第三章
「――さて、我の代行をする以上、貴様には色々話しておく事がある。心して聞き、しっかりと記憶に刻み込めよ、我が愛玩動物よ」
一頻り握手した後、タナトスは高いテンションを維持したまま続けた。
「ご主人様、一つ質問いい?」
「敬語は不要だが、今後我の事は主様と呼べ。で――何だ?」
怒られそうかな、と不安に思いつつ、優実は質問を言う。
「いやさ、そのテンションいつまで続けるのかなー、と思って。まだ落ち着かないの? 何と言うか、さっきまでとキャラが違う気がするんだけど?」
「貴様の嗜好に合わせたつもりだが、気に召さなかったか?」
「そうなの? ――って、人がMで奴隷みたいな事言わないでよ!」
「貴様、困っている人を放っておけない性質だろう?」
「いきなり何? というか、まだ話してないのに何で分かるの?」
「あんな発想をしておいてどの口が言うのやら……。――話を戻すぞ。そういう思考回路をしている奴は総じてMだ。他のために何かを成し、自分が傷つく事を厭わない事を良しとするなど、どう考えてもMであろう?」
「な、なるほど……。で――主様、話しておく事って何?」
疑問が解けた優実は、すぐさま話を変えた。
「まずは戦闘が発生した時の対処法だ」
「あ、やっぱりそういう展開ってあるんだ?」
「白々しい。あの動きはそのために身につけたものだろう?」
「そ。ま、どれだけ付き合えるか分からないんだけどね」
皆々我流ではあるものの、出会えた時の事を想定して、優実はこれまでに剣道、柔道、空手、太極拳、八極拳、テコンドー、ムエタイ、カポエラなどと言った様々な武術を使えるようにしてあるのだ。皆々対人を想定しているので、人智を超えた存在に通じるかどうか不安ではあるが。
「で――どうすればいいの?」
「難しい事は無い。力は貸してやるから自分で対応して見せろ」
そう言った瞬間、優実の目の前からタナトスの姿が忽然を消え、
ドクン――。
「――っ」
呼応するように、優実の胸が一度高鳴り、次いで全能感に包まれたかと思えば、黒い風が吹き荒れ、それは意思を持っているように纏わりついてきたのだ。
その風は、優実の姿を禍々しく変えていった。制服だった衣服は、タナトスが身に着けていた黒の法衣へと変わり、灰色の髪は黒く、暗く染まっていく。
その変化の中、優実には自分にとてつもなく大きな情報が流れ込んできていた。あまりに大き過ぎて瞬時にその内容を理解する事は出来なかった。が、理解出来ないと思った矢先には理解していた。何らかのソフトをインストールされる時、パソコンはこんな気分になっているのだろうか、などと思う。
しばらくして、風は止み、それと同時に変化は完了する。
変化後の優実は、まさしく死神と呼ぶに相応しい格好をしていた。長い黒髪に黒の法衣、そして身の丈以上ある巨大な鎌。唯一死神らしくないのは、首にあるチョーカーだ。装飾品という見方も出来なくは無いが、似つかわしくは無い。
《――どうだ? 死神の力を纏った気分は?》
脳内にタナトスの声が響いてきた。
テレパシーみたいなものかな、と優実は思いつつ、
《天にも昇る気分だよ、主様》
嬉しさを微塵も隠さずに言った。
改めて本物だと実感する。こんな非常識な事をまるで呼吸するかの如くやってのけてしまうのだ。変わった服装に恥ずかしさを感じないわけではないが、戦闘時の制服だと思えば余裕で耐えられるし、憧れてもいたので万々歳である。
《はっはー。流石の理解力だな、我が愛玩動物よ。尚、これから先、我は貴様の影の中に住まわせてもらい、必要な時にはこのような形で会話する事になるからそのつもりでいろ。肉声での会話は貴様にとっては何かと不便だろうからな》
《主様、色々考えてくれてありがとうございます》
《礼には及ばん。主人として当然の事をしたまでだからな。――今後戦闘が発生した場合には、我を呼べ。後はこちらでやってやるからな》
《だから、対応する事だけに専念しろって事だよね?》
《如何にも。しっかりと勤めよ》
《了解。――ちょっと動いてみてもいい?》
《懸命だな。だが、耳だけは我の話に傾けよ。話す事はまだあるのでな》
優実は頷き、鎌を置き、調子を確かめるために動き始める。
少し考え、まずは身体能力を確かめて見る事にした。上がっている事は分かっているが、それがどれだけのものなのか、知識としてだけではなく、体感するためだ。最初は軽く、次第に速度を高め、どれだけ動けるか見極めていく。
《さて、我が愛玩動物よ。これから先、我に気に入られ、我の役割を代行する事になった貴様は全ての存在や組織から危険人物と見做される事になる》
少し間を置き、タナトスが説明を始めた。
優実は自分がどれだけ出来るのかの確認を続けつつ、相槌を入れる。
《全ての存在や組織……甘美な響きだねー》
飛び出てきたその単語に、優実は色々妄想しつつ、動きの確認を続ける。全ての存在というからには天使や悪魔もいるのだろうか。組織とはどういう組織なのだろうか。警察のような組織なのか、それとも軍隊なのか、それは民間なのか、国営なのか。はたまた悪魔祓いといったコアな感じなのか――。そんな妄想により、優実は自然と頬が弛み、それに伴って動きは鋭く、早くなっていく。
一頻り妄想と確認を終え、優実は鎌を取りに戻りつつ、先を促す。
《で――具体的にはどんな感じ? 後、妄想させてくれてありがとう》
《どういたしまして。――しかし、具体的か……。そうなると、明言出来るのは組織の方だけだな。個人の方は我も全てを把握しているわけではないから教えたくとも教えようがない。それでも情報をやるとするなら……好意的な理由で人の世に隠れ住んでいる奴らからも、人をよく思っていない奴らからも、人を遊び道具としか思っていない奴らからも例外無く、満遍無く危険視される》
《好意的な理由で人と共存してくれている存在と、人を遊び道具としか思ってない存在に関しては分かるけど、人をよく思っていない存在からはどうして睨まれるの? むしろ積極的に関わりを持ってきそうな気がするけど?》
《最初だけだな。それ以降は危険視される》
《何故?》
《そういう奴らは貴様にとっては、鴨が葱を背負ってくるようなものだろう?》
《なるほど。そっちはあたしにかかってくるわけだ》
優実は邪魔だから置いておいた鎌を拾い上げ、素振りを始めつつ、尋ねる。
《なら、組織って方はどんな感じなの?》
《警察や義賊だ。取り扱うのは、超越者関連の事だがな》
《何となく分かるけど、そっちはどうして?》
《危険だからの一言に尽きるな。我は万物を一方的に問答無用で終わらせられる事が出来るが故に元より危険視されていたが、そんな力が人の手に渡ったのだ。危険視するな、という方が無理な話だろう?》
《道理だね。――でも、それなら主様は今までどうしていたの? 元からって話なら難癖つけられた事なんて数え切れないくらいあるはずだよね?》
《警察や義賊相手には適当に痛めつけて逃走を図り、それ以外に対してはその時の気分次第で生かしたり、殺したりしていたな》
《ドSなようで、意外と優しいところもあるんだね?》
《心外だな。こんな身でも良心くらいは持ち合わせているぞ?》
《だね。――ふぅ。なるほど。こんな感じなんだね……》
話が途切れたところで、優実は鎌の素振りをやめた。
確認した結果、相当動けるようになっている。もっと言えば、ぶっ飛んだ動きが出来るようになっていた。物理法則など無いも同然。二次元のバトルシーンさながらの動きを余裕で再現する事が出来た。尋常ならざる補助である。
心地良い疲労感に包まれつつ、優実はふとある事が気になり、確認する。
《主様、一つ聞きたい事があるんだけど、聞いたら答えてくれる?》
《何だ?》
《あたしってこれまで通り――つまりは人間として生きていいの?》
危険であるし、我が侭な事は分かっているが、それを捨てる事は出来なかった。
もちろん、捨てろと言われたら捨てる覚悟は出来ている。
皆々自業自得だ。そうなった場合には、それも自分の落ち度である。
しかし、叶う事ならば、煩わしくとも尊い日常を捨てたくは無かった。
《良いに決まっているだろう。我は全てを欲する貴様が気に入ったのだからな》
《ほ、本当!?》
《ああ。あれだけの啖呵を切ったのだ。しっかりと両立して見せろ》
《了解! ありがとう、主様!》
