第二章
この日も滞り無く放課後を迎えた二年二組の教室。
「英子、起きて。放課後になったよ」
優実は、六時間目の授業の途中で力尽き、眠ってしまった英子を起こすべく、孤軍奮闘していた。こうなると梃子でも起きないので一苦労である。
「頑張れよ、信道」
「はてさて、起きるまでどれだけかかるやら……」
級友達は、各々口々に好きな事を言いつつ、各々の目的のために教室を後にしていく。皆、英子の眠りが深い事は小学校、もしくは中学の頃から付き合いがあるために存知であり、起こす役目は優実に任せている。匙を投げたとも言うが。
級友達の緩い声援や呆れた言葉を聞きつつ、優実は尚も奮闘する。
「英子、起きて。皆呆れているよ?」
「うーん……後一日……」
「長い! どれだけ寝る気だ!」
「それだけ……眠いのよ……」
「いいから起きる。というか、起きているよね、その反応?」
「ZZZ……」
反応に対し、英子は揺さ振っても大声で話しかけても起きる気配は見られない。
どうしたものかなー、と優実が途方に迷ったその時だった。
「――信道さんってまだいる?」
そんな声が優実の耳に入り、二年二組の教室に響いた。
優実は声のした方を振り向く。そこには藍色の胴衣と黒色の袴――剣道着姿の女子生徒が立っていた。優実が振り向くと同時に、彼女も優実に気付き、「失礼するね」と言いながら堂々と教室を進み、優実の方に近づいてくる。
「松前先輩?」
女子生徒の名は、松前という。見ての通り、剣道部の部員の一人だ。
そんな松前は、近づく際に英子に気付き、困った顔になる。
「あらら。ひょっとしなくても取り込み中?」
「見ての通りです。何か御用ですか?」
「急で悪いんだけど、桐子が急に勝負したい、って言い出しちゃってね……」
桐子というのは、剣道部の部長の名前である。
ちなみに、部員でも無い優実を剣道部部長が相手として欲しがるのは、優実がそれ相応の腕前を持っているからである。
困った顔のまま、松前は続ける。
「そんなわけで呼びに来たわけだけど、その感じでは無理そうかな?」
そう言って、何事も無かったように立ち去ろうとした。
優実は、眠っている英子を一瞥してから松前を呼び止める。
「松前先輩、ちょっと時間もらえます?」
松前は足を止め、優実に半身を向ける。
「いいけど、何をするの?」
「ちょっとした事です」
優実はそう言って、英子を起こしにかかる。
「英子、まだ眠い?」
「ZZZ……」
反応は無し。すやすやと寝息を立て、未だまどろみの中のようだ。
それを受け、優実はブレザーを脱ぎ、英子にかける。それから立ち上がり、自分の席に戻り、鞄の中から手ぬぐいを取り出しつつ、松前を見る。
「行きましょう、先輩。この分なら当分起きそうに無いので」
「助かるけど、本当に良いの? 桐子も「駄目なら駄目で構わない」と言っていたから、付き合ってくれなくても平気だけど?」
「お気遣いどうも。でも、こうなった英子は梃子でも起きないので」
松前は英子の方を一瞥し、苦笑をこぼす。
「……そうみたいね。じゃ、悪いけど一緒に来てくれる?」
それから外を示しながら言った。
「あたしで良ければ喜んで」
話は決まり、二人は剣道場へと向かった。
場所は移って剣道場。
中では部員達の気合いの入った掛け声が響いている。
「桐子、連れてきたわよ」
松前が面の素振りをしている部員達の前にいる女子に話しかけた。
声に気付き、その女子――高橋桐子は半身だけを向け、優実の姿を認め、一瞬極上の獲物を見つけたような肉食動物のような野性味溢れた笑みを浮かべる。しかし、それはすぐさま朗らかな微笑へと変わり、松前に返事をする。
「ありがとう、美咲。連れてきてくれると信じていたわ」
「どういたしまして」
それを受け、高橋は優実に視線を向け、話しかける。
「来てくれてありがとう、信道さん。急に呼び立てて悪いわね」
「構いません。体を動かすのは好きなので」
「だったら、剣道部に入らない? 部員総出で歓迎するわ」
「済みません。他にやりたい事があるので」
やりたい事というのは、言うまでも無く神様探しとそれを実行するための勉強や鍛錬である。剣道を覚えたのもその一貫だ。
「桐子、無理に誘わない。信道さんにだって都合があるんだよ?」
「分かっているけれど、全国でも信道さんほど出来る人はあまりいないのよ? そんな逸材がこんな近くにいるのに、誘わないなんて失礼でしょう?」
「本人が嫌がっているのに誘うのはもっと失礼。後、いい加減始めたら? 連れてきたのに放置するのも結構失礼だと思うけど?」
指摘を受け、高橋はハッとして部員達に指示を飛ばす。
「――と、そうね。皆、そういうわけだからコートの外に出てくれるかしら」
指示を受け、面の素振りをしていた部員達はコートの外に出て行く。
それを見つつ、高橋は優実の方に視線を向ける。
「で――信道さんは準備をして頂戴」
「分かりました」
優実は一礼し、松前の案内の下、試合の準備をするために部屋の隅へと向かっていく。授業でも剣道はあり、高橋の稽古に付き合うのはこれが初めての事ではないため、防具の着方は教えられなくても分かっている。
約一分後、制服の上から防具を着込んだ優実は、松前と共に高橋の下に戻る。
「高橋先輩、お待たせしました」
「平気。私も今出来たところだから」
舞台の中央では、防具を装備し終えた高橋が待っていた。
返事をした高橋は、優実の隣に立つ松前に視線を向ける。
「美咲、合図と審判、お願いね」
