば強引に任命させられたという事実を加味したのなら、間違いなく怒っていいと思われる。しかしながら、彼の尊い自己犠牲(?)の結果、人の上に立つ仕事については、デスクワーク込みで誰にも負ける気がしないと自負出来るほどにまで成長していた。

そうとは言っても、彼は特段仕事にストイックというわけではない。労働は少ない方がいいし、疲れた時に無理をするようなことはない。そういう意味で、彼にも年相応の”だらけ"はあった。

 だが別に、彼がせっせと働かなかったといって、それで仕事が滞るかというと、そうでもない。基本的に、創術科の役員は理系の得意なものが多いという特徴があり、部活の会計であるとか、行事の段取りであるとか、そういうことに特に秀でた人材が、差はあれど、複数人生徒会に在籍している。

 凶治はそういう者を観察して、選別し、最も適したポストへ"半ば強引に"放り込むという作業を行った。おかげで彼は"内側"に対してそれほど干渉せずに"外側"に向けて手腕を振るうことが出来たため、多少の苦労で安定を手に入れていた。


 それでも生徒会長という役目は重責である。だれに責任があるのかと問われると、真っ先に彼の名前が上がるのは、ほぼ間違いない。

 だが凶治の学園での評価はすこぶる良かった。成績優秀、品行方正、生徒会長としての実績も十分。彼は"人道を踏み外した才覚"を持ち得ていることを誰にも知られずに、"誰もが敬う人格者"という地位を手に入れたのだ。


 こうした経緯で今に至るわけだが、半ば示唆的に重責を背負わされたにも関わらず、結果的に言えばプラスに働いていた。存外、退屈しない毎日だったように思う。公の場に立ち続けるとことはあまり好ましくなかったが、十七歳の青年である彼にとって貴重な体験だったことは否定出来ない。凶治はこの時まで思っていた、のだが。


「今日の実演…素敵でした。兄さま、また、お願いしたいですわ…ふふ」


「先輩?今期の創術科の部活の予算配分ですが…ごご、相談したいことが……はぅー…」


 残念ながら彼は壮大な勘違いをしていた。真に手ごわい相手は生徒や教師、もしくは理事会のお偉方などではないということを。いや、彼のぶっきらぼうな気性では、些か以上にこの状況は荷が重かった、と言わざるを得ない。


 彼の両隣には、ひとりずつ女子生徒が並んで歩いていた。

 創技科3年の主席である百合は、創術科の生徒会長である兄が仕事を終えるのを待ち構えたかのように現れ、兄の右隣にこれでもかというほど密着している。一 方、凶治と同じ、創術科の生徒会役員《主席である彼女は自動的に生徒会入りしていた。》会議に出席していた綾女は、初の会議という緊張感を乗り越えて、実 に晴れ晴れとした表情をしながら、凶治の左隣をやや離れた距離を保ちながらも、しっかりとキープしている。


 控え目に見ても美少女と言わざるを得ないこの二人に挟まれてしまった彼は、緊急措置として居心地の悪さをポーカーフェイスの下へと押しやった。

 心境的に冷静になれない事態をあまり経験していない彼にとって、この羨ましい(?)状況は、もしかすると僥倖だったのかもしれなかった。

 勿論のこと、彼の気持ちを代弁するならば、『そんなわけないだろ』である。


「孤立無縁とはこのことか…」

「…そうですよね、創術科と創技科の対立は激しいですから、先輩に負担が…」


 別の心配をされてしまったが、綾女なりに考えてのことだろう。


「…ん?いやそれは大丈夫だろうなぁ」

「ええ、創技科には私が居ますから。私の兄に手を出すことなど許しません。」


その様子を見ていた百合が、豊かな胸を張りながら言葉を付け足す。清真学園は今年で創創立30年を迎えたが、創術科が設立当時から存在していたのに比べ、創技科は20年しか経っていない。

