邂逅
実際の個人、団体、企業、その他名称とはなんの因果関係もありません。ご了承下さい。
その日の朝は、春先だというのに肌寒く、外気と部屋を隔てた窓ガラスは真っ白となっていた。
自らを律するということを若干17歳のこの青年は日常的に、あるいは意識的に持ち続けているために、適度に重く、暖かい掛布団から出られないという醜態を晒さずに済んだ。(最も、見せる相手も家族である妹しかいないのだが。)
しかしながら、いくら周りの人間よりほんの少しばかり達観した見識を持っていたとしても、易々と欲求を切り捨てることは出来ない。そのことを知っている青年は、即座に、とはいわないまでもバネの効いたベッドから軋む音ひとつ立てずに起き上がった。昨日の疲れが残っていないとはいえないが、今日は用事がある。
壁に立てかけられた今では珍しい指針付きのアナログ時計を見上げる。時刻は6時30分を回ったところだ。
青年は手早く身だしなみを整え、朝餉の香り立つ1階へと降り立った。
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「おはよ、会長!」
「あぁ、おはよう。」
朝早いにも関わらず、快活は挨拶を交わしているのは部活連の同級生だった。通常の学生の登校時間を考えるに、この通りを寄りかかる学生はあまり居ないのだが部活に所属している者は別のようだ。―――まぁ、それは既知のことであるからまぁいい。むしろ、問題はそこではない。
「会長は朝早いんだね。…ねえ、ところで妹さんは?」
「俺は始業式の打ち合わせがあるからな。妹は家のことを片付けてから来るそうだ。それより…」
思わず怪訝そうになった青年の表情の意味を、この友人は目ざとく察したようで、にんまりとした笑みを浮かべている。
「心配しなくても、新入部員の事前確保なんてしないよ。まぁ、他の奴らがどうするかは分かんないけどねっ。」
――半分正解だ、とは言わず。青年はその友人に向けて首肯する。
ひとつ、都立清真学園、我らが母校の部活勧誘は熾烈を極めると有名であるということ。
毎年のように一年の争奪戦が繰り広げられ、その勢いは校内に留まることを知らず、学園の外で、しかも入学式当日の早朝に半ば強引に入部を迫るという行為が行われるということが、昨年繰り広げられてしまったことを、青年は思い出し、深くため息をつく。(後輩の前であるため、あくまで心の中で、だ。)
無論のことだが、部活勧誘の時間として割り当てられた時間が、入学式の後に設けられており、その間であれば、アレコレと言うつもりはなかった。校風的に"よくあること"であるし、荒事が起きようと馬鹿騒ぎがエスカレート気味であろうと、"入学さえしてしまえば、それは自己責任"だ。(危険と判断するまでは手出しはしない、という意味だ。)
そしてもうひとつ、これが最大の問題なのだが―――と、そこまで考えたところでその後輩は腕時計を見ながら慌てた様子でこちらに向き直った。
「あ、そろそろ急がないと…じゃ、答辞頑張って!」
「あぁ、周りには気をつけてな。」
うんーっ!と元気よく返答したその友人は、"先導している自動車を追い抜いて"走り去っていった。
大丈夫なのか?と苦笑しながらも、自分の方も急がなければと思い直す。
一気に駆け出そうとした、その時である。
ガシャァン!!とガラスが大量に崩れ落ちる音。
それは多分に青年の第六感を刺激し、《猛烈》に嫌な予感を感じさせた。
「も…ぺん言って……や?」
男にしては声の高い―――しかしながら、ドスの効いたというべきか、独特のタメのある口調の叫びの一片を聞きつけて壁を背に様子を伺う。
どうやら女子生徒が不良らしき人物(服装から、学生だと断定した。)に絡まれているようだ。面倒な現場に遭遇した己の不運を呪いながらも聞き耳を立てる。
「…ちっとでえぇんや。なぁ?こないな日に怪我したないやろ?」
「いえ…で、ですから、その…い、いやです…!…」
ガラの悪い生徒が新入生を恐喝している…という風に、青年には見えた。
だが、どうにも不自然さが目立つ。今のこの時代で、あのような典型的な恐喝が行われるのだろうか?