「はいはい。部活もあるから三番勝負の二本先取ね」
「それで良いわ。信道さんもそれで良いわよね?」
「お任せします」
「そ。――美咲」
高橋がそう言った瞬間、剣道場内の空気が張り詰め、静まり返った。外で行っている部活動の気合いの入った掛け声がよく聞こえるほどに。
松前が二人を交互に見て、一息入れてから両手を挙げる。
そして――。
「始め!」
凛とした大声が静寂を破り、
「ハァアアアアアアアアアアアッ!」
「ヤァアアアアアアアアアアアッ!」
それに呼応し、優実と高橋は咆哮を上げ、剣道場内の大気を揺さ振る。
咆哮接近。両者とも練習とは思えない気合いの入った掛け声と共に地を蹴り、一瞬にして間合いを詰める。
「めんやぁああああああああああああっ!」
「ドォオオオオオオオオオオオオオオッ!」
優実が目指したのは面、高橋が目指したのは胴。放ったタイミングは全くの同時、攻めの心構えであるが故か、両者とも防御には移行せず、より早く、より確実に相手から一本を奪わんと有効部位を針の穴を通すような精度で狙う。
掛け声に対し、鳴った音は一つ。確実に当たった快音が場内に響き渡った。有効部位を打った両者は、互いの位置を交換すると同時にすぐさま相手の追撃に備えるべく、相手の方をすぐさま振り返り、出方を待つ。
直後、松前が両手を挙げ、宣言する。
「――両方同時だったから、両方に一本ね」
「同時か……。早く打てたと思ったのだけれどね……」
元の位置に戻りつつ、高橋は残念そうにぼやいた。
(良かった……。どうにか間に合って……)
元の位置に戻りつつ、優実は自省する。
先の攻防、始める前から高橋からは攻めようとする気配を感じたため、優実も攻めようと思い、読みも仕掛けも無しに打ち込んでみたが、目算よりも高橋の動きは早く、気付くと同時に速度を上げ、どうにか同時に持ち込む事が出来た。気付いていなかったら――そう思うとぞっとする。
「信道さん、速度、まだ上がるわよね?」
元の位置に戻った後、高橋が嬉しそうに言った。
「――そういう高橋先輩こそ。先ほどのが全力じゃないですよね?」
元の位置に戻った後、優実は淡々と言った。
何となく、そんな気がした。元々余裕綽々とした態度を常の如くしている人物ではあるが、今の高橋は輪をかけて余裕ぶっている。そこから判断しただけだ。
「当然じゃない。気持ちはフルスロットルでも、実力はまだまだよ」
「気持ちはフルスロットルって……それは大会まで取って置くものでは?」
「貴女相手に練習用でやる馬鹿はいないわよ」
「光栄です。全国の常連にそう言ってもらえるのは」
「正当な評価よ。貴女なら――」
「桐子、試合中よ。やめてくれないと二本目を始められないわ」
指摘を受け、高橋は構えを取った。優実も習って構えを取る。
一拍間を置き、松前は二本目の開始を宣言する。
「始め!」
「リャアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
「ハァアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
再び、二人の咆哮が場内の大気を揺らす。
直後、始まったのは一進一退にして息もつかせぬ攻防。竹刀と竹刀がぶつかり合う音、防具を叩く音、地を蹴る音、風切り音、呼吸音――それら全てが数珠繋がりになり、相対している二人はもちろん、審判、見物している部員達に瞬きを一切許さないほど攻めと守りが目まぐるしく切り替わる。
何合数えたか、誰かが喉をゴクリと鳴らした。
その瞬間、優実は怖気を感じ取り、思わず後退した。してしまった。
すぐさま、しまった、と直感した。が、時既に遅い。
「ドォオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
直感した直後、桐子が胴を放った。しかも逆胴、おまけに片手打ち。後退したところを狙われたため、優実は防御も回避も間に合わず、桐子が放った逆胴は誰の目にも明らかなほどに優実の胴を打ち、勝利の快音を高らかに上げる。
直後、松前は右手を挙げ、高橋の勝利を宣言する。
「胴あり!」
そして。
「きゃあああああああああああああっ!」
「やったぁあああああああああああっ!」
部員達の大事な勝負に勝った時のような声援が場内の空気を暖める。
歓声に包まれながら、二人は元の位置に戻り、同時に頭を下げ、コートの外に出て行く。
「――美咲、少しの間お願い」
出て行きつつ、高橋は松前に声をかける。
松前は頷きを返し、部員達に指示を飛ばし、部活を再開し始めた。
一方、コートの外に出た優実と高橋は、端の一角に陣取り、座ってから防具を外し、外した面手ぬぐいで顔を拭く。
「――はあー。有意義な戦いだったわー……」
高橋が恍惚な様子でぼやいた。
「――心が滾りました。高橋先輩、誘ってくれてありがとうございました」
優実は心地良い疲れを味わいつつ、感想と感謝を述べる。
汗を拭いていた高橋は、手を止め、微笑を浮かべながら言う。
「礼を言うのはこっちよ。付き合ってくれてありがとう」
「お役に立ったなら何よりです」
優実は返事をし、防具を片付けるために防具に触れようとした。
その矢先、高橋の声が耳をついた。
「こっちで片しておくからそのままでいいわ」
「え、でも……」
「口答え禁止」
言うが早く、高橋は優実が使った防具を拾い、元の位置に戻しに行く。
「じゃ、お疲れ。また誘うかもしれないから、その時にはまたお願いね」