《礼には及ばん。――さて、そろそろ【外】に戻そうと思うが、いいか?》
《あ、うん。お願いします》
《では、しっかりやれ》
それを最後に、優実の意識は断絶した。
(――意外とあれから時間は経ってないみたいだね)
無事に灰色の世界から抜け出した優実は、空を仰ぎながらそんな事を思った。
濃紺の割合は増し、夜と呼べる空になってきてはいるが、灰色の世界にいた時の体感時間と【外】の時間の進みはイコールでは結べないようである。
「――あれ?」
優実は視線を地上に移し、辺りを見渡して欠けているものに気付いた。
元いた場所に戻ってきたが、パジャマ少女の姿が何処にも見当たらなかった。
《――主様、あの子が何処に行ったか知っている?》
《優実に負けるのと同時にあの世へ送った。いないのは、そういう理由だ》
《そっか。なら――》
それを聞いた優実は、両手を合わせ、少女に対して黙祷を捧げる。
一頻り黙祷を捧げた後、優実は自転車に歩み寄りつつ、タナトスに聞く。
《そういや、主様は何で人間を隠れ蓑にしているの? そこに何らかの理由があるのは分かるけど、主様ならその辺の面倒も殺せば済む話じゃない?》
《そうしたいのは山々だが、そうしてしまうと他の奴らが好き放題出来てしまうからな。そんな事になれば、奇跡的な均衡を保って成り立っているこの世界そのものが崩壊しかねん。流石の我もそうなっては生き延びられるかどうか怪しいのでな。故にその面倒は殺さないでいるのだ》
《なるほど。――ん? なら、それを殺せば、神様に会えたりしちゃう?》
倒れていた自転車を起こした時、優実はふとそんな発想をした。
《くくく。発想が短絡的かつ的確だな。実に愛くるしいぞ》
楽しげに笑うタナトス。
しかし、馬鹿にされた感じがしたので、優実は真面目に言う。
《言っとくけど、それで会えるならあたしはきっと行動しちゃうよ?》
今の優実の辞書に【自重】という文字は無い。本物に会った事で本当に気が触れてしまったのか、吹っ切れてしまったのか。何であれ、ここまで来た以上、自重出来るほど、優実は大人でも慎重でもなかった。
《知っているとも。――だが、それは無理だ。少なくとも、今の貴様ではな》
笑うのをやめたタナトスは、大真面目に言った。
優実は即座に聞く。
《どうして?》
《貴様がその死を理解し切れていないからだ》
《死を理解し切れていない、ね……》
優実は自転車に乗り込み、帰路に着きながら沈黙思考する。
死は、生物の終着駅だ。そこに至るまでの過程や原因が何であれ、永久不変の共通事項だろう。漠然とならば子供でも分かるだろう真理の一つ。
しかし、それをタナトスは人間であるから理解し切れてないといった。
そう言われると、そうかもしれない、と思ってくるのが心情である。
事実、優実も「生きているなら殺せる」という漠然とした考えしか持っておらず、死とは何たるか説明しろ、と言われても上手く言葉に出来ない。
しばらくして、優実は思いついた考えを自信無く口にする。
《――生きていれば殺せるんじゃないの?》
《如何にも。生きているから殺せるし、死んでいるなら、或いは生きているかどうかも分からないなら殺せない。その認識は常識的だろうと、非現実的だろうと変わらない。神様にすら当てはめる事が出来る法則だ》
《それなら――》
《ああ。そういう事が出来る事は出来る。だが、今の貴様がそれをやろうとするならば、貴様はその瞬間に植物人間になるぞ。理解出来ないものを無理矢理理解しようとした代償としてな。そうなっては本末転倒だろう?》
《脳がいかれちゃうって事だよね?》
《如何にも。――さて、ここで唐突だが尋ねよう。貴様は何らかのルールが、自分と同じように生命活動をしている事を理解しているか?》
《…………》
理解出来なかった。存在はしている。効果がある事も知っている。だからこそ、誰もがそれを守るのだ。だからこそ、世界は、社会は、競技は成立する。
それが生きている、という事なのかもしれない。
しかし、人と同じように生きていると問われれば、閉口するしかない。
何故なら、何らかのルールのような概念を、生物として見た事は一度も無く、当然考えた事などただの一度も無かったから。
タナトスからすれば、人も何らかのルールも生きているように見えるのだろう。
でも、優実には「在る」事は分かっても「生きている」事は分からなかった。
だから、優実はその言葉を口にする。
《……生きて、いるの?》
《理解したか? 今の自分の限界を》
《……参ったね》
肯定され、優実は嘆息した。
安易な思いつきだった事は認めるが、無理だと肯定されてしまうと傷つく。おまけに絶望的だ。物理的な死や精神的な死ならまだしも、概念的な死を理解する事など到底人間には理解出来そうにもない。
ある意味では、神様に会うより難しいかもしれない。神様に会えるかもしれない方法は思いの他思いつく。タナトスのような超越者を探し出し、居場所を聞けばいいだけの話だ。或いは、神様が出張るような事をやってのければいいのだ。どちらも難題極まりないが、出来ない事ではない。事実、本物はいたし、これから先も出会えて行けるはずである。
でも、概念の殺し方などどうやって学べばいいのか。タナトスに教えを請うのが最短な気はするものの、あのような考え方をしているのでは、教えてはくれないだろう。そうなるとこれまでのように自分で学び、理解するしかないわけだが、数式のように解き方がある問題ではない。厳しい話である。
優実はもう一度嘆息し、気持ちを切り替えるべく、話題を変える。
《ところで主様、死を捧げるペースってあたしのペースでやっていいの?》
《いいぞ。ただし、あまりハイペースでやるな。早々に目を付けられるからな》
《その方が主様としてはいいんじゃないの?》
《振り撒く事に意味はあるが、手当たり次第に振り撒けばいいものでもない。今の貴様だと量を優先するのも致し方ないが、我は質を優先する派だ》
《質、ねー。…………となると、社会的地位がより上位な人や存在、または実力的により強者な人や存在の死の方が、主様としては嬉しいって事?》
《かつ世界の均衡を崩さぬ程度に、だな。貴様の嗜好を考慮すると、夜な夜な車道を爆走している暴走族や我の摸倣をして好き勝手している通り悪魔とか――》
「通り悪魔!?」
優実は思わず叫び、急ブレーキをした。そして尋ねる。
「あ、あの――」
《落ち着け、愛玩動物。声に出している。変人と思われるぞ》
言葉を遮られ、優実は慌てて口を噤んだ。
どうにか心を落ち着かせ、改めて尋ねる。
《ど、どういう事? 主様が通り悪魔じゃなかったの!?》
《急にどうした?》
《いいから答えて! どうなの!? 違うの!?》
《当然だ。我をあんな小物と比べられては困る》
《――っ!?》
それを聞いた瞬間、優実は嫌な未来を想像した。
――英子が通り魔に襲われている、或いは襲われた、という未来を。
そして、自分の失態に気付く。
失念していた。あそこまで警戒しておきながら、そこまで頭が回らなかった。
――噂をしたのは、あくまでも英子である、という重要な事を。
噂をすれば影――それで自分は死神と出会った。出会えてしまった。
ならば、ひょっとしたら英子は――。
「ちっ!」
優実はすぐさま携帯を取り出し、英子の携帯に電話をかける。
五コールほど待って、通話が始まった。
「英子! 今――」
『留守番電話サービスにお繋ぎします』
耳についたのは、無情なる事務的なアナウンス。
「何で! 何で出ないのよ!」
焦る気持ちを口にし、今度は英子の自宅に電話した。
三コールして、通話が始まる。
『はい、もしもし。斉藤です』
聞こえてきたのは、英子の母親の声だった。
「お、おばさん! あたしです! 優実です! あ、あの、英子って家にいますか? 携帯にかけたけど繋がらなくて……居たら代わってください!」
矢継ぎ早にまくし立て、居てくれる事を祈りながら返事を待った。
『英子? 英子なら少し前にコンビニに行くって出て行ったわよ?』
しかし、返ってきたのは、無情なる答えだった。
思わず携帯を手放しそうになった。が、どうにか堪え、
「お、教えてくれてありがとうございました!」
礼を言うや、即座に電話を切る。怪しまれそうだが、今はそれを気にしている場合ではない。何かが狂っているならば、一人の命が奪われるかどうかの話だ。
(迂闊過ぎるよ、英子!)