 凶治は全く意に介していないのだが、自己意識の高い者の中に、創技科を侮蔑するこに優越感を見出す輩がちらほら存在する。

 そういったことを除外しても、根本的にスタイルが違う、ということもあって、特別な関係でないかぎり、二つの科は総じて仲が悪い。

 では何故創技科の設立が10年も遅れたのかというと、これもまた根本的な話になる。

その背景として、錬金術の主な用途は科学的な、頭脳分野に比重が置かれていた、という点にある。

 最初に、最もポピュラーな錬金術として"物質の物質変成”という事柄があるの。例を挙げると、どこにでもある鉄くずを、世の理を捻じ曲げ、価値のある金に変成する。これは、一般大衆における錬金術の解釈だろう。

聞くだけでは眉唾もので、都合のいい妄想話と一笑に伏すことが出来るだろうが、確立された一つの分野として世界に認識されてしまえば、無視することは出来ない。そんな夢のような技術を他国に独占されるようなことがあれば、経済の流れそのものを掌握されることになる。

 しかしそんな中、唯一"影響下"にあった島国。目先の利益に群がった諸外国から情報提供料として様々な条約や利権を手に入れた国。それが、日本だった。

 世界恐慌以前、それ以上の目まぐるしい発展を遂げたこの国は、更なる利益を得るために錬金術師の育成に取り掛かった。いくつかの名門校を始点とし、各地の 普通校のカリキュラムに"錬金科"を組み込んだ。それは功を奏し、新たなシステムを開発し、日本国内のセキュリティは日を追うごとに強化され、進化し続ける技術は乗り物や電化製品においても高い評価を得た。


 あらゆる面で大国となった日本が、唯一最大の過ちを犯したのは今から20年前。最大級の被害を生み出した悲劇。

 反日本を謳うテロリストによる自爆テロ。総死傷者は200人余り、行方不明者30人、生存者は発見されなかった。

 テロリストが用いたのは対地爆撃術式の一種であり、カテゴリとしては存在するものの、作成、使用することは"創世原則"において固く禁じられている。創世 原則とは、諸外国に情報提供を行う際に定められた約定だ。これを破ると、"呪い"が使用者及び、所属国に施行される。(詳しい内容は省く。)


 政府の高官は揃って責任を取らされることは勿論のことであったが、20年の歳月を経てなお、事件の爪痕は残っている。耳を塞ぎたくなるような、罵詈雑言の記憶とともに。



――現場において、的確かつ素早く身軽に動くことが出来る者がいなかった。


―――不得手な前線で戦っていたから、仕方なかった!



――そもそも、無能な公務員が頭ばかりを使う分野にうつつを抜かしていたからだ。


―――不足を補う"奴隷"がいれば、錬金術師は本来の役割を全う出来た筈だ!




言い逃れの逃げ口上、と言えばそれまでだったのかもしれない。だが、あながち間違ってはいない。後味の悪い舌戦は年度末まで行われ、衝突を繰り返しては、怒号を響かせる。


 百歩譲って、浮かばれなかった者への手向けのつもりだったのだろうか。

 その年の末日、様々な反対意見や酷評を押しのける形で、錬金科は《創術科》に変更され、加えて、新たに《創技科》が創設された。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「…兄さま?」


 思考の迷宮に囚われていた凶治は妹の声で我に帰った。

 道端で考え事にうつつを抜かすとは失態だった。

 ましてや、妹や後輩を引き連れていながら、だ。

 極力申し訳なさそうに謝ろう、そう思った時、横合いにあるゲームセンターから、数人の生徒が出てきた。

 正確には百合を下がらせる必要はないのだが、この男に百合を近づけるのは、兄としての凶治の直感が、激しく警鐘を鳴らしていた。


「なんだ、誰かと思えば創術科の生徒会長様じゃないか。今日の役員活動は終わりかい?」


この空々しい物言いに、隣から負のオーラを感じたが、目配せだけで控えるように制す。彼は、清真学園”創技科”生徒会長、六道(りくどう) (えにし)という。 

服装は当校の学生服だったが所々着崩しており、お世辞にも清潔とは言い難い(ファッションと呼べなくはない)ボサボサの茶髪は、おそらくパーマを当てているのだろう。一度入学前の身分証明写真を見たことがあるが、髪は逆立てていたものの染めたりはしていなかったように思う。