軽く言いつつ、高橋は防具を携えてスタスタを歩く。
優実は逡巡し、一礼し、手ぬぐい片手に場内を後にした。
「お疲れ」
剣道場の外に出た途端、優実の耳に聞き慣れた声がかかった。
そちらを見ると、意外な顔がそこにはあった。
「英子? どうしてここに? というか、よくここにいるって分かったね?」
「クラスの誰かが黒板に書き置きしてくれていたのよ。優実は松前先輩に誘われて、剣道場に向かったってね。で、ここに来たのはブレザー返すため」
英子は左手に持っていた優実のブレザーと通学鞄を渡してくる。
優実は受け取りつつ、お礼を言う。
「わざわざありがとう」
「ブレザーのお礼よ。後、起きなかったお詫び」
「前者だけ受け取っておくよ」
「後者も受け取りなさいよ」
「好きでやった事だからいいんだよ」
「ったく……。で――もう帰れるの? それとも最後まで付き合う感じ?」
「帰れるよ。途中で困った人に出会わなければ、だけどね」
「それじゃ、帰るとしましょうか」
そう言って、英子は踵を返し、下校するために歩き始めた。
優実もそれに続き、二人は並んで下校する。
「ところで、勝ったの? 負けたの?」
「負けたよ。つい怖がっちゃってね」
優実は肩を竦めながら言った。そしてそのまま言葉を重ねる。
「ま、怖がってなくても勝てたか怪しいけどね」
「……全国常連相手に良い戦いが出来るっていうのもどうかと思うけど?」
「そうかな?」
「ええ。よく鍛えたものよ。成せば成るの体現者よね、優実って」
「単に欲張りなだけだよ」
「むしろ、それだけでよく頑張れるな、と個人的には思うわ。よくもまあ、そんな曖昧な気持ちで色んな事を高水準に保てるわね。友達として鼻が高いわ」
内容に反し、そう言う英子は呆れ気味だった。
優実はジト目で英子を見る。
「……それ、褒めてくれてるんだよね?」
「もちろん」
「百パーセント?」
「残念。五十パーセントよ」
「やっぱり……」
はあ、と優実はため息をついた。分かってはいたが、肯定されるときつい。
「そう落ち込まないで。――遠く感じるから」
一転、英子は少しだけ寂しそうに言った。その目は空へと向けられている。
急な変わりように、優実は首を傾げる。
「英子? 急にどうしたの?」
「ちょっと疑問に思っただけよ」
「疑問って?」
「私は優実の友達で良いのか――そんな些細な事よ」
英子は寂しさの色を濃くして言った。
突然の事に戸惑いつつ、優実は尋ねる。
「何で疑問に思うの? ひょっとして誰かに悪口言われたとか?」
「違うわ。そういうのじゃない」
「なら、どうして?」
「些細な事よ。――質実剛健で品行方正にして容姿端麗、誰からも頼りにされ、優しくもあれば厳しくもあるスーパーガール……そんな優実の友達なのは誇りに思うけれど、それと同じくらい私みたいな平々凡々な奴が側にいて良いのか――なんて事を時々考えたりするわけよ。身勝手な話で悪いけれど」
「英子……」
そんな風に思っていたんだ――という言葉は、どうにか飲み込んだ。
心中は察せないものの、それが本心だというのは分かった。顔は真顔であり、紡がれる言葉の声質も真剣そのもの。聞いているだけで寂しくなるそんな声。
そんな英子に何を言うべきか――。
優実は真面目に考え、答えを言う。
「――英子は友達だよ。ちゃんとあたしを見てくれる一番の友達」
「何言っているのよ。私に限らず、皆、優実の事を見ているじゃない」
苦笑する英子。
優実は首を左右に振る。
「ううん。英子だけだよ。歪んだところも含めてちゃんと見てくれているのは」
「何言ってんのよ。鬼才なんて凡人からしたらそう見えるものよ」
「それ」
「どれよ?」
「鬼才――あたしの事をそう見ているのは、英子だけなんだよ。そういう風に見てくれているからだとは思うんだけど、英子と一緒にいる時は不思議と心が休まるんだよね。他の人だとどうも気を抜けなくてね」
だから、ずっと友達、あたしの一番の友達だよ――。
優実は内心のみでその言葉を付け足す。今でも十分恥ずかしい事を言っているので、それ以上は無理だった。恥ずかしくて憤死しそうである。
「人を止まり木みたいに言ってくれて……照れるじゃない」
英子は苦笑混じりに言った。そこには先ほどまであった寂しさはもう無い。
優実も苦笑を返す。
会話の流れが途切れた時、二人は自転車小屋に到着した。
「――と、そうだ。優実、悪いのだけれど私の家まで付き合ってくれない?」
英子が突拍子も無く尋ねてくる。
優実は理由が気になり、尋ね返す。
「いいけど、急にどうしたの?」
「今朝の続きよ。母さんに優実と一緒に帰って来いって言われているのよ。優実、腕っ節強いじゃない? それを当てにしているのだと思うわ」
「なるほど。良い判断じゃん」
優実としては、むしろありがたい提案だった。噂にしていないから問題無いとは思うものの、不安は残ったままだった。だから、ちゃんと帰る事を見届けられるこの提案は乗る理由はあっても、断る理由は無い。
一方、英子は不満顔で言う。
「そう? 私は自分の子だけ無事ならそれで良いのかって思ったわよ?」
「そうかな? あたしはそれだけ信頼も信用もされているって感じたけど?」
交友関係があるとは言え、常識的に考えるならば、同世代の子をそういう理由で頼りはしないはずである。それ即ち、英子の母には真っ当な同世代の子として見られていないという事にもなるが、優実にはその自覚があるので気にしない。
英子はその後も不満顔をしていたが、