電話を切ると同時に、優実は内心で悪態をつきつつ、英子が行きそうなコンビニに向かって自転車を走らせる。
そうしながら、優実は全てに願った。
(英子! お願い、無事でいて!)
その瞬間、答える声があった。
《――愛くるしいな、我が愛玩動物よ》
タナトスだ。
だが、今の優実には構っている暇も余裕も無い。
それが分かっているのか、タナトスは構わず続けた。
《――優実、少し体を借りるぞ。その方が早く着けるだろうからな。ただし、我なりの方法で行くが故、自転車は諦め、筋肉痛になるのは大目に見ろよ》
その瞬間、優実は意識が一瞬遠のき、その後には自分を客観的に見ていた。
その間、優実は死神に力を纏い、自転車を足場とし、空の人となっていた。
《主様……》
突然の事に、優実は思考が追いつかなかった。
《礼には及ばん。愛玩動物の面倒を見るのは、主人として当然の事だからな》
そんな優実を落ち着かせるように、優しい声音で言うタナトス。
タナトスが何をしようとしているのか、それだけで知れた。
理解して、優実は万感の思いを込めて言う。
《……それでも、ありがとうございます》
《どういたしまして、と言っておくとしよう》
それきり、タナトスは何も言わなくなった。
優実も邪魔をしないように黙り、ただただ祈る。
親愛なる友人の無事を――。
(迂闊だったわね……)
濃紺の割合が増した空の下、斉藤英子は自省しながら全力逃走していた。
そうしなければならない理由が、英子にはあった。
通り魔である。
それに遭遇したのは、ふと小腹が空き、コンビニに買い物に行った帰りの事だった。まさしく通り魔。すれ違った際に突然刃物にて襲われたのだ。警戒していたので一撃目はどうにか回避する事に成功し、即座に逃走を図り、現在に至る。
(危機感が足りなかった、って事になるわよね、やっぱり……)
逃走の傍ら、何度したか分からない自省を行った。
警戒はしていた。数時間ほど前、親友・信道優実と噂したからだ。言い方は悪くなるが、あのような本当はぶっ飛んでいる友人を持つと、こちらも否応無く何かと気にするようになる。もっとも、そのおかげで通り魔の一撃目を回避する事が出来たのだから、感謝の言葉はあっても恨み言は無い。
(どうにか撒きたいものね……。じゃないと、優実は責任感じるだろうし……)
角を右に曲がりつつ、英子はここにはいない親友の事を思った。
(間違い無く感じるわよね……。底抜けに優しいから……)
英子が優実を「鬼才」と呼ぶのは、文武両道に秀で過ぎているからではない。
在り方そのものが、人間離れしているからだ。夢からして「神様に会いたい」などと未だに思っており、今尚何時か出会えると信じてあらゆる努力を怠らず、そんな生き方をしながらも常人として振る舞い、誰にも自分がその実狂人である事を気付かせず、蓄え、身につけた知識と技術を、培った人格の良さ――優しさを平然と息をするように振り撒きながら生きているのだ。
――これを鬼才と、人間離れしていると言わず、何をそう言うのか。
少なくとも、英子は他に知らなかった。そのような人物を。
だからこそ、思っている事がある。
――そんな人と友達になれてよかった、と。
そして、こうも思っている。
――そんな人に恥じない人になりたい、と。
そのために――。
(今は逃げ――)
切ろう――そう続けようとした時だった。
力んでしまった事により、走るテンポがずれ、足がもつれ、転んでしまった。
そのまま派手に転がった。何とか受身は取ったものの、全力で走っていたからその勢いは凄まじく、四、五回転がってようやく勢いが止まった。
「かは、けほ……」
咳き込みながらも即座に立ち上がる。が、転んだ時の衝撃が酷く、立ち上がろうとしてもすぐに立ち上がる事は出来なかった。
そうこうしている間にも、足音は近づいてくる。
脳内で本能による警告信号がうるさく鳴り響き、それが焦燥させ、それが邪魔となってますます立ち上がれなくなる。
どうしようもない悪循環に英子ははまってしまっていた。
そして――英子の体に影が落ちる。
視線を向ければ、そこには通り魔がいて、ナイフを振り上げていた。
それを見た瞬間、思考が停止した。
心を強く持とうとしたが、駄目だった。
何も考えられず、ただただナイフが振り下ろされるのを見ていた。
思わず、目を伏せる。
その瞬間、肉が裂ける音が耳をついた。
しかし、痛みは無かった。
一撃で殺されたからか、と思ったが、考えられている事に疑問が生まれる。
なら、さっきの音は――。
「正義の味方の真似事がしたかったわけではないが――ギリギリ間に合ったな」
そんな疑問を抱いた瞬間、聞き慣れた声がした。
反射的に声がした方を見て、その光景に別の疑問が生まれる。
目の前には、見知らぬ誰かがいた。地につきそうな長い黒髪をたなびかせ、黒い法衣を纏い、身の丈ほどある巨大な鎌を持った誰か。
でも、その人物の声質は、口調こそ違うが、聞き慣れた友人の声だった。
英子が驚きで呆然とする中、状況はそれを無視して急速に変化する。
「出血大サービスだ。ありがたく受け取れ」
宣言一閃。謎の少女は、巨大な鎌を片手だけで振り、通り魔を問答無用で切り伏せた。一瞬遅れ、通り魔はその場に膝から崩れ落ちる。でも、その光景には何かが足りない。少し考えて、流血だと分かったが、それ以上は分からない。
「――ふん。程度の低い死だな。これだから下級を相手にするのは嫌なのだ」
謎の少女は、相変わらず英子がよく知る友人の声質で、全く知らない口調にてとてつもなく不機嫌そうに言葉を発し、英子に半身を向け、一瞥してくる。
「えっ……」
その顔を見て、英子の疑問はより深まった。
目つきこそ少し鋭くなっているし、髪は長くなっているし、髪の色も変わっているのだが、その容貌はよく知る友人、一番の親友だと思っている信道優実と瓜二つだったのだ。一体どういう事なのか、ますます理解不能である。
しかし、分かる事はある。
目の前にいるのは、自分がよく知る信道優実ではない、という事だ。
「目立った外傷は――」
「――アンタ、誰?」
謎の少女の言葉を遮り、英子は問いかけた。
対し、謎の少女は愉快そうに口元を緩める。
「――無礼な奴だな。我は一応貴様の命の恩人とやらだぞ?」
ごもっともな話だ。意味不明でも理解不能でもそれは事実である。
英子は問いたい気持ちを一旦抑え、礼を言う。
「……助けてくれた事にはお礼を言うわ。どうもありがとう」
「どういたしまして、と言っておくぞ」
「次はそっちの番よ。答えて。アンタ、一体誰なの?」
「くくく。必死だな、娘。先ほどまで死ぬ運命にあった奴とは到底思えん」
「――笑わないで」
「可笑しいのに笑って何か悪いか?」
「違う。そうじゃないわ。私の親友の顔でそんな顔をしないで欲しいって言ったのよ。後、その話し方もやめて欲しいわね。どちらも不愉快極まりないわ」
「威勢が良いな。――しかし、許そう。我が愛玩動物の友人のようだからな」
「ありがとう――って、愛玩動物!?」
聞いた瞬間、英子は謎の少女の胸倉を掴みに言った。
「ちょっとアンタ! 私の親友をペット呼ばわりするとかどういう事よ!?」
「詳しくは本人から聞け。――後は任せるぞ」