というのも、近年、金銭の支払いは大体のところ電子マネー(カードではなく、携帯端末からの操作で可能だ。)で行われる。
ほんの半世紀前までは、硬貨や紙幣といった"現金"による売買が主流だったのだが、利便性には目を瞑るとしても、凶悪犯罪から国民を守るという建前の、国の政策なのだという。
勿論、セキュリティの面でも国が雇う専門家により、全国民のあらゆる端末向にけて、常に最新版にアップデートされている。さらに、国道、路地、公共施設といった国によって管理されている。
地区には至るところに設置された対衝撃防犯カメラがそこにいる人間の体温、心拍数、さらには音声までも自動スキャンし、犯罪への徹底排斥には過剰なほど余念がない。
つまりこの国、日本には人間にとって死角と呼べる場所はほぼ存在しないと言っていい。(個人住宅に至ってはその限りではないが、少なくとも青年の家には導入していない。)
他国や左翼団体からは管理社会などと揶揄され問題視されてはいるが、実際問題犯罪も軽減し、検挙率は上がっているため表立った批判は抑えられている。
この国での犯罪は減少傾向にある。というのが、"表向き"の今の日本の防犯事情だ。
そして、その例外である死角というのが今のこの路地裏、通称"旧街道"だ。
とある事情により、ここ一帯には監視カメラが設置されていない。政府ですら、ここには手を出せないのだ。
そうした理由で普通の人間はここに近寄ることはない。しかしながらそこは蛇の道は蛇ということで、自然と素行の悪い人間の溜まり場にもなる。
よって、目の前の不良は適当に見繕った生徒を恐喝(おそらく金品を、だ。)しているのは、青年はむしろ自然かもしれないな、と他人事のように思った。
問題の一端は恐喝されている側にもあることは確かなのだが、なにやら青年はきなくさいものを感じ取っていた。
――そこでひとまず深読みするのを止め、無難に生徒会長の肩書きを有効活用することとする。
「こんなところで油を売っている暇があるなら講堂へ手伝いに行け。今日一日忙しいんだ。」
「あぁん…?」
新入生を後ろに庇いつつ、不良へ正面に向き直る。
「聞こえなかったか?もう一度言うぞ、お前も清真の生徒ならばさっさと学園へ行け。体力が有り余っているのなら、入学式の準備の手伝いをしろ。」
そこでようやくその不良生徒は青年の顔に見覚えのあることに気づいた。
今にも舌打ちの聞こえそうな睨みを効かせた顔を覗かせたが、すぐになりを潜める。
「ちっ…生徒会長サマかよ。」
別に権力を振り回しているわけではない、とは言わなかった。不良生徒は無言の圧力に気を削がれた様子で踵を返す。
何度かこちらを一瞥していたが、恐喝をしていた生徒には見向きもせずに、そのまま路地裏へと悠然と去って行った。
「…あのぉ…」
遠慮がちな、場所が閑散としたところでなければ聞き取れなかったかもしれない声に振り向く。
そこには、赤み掛かった髪をした、頭ふたつ分背の低い女の子がこちらを見上げていた。先ほど脅されていた新入生だった。
「怪我はないか?」
「ぁ…はい、この度は助けていただいてその……………ありがとぅ、ございました…」
覇気がごっそり抜け落ちたような声量だったが、なんとか最後まで聞き取ることが出来た。
先ほどのショックで気落ちしているのかと思ったが、言葉が途切れたと同時になにやら黙って両手の指先を合わせ、俯きがちにモジモジとしている様子を見ると、性格からして引っ込み思案なのかもしれないな、と青年は悟った。ここは先輩として気遣う場面と思い、声を掛ける。
「気にすることはないよ、。それから、ここは危ないからな。自衛が出来ないうちは近づかない方がいい。」
一般的にいえば、かなり不器用な笑顔だった。自慢ではないが、青年はあまり笑顔を作ることが上手くない。
それでもその女子生徒はその精一杯の笑顔(という風に解釈して貰えたようだ)に恥じらいながらもこくり、と頷いた。
「…学園まで送ろう。」
「……はぃ。」
短い沈黙があったが、あまり時間があるいうわけではないので、女子生徒を伴って学園に向かう。
その間も、その女子生徒はトコトコと俯きがちに青年の背中に付いてきていた。
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「―――私は、晴れ晴れとした皆さんのお顔を拝見出来たこと。そして、私の学園生活の大切な1ページとなるであろうこの良き日にこの場所にいられたことを、偉大な先達や教師の皆様に心から感謝したい。未だ経験の浅い若輩者ではありますが、この学園に入学を果たした貴方たちと、時には凌ぎを削り合い、時には声を掛け合って、更なる高みへと至らんとすることを、切に、願います。―――清真学園生徒会長、天伽 凶治。」
そう締めくくり、惜しみない拍手の中壇上を降りてゆく。
入学式での答辞はつつがなく終わり、ようやく一息。というところだった。
だったのだが。
「新入生代表、鳥籠綾女!」
しん…と静まり帰る講堂。そうか、新入生の代表の…
…しまった、まさか、あいつが…?