「……ま、優実が気にしていないなら、私も気にしないけどさ」
少しして呆れと諦めが混じった声色で言い、不満顔をやめた。
優実はそれを聞いて、何かを言われる前に自転車を走らせた。
不意を突かれた英子は、驚いた声を上げる。
「ちょ、優実!? 急にどうしたのよ!?」
「英子の家まで競争! 負けた方は後でジュース一本奢りね!」
「んなっ!? 勝手に! こら、待ちなさい!」
「それで待つほどあたしは優しくないよー」
笑って言いつつ、優実は自転車を走らせる。
不意に流れた涙は、目にゴミが入ったのだと思う事にした。
斉藤宅の門前にて。
「――じゃ、あたしは行くね」
英子と共に無事に到着した優実は、挨拶をして自分の家に向かおうとした。
「優実、通り魔に気をつけなさいよ?」
不意を突かれた一言に、優実は足を止め、英子の方を振り返り、ため息をつく。
「何で言っちゃうかな……。もしもが起こったらどうする気?」
油断した矢先だったため、止める事は叶わなかった。
しかし、当の英子はまるで気にせず、悪びれもしない様子である。
「そうね……言って欲しいって優実の顔に書いてあったからかしら」
「あたしが思っていたのはその逆なんだけど……」
「それは私に対してであり、優実としては違うでしょう?」
「いやいや、流石のあたしでもそんな馬鹿はしないって」
というのは建前であり、バリバリ思っていたがそんな事はおくびにも出さない。
だが、英子にはバレバレのようで、おかしそうに笑っている。
「ふふ。どうかしらね。――――でも、安全だと思ったから私は言ったのよ?」
不敵に微笑む英子。
優実は疑いの眼差しを向ける。
「……何をどう考えて安全だと思ったわけ?」
「通り魔の語源って知っているかしら?」
「もちろん。通り悪魔でしょ?」
通り魔というのは、瞬間的に通り過ぎて、出会った人に災害を与える魔物といわれていた【通り悪魔】が転じたものという説がある。
優実の答えに、英子は苦笑を浮かべる。
「そこでもちろんって言える辺り、流石ね」
「ま、あたしだし」
「それもそうね」
「でしょ? でも、英子が知っているとはね。正直驚いたよ」
「ふとそもそも通り魔って、どういうのが【通り魔】と言えるのかな、と思って調べてみたら行き着いたのよ。――それはそれとして聞きなさい。私の母さんが不安に思った通り魔が人間であれ、それ以外の何かであれ、それが通り魔というのならば、その性質上、外出していなければ出会いようが無いでしょう? だから、家に着いた私はもう安全で、故に噂してみた、というわけよ」
「なるほどね」
筋は通っている。考えどころも悪くない。しかし、不安要素は残っている。
「でもね、英子、家の敷地内とは言え、今はまだ外だし、通り過ぎるっていう状況は、家の前でも適応されると思うんだけど?」
「ご心配無く。まだ明るいから見通しは利くし、相手が人間なら優実がどうにかしてくれるだろうし、空想的な何かなら優実は放っておかないだろうから」
全く悪びれずに言ってのける英子。
その清々しさに、堪らず優実は笑った。
「――はは。うん、確かに心配無いね。信じてくれてありがとう、親友」
「どういたしまして。でも、あんまり無茶しないようにね、親友」
「出来る限り善処するけど、先に謝っとく。死んだらごめんね」
「馬鹿。縁起でもない事言わないの。後、死んだら許さないから」
「その時は笑って見送ってよ。馬鹿な奴だったって」
「訂正。人間じゃなくなっても良いからちゃんと帰ってきなさい」
「無理難題を平然と押し付けないでよ……」
「気合いで何とかしなさい。そんな事では、神様に会うなんて夢のまた夢よ?」
「他人事だと思って……」
「事実、他人事よ」
英子は踵を返し、手を振りながら家の中へと入っていく。
「じゃ、また明日」
「ん。また明日ね」
とは言っても、優実は英子が家の中に入るまで動かなかった。
しばし待ち、英子は家の中に入った。玄関の閉まる音が小さく聞こえてくる。
「――よし」
それを確認し、優実は自転車を漕ぎ始める。
夕暮れの空の下、自宅に向かって快調順調に自転車を走らせる。
ただし、通る道は人気の多い表通りや人目がある大通りではなく、脇道や裏道――通り魔と遭遇出来そうな道を通っての帰宅である。凄まじく阿呆な行動ではあるが、本人は至って真面目である。実際問題、取り組み方としては間違っていないだろう。虎穴に入らない限り、虎子を得る事は出来ない。通り魔に遭遇しようと思うならば、脇道や裏道を通るのはむしろ当然の選択だろう。
のらりくらり――自転車ならばほんの数分で家に到着出来る帰路を、その約三倍はかけ、それでもまだ脇道を走っていたその時だった。
横道から不意に人影が飛び出してきた。
「――っ!?」
突発的な状況だったが、優実は冷静にハンドルを切り、紙一重のところで飛び出してきた人影との接触を避ける事に無事成功し、そのまま通り過ぎる。が、避けたはずではあるが、人影はグラリと揺れ、その場にへたり込んだ。優実は驚きつつ、ドリフトして反転し、自転車から飛び降りて人影に近づく。
「す、済みません! 大丈夫ですか!?」
駆け寄り、そこでようやく優実は飛び出してきた人影をちゃんと見て、外出するには不向きな格好をしている事に驚いた。
パジャマである。
コートを羽織っているが、紛れも無くパジャマである。
さらに奇妙な事に、その人影――少女は裸足だった。
(家、もしくは病院から抜け出してきた――そう考えるのが無難かな?)