目つきや表情は比較的友好的に見えるが、これは他人の油断を誘うためのフェイクだと、凶治は知っていた。無論、百合もそのことは百も承知だった。まだ交流を持っていない綾女でさえ、目の前の青年に警戒心を露わにしている。


「新しく入った一年に仕事を教えるだけだったからな。」

「ふぅん、そうかい。で、その子が今年の役員か。」


六道が視線を向けた先は、身の置き所を探していた綾女だった。と、そこで六道は首を傾げてしげしげと眺め始める。さすがに、歳の近い男性にじろじろと見られるのは年頃の女の子には恥ずかしいことだったのか、綾女は百合の背中に隠れてしまった。六道は一瞬不快感を顔に浮かべたが、優越感が優ったようでそれはすぐになりを潜めた。代わりに、厳しい表情で彼を睨む綾女に話しかける。


「…あぁそうそう、天伽君、”あの話”のこと、考えてくれたかな?」

「何度も申し上げています通り、辞退させて頂きます。」


妹のあまりに突き放した言い方に、これは角が立つんじゃないか?と不安を過ぎらせた凶治(勿論、顔には出していない。)だったが、百合は綾女を庇いながら素知らぬ顔で冷たい眼差しを六道に浴びせ続けていた。


「ふん、まぁいい。どうせ話がいく筈だし、その時までに良い返事の仕方を考えておくんだね。後々後悔しないように、ね。」

「…これ以上お話することはありません。通行の邪魔になりますので。」


意味深に肩をすくめ、挑発しつづける六道に百合は気持ちを無表情に仮面の奥へ押しやり、強めの拒絶を叩きつけた。六道は隠そうともしない舌打ちの後、(もうこれ以上は色々な意味で危険だな)と危惧していた凶治にターゲットを変更し、尚も挑発を続ける。


「お前も大変だな。我が儘で弁えない妹に、先輩に挨拶も出来ない後輩。”聡明でいらっしゃっる創術科”らしい面子で納得だが、その辺、その創術科の生徒会長様はどのように思ってらっしゃるのか、話の種として聞かせてもらいたいものだねぇ?」


綾女を除けばこの場では一番扱い易いと見られているのだろう凶治には、本人の批評ではなく、周りの人間を罵倒するという方法を取ってきたようだ。確かに、生徒会長同士がこんな人目のつくような場所で口論するというのは、外聞のよくないことだった。それでいて、白々しい言い方だが、創術科そのものを小馬鹿にしたとは断言出来ない言い方を使い、こちらに挑発を仕掛ける。下手に返せば、周りの取り巻きと一緒に『喧嘩は向こうから吹っかけてきた』と証言するだろうし、こちらが何もしなくても鬱憤を晴らしたことで、先ほどのやり取りの憂さ晴らしにもなるし、創術科の生徒会長は臆病者という噂を流すということも出来る。普段から品行方正で知られるこの兄妹であっても、この人目のつく場所で不用意な発現をすれば、証拠も残るし、そうでなくともこの男なら何かしらの手を打ってくるだろう。そういった姑息な真似を思いつく辺り、この男はある意味において人の上に立つことに向いているのだろう。総合的な見解はまた別として、だ。

だが、凶治にはそんな思惑に乗ってやるような義理もないし、理由もない。多少経歴に傷がつこうが穴埋めで済む程度のものにしかならないと確信していた。何故ならば、彼には”そうするだけの事が出来る力”があるからだ。


だから、凶治は”さもないなんでもないことのように”反撃を開始した。

「そういえば、三日前、市内の警察管理局でデータの紛失があったそうだな。」

「…それが何だ?」


注意深く見ていた者にしか分からないだろうが、目から動揺が見て取れる。

こいつは、脆い。凶治はそう判断した。悲劇を嘆く青年を演じつつ、畳み掛ける。


「深夜三時二十分ごろ、所内で警報が鳴り響いたそうだ。当時、警備員の三人のうち二人が警邏に当たっていたそうだが…一人は突然後頭部に激しい衝撃を受けて気を失い、もう一人は駆けつけたものの、死角から”高威力の外的要因”により死亡。三時四十分ごろ、仮眠から目を覚ました残りの一人の警備員が遺体として発見したそうだ。死んだ男は、発見した警備員の友人だったそうだ。」