その瞬間、英子は謎の少女から感じていたただならぬ気配を感じなくなった。
そして――。
「え、英子、とりあえず、手、離してくれない?」
その直後、聞き慣れた友人の言葉が耳についた。
「……優実なの?」
英子は恐る恐る確認した。
「うん。あたしだよ。こんな格好しているけど、正真正銘、信道優実だよ」
「……どうやら本当に優実らしいわね」
本人だと分かり、英子は手を離し、すぐさま尋ねる。
「で――どういう事なのよ? 一から十まできっちりしっかり教えなさい」
「……教えないと駄目?」
「駄目よ。じゃないとちゃんと怒れないし、お礼も言えないじゃない」
「……どうしても?」
「どうしても。あんまり言う事聞かないと、おじさんとおばさんに「優実と遊んでいたら怪我しましたー」って言うわよ?」
「ちょ、お父さんとお母さんに言いつけるのは無しだよ!?」
「だったら、教えて。それとも態度が変わる事や関係が壊れる事を心配しているのかしら? それなら平気よ。優実の無茶は今に始まった事じゃないし、優実がぶっ飛んでいるのも今に始まった事ではないもの。生憎とこの程度の事で友人やめるほど薄情ではないつもりよ」
本心を吐露し、英子は一度区切り、少し溜めてから言葉を続ける。
「――だから、教えて。私と別れた後、何が起きて、今に至ったのかを」
「……英子には叶わないなー」
優実はため息をつき、心を決めたように顔を上げる。
「じゃあ、話すけど、腰抜かさないでね? かなりぶっ飛んだ話だから」
「安心して。あれだけの非常識を見た後なら、驚かない自信があるわ」
「肝が据わってらっしゃる事で……」
優実はもう一度ため息をつき、話し始めた。
「あの後、まあ色々あってね――」
「――とまあ、そんな感じで今に至るってわけだよ」
「で――死神の奴隷になった、と。ふむ……」
英子は考え込む仕草をした。
優実はただ待っているのも暇なので、気絶している通り魔の処理を行う。
そんな時だった。
(……ん?)
ふと視線を感じた。
意識を他に向けたからか、ふと誰かに見られている気がしたのだ。
具体的には最低でも二人。複数同時に見られていた。
(――と、そうか。こんな格好だもんね……)
少し考え、自分の格好を思い出す。黒い法衣に巨大な鎌だ。そんな格好をした人物が町中にいたら誰だって好奇の視線を向けるに決まっている。
だが、周りをざっと見渡して、推測が外れている事に気付いた。
時間帯が時間帯だからか、周囲に人気は無かった。とは言っても、都会未満田舎以上のこの町では別段珍しい事ではない。町中だったとしても遊べる場所は特に無く、故に若い世代はふらつく理由がない。また、今は通り魔が全国各地で連日のように報道されるため、それも相成って人気が無いのは当然と言える。
(なら、さっきの視線は――)
「優実?」
呼びかけられ、優実は思考を中断し、英子の方を向いた。
「何?」
「何? じゃないわよ。どうかしたの? 難しい顔、していたわよ?」
「英子が何考えているのかなって、考えていただけだよ?」
「もっともらしい嘘ね」
英子は嘆息し、髪を掻きあげる。
「まあいいわ。深入りは禁物って言うものね。――それはそれとして、どうして奴隷なんて言ったのよ。他に言いようはいくらでもあったでしょう?」
「え? そこにツッコミ入れるの?」
「他に何処に入れるのよ。まあ、必死だったから無意識の内に出た言葉だし、普段の生活態度を見ていれば、奴隷願望があっても別段不思議じゃないけれど」
「え? そう見える?」
「正確には奴隷気質かしらね。優実は人の役に立つのが大好きだし」
「そうじゃないってば。あたしは――」
「優実のそれは過剰なのよ。事実、悪い言い方をすれば、優実は誰からも良いように使われているのよ。今日にしても松前先輩の誘いを断らなかったじゃない。他の事もそう。頼りにされるって言うのは、利用されている事と同義なのよ」
「だから、奴隷気質があるって事? ちょっと強引じゃない?」
「奴隷って言葉が出たのが何よりの証拠よ。――ま、人間じゃなくなってもいいからちゃんと帰って来なさいって言った私にも原因はあるか……」
申し訳無さそうに言う英子。
優実は首を左右に振る。
「無いよ。英子がそんな顔する理由なんて何一つ無い。あたしがこうなったのは皆々自業自得。自分で撒いた種を自分で回収した――ただそれだけの事だよ」
それに、と優実は一度区切り、続ける。
「そのおかげで、あたしは英子を守る事が出来た。だから、あたしは自分の選択を悔やまないよ。だから、そんな顔しないで。馬鹿な奴って笑ってよ、英子」
「――結局こうなるのね……」
ボソリ、と英子は常人なら聞き取れないだろう小さな声で言った。
でも、それは優実には聞こえていた。恐らく、死神の力を纏ったままだからだろう。それを以ってしてもどうにか聞き取れるほどの声量だった。
だけど、優実は聞こえなかった振りをした。
そうしたかったし、そうした方が良いと思ったから。
その一方で、ある事を決意する。
《――主様》
《どうした?》
《主様は万物に死を与えられるんだよね?》
《そうだが、全てを欲するのではなかったのか?》
《――――》
考えを読まれ、優実は一瞬、ほんの一瞬だけ押し黙る。
《……よく分かったね?》
《友のためにあれだけ取り乱したら、馬鹿でも分かるさ》
《ま、それもそうか……》
頼むのは、関係性の殺害。
警戒はしていた。こんな事がこれから先何時か起こるのではないかと。自分に近しい誰かが、自分の身勝手のせいで危険な目に遭ってしまうのではないかと。
今回はどうにか守れた。今度も守っていこうとは思う。
しかし、守れる保障は何処にも無い。
事実、噂した瞬間に死神に出会え、通り魔に遭遇してしまった。
偶々だろう。偶然だろう。万一の一を引き当ててしまっただけだろう。
いっそ責めてくれたら、非難してくれたら、どれだけ気が休まるか。
だけれども、英子は絶対に責めず、非難しない。
自分の歪んだ部分を知って尚、友達でいてくれる優しさを持っているから。
そもそも望んだ事が間違いだった、という事に気付かされた。
狂人は狂っているから狂人なのだ。
狂い方の問題ではない。狂っている事そのものが問題なのだ。
そんな自分が、日常なんて望んではいけなかった。
この一件で、それを痛感した。
そして、その苦痛を味わうくらいなら、いっその事――そう思った。
だから、殺す。
《――それで? 出来――》
《断る》
即答だった。清々しいほどまでに。食い気味でさえあった。
《……どうして?》
《貴様は我の愛玩動物であり、我は貴様のご主人様だからだが?》
《……だから、どうして? 訳が――》
《――愛玩動物よ、貴様はペットを買う際に様々な物を買い揃えるだろう?》
《……いきなり何?》
優実は困惑した。ますます訳が分からなくなる。
それを察してか、タナトスは言葉を続けた。
《我はそれを実行しているだけに過ぎん。そして、貴様にとって貴様と貴様の友人の交友関係は必要な物だ。故に殺さない。簡単な話だろう?》
《それは性能が落ちる事を危惧して? だったら――》
《その心配はしていない。我がしているのはもっと別の事だ》
《性能以外で主様が心配する事なんてあるの?》