少女に声をかけつつ、優実は少女の状態からそんな推測をする。
そんな折、少女がようやく呼びかけに答え、俯いていた顔を上げた。
「――あなた……」
「――っ!」
向けられたその顔を見た瞬間、優実に戦慄が走った。
狂気。
そこにはその感情しかなかった。
一目で、はっきりと、質すまでもなく窺い知れるほどのそれがそこにはあった。
「これは――」
「――あなたのいのち、ちょおだい!」
瞬間、少女の右腕が唸りを上げ、優実に襲い掛かった。しかし、殺気に気付いていた優実は咄嗟に回避行動を行い、間一髪で回避する事が出来た。だが、それはあくまでも致命傷を避けられた、というだけであり、少女の右手は優実の右頬を薄く裂き、二つの赤い筋が頬に走った。
「――いきなりやってくれるね。あたしじゃなかったら死んでたよ?」
「あは。あはは。あはははは! あなた、つよいわねー!?」
狂気の笑みを湛えつつ、少女は再び優実に襲い掛かってくる。服装と露出している青白い肌とは裏腹に、その動きは荒削りな事を差し引いても機敏だった。もっと言えば、常人離れしている。その上、どういうわけか、完璧に避けているにも関わらず、少女の攻撃は悉く優実を霞め、服や肌を裂く。
(……どうにも当たるね。なら――)
三回ほど様子を覗った後、優実は少し大きく回避した。その目算は正しかったらしく、今度の攻撃は完璧に回避する事が出来た。
「へえ! やるじゃない!」
狂喜して三度、少女は優実に襲い掛かってきた。
その攻撃をより大きく避けて完璧に回避しつつ、優実は尋ねる。
「一応聞くけど、貴女、正気?」
「もおちろん! だあかあらあ! あなたのいのち、ちょおだい!」
(何処が正気なんだか)
内心のみでツッコミを入れ、優実は振りかぶられた攻撃を回避する。
そして。
「顔は勘弁してあげる」
優実は攻めに転じ、少女の鳩尾を的確に肘をぶつけた。
普通ならそれで状況は終了していただろう。
だが、現状が普通ではないのは一目瞭然。
優実もそれで終わるとは思っていない。
その読みは当たっており、少女は倒れず、優実の肩をがっしりと掴んできた。
「あはは! これでおわりだよ!」
少女が高らかに笑った瞬間、状況の異常性が加速した。
突如として少女の背後の空間が、ガラスの如く音を立てて割れたかと思えば、そこから不気味に赤黒く輝く巨大な鎌が姿を現したのである。
「――あは」
それを目撃した優実は、自分の置かれた状況も忘れて笑った。
それによって巨大な鎌は動きを止めたが、
「あは、あはは、あははは、あはははははははははははははは!」
構わず、周りを気にせず、少女以上に、狂ったように笑い続けた。
笑わずにはいられない。これだけの異常。これだけの非常識。これだけの非現実。一々質す必要も無ければ、考える必要も無い。
「――嬉しい! 嬉しいよ! ようやく! ようやく出会えたね、本物ぉ!」
叫ばずにはいられなかった。意地を張り、最早恋焦がれていると言っても過言ではない人智を超えた、人智の及ばない状況が発生しているのだ。その喜びを、嬉しさを、感動を吐き出さずにはいられなかった。
「……死を前にして気が触れたの?」
「気は触れているよ。理由は違うけど――ねぇ!」
一喝すると共に、優実は少女に頭突きを見舞い、直撃を受けた少女は優実の肩から手を外し、ふらふらとよろめく。
その隙を逃さず、優実はもう一度少女の鳩尾に肘をぶつけた。今度は先ほどよりも強く、具体的に言えば骨の二、三本は折るつもりでやった。隙を突かれた少女は、体を「く」の字に曲げ、そのまま地面に倒れ込んだ。
それを見て、優実は「あっ」と声を上げる。
「やば、もしかしなくてもやり過ぎた……?」
倒れた少女はピクリとも動かない。
優実は慌てて駆け寄り、少女の様態を確認する。口元に手を当ててみると、呼吸はしていた。それを確認して、優実は胸を撫で下ろす。
「――とりあえず、病院に連れて行かないとね」
そして冷静な判断を下し、救急車を呼ぶために携帯を取り出した。
だが、それよりも早く、状況が動いた。
「うっ……ううっ……」
少女が呻き声を上げたかと思えば、尋常じゃないほどに震え始めたのだ。
優実はぎょっとし、少女に駆け寄り、声をかける。
「どうしたの? 痛いの? 寒いの?」
優実の呼びかけに、少女は行動で示した。優実の手を掴んだと思えば、優実に抱きついてきたのだ。一瞬戸惑うも、優実は震える少女を抱き返した。
それから少しして、少女の震えが止まり始め、同時に少女の体から力が抜ける。
「あらら。今度は――」
言いかけた瞬間、不意に足元の感覚が消えた。
「――お、これは期待できそうね」
優実は楽しげに言うが、状況はそれほど楽しいものではない。
何時の間にか、優実の足元には黒い穴が開いており、そこに吸い込まれた。
(はてさて、何が起こるのやら……)
期待しつつ、優実は浮遊感に身を委ね、何時しか意識も遠のいた。
落ちた先は、灰色なところでした――。
意識が覚醒した優実は、そんなのん気な事を漠然と思った。
灰、灰、灰――。
その場所は、屋外とも室内とも、昼とも夜とも、上下左右感覚の全く取れない奇妙奇天烈な異様な空間だった。
「ふむ……。見事なまでの不思議空間ね!」
ざっと周囲を見渡し、優実は嬉々と叫んだ。
素晴らしく見事なまでの異様な空間。
より一層本物である確信を得つつ、優実はとりあえず呼びかけてみた。