そっと壇上の脇から離れ、1年生の並ぶ列へと駆け寄る。ざわっと沸き立つ新入生たち。
生徒会長自ら近寄ってきたのだから当然だ。だが、対外的なことを気にするよりも今は式の遅延を防ぐことが先決だった。
戸惑い混じりの沈黙がさざなみのような喧騒となるのも、時間の問題だろう。
ふと、人波の影から小柄な、少し赤みがかった髪の色をした頭がひょこひょこと見え隠れしているのを発見した。。
…やはりか。あのような小柄な体ではこの人ごみの中では押し戻されてしまうのだろう。
あらかじめ舞台脇でスタンバイしておけばいい話なのだが、今朝の一件のおかげでタイムスケジュールが押してしまい、そちらまで気が回らなかったらしい。
手振りで謝罪しながら、人を掻き分けて進む。そして、その手を――――掴んだ。
瞬間、生徒会長の姿と、女子生徒の姿がその場から忽然と消えた。
「…鳥籠綾女。おい、鳥籠!」
「…ふぁ?」
二人の姿は講堂の真下、先ほど凶治が立っていた場所にあった。
目を瞑っていた綾女はともかく、その場に居た新入生には分かったようだ。
一瞬で、あの場からこの場所へ"跳んだ"とういうことが。
その証拠に、あの場に居た新入生は誰もが呆然としており、二人の周りの役員の誰もがギョッという驚きを顔いっぱいに貼り付かせていた。
だが今はのんびり説明している暇はない。原稿を持っているかを確認し、再度問いかける。
「当日リハーサル無しで悪いが、出来るか?」
しばらくキョロキョロと辺りを見回していた綾女は意外にも状況を理解したらしく、こくりと頷いた。
「悪いな、埋め合わせはする。」
「いぇ…その、ぁ、ありがとう、ございました…っ…」
かあぁっと頬を赤らめながら、小走りで壇上に向かってゆく。
あれなら恐らく問題ないだろう、と安堵を覚え、舞台脇へと引き下がる。
と、そこへ同じ生徒会役員であり、大柄な体格をした、友人の砕牙元康がニヤニヤ顔で肩を回してくる。
「お前にしては来るのが遅いと思ってたら…ロリ系の後輩とよろしくしてたってわけか?生徒会長の風上にも置けないな。」
「極めて不本意な言い草だが…あいつと俺の名誉のため言っておくが、なにもなかったぞ。」
『なんだよ、つまらん。』という心の声が聞こえてきそうな不満気な顔をされたが、やましいことなど何もない。
しかしながら、個性的で厄介な後輩が増えたことには、異議を唱えることは難しいように思えた。
その後も綾女は小さいながらも精一杯の声で演説し、聴衆も静かに耳を傾けていた。
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「兄さま?生徒会のお仕事は終えられたのですか?」
そう訪ねてきたのは、よく見知った顔―――もとい、妹の天伽 百合。妹といっても歳は変わらない。いわゆる双子というやつだ。
双子とは言っても、あまり似てはいない(と、凶治は思っている。)ため、そう尋ねられた時は決まってそんなことはないと断言している。
「いや、これから新入生に向けて"創術"の実演がある。昼食は遅くなりそうだ。すまないが、先に食べていてくれるか?」
「そういうことでしたら、私もご一緒します。構いませんか?」
小首を傾げて微笑んでみせる妹に、凶治は否と言える気概を持ち合わせてはいなかった。
似ていないと断言する理由としてその1に、その優れた容姿があった。
兄と同じく目はやや細いが、それがむしろ格好良い鋭さを醸し出しており、鼻はすっとしていて。唇は程よい形の美しいピンク。
背は自分より頭ひとつくらい低めで、胸元は女らしい膨らみを主張し、スカートから伸びる脚線は高校2年にして十分な色気を有していた。
それに比べれば凶治の見た目は一般的な目からするとルックスは悪くない。が、ずば抜けて良いというわけではなかった。
唯一誇れる点といえば、身長だろうか?残念ながら身長をとっても、友人の砕牙元康のタッパに劣る。(凶治は178、元康は190だ。)
そんな内情を読み取ってか知らずか、少し不安そうに見上げる百合。
「兄さま…ご迷惑でしたか…?」
そんなことはない!と断言したかったが、上目使いの妹に、ついドキリとしてしまって呼吸しそこねてしまった。
尚も自分を見つめ続ける彼女の目線に耐え兼ねた凶治は、そっと頭を撫でることによって肯定の意を示した。
その不器用な感情表現に、百合は凶治を愛しげに見つめ続けた。