《ある。――愛玩動物よ、貴様は気落ちしているペットを愛でたいか?》
《そういう場合、むしろ逆だよ。でも――》
そんな心配は要らない、と優実は続けようとした。自分で決めた事だから後悔はしないし、未練がましくも思わないと。
《無理だ。事実、現在進行形で貴様の心は泣いているからな》
《――――》
優実は驚きのあまり、閉口した。
タナトスが死神らしからぬ優しい事を言ったからでは無い。
タナトスに自分の内心が気取られていたからだ。
確かに悲しいとは思っている。本当は手放したくないと思っている。
《……ひょっとして、あたしのプライバシーって無い感じ?》
《くくく。安心しろ。そこまで悪趣味ではない》
タナトスは楽しげに笑い、そして続ける。
《しかしだな、愛玩動物。現状に限った事ではないが、貴様が感じる事は我も等しく感じられてしまうのだ。それが物理的であろうと、精神的であろうとな》
《……要約すると鬱陶しいから?》
優実は少し考え、思いついた結論を言った。実際、傍から見たら今の自分は相当に鬱陶しいだろう。悲しいのに、手放したくないのに、それを我慢して安易な道を選ぼうとしている。そんな消極的な自分は。
しかし、タナトスはまた楽しげに笑い、
《くくく。そんな事は言わんよ。友のために悩む貴様もまた人間味溢れていて非常に可愛げがあり、我は存分にそんな貴様を見て、癒されている》
《――はは。素敵なくらいSだね》
優実は、こんな時でも通常運行なタナトスが、可笑しくて笑った。
《無論だ。――しかしだな、我が貴様を気に入ったのは、そこまで人間味を持ち合わせていながら、超越的に精悍なその在り方であり、どうせ愛でるならばそんな在り方の貴様でありたい。主人ならば当然の思考だろう?》
《だから殺してくれないんだ? ……清々しいほどにSだね?》
《ドMな貴様にはこれくらいがちょうど良かろう?》
《……ま、そうかもね》
優実は嘆息した。真意は分からないものの、はっきりと「殺さない」と言われた以上、それを受け入れ、自分で殺せるようになるまで耐え忍ぶ以外に選べる道は無い。愛玩動物である以上、主人の決定には不服でも従う他無い。
だが、同時にありがたくもあった。こういう強制力があれば、自分に誤魔化しが利く。この結果を「そういう事なら仕方ない」と受け入れ、ならばと全身全霊で全てを勝ち取り、守り抜いていこうという気持ちが芽生え、育っている。
ひょっとしたら、タナトスの狙いはこれだったのかもしれない――。
《――ありがとう、主様》
そう思い、優実は自然と礼を言っていた。
《くくく。すぐさま順応したか。流石だな、M奴隷》
返ってきたのは、肯定とも否定とも取れる言葉だった。
《――話は済んだな。ならば、貴様の友に返事の一つくらいしてやれ》
そう言われ、優実は外に意識を集中させ、英子に話しかける。
「――ごめん、英子。考え事――じゃない、主様と話し込んじゃってて……」
「そんな事だろうと思ったわ。何回呼んでも返事しなかったから」
「ご、ごめん……」
「別に良いわよ。――それにしても「主様」ね……。そういう呼び方しているって事は冗談抜きに死神の奴隷になったのね。そのチョーカーはその証?」
英子はチョーカーを指差しながら言った。
「まあね。結構俺様な感じでね、愛玩動物に首輪は付き物だろうって」
「……死神って変態だったのねー」
「人間が犬や猫に首輪をつけるのと同じ感覚らしいよ」
「……ま、道理ね。――ところで、平気なの?」
英子は視線を落とし、優実の手の方を見た。
反射的に優実は左手を隠し、
「平気って、何が?」
露骨に分からない振りをした。
英子は嘆息し、
「……ま、大丈夫ならそれでいいわ。死神の力って事で納得するから」
などと自己完結し、視線を優実から離し、
「――しかし、あれ、どうするよ?」
未だに倒れたままの通り魔の方を見て、頭を掻く。
「とりあえず救急車かしら? 後、警察も呼ぶべき?」
そして、何事も無かったかのように話題を変えた。
優実は内心で感謝し、その話題に乗る。
「救急車だけでいいんじゃないかな? 事件は解決済みだし。強いて問題点を挙げるなら、周囲に飛び散っているあたしの血だけど――」
優実は倒れている通り魔に近づき、血のついたナイフを回収し、
《主様、この人って通り悪魔に憑かれていたんだよね?》
《ああ。ちなみにそいつはきっちり殺してやったから安心しろ》
《ん。――でさ、その事ってこの人は覚えているの?》
《覚えていない。憑かれるとはそういう事だからな》
《やっぱりそうなんだ。じゃあ、後はあたしが刺されたって事が誰かに知られなければ、この事象が通り魔事件と認識される事は無くなるよね?》
優実の考えはこうだ。自分が負った傷を――自分が通り魔から英子を庇ったという事実を、傷跡をタナトスに殺してもらう事で、この事象が通り魔事件として第三者に認識される事を避けよう、という目論みである。物理的にはもちろん、精神的にも殺せるタナトスならば可能なはずである。というか、可能であってもらわないと事件性があると認識され、色々と面倒な事になってしまう。
《くくく。貴様はほとほと柔軟だな。それでいて強欲だ。自分達が負う事になるだろう面倒を避けるだけではなく、憑かれていたとは言え、貴様の友人を襲おうとしたこの男の未来まで守るか。流石我を気に入らせただけの事はある》
タナトスは嬉しそうに言った後、咳払いし、
《だが、そう上手く誤解するか? 警察も救急も能無しではあるまい?》
と、冷静に言った。
優実はすぐさま肯定する。
《分かっているよ。でも、平気。幸い目撃者は――》
いない、と言いかけて、優実は言葉を止めた。
いる。少なくとも最低二人。今はもう感じなくなっているが、少し前に確かに感じた視線の主がまだこの近くにいるならば、一部始終を見られている可能性は十分に有り得、視線の主がこの事を通報しないという可能性はかなり低い。
《くくく。視線に気付いていたとはな。我を気に入らせた能力は伊達ではない》
その時、タナトスが楽しげに優実の不安を肯定した。
優実は内心で呆れ、不満を零す。
《……分かっていたなら肯定してくれても良くない?》
《貴様が気付けるかどうか知りたかったのでな》
《全くもう……。――それで? 今はどう? あたしは感じないんだけどさ》
《同じだ。我も感じはしない。もっとも、今は貴様を通して判断を下しているが故、実際のところは分からん。ま、気になるならば見られていると思っておけ。そうした方がこの先どう転んだとしても対応出来るだろうからな》
《だね。そうなると――》
優実は身の振り方を考える。何処にいるとも知れない目撃者がいると仮定した場合、この場で英子と口裏を合わせて通り魔に襲われた事、通り魔に独自に対応した事を隠したとしても、辻褄が合わなく可能性がある。そうなった場合、疑われる可能性は大であり、自分と英子は面倒に巻き込まれ、通り悪魔に憑かれていた男の未来は暗いものとなってしまいかねない。
そして、恐らくこの状況を見ている二人以上の目撃者は、自分と同じく超越者と何らかの協力関係にある。恐らく、タナトスの言っていた警察や義賊、或いはそれ以外の団体、組織の一員だろう。そういった裏の者達が表とどれだけ接点があるかは知れないものの、秘密裏に動いている以上、少なくとも表向きに無関係であり、知る者は多くないはず。それが意味するところは、理由はどうあれ、隠れて行動する必要性があるからだろう。