「おーい。誰かいませんかー。いたら、返事してくれると嬉しいでーす」
「……貴様、何処までのん気なのだ?」
先に声があった。ついで、声の主が姿を現した。
忽然と姿を現したそれは、骨の体に黒い法衣を着込み、巨大な鎌を手にした――死神という形容以外に当てはめる事が出来ない装いをしていた。
「お、出てきてくれた。――えー、こほん。あたしは信じる道を行き、優しさを実行する少女、信道優実です。で、露骨に死神な貴方様はどちら様?」
「……我が名はタナトス。見ての通り、死神だ」
「死神――なるほど。だから、あの女の子は物騒な事を言っていたわけですか。でも、タナトスって死期が近くなった人間の下に訪れ、その人間の命を奪い去っていくって話ですが、という事は、あたしの命運はここで尽きるわけですか?」
優実は自分の中にある記憶を引き出しつつ、持論を展開した。
タナトスとは、ギリシア神話に登場する死そのものを神格化した神だ。死期が近くなった人間の下に現れ、その人間の命を奪い去っていく、人が思い描く死神のイメージにピッタリな存在である。
「ほう。実技だけではなく、頭脳もかなりの物のようだな」
タナトスは感心したように言った。
「肯定と受け取ってもよろしいのでしょうか?」
「構わんよ。事実、貴様の命運はここで尽きる」
「なるほど。――では、冥土の土産に、という事でいくつか聞きたい事があるのですが、差し支えなければ答えてもらえないでしょうか?」
タナトスは鼻で笑った。
「傲慢で強欲だな。条件を出せる立場か?」
「駄目ですか?」
「いや、構わんよ。ただし、交換条件だ。我も貴様に聞きたい事と要求がある」
「死神様があたしのような人間風情に、ですか? 何でしょうか?」
「まずは要求だ。その言葉使いをどうにかしろ。聞いていて不快な気分になる」
「最大限敬ったつもりでしたが……お気に召しませんでしたか?」
「ああ。故に崩せ」
「分かり――分かったよ。で――聞きたい事って?」
「我が殺そうとした時、何故笑ったのだ?」
「それは――ああ、それで鎌を止めて、ここに招待してくれたんだ?」
「鎌を止めたのは正解だが、ここに招待したのは違う」
「そうなの? なら――と、質問されているのはあたしだったっけ」
優実は一度咳払いしてから、改めて答える。
「簡潔に言えば、夢が実現出来るかもしれないって思ったから」
「夢だと? 死神に出会えた事が、か?」
「厳密には本物――あたし達人間からすれば、空想的、妄想的、想像的な存在と判断するしかない存在に出会えた事だよ」
「なるほど。だから「本物」と言ったのか」
「そ。周りの目を盗んでそういう噂が立つ場所に足を運んでみたけど、どれもこれも幽霊の正体見たり枯れ尾花って感じでね。もどかしい思いを抱えながらずっと過ごしていたところ、ようやく出会えた。喜ぶなって方が無理な話だよ」
「なるほど。――それで? 本物を見て、実現可能だと思った夢とは何だ?」
「神様って存在が実在しているのかどうか知りたいの」
臆面も、恥じらいもなく優実は言ってのけた。
瞬間、何とも言えない沈黙が二人の間に訪れる。
呆れられたかなー、と思いつつ、優実はタナトスの反応を待った。
体感約三分。タナトスが口を開く。
「……なるほど。その夢ならば、確かに我を見て喜び、実現可能だと思えるな」
「でしょ? ましてあたしが出会ったのは死神――喜ばずにはいられないよ」
優実がいるのかどうか知りたいと思っているのは、「神様」という単語から誰もが連想する全知全能の何かだが、しかし、死の神である。しかも、神話が本当だったならば、タナトスは死そのものが神格化した神だ。そんな存在がいるという事は、そういう事を出来る存在が何処かにいるはずである。
その事実は、優実にとっては小さい一歩ではあるが、大きな前進だった。
「確かに。しかし、確認してどうする? 世間に公表するのか?」
「しないよ、そんな夢の無い事。それに公表したって誰も信じないだろうけど、万一信じる奴がいて、それが悪人だったら面倒な事になるのは明白だし」
「――ほう。無茶をする割に中々の危機感を持ち合わせているな」
感心するタナトス。
優実は苦笑を浮かべる。
「ありがとう。でも、危機感、ね……。という事は、当たらずとも遠からずって感じなんだ。人の事を言えないけど、人っていう種は本当に欲が深いね……」
「偉そうだな。二十にも満たないだろう身の上で」
「若いからって言っとくよ。ちなみに十六歳だよ」
「若さ特有の全能感か。で――結局のところ確信してどうする?」
「別に何も。いるのかどうか確認したいだけだからね。その後の事を言っているのなら、次の夢を探して、それの実現を目指すよ。ま、現時点での夢が途方も無いから次の夢なんて偉そうな事言ったけど、明確には考えてないんだけどね」
「……末恐ろしい奴だ」
感心とも呆れとも取れる反応のタナトス。
優実は笑顔を返す。
「死神にそう言ってもらえるなんてね。死ぬ前にいい思い出が出来たよ」
その実、優実は少女と出会った瞬間にある事を直感していた。
――自分は今日ここで命運尽きる。
不思議と、どうしてか、そう思った。
大抵の事は乗り切れる自信はあり、乗り切ろうという気持ちもあった。
しかし、死神の鎌が現れた時、歓喜すると同時に諦めてもいた。
まさしく、本物は想像を絶していた。
圧倒的にして絶対的なまでの存在感。