「兄さま、それは本当なのですか…?」


驚愕を顕にしていたのは百合も綾女も同じだったが、アルケミストによる犯罪というものに見識のある百合よりも、まだ入学したばかりの綾女はむしろ、恐怖が優っていたようで、ガタガタと身を震わせていた。そしてそれを、百合がそっと抱き締めて落ち着かせようとしている。こうすることでしか穏便に切り抜けられないことは分かっていたが、直接の関係がない女の子を怖がらせてしまって申し訳ないと凶治は思っているのだが(綾女が侮辱されたことの仕返しを凶治にして欲しいとは望んでいないだろうという憶測も、鑑みたせいもある。)、今はこの男を完全に黙らせることが最優先だった。


「確か六道家は代々、雷を利用した錬金術を受け継ぐ家系と聞くが…。」

「はは、それが何だっていうんだい?まぁ、確かに俺の家は電気のエネルギーを使った錬金術を生業としているさ。誇りといってもいいね。それで?そのどこの誰とも知らない下っ端が死んだのと何の関係が?」


明らかに警戒している…というより、それ以上この話を続けたくないという意図が丸見えだった。しかしそれでも尚、凶治は手を緩める気にはならない。


「そうだな。まぁ、”変成の痕跡”を解析することが出来る者が入れば話は別だろうが。」

「なん…」


だと、と言おうとしたのだろうか。今度は明らかにぐっと行き詰まった様子をしていたが、声高に反論は出来ない。ここは往来で、至るところに目があり、相手は見下してはいるものの創術科の生徒会長だ。余計な口は彼にとって文字通り命取りとなる。それに、何も言わなければ墓穴を掘ることもないのだ。何故ならば、”感電死したという事実は公に知らされていないし、変成の痕跡を遡ることが出来るアルケミストは厳密には存在しない”からだ。


「勿論、今から犯人が誰かだとは警察でも断定出来ないだろうな。生命活動を停止させる程の錬金術(アルケミィ)なら無理をすれば中級クラスのアルケミストにも変成は可能だ。国内だけでも相当の数がいるし、そもそも管理局に忍び込もうとする輩が隠密系統の錬金術(アルケミィ)を使用していない筈がない。…まぁ、たとえ生徒会長だろうがたかが一介の高校生の俺が事件の真相を解き明かそうなんていう大それたことは思ってないさ。これは、単なる”話の種”だからな」


愕然とする取り巻きと、眉間をひくひくと震わせている六道を見て、凶治はもはやこれまでと話を終える。六道には彼を問い詰めることも、反論することも出来ない。


「さて、そこをどいて貰おうか。…百合、綾女、行くぞ。」


有無を言わさぬ無表情と高圧的な物言いに、お怖気づいた取り巻き連中を下がらせ、立ち尽くす六道の隣を、二人を連れてすり抜ける。屈辱に顔を歪ませているのが見えたが、何をどうこう出来るわけでもない。凶治は完全な自然体で無視した。



◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



凶治の私室は二階の突き当たりに設けられており、滅多なことがない限り、彼の部屋に来客が訪れることはない。正確には、家族以外の人間が足を踏み入れたことがない。今も彼は一人で複数のコンピュータの前でタッチパネルを操作していた。


(『鳥籠』と聞いた時はもしやと思ったが…やはりあいつは呪禁の娘だったのか)


今彼が閲覧していたのは、古くから存在する”呪禁の一族”についての情報だった。国により一切の干渉を行えないようにプロテクトを掛けられ、その存在を隠されて、今尚その名を知っているものは一族の者かその関係者、もしくは国の最上層部ぐらいだ。後は噂話程度に知られているが、その内容は規制するに値しないゴシップなものばかりだった。最も、凶治にはもはや馴染み深いものでしかないのだが。しかしそれ故に、彼女がこの学園に入学してきたことには何か意味があるものとして考えなければならない。彼は、絶対に隠さねばならない”秘密”があるのだから。