沈黙思考を終え、優実は結論を下す。
《――主様、あたしが英子を庇って通り魔に刺されたって結果を殺す事が出来る? 出来るのなら、それで行こうと思うからお願いします》
《可能だが、それではこの事象に事件性があるという事を表側にも疑われ、面倒になるかもしれんが、その辺についてはどう考えている?》
タナトスの言い分はもっともである。仮に刺された事を殺す事で無かった事にしたとしても――いや、どうやったとしても成人男性が街道で気絶している、という状況を見て、事件性が無い、と判断しない者はいないはずだ。警察はもちろん、救急隊員でも疑いを持ち、警察に通報する可能性がある。
《その辺は向こうさんの手腕を信じるよ。理由はどうあれ、表沙汰にはしたくないはずだから、そういう事になっても圧力かけてくれるだろうからさ。そうなったら、後は主様とあたしで臨機応変に対応していけばいいだけの話だしね》
だから優実は、自分を除外し、タナトスが言うところの対超越者組織が、自分を疑うように仕向ける事にした。そうすれば、警察や義賊以外の組織に対しては不安が残るものの、警察と義賊に関してはこの判断が次善くらいではあるはず。
《良い判断だ。では、体を借りるぞ》
返事の後、優実はまた一瞬意識が遠のき、次の瞬間には自分を客観的に見ていた。先ほどよりもはっきりと体の占有権が変わった事を感じ取れた。
一方、タナトスは大鎌の柄を短く持ち、左手を前に出したかと思えば、刃先で軽く左手を薙いだ。次の瞬間、傷口は一瞬にして無くなり、その辺に飛び散っていた血の跡も完璧に消失した。
「――何でもありっていうのは、まさに今の状況よね」
不意に英子が呆れた様子でそんな事をぼやいた。
「褒め言葉として勝手に受け取っておくぞ」
タナトスは優実の声帯を使ってそう言い、優実に体の占有権を返した。
「褒めたつもりはないけれど……まあいいわ。で――今は優実よね?」
「うん。あたしだよ。でも、よく分かるよね?」
「ま、長い付き合いだからね。――ところで、死神に聞いて欲しいのだけれど、あの人って生きているのかしら? 問答無用でぶった切った後、ピクリとも動かないからちょっと気になっているのよ。聞いてみてくれないかしら?」
《平気だ、と言っておけ。我が殺したのは憑いていた通り悪魔だけだからな》
「平気だってさ。憑いていた通り悪魔を殺しただけだからって」
「通り悪魔……まさに噂をすれば影というわけね。ありがとう、教えてくれて。――というわけで、救急車の手配よろしく頼むわ」
「いいけど、英子が連絡しても良くない?」
「しようと思ったわ。でも、逃げる途中に誰かとぶつかった時に落としちゃったみたいでね。そういうわけだから、呼びたくても呼べないのよ」
「あ、それで電話に出なかった――って、あああっ!」
優実はその事を思い出し、思わず叫んだ。
英子は一瞬驚き、驚いたまま確認する。
「急に大声出してどうしたのよ?」
「ど、どうしよう、英子! あたし、英子の無事を確かめるために、英子の自宅に電話かけちゃったの! そうしたら英子のお母さんが出て、それで――」
「あー、はいはい。大凡分かったわ。だから落ち着け。はい、深呼吸」
「う、うん。すー、はー。すー、はー……」
二度の深呼吸をして、優実はどうにか落ち着きを取り戻し、改めて聞く。
「で――どうしようか?」
「とりあえず、救急車呼びましょうか。会議はそれからでも出来るわ」
「そ、そうだね」
冷静に指摘され、優実は一一九番に電話をかけた。
流石救急隊と言うべきか。一コールで繋がった。
『はい。こちらは一一九番です。如何なさいましたか?』
「道を歩いていたら、急に人が倒れたんです。それで連絡しました。というわけで、すぐ来てくれませんか。場所は――」
「本町は○丁目×番地よ」
優実が辺りを確認しようとした矢先、英子が現在位置の住所を言ってきた。
優実はジェスチャーで礼を言い、通話に戻る。
「――場所は本町の○丁目×番地です」
『本町の○丁目×番地ですね。分かりました。至急隊員を向かわせます』
「よろしくお願いします」
優実は礼を言い、通話を終了させ、自分の携帯を見ながらふと思った。
「――英子、携帯何処で落としたのか分からないんだよね?」
「逃げるのに必死だったからねー。それより、何時までその格好でいる気なの? 人は信じられない事に直面した時には、それを理解しようとするために勝手に脳内補正が働くって話だけど、その格好だと何事だと思われるわよ?」
「と、そうだね。でも、一つ――」
問題がある、と続けようとした時だった。さながら変身ヒーローの変身が解ける時のように、変化した部分が突如発光し、一瞬強く瞬いたかと思えば、優実の髪は元の灰色セミロングに戻り、衣服は高校の制服に戻ったのだ。
「……まさか、リアルで魔法少女の変身解除を拝める日が来るとはねー。これもある意味で持つべき者は友達ってやつかしら。――とりあえず、ごちそうさま」
感慨深げに英子は呟き、それから合掌して妙な事を言った。
「あたしの場合、魔法少女じゃなくて死神少女じゃない?」
対し、優実は微妙なところにツッコミを入れる。
「感動が薄いわねー。何? 職業病? 何でテンション低いわけ?」
「逆に聞くけど、何でそんなに高いの?」
「レアな体験だからに決まっているじゃない。はい、次はそっちの番」
「次って――ああ、テンションが低い理由? いやまあ、変身したからには解除も出来るんだろうなー、って分かっていたからだけど?」
「……理解力があるのも問題ね。感動したこっちが阿呆らしく思えてくるわ」
「そんな事言われても……」
「ま、それもそうね。で――話を戻すけど、分からないからどうしたの?」
「いやさ、もう一回かけてみようかなって。そうすれば、少なくとも拾われているかどうか分かるじゃん? 拾われていたなら出てくれるだろうし」
「交番に届けられていたなら出てくれそうだけど――まあ、やってみる価値はあるわね。んじゃ、やってみてくれるかしら? 言いだしっぺの法則ってやつで」
「言われなくてもそのつもりだよ」
優実が英子の携帯の番号を呼び出した時、遠鳴りに救急車のサイレンが聞こえてきた。それを耳にしながら、呼び出した番号に電話をかける。
すると――。
『開口一番に質問するけれど、君はこの携帯の所持者の関係者かな?』
軽薄そうな少年の声が聞こえてきた。
「え、英子! 誰か出たよ!」
優実は送話口を手で押さえながら言った。
「嘘、本当? 代わってくれる?」
「う、うん」
優実は自分の携帯を英子に渡し、状況を見守る。
受け取った英子は、一息ついてから電話に出た。
「ええと、もしもし? ――ええ、うん。そう、それ、私の携帯なの。で――手間かけて悪いのだけれど交番に――え? 届けてくれるの? ――悪いわね、助かるわ。じゃあ、本町の○丁目×番地まで来てくれるかしら? 来ればジャージ姿の女と学生服来た女がいて、ジャージの方が私よ。――じゃ、また後で」
通話を終え、英子は優実に携帯を返した。
「優しい人に拾われて良かったね?」
