第一話
小説家になりたいと初めて公言したのは大学五回生のときだった。
研究室の助教授の部屋をノックすると、いつもどおり寝ぼけたような返事が返ってきた。
部屋にはいると、欠伸みたいな背伸びをしながら先生が出迎えてくれた。相変わらず寝癖がひどい先生だ、と思う僕の頭にも台形型の寝癖があった。
先生のパソコンのモニタ上では、謎の複雑な波形が踊っていた。これは孔雀の極彩色の秘密を解析したんだ。もし先生がそう言ったなら、僕はきっと信じたに違いない。僕は先生に憧れていた。
「大学辞めます。小説家になりたいんです」
単刀直入に言うと、先生は驚いていた。
「え?でも院試に合格したんじゃなかったっけ?」
「合格しましたけど、あんなの…」
と僕は口ごもった。
僕の通っていた大学の学部はちょっとイカれていた。なんと学生の約九割が大学院に進学するのだ。それは大学側がさも当然であるかのように進学を奨励するからだった。奨励するからには試験もさほど難しくなかった。
言いにくそうにする僕を見て察したのか、先生は言った。
「でも、君、もうすぐ卒業でしょ?院に行くかどうかはともかくとして、大学は卒業しておいたほうがいい」
先生は諭すように言った。
「世の中、資格資格と言うけれど、どんな資格よりもウチの大学を卒業したという経歴の方が強い。あとちょっとでそれが手に入るのに、今捨てるのは勿体ないよ」
憧れの先生の至極真っ当な意見にまったく反論できず、僕はすごすごと先生の研究室を後にした。
僕が小説家になりたいと思ったのはいつのことだろうか?
僕の作文が努力賞を取った時かもしれないし、実家の近所に図書館ができた時かもしれない。もしかしたら好きだった後輩の女の子に小説を貸した時かもしれない。
でもそれがいつであれ、僕は多分、常に小説家になりたいと心の何処かで想い続けていた。朧げに抱いていた夢が現実的な形を持ったのは、大学の書店で先生の書いた小説を見かけた時だった。
大学の書店にはほぼ毎日顔を出していた。主に文庫本を中心に見漁っていた。だから一体いつから新刊の本棚がその状態になっていのか分からない。気づいた時には、新刊の棚、二つを真っ白な本が占拠していた。気になって手に取ると、著者は助教授の先生だった。
僕は目を疑った。表紙には意味ありげな短文が記されており、クソ面白そうだった。
レジに持っていくと、レジの横にも平積みされていた。レジのおばさんは僕が差し出した小説を受け取るとにんまりと笑った。どこかで見た種類の笑みだった。その笑みの正体に気づくより前に、僕は小説を読み終わっていた。
先生が小説家になったというのは、研究室では公然の秘密だった。誰も取り立てて話題にしなかったが、研究室のメンバー間を僕の購入した一冊が渡り歩いていた。
そんな状況下での僕の小説家宣言だ。先生は多少、僕のことを特別視してくれていたのかもしれない。
「円弧はハイパボリックサインの等角写像で直線に変換できる。ということは扇形の領域は帯状領域に変換できるということになる。これを用いて特異点を無限遠点に飛ばすことで…」
と、先生はそこまで語ったところで説明を止めた。多分、僕が説明を理解できていないことに気づいたのだろう。大学の先生は例外なく、相手が自分と同じ知能レベルを持っていると仮定して話す。とても公平で平等なのだけど、まるで無差別爆撃のようだった。容赦なく彼我の知能の差を見せつけてくるのだ。
「理解してる?」
もちろんしていない。僕はへらへら笑いながら首を振った。先生はため息を落とした。
「先生は一日何文字くらい書いてるんですか?」
僕は話題を切り替えた。正直、研究の内容より、先生の小説家稼業の方が気になっていた。
「大体、一万文字くらいかな?」
「そんなに?」
「集中すればそれくらい書けるよ」
「僕にはとても書けそうにありません。元から書けたんですか?それとも訓練ですか?」
すると、先生はいつものように頭を掻いた。
「その質問、よくファンレターで来るよ」
先生は苦笑していた。
「どう答えてるんですか?」
「そんなことより目の前の現実を見なさい、って言ってるね。書けないんなら訓練するしかない」
僕は黙らざるを得なかった。
「君の小説はどう?順調?」
先生の問いかけに僕は何も返せなかった。威勢のいい小説家宣言とは裏腹に、僕はまったく小説を書けずにいたのだ。
「僕も目の前の現実を見れないタイプかもしれません」
僕は先生の目を見れなかった。先生の言葉に従って大学に残ってよかったのかもしれない。いや、大学をやめていたらもっと必死になって小説家を目指していたのだろうか?