次元が違っていた。
理解が及ばなかった。
分かっていたが、実際に体験してみると、想像しただけでは足りなかった。
でも、いい。
本物に出会えた事、それだけで満足しよう――そう思えた。
元より途方も無い事だったからか、すぐにそう思えた。
自分でも不思議に思うくらい、速攻で生を諦めていた。
諦めたくはなかったが、考え方が一瞬で変わるほど、タナトスは本物だった。
「――少女よ、次は貴様の番だ」
不意な呼びかけに、優実は我に返り、現状を思い出す。
そして、ふとタナトスがこちらを待っていた事が気にかかった。
義理堅いところがあるのか、冥土の土産をくれているのか。
少し考えてみたが、妄想しか浮かばず、優実は返事をする。
「もういいよ。あたしが聞きたかったのもそれだったから」
「それというと?」
「鎌を止めた事。そっちには止める理由が無いのにどうしてかなってね」
優実は自分を見せるように両手を広げ、満面の笑みを湛えて続ける。
「というわけで、殺すなら殺してよ。あ、痛くないようにお願いします」
「意外だ。あれだけの対応をした貴様の事だから、浅ましく無様に生に執着するかと思ったが……我の見込み違いだった、という事か」
「そうしていたら殺さないでいてくれたの?」
「逆だ。即刻殺していたよ。その味には飽きが来ているからな」
「――――」
その言葉、「即刻殺していた」という部分を優実は聞き逃さなかった。
それ即ち、その逆を行ったから殺さないでおいてやる、と捉える事も出来る。もちろん、聞いた上で殺されるという可能性の方がずっと高くはあるものの、そういう意味でもあるはずだ。どうやら、死中に活あり、というのは本当らしい。
それを聞いた瞬間、優実の気持ちは百八十度ひっくり返った。
「あのさ、殺さないで欲しいって言ったら、その願いを叶えてもらえる?」
気がつくと、そんな言葉を無意識に口にしていた。
口にしてから、逆の逆、タナトスが嫌がる事をしている事になるから、まずいと即座に思ったものの、時既に遅い。しっかりと声となって伝わっている。
それならば、と優実は気になっていた事を尋ねる。
「そう言えば、あたしに襲い掛かってきた人が正気じゃなかったのって、ひょっとしなくてもタナトスが原因だったりする? というか、するよね、ほぼ間違いなく。察するに、あれは隠れ蓑で、役割を果たさないといけないけど、直接的には何らかの理由で無理だから適当な人間を操るか乗っ取って行っているとか?」
「よく回る頭だな。それでいて大した順応力と発想力だ」
「肯定と受け取るよ?」
「受け取って、どうするというのだ?」
その反応に好感触を覚えつつ、優実は不敵に微笑みながら答える。
「そんなの決まってるじゃん。あたしがその隠れ蓑とやらになり、あなたの役割を代行するよ。そう考えれば、あたしが生かされている事にも合点がいくしね」
今尚殺されない事が、ずっと疑問ではあった。
立場的にはタナトスの方が圧倒的に上位であり、ただでさえとんでもないというのに、この場はいわゆる精神的な空間。そんな場所では人間である優実に勝ち目は無い。やろうとすれば、情報を聞き出した時点で殺す事も出来たはずである。それにも関わらず、タナトスはそうしなかった。そこに優実は活路を見出した。
タナトスは低く笑い出した。
「くくく。貴様、自分がとんでもない事を言っている自覚はあるか?」
「もちろん」
優実は即答した。
それにより、タナトスは笑いを止めた。
「そこまでして生きたいか? ――いや、そこまでして神に会いたいか?」
優実は即答する。
「会いたいし、生きたいよ。無様だと、愚かだと、馬鹿だと、阿呆だと、笑うなら笑ってくれて結構。でも、生憎とこちとら欲深い人間だからね。生き延びられる可能性が一パーセントでもあるなら、死神の奴隷になっても別に構わないよ」
そして続ける。
「でも、お願いがあるよ。一つはあたしの心を殺さないで欲しいという事。二つは何を殺すかはあたしに決めさせて欲しいという事。お願い出来る立場じゃないのは分かっているけど、奴隷でも何でもするから聞き入れてもらえないかな?」
「必死だな」
タナトスは一笑で片付けた。
優実は苦笑を返す。
「当然。あたしにとっては生きられるかどうかの瀬戸際なんだから」
「それもそうか。――ところで、二つ目の願いは何だ?」
「そのままだよ。対象が何であれ、それが殺害という手段を取る事ならば、自分の殺したいものを殺したいんだ。こんなあたしでも殺したいものがあってね」
「……意外だな。良くも悪くも清純そうな貴様が、よもや自分で殺したいものを殺したいと言い、殺したいものがあると言うか。それは何だ?」
「そんな事が可能なのかどうか分からないけど、察するにあなたの役割は「死という結果を出す事」もしくは「死という結果を振り撒く事」であり、そこから重要なのは「何らかの死を与えた」という結果であり、内容は二の次だと思ったの。だったら、物理的な死よりも、誰の心にもある悪意や悪心や悪徳、それから不治の病、後は大き過ぎたり、強過ぎたりする善意、善心、善徳――といった精神的な死でも代用出来るんじゃないかなって思ってね。で、それが実現可能だったら、あたしはとんでもない事をする事になるわけだから、そうすると神様が叱りに来てくれるんじゃないかな、って思ってね。――ところで、これはあくまでもあたしの希望的願望なんだけど、そういう事って可能なの?」