携帯を受け取りつつ、優実は率直な感想を言った。
声だけ聞けば、何とも軽薄そうな感じがしたものの、不思議と悪い気分にはならなかった。恐らく素でもあの感じなのだろう。演技であれば凄まじい。
対し、英子は難色を示した。
「そうかしら? 何か怪しくない?」
「まあ声はね……」
「でしょう? でもまあ、怪しくて人格歪んでいるけれど、優しい奴もいる世の中だから、怪しいからって優しくない人って決めつけるのはいけないか……」
「……それ、もしかしなくてもあたしの事だよね?」
「そんな奴が二人も三人もいたら怖いわよ」
「さり気に酷いし……っていうか、怪しくは無いと思うけど?」
「歪んでいるのは認めるのね……」
「どうしようもないからね」
「死神の奴隷になっちゃうくらいだものね」
「愛玩動物だよ」
「大差無いでしょうが」
「響きが違うよ。愛玩動物の方が可愛いし、何より愛があるじゃん?」
「そういう考え方もあるわね。――さて、任せたわよ? 言い訳」
英子がそう言ったのと、救急車の到着は同じだった。路肩に止まり、慌しく救急隊員が一人、また一人と姿を見せ、倒れている通り魔に駆け寄っていく。
そこから先はあっという間の出来事だった。流石はプロフェッショナルという動きである。即座に様態を確認したかと思えば、担架に素早く乗せた後、ストレッチャーに乗せ、流れるように救急車に収容した。
その直後、救急隊員の一人が優実と英子に声をかけてくる。
「乗りますか?」
二人は首を左右に振った。様態が気にならない、と言えば嘘になるものの、家族でも何でもないのに付き添い、病院先で通り魔の身内に出会ったら色々聞かれそうで面倒だからだ。触らぬ神に祟り無し、である。
「そうですか。ご報告、ありがとうございました」
救急隊員は事務的にそう言い残し、ドアを閉めた。それから一拍の間を置き、救急車はサイレンを鳴らして何処かの病院へと運ばれていく。
「改めて聞くけれど、あの人、大丈夫よね?」
遠のく救急車を見ながら、英子が言ってきた。
「平気だと思うよ。あの人の事は殺していないって話だし」
「信じたいけれど――」
その時だった。
「――うら若き女子高生が随分と物騒な話をしているね?」
唐突に英子の声を軽薄そうな声をした誰かが遮った。
優実と英子はぎょっとし、そちらを振り向く。
そこには、声と同様、とてつもなく怪しい人物がいた。黒いジャージの上から白衣を身につけた黒髪黒目の青年が。年頃は低く見積もれば、十八か九だが、二十歳は越えていそうである。見るからにとてつもなく怪しかった。
「……貴方が私の携帯を拾ってくれた人?」
「そうだよ。でも、自力で――いや、違うね。そっちの制服少女が助けに来たってところかな? まるでフィクションだけど、無事で良かったよ」
「無事で良かったって……一部始終を見ていたなら助けようよ!」
優実は食ってかかった。軽薄そうなのは話し方だけではないらしい。
対し、青年は肩を竦めて見せた。
「勇ましい言い分だけど、早計だね。助けた君も逃げていた彼女も知らないとは思うけれど、もちろん僕は僕の最善を尽くしたよ。足を引っ掛け、転ばせ、その後警察に連絡を入れた。――さて、証拠は無いけどこれでは不満かな?」
それを聞いて、英子が「あっ」と声を上げた。
「そういや、誰かとぶつかった気がするけど、あれが貴方?」
それを受け、青年が嬉しそうな顔をする。
しかし、青年が言葉を紡ぐより、優実が行動する方が早かった。
「そうだとは知らず身勝手な事を言って、本当に済みませんでした!」
対し、青年は首を左右に振る。
「気にしないで。さっきも言ったけれど、過程を知り得ない君では僕が君の友人を助けたかどうかなんて分かりようがない事なのだからね。――そういうわけでこの話は終わりにして――」
喋りながら近づいてきた青年は、懐に手を入れる。再び出てきた手には、英子の携帯が握られていた。それを英子に差し出す。
「――約束の品だよ。着信して、通話出来たから携帯電話としての機能は使えると思うけれど、外装の具合からして内部が逝っている可能性は少なからずあるから近い内に点検してもらう事をお勧めするよ」
「そうするわ。ご丁寧にどうも」
英子は受け取りながらお礼を言った。
「どういたしまして。――さて、と」
青年は返事をした後、英子から優実に視線を移し、
「確認するけれど、君が信道優実さん?」
そんな事を言ってきた。
優実と英子は驚き、顔を見合わせ、一緒に青年をまじまじと見る。
「……アンタ、どうして優実の名前を知っているのよ?」
英子が疑念に満ちた声で聞いた。
「君は彼女の事を本名で電話帳に登録しているだろう? そんな君の携帯に彼女から電話がかかってきて、僕はそれを見た。知っているのはそういうわけさ」
「なら、何で「確認」なんですか?」
言及は優実が引き継いだ。
「そういう理由であたしの名前を知っているなら、確認は不要のはずです。何故なら、ここにはあたし達しかおらず、声色から英子が貴方の拾った携帯の持ち主から判断出来たのなら、必然的にあたしが信道優実である事は分かるはずです。英子は貴方に場所を教える際に「制服を来た女と一緒にいる」と話していますから尚更です。しかし、貴方は「確認」と言った。それが意味する事は――貴方があたしの事を出会う以前から一方的に知っていたという事。――違いますか?」
「肯定するよ。補足するなら、直接届けようと思ったのも、電話の落とし主が信道優実と近しい関係にある、と推測したからだとね。ついでに、僕は君に会うために遠路遥々この町にやってきたという事も話しておくね」
青年はあっさりと肯定し、さらには自分の目的まで打ち明けた。
「優実に会いに来た、ね……。――優実、この人知っているの?」
英子は視線だけを優実に向けて聞いた。
優実はすぐに首を左右に振った。
「ううん。知らないよ。そっちの人は知っているみたいだけどね」
「うん。初対面だ。もっと言うと僕が一方的に知っているだけだよ」
青年は肯定し、咳払いしてから続ける。
「――というわけで、自己紹介。そういうわけで、これをどうぞ」
青年は懐に手をやり、何かを取り出した。それは、名刺だった。二枚取り出したそれをまず優実に渡し、その後に英子に渡した。
受け取った二人は、それを見て、青年の素性を知る。
――超常現象研究家・鈴木春夏秋冬(25)。
名刺にはそう書かれていた。
ちなみに「春夏秋冬」には「しゅんかしゅうとう」とルビが振られている。
「――春夏秋冬って凄い名前ね……」
名刺を見つつ、英子が驚きながら言った。
「英子、ストレートに言い過ぎだよ……。本名だったらどうするのさ?」
「優実も大概だと思うけれど。で――これって本名なのかしら?」
英子は、青年――鈴木春夏秋冬に顔を向けて尋ねる。
すると、鈴木は肩を竦め、
「本名だよ。PNやHNではなくてね。父が変わった人でね。鈴木という姓は平凡というか多過ぎるから、名前で個性を出そう――という理由でこの名を与えてくれたんだ」
苦笑混じりに教えてくれた。
「……変わったお父さんね」
「だねー。――と、ところで、この肩書きってマジですか?」
優実は若干早口で聞いた。