「人の殻って言葉あるじゃない?」先生は優しく言った。「人の殻を作るのは能力の限界じゃないよ。その先へ行きたいと思う気持ちと、めんどくさいと思ってしまう惰性。その矛盾が殻になるんだ」
俯いた僕の肩を先生が叩いた。
「まずは書くことですね」
その日のゼミはそれで終わった。
梅雨の昼下がりのある日、水色の紫陽花の上を蝸牛が這っていた。
僕は先生の言葉を聞いても、まだ満足に小説を書けていなかった。
僕は大学五回生だったので、あらかた単位は揃っていた。ある日のことだ。理学部の友人に誘われて特別講義を聴講しに行くことになった。とかくよく耳にする相対性理論と量子力学の講義で、広めの講義室がほぼ満員になっていた。
「現代の物理学の課題は、運動する物体が極端に速くて小さい場合に適用できる理論です」
そう言うと講師の先生は眼鏡を中指でクイッと持ち上げた。
「最新の研究では、宇宙が閉じた空間、つまり壁に覆われていると仮定すると矛盾しない理論が存在するということが分かっています。ですが、現実世界の宇宙の果てに壁はありません。今、求められているのは、壁のない世界でも通用する理論です。以上、何か質問はありますか?」
講師は講義室を見渡す。でもポツポツとしか手が上がらなかった。講師は的確に質問に答えていき、あっという間に質問者がいなくなってしまった。まだ講義時間は随分と残っていた。
すると講師はとんでもないことを言い出した。
「じゃあ、時間も余ったことだし、感想だけでも聞いていこうかな?」
きっと講義室の誰もが思ったに違いない。この講師、頭おかしい。誰も感想なんか言いたくないのだ。できたら「面白かった」、「興味深かった」で終わらせたい。講義室の全員が一斉に目を伏せた。
その目伏せレースにもしかしたら僕は敗北したのかも知れない。講師が指名したのは無情なことに僕だった。
「あーっと…」
起立させられた僕は言葉に困った。もともと理学部の生徒でもないのだ。相対性理論や量子力学に対する基礎的な知識もない。
ただ唯一気になっていたのは「宇宙の壁」についてだった。
「すごくセンチメンタルな感想になってしまうんですが…」
「センチメンタル?」
講師は眉根を寄せた。
「はい。センチメンタル」そう相槌を打って僕は続けた。「僕は今、研究室で、領域の形状を変換することで特異点を無限遠点に飛ばして、特異点の影響をほぼゼロにして解析するという研究をしています。宇宙も本来、閉じた空間であるところを自ら特異点を無限遠点に飛ばしているんじゃないかと思いました」
「宇宙が膨張しているのは特異点を遠ざけようとする宇宙自身の意思という意味ですか?」
講師は問いただすかのように指で眼鏡を上げた。
「はい」僕が頷くと、講師は小さく頭を振った。
「この講義を聞きに来ているということは理学部の学生ですか?」
「いえ、工学部です」
「じゃあ、なおさらです。工学とは実学です。ご自身の意見がセンチメンタルだと自覚できているのは結構ですが、工学を専攻するのであれば、そういった感傷的な意見で現実から目を背けてはいけない」
講師の口調は厳しくて真摯だった。
「僕は小説家になりたいんです」
僕の声は反論にしては小さかった。それはただの言い訳に過ぎないと自覚していたからだった。
講師の言葉は冷たかった。
「一作でも書き上げたんですか?」
それは僕の一番の急所だった。たった一言で言葉を失った僕を見て、講師は言った。
「なりたいというだけなら、ただですから」
講義室のそこかしこから失笑が聞こえた。
僕は晒し者だった。ただただ恥ずかしかった。
「私は、世界には科学がどこまで進歩しても絶対に解き明かせない謎があると思っています。その最後の問いに、堪えられるのはおそらく哲学者だろうというのがよくある意見ですが」講師はそこまで言って、一瞬、僕の目を見た。「別に小説家でもいいのかもしれませんね」
それは間違いなく、ただの慰めで、おためごかしで、憐れみでしかなくて。
講義の終わりのチャイムが鳴るのを、僕は立ち尽くしながら聞いていた。何もやってない人間には、本来、何も語れることなどなかったのだ。ただ、面白かった、興味深かったと言っておけばよかったのだ。
「あー、かっこわる!かっこわる!かっこわる!!!!」
僕は大声で喚いた。もう自棄だった。隣を歩いていた友人は笑った。
「お前、小説家になりたかったの?初めて聞いたんだけど?」
「そりゃ、初めて言ったからな!」
「今度、読ませてくれよ」
「まだ一作も書けてねえよ!口だけ番長!だからカッコ悪いんだよ!」
「まあ、いいじゃん。皆に公言したことだし、今日から頑張れよ」
僕は足元の小石を蹴っ飛ばす。
あーダサい!
でもやるしかないのだ!
蹴っ飛ばした小石が空き缶を叩いて甲高い音を鳴らした。
それは僕にお似合いのみっともない努力賞の鐘みたいで、僕はつい笑ってしまった。