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22世紀中頃、ここ現代日本―――時代はまさに混沌の最中にあった。
資源の枯渇、人口増加、拍車がかかるように降り積もる諸問題を解決する各国の奮闘虚しく人類は衰退の一途を辿っていた。
生活レベルの低下を余儀なくされたここ日本でも、全体的にかつての生活水準を大きく下回り、格差が生まれてしまう。
アジアに国々は海の向こうの輸入に頼らざるをえなくなり、自給率の低下とともに雇用の問題を併発。
これにより欧米諸国の世界における支配力は、実質最高の権威を持ち得ることとなった。
あげく、各種インフラにさえも規制がかかる始末…じわじわと縄で締め付けられてゆく、そんな表現が適当だった。
そんな中、あの歴史的な出来事が起きたのは、ある意味では奇跡と呼べるのだろう。
日本の丁度真下。太平洋上に突如現れた…いや、"生み出された"、賢者の石の原石。
高さ300mに及ぶ、巨大な錬金石。地球上のどこにも存在しない物質の塊が、突如そこに出現した。
そしてそれが生み出されたと同時、世界に向けたメッセージが流された。
それは一枚の画像ファイル、そして、妙齢の男性による、たった数秒の音声ファイルだった。
たったそれだけの物が、この世界の常識と、世界を取り巻く全ての事象を、変革した。
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「…という背景があり、この清真学園が設立されたわけだが…あー、鳥籠!」
「はぅ、…は、はいっ!」
物理的にひっくり返りそうになった綾女を、近くにいた女子生徒が支えてあげて、綾女が礼を述べている間、教師が眉目を曇らせる。
一見コントのようなやりとりだが、故意に、ということはないだろう。彼女の性格を多少なりとも知っている凶治は、そう思った。
「…急に大きい声を出してすまんな。鳥籠、お前たちがこの学園で学ぶこととは、なんだ?」
この中年の教師にとってはそれほど力を込めたわけではないのだろうが、綾女のあまりの仰天ぶりに、何故だか申し訳ない気分になってつい宥めながら問いかけてしまっていた。まぁ、無理もないな…と同情を込めた眼差しを教師に向けてしまう。と、落ち着きを取り戻した綾女はひとつ咳払いをして、真面目な顔つきを作りつつ、その問いに答え始めた。
「はぃ、私たち錬金術師は、在学中に創技、創術を修め、世界に通用するアルケミストとなることです!」
教師は学ぶことを問うたのだが、最後の方はもはや抱負となっていた。まぁ、だが間違ってはいない。
"究極的な目的"を除けば、元来アルケミストの最終的な目的は『立派な錬金術師』だ。
『国家アルケミスト』、『偉大な錬金術師』、『無から有を生み出す者』…様々な呼び方があることは確かだ。
だが、凶治の求めるものはこの中のどれでもない。それだけは確かだった。
「うむ、そうだな。国家資格でもある錬金術師だが、本来この技術は"理論上存在しないもの"だった。それが何故このようにして現代で発現、運用されるようになったかというと…そうだな、実演を交えて説明した方が早いだろう。―――天伽!」
「はい。」
あらかじめ呼ばれることが分かっていたかのように(実際、分かっていたが。)教師の背後から青年が現れた。
「生徒会長…」「あぁ、始業式で…」「鳥籠さんの…」という呟きが聞こえてくる。しかし、最後のは一体どういう意味なのだろうか。
教師が凶治の後ろの人物を見て首を傾げていたが、その人物―――妹の百合は、行儀よく頭を下げ、微笑みながらこの場にいる経緯を説明した。
新入生男子のほとんどがその美しい外見と、さりげない所作に釘付けになっていたが、当人は涼しい顔をしている。
「そうか。百合君は凶治の妹で"AS"でもあるからな。丁度いい、頼めるか?」
「はい、構いません先生。私も、そのつもりで参りましたから。」
にっこりと微笑む百合に、今度は教師が気まずげに苦笑していた。
まぁ、生徒の前で鼻の下を伸ばすような教師であればその方が問題なのだろう。
我が妹ながら罪作りだ、などと声には出せない声を、心の中で呟いた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「リンクスタンバイ。…百合、いくぞ。」
「はい、兄さま…私は、いつでも。」
妹の頼もしい言葉にこくりと頷く。目を閉じ、凶治と向き合う百合の顔は雪のように白く、透き通るような儚さがあった。