超常現象研究家――何と甘美な響きだろうか。それが科学的視点からであれ、オカルト的視点からであれ、面白そうな話が聞けそうなのは間違いない。ましてそんな人が自分に会いに来てくれたという。死神に会えただけでも十分幸せなのに、超常現象研究家にまで会えた。幸せ過ぎて昇天しそうなほど昂ぶっている。
「……急に目の色変えたわね。現金な子ね、もう……」
英子が呆れたようにぼやいた。
「だ、だって! 超常現象研究家だよ!? 食いつかない理由が無いよ!」
「そりゃ優実ならね……。――ところで、二つ聞いていいかしら?」
英子は昂ぶっている優実から青年に視線を移して聞いた。
「あ、英子ずるい!」
優実はすぐに噛み付くが、しかし英子は取り合わない。
「言ったもの勝ちよ。聞きたい事あるなら私の後にしなさい」
「ぶー、ぶー」
「膨れても駄目」
「仲良しだねー」
不意に鈴木が割り込んできた。
それには英子が応じる。
「幼稚園に入った時だから自然とね。それで――聞いていいかしら?」
「聞くだけでいいのかい?」
「出来れば答えて欲しいわ」
「なら、聞いて答えられる事なら答えるという事で一つ」
「ありがとう。じゃあ早速――その肩書きで優実に会いに来たなら、きっと優実が神様探しなんて途方も無い事をしている事を知っているのよね?」
「うん。ある筋から教えてもらってね」
「その筋って?」
「君達が小学二年生だった時の担任さ。僕と彼は友達でね。と言ってもSNSを介してだけれどね。当時から僕はこんな感じで、面白い事があったら教えて欲しいと欲しいと友達に頼んでおいた。そうしたら彼が「将来が不安にはなるが、とんでもなく面白い奴がいた」という前置きをして、色々教えてくれたんだ。ちなみにプライバシー侵害になるような事は教えてもらってないのでご安心を」
「ふぅん。でも、それなら、優実の本名はどうやって知ったのよ?」
「黙秘権を行使するよ」
「……なるほど。言えないような方法で調べ上げたってわけね?」
「そ。――と、警察は勘弁してくれると嬉しいかな」
「通報しないわよ。助けてもらった恩義もあるからね」
「恩に着るよ。君が寛大な人で良かった」
「どういたしまして。――じゃ、後は二人でごゆっくりどうぞ」
言うが早く、英子はそそくさと歩き始めた。
優実は慌ててその後を追う。
「ちょ、英子! 一人じゃ危ないよ! それに英子のお母さんへの言い訳を一緒に考えるって約束したじゃん!」
「あー、それ? やっぱりいいわ。優実は鈴木さんとお茶して来なさいよ」
「もちろんそのつもりだけど、英子を家まで送る方が先だよ」
「なら、鈴木さんはその間どうするのよ?」
「その間って一緒に来てもらうに決まっているじゃん?」
「一緒に、って……鈴木さんの許可――」
「僕は構わないよ。むしろ歓迎するよ。僕としても間接的にとは言え、助けた少女には無事に帰って欲しいからね。遠足は帰るまでが遠足ってやつさ」
「だってさ。それに英子の事が無くても、あたしは個人的に英子のお母さんに謝りたい事があるもん。だから、駄目って言われてもついていくよ」
「――そういう話なら、同行するのは控えた方がいいね」
唐突に鈴木は鋭い声色で言い、そしてそのまま続ける。
「同行するにしても家の近くまでだ。僕はもちろん、信道さんもね。僕はこんな怪しい見た目をしているし、会話から推測するに少なくとも今の信道さんには――ええと、ごめん。名前を聞いてもいいかな?」
「英子よ。斉藤英子」
「ありがとう。斉藤さんのお母さんには後ろめたい事があるんだよね?」
「そうです。だから、謝りたいんです」
「立派だね。――でも、信道さんは斉藤さんのお母さんにあまり快く思われていないと見える。それが過去からの蓄積なのか、迂闊な対応をした事による一時的なものなのかどうかは分からないにしてもね。違うかい?」
「当たりよ。嫌な話だけど、優実は昔からこんな感じなのよ」
英子が寂しげに肯定した。
「昔から、か……。――なら、家の近くまで、というのも考えものだね。そういう前置きがあって、今顔を合わせるならば、十中八九嫌な展開が待っている。斉藤さんの親御さんには我が子を助けてくれた友達に怒りを向けてしまうという事が起き、斉藤さん自身にはそんな親と理不尽な怒りをぶつけられる信道さんを見るという事が起き、信道さんは理不尽な怒りをぶつけられるという事が起きる」
鈴木はそこで言葉を止め、英子から優実に視線を移してから続ける。
「だから、ついていくにしても家の近くまでにする事を僕は勧めるよ。信道さんのその気持ちが純粋なる謝罪の気持ちにしても、やっぱり純粋に非難されたいという自己満足を得たいためだったとしてもね」
「……赤の他人のくせに偉そうですね?」
優実は不快さからついそんな事を言ってしまった。
鈴木の推測は寸分狂わず当たっているだろう。優実の心中に関しても同様だ。優実自身、純粋に不用意な発言をした事を謝りたいと思ってはいるが、非難されたくないかと問われれば、そんな気持ちが全く無いとは言えない。
「確かに偉そうね」
英子は賛同を示した。しかし、その言葉は続く。
「でも――神経過敏になっている今なら、多分鈴木さんが言った通りになるわ。だからついて来て欲しくないのよ。流石にここまで言えば理解出来るわよね?」
「……言われなくても分かっているよ」
「なら、言わせないでよ。言いたくないのも分かるでしょう?」
「……ごめん。手間、取らせて」
「分かれば結構。――それじゃ、行くわよ」
英子は優実の手を取り、強引に引き、歩き始めた。
突然の事に、優実は戸惑いながらも歩き出す。
鈴木はそんな二人を二歩ほど離れた位置から追いかける。
「え、英子?」
「何よ?」
「言った事とやっている事が違うよ?」
「大丈夫よ。家の近くになったら離すから」
「……送らせてくれるの?」
「むしろ送って欲しいと頼むわよ。――というか、気付かないの?」
「気付くって――あっ……」
言われて、初めて気付いた。
英子の手は――小刻みに震えていた。
その理由は――きっと恐怖だろう。
当然だ。噂して通り魔と遭遇し、噂をすれば影、という事が本当に起こり得る事を知ってしまっている。そうである以上、元凶を取り除いたところで他の脅威に晒されないという保障は何処にもないのだ。
つまるところ、気丈に振舞っていただけだった。
そうしていたのは、きっと優実のためだろう。
それが分かり、優実は居た堪れなくなる。
友人の心遣いに言われるまで気付けなかった自分の浅慮さ加減が嫌になった。
「英子――」
「謝ったら怒るからそのつもりでいなさい」
英子は言葉を遮り、尚も気丈に言った。
「……そこまで抜けてないよ」
優実は苦笑混じりに返し、こう続ける。
「――気遣ってくれてありがとうね」
「どういたしまして。――ついでに言っとくわ。助けに来てくれてありがとう」
「ついでなんだ?」
「ええ、ついでよ」
「そっか」
「そうよ」
それ以降、二人は喋るのをやめ、鈴木も空気を呼んで何も言わなかった。
穏やかな沈黙の中、一向は斉藤宅を目指して夜になりつつある町を行く。
その後、約束通り、家の近くまで付き添った優実と鈴木は、英子と別れた後、電柱の影から英子が家の中に入るまで見送り、帰宅するのをしっかりと見届けてからその場を後にした。