「お兄さま?少しお時間よろしいでしょうか?」

彼が不審な思惑に心馳せている時、妹の百合は1階のリビングで夕食の準備をしていた筈だ。普段は凶治も手伝っているのだが、今日に限って『兄さまはゆっくりしていて下さいませ』などと断られてしまった。思わず首を傾げたのは記憶に新しいことだった。

「あぁ、どうぞ。」

扉を開け中へ招き入れると百合はいそいそと身を縮こまらせながら凶治の近くに寄り添った。今更兄妹が寄り添った程度で凶治は緊張したりはしない。だが、一般的に言っても相当な美人である百合からはとても甘い香りがする。それでも、妹でしかないのだが。(大事なことのような気がしたために言い直した。多少言い訳じみているのは致し方ないだろう。)ふいに、百合は指先をモジモジと交差させながら遠慮がちに、けれど呟くようなことはせずに口を開いた。

「…お兄さま、先ほどは申し訳ありませんでした。私がむきになって言い返してしまったせいでお兄様にご迷惑をお掛けしてしまって…」

「あぁ、気にするな…といっても、百合は気にするだろうな。」

こくり、と頷く百合はほんのり頬を朱に染めて凶治の胸板に両手を添え、寄り添うようにして目を閉じた。凶治も特に何も考えず、黙ってそれを受け入れた。

「縁談があるそうだな。さっきの、六道氏と。」

「やっぱり、ご存知だったのですね。…はい、お話は頂いています。」

百合はさほど驚いた様子もなく、しかし居心地の悪さの滲む苦笑を浮かべた。無理もないだろう。家同士が決めたこととはいえ、好きな相手でもなく、むしろ嫌悪しているといってもいい相手と路上で口論をしたあげく、兄に庇われてその上、その兄に縁談を控えていることを知られているのだから。むしろ、一目散に撤退しないだけこの妹は我慢強かった。だが、百合がまた別のところで緊張していることまでは気がつかない凶治は(百合にとってはある意味残念だったかもしれないが)”建設的”な方向変換を始める。

「そのことだが、縁談は取りやめた方がいい。彼は、管理局から”ある資料”を盗んだんだ。もし俺があの場で罪を公にしてもしなくても結果は変わらなかっただろうな。」

心底驚いた様子で見上げた百合から見た兄は、どこか諦めたような。長年彼を見続けてきた百合にしか分からない程度に疲労の色を見せていた。

「まぁ、取り計らっておいたからまさか殺されるようなことはないだろうが…万が一ということもあるだろう。気が進まないだろうが、彼の動向には目を光らせておいてくれないか。本家の方には俺から説明しておこう。それから…」

凶治は急に、胸に抱き着いた百合の拘束が強くなったように感じた。『ぎゅ』から、『ぎゅううう』と、だ。無論、凶治には嫌がる理由はない。

「お兄様…有難う御座います。百合は、幸せ者です…」

凶治は少し照れた様子だったが、顔には出ていない。だが、彼の胸に触れている百合にはそれが分かった。彼が照れている。そのことに、百合はほんわかと暖かな気持ちになれていた。


妹の危惧を解消し、安堵した凶治はこれから起きる更なる凶事の前触れを事前に察知していた。だが、そのことを百合に伝えるようなことはしない。

―――歴史ある家の娘とは言っても、やはり百合には幸せになって欲しいと凶治は考えていた。これはずっと昔、幼い頃…百合と”兄妹”になった日。彼に初めて芽生えた感情であり、彼がこの世界で為すべきことの一つだった。彼の本来の”用途”を抜きにしても珍しいことだったが、この思いだけは十年経った今でも遂に、色褪せることはなかった。

だから、彼は百合という存在が特別だった。

(まさか懐いている兄がこんなことを考えているなどと百合が知ったら、俺を見る目が変わるかもしれないな…)

凶治はこれが優しさ等とは露ほども思っていない。突き詰めれば一種の同情だとも思う。だがそれでも構わない。彼は表面上なにも変わらず、にこにこと微笑む妹の頭を撫でた。



.....つづく。


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