しかし儚さの中に力強く、暖かなものを感じる。それは、百合のたったひとりの家族である凶治へと向けられた、無償の信頼だった。
このような時でも浮かれず、自分の役割に徹し兄を立てようとする出来た妹。その透き通るような頬を包み込むように両手で触れる。
一瞬、周りに分からない程度に百合が身を震わせたが、ほんのり頬を染めただけで兄に身を任せたままだ。
いくらこの妹でも、大勢の人間に囲まれているため恥ずかしいのだろう、と結論づけ、凶治はその端整な顔へと近づく。
1年の女子がキャッとかワッとか驚いているが、これも毎年の通過儀礼のようなものだった。
その間も、百合の顔に凶治が近づいてゆく。ある意味極限に近い状況に、その場にいる全員がどよめいた。
が、彼らの危惧(期待?)が現実のものとなることはなかった。凶治は、百合の額にそっと、キスをした。
「……っ…!?」
最前列にいた綾女が息を呑む。先ほどまでは彼女も色めいた妄想を展開しており、危うく陶酔してしまうところだったが、凶治がキスをしたと同時、ぞくり、と肌を強烈な波動が撫でたのを感じた。周りの新入生も、大なり小なりそれを感じたようだが、彼女はそれと比較にならない程の衝撃を受けた。―――桁外れの、創力。
ふと、綾女の頭を柔らかな手のひらが撫でるのを彼女は感じた。顔を上げると、百合が気遣わしげにこちらを見遣っていた。
凶治は綾女を百合に任せることにして、先ほどの"余波"を感じ取ることのなかった生徒たちに向けて説明を始めた。
そしてその体の周りには、青白い薄い膜のようなものが見えた、凶治があえて可視化しているために、1年生にもそれを見ることが出来ていた。
「まず最初に、今俺を覆っているのが”活性化された創力"だ。君たちには馴染みのないことかもしれないが…いや、知っている者もいるかもしれないが、錬金術、『アルケミィ』の発動には"創
力"という動力が必要だ。これは、人の持つ生命力…まぁ、端的に言うと精神力や体力といった、人間を動かす力と同じものを、俺たちは"創力"と称している。つまり、創力には"現界"があるんだ。そして、俺たちアルケミストは決して何も無いところから生み出しているわけではないことを、君たちには知っておいてもらいたい。」
そこで言葉を切り、1年生の顔を見渡す。どの生徒も真剣そのもので、中断する必要性は感じなかった。
「とはいっても、慣れてくれば力を制御することで創力の節約も可能だ。それから、疲労を感じるようなら使用は控えること。生命力を創力に変換するこのアルケミィは、術者の"命"を削ると同義といってもいい。生命力が減少すれば筋肉痛、免疫力の低下は免れない。特に病気を患っている場合はな。仮に創力が枯渇し、その上でアルケミィを連続使用するようなら…」
あえて黙り込み、真剣味の持たせた眼差しを向ける。皆一様に強ばった顔つきで、とても緊張しているのがよく分かる。
「…そういうわけだ。自分の力をコントロール出来ないうちは最低限の発現に控えることだな。…大丈夫だ、1年学園に通えば創力の運用技術はそれなりに上達する。それに、創力の枯渇なんて自体になる前にこの国の管理態勢なら保護される方が先だよ。アルケミストの卵は、この国にとって金塊と同じだからな。」
慰めだか国に対しての酷評だか分からなくなるような言い草に、新入生の中から笑いが生まれた。
良くも悪くも、凶治の偽悪的な発言はまだ幼さの残る1年には親しみを感じるものであったようだ。
と、そこで今まで黙っていた教師がコホン、と咳き込みながら歩み寄ってきた。どうやら、この教師にとってはあまり都合のよくない言い草だったのだろう。
勿論、教師は公務員だからだ。立場上、そう思っていても頷くことは出来ないのだ。(凶治は別に軽蔑したりはしていない。)
「うむ、いい実演だったな。それでは、次に受講するコース説明に入るが…」
これで俺の仕事は終わった。さて、百合を拾って戻るか…と振り向いた。
そこには、にこにこ顔でこちらを見上げる百合がいた。どうやら、綾女の介抱は終わったようだ。
それにしても上機嫌である。目を細め、今にも擦り寄ってきそうな気配さえする。
あまりこの場に留まるのも良くないと考え、踵を返した。
が、すぐに百合の体が腕に巻き付かれた。背後から、色めき立つ気配がする。
生徒会長としての立場と、愛しい妹の兄という立場に挟まれて、凶治は困惑の中その場を後にした。
.....つづく。