これまでと違い、返事はすぐに返ってこなかった。
優実は大人しく返事を待った。
可能かどうかは分からないにせよ、人事は尽くした。
後は、天命にその身を委ねる他無い。
それから、どれくらいの時が経ったか。
その沈黙は、訪れた時と同様に唐突に破られる。
「くっくっく……」
不意にタナトスは笑い始め、
「はーっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!」
それはすぐさま爆発し、
「――次は何で楽しめるかと思って待ってみれば、まさかこの短時間で全てを欲する方法を画策していたとはな! その酔狂さ、気に入った!」
楽しくて仕方が無いといった風情で高らかにそう言い、
「良いだろう! その酔狂さを賞賛し、望み通り、自我を持ったまま、我の奴隷にする事を約束してやる! 光栄に思うがいい! はーっはっはっはっは!」
異様な調子のまま、提案を受け入れる事を承諾してくれたのだった。
「え、ええと……」
しかし、突然の変わりように、優実は戸惑いを隠せなかった。
具体的に言えば、ドン引きしていた。
承諾してくれた事は嬉しく、奴隷というのも自分が言った事なので、今更前言を撤回しようとは思わないものの、ここまで好意的に受け取ってもらえるとは、流石に思っていなかったので困惑を隠そうにも隠し切れなかった。
「急に大人しくなってどうした? ――と、そうか。感激のあまり言葉に出ないと見える。何せ、先ほどまで生きるかどうかの瀬戸際に立っていたのだからな。まあもっとも、現状でも生きているとは言えん状態だから微妙だがな」
「え? そうなの? というか、どういう意味? ひょっとして――いや、ひょっとしなくても、実はもう死んでますってオチじゃないよね?」
非常に今更ではあるが、今更になって怖くなった。妙な穴に落ちてから、目覚めるまでの間、何もされていないという可能性はゼロではないからだ。
「今頃気付くか。存外に鈍いな」
そして、タナトスはあっさりとその事を認めた。
「えっ……」
その事実に、優実は言葉を失った。
そんな優実に構わず、タナトスは続ける。
「いやはや、落ちた時に打ち所が悪くてポックリだ。ご愁傷様だったな」
口調こそ軽いが、篭められている気持ちは本物だった。
優実にはそれが嘘かどうかを確かめる術はない。
しかし、タナトスには優実に嘘をついて得をする理由がない。
だから、優実はその言葉を信じた。
でも、その言葉は当然のように口に出た。
「……ほ、本当なの?」
「もちろん嘘だ。折角の逸材を粗雑に扱うはずないだろう?」
「――――」
優実は二の句が告げなかった。
呆れて物も言えない、というのはまさしく今の優実である。
そんな優実を他所に、タナトスはネタばらしをする。
「生きている状態と言えんと言ったのは、我が貴様の命運を握っているという意味だ。生かすも殺すも我の一存。提案を受け入れてはやったが、我にそれを守る義理は無いからな。そんな状態で「生きている」とは言えないだろう?」
優実は盛大にため息をつく。
「……紛らわしい言い方しないでよ。信じちゃったじゃん……」
「信じる方が悪い。あんな虚言を簡単に信じた貴様の落ち度だ」
ごもっともである。返す言葉も無い。
「だが、我も悪ふざけが過ぎたな。その詫びとしてこれを受け取れ」
その瞬間、優実はほんの少しだけ息苦しさを覚えた。
どうして――そう思って首に手を添えると、皮で出来た何かに触れた。そのまま指の感触でそれを触っていく。前から横、そして後ろへ。どうやら何かが首に巻きついたようだった。
「これって何?」
「首輪だ。奴隷には首輪が付き物だろう? よく似合っているぞ」
「首輪、ね……。――あのさ、言いたい事あるんだけど、言ってもいい?」
「何だ?」
「変態」
「心外だな。貴様らとて、犬や猫に首輪を付けるだろうが。それと何が違う?」
「ま、奴隷より綺麗な響きだからいいけどね。ところで、これって外せるの?」
「一生外れんが、何か問題でも?」
「お風呂入る時とかどうしようかなー、って」
「急に日常的になったな……。しかし、心配無用だ。それは我の所有物故、貴様ら人間の法則や常識は受け付けん仕組みになっている」
「へー、便利。それともう一つ、これって他の人にも見えるの?」
「見えなくては、貴様が我の愛玩動物であるという事が他に分からんだろうが。今度は何の心配だ? 答えてやるからさっさと言え」
「いや、友達とかにどう説明しようかなって」
「チョーカーとでも言っておけば良かろう。そう見えるように創意工夫もした」
「それは重畳――って、死神がチョーカー知ってるんだ?」
急に出てきた日常的単語に、優実は勝手ながらもちょっと幻滅した。
そんな優実を見て、タナトスは楽しげに口元を緩める。
「流石は愛玩動物。ちょっとガッカリする様子も愛らしいな」
気取られ、優実はぎょっとした。
「な、何故それを……」
「声から若干活力が失せたからな。そこから判断した。――さて」
タナトスはそう言うと、優実に近づいてきた。
そして。
「信道優実――これから色々あるだろうが、まあよろしく頼む」
右手を差し出した後、そんな事を言ってきた。
優実は一瞬面食らうが、すぐさまその手を握り返す。
「こちらこそ、色々とよろしくお願いします」
こうして、優実はようやく本物と出会う事が出来たのだった。




