雨の置き場
朝の少し前に目が覚めた。
まだ外は暗く、カーテンの向こうにあるはずの空は、光ることをためらっているようだった。時計を見ると四時十七分。起きるには早く、眠り直すには中途半端な時間だった。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の低い音も、遠くを走る車の気配も、今朝はどこか薄い。世界全体が、ひとつ息を潜めているみたいだった。
その静けさの中で、雨の音だけがしていた。
最初は、外で降っているのだと思った。
窓に耳を向ける。けれど、雨粒がガラスを打つ連続した音ではない。もっと近い。もっと室内に近い場所で、ぽつ、ぽつ、と不規則に落ちている。
私は布団から出た。
裸足で床に降りると、ひやりとした感触が足裏に広がる。冬ではないのに、明け方の床だけはいつも少し冷たい。部屋の中央を横切り、音のする方へ向かう。
台所だった。
シンクの上に吊った白いマグカップの縁から、透明な雫が落ちている。
ぽつ。
ぽつ。
下に置いたステンレスの流し台へ、ひとつずつ音を立てて落ちていく。
私は立ち止まった。
昨日の夜、確かにこのカップは乾いていた。洗って、布巾で拭いて、そのまま吊ったはずだった。水が残る余地なんてないくらい、丁寧に。
それでも雫は落ちていた。
私はカップを手に取る。冷たい。けれど濡れてはいない。中を覗いても、水は溜まっていない。ただ、取っ手の付け根のあたりから、なぜか新しい雫がにじみ出てくる。
ぽつ。
手のひらにひとつ、落ちた。
水というより、何かもっと温度のないものに触れた感じがした。
私はカップをテーブルに置いた。
その瞬間、背後で別の音がした。
ぽつ。
振り向くと、今度は窓際に置いた観葉植物の葉先から、雫が落ちていた。土は乾いている。水やりは一昨日で、今朝こんなふうに滴るはずはない。
ひとつの葉だけではない。
棚の縁、椅子の背、読みかけの文庫本の角、消したはずのスタンドライトの笠。部屋のあちこちから、少しずつ、音がし始める。
まるで、昨夜まで世界のどこかに預けられていた雨が、今になってこの部屋へ返送されてきたみたいだった。
私は息をひそめた。
怖いとは、まだ思わなかった。
その代わり、何かを思い出しかける感覚があった。名前の出てこない曲の冒頭みたいに、記憶の輪郭だけが先に立ち上がる。
雨。
どこかで、私はたしかに何かを置いてきた。
窓の外ではなく、傘の中でもなく、もっと内側のどこかに。
私はテーブルの椅子に座った。部屋の各所から落ちる雫の音が、規則も秩序もないまま、奇妙に静かな合奏を作っている。うるさいわけではない。むしろ、静けさに小さな穴がいくつも開いているような音だった。
その穴のひとつから、声がした気がした。
「返しているだけです」
私は顔を上げた。
誰もいない。
けれど、その言葉はたしかにこの部屋で発音された。耳ではなく、空気の密度が少し変わるようなかたちで。
「何を」
思わずそう尋ねる。
返事はすぐには来なかった。代わりに、マグカップの縁からまた一滴、雫が落ちる。
ぽつ。
「置いていったものを」
私はしばらく黙った。
置いていったもの。
何を、どこに。
考えようとしたけれど、うまくひとつにまとまらなかった。雨の日前後の記憶だけが曖昧に浮かんでは沈む。駅までの道。濡れた信号。コンビニの白い光。誰かと別れた気もするし、誰にも会わなかった気もする。
ただひとつ確かなのは、私は昔から、雨の日にだけ言えなくなることがある、ということだった。
晴れた日なら言えたかもしれない言葉が、雨になると急に重くなる。伝えようとした瞬間、濡れた紙みたいにふやけて、形を失う。私はそれを何度か経験してきた。
謝れなかったこと。 引き止められなかったこと。 本当は寂しかったと、言いそびれたこと。
小さなものばかりだ。
小さいからこそ、置き場がない。
言わなかった言葉は、消えるわけではない。なのに、どこへ片づければいいのか誰も教えてくれない。だから私はたぶん、雨の日のたびにそのへんへ置いてきたのだ。傘の骨の隙間に。駅のホームの白線の脇に。濡れたアスファルトの照り返しの上に。
この部屋は、それを知っているのだろうか。
「どうして、今」
私がそう聞くと、今度は少しだけ間を置いて、声は答えた。
「あなたが、探さなくなったから」
探さなくなった。
その言葉は、静かに痛かった。
たしかに私は、もう長いこと、失ったものを数えないようにしてきた。思い出せない言葉、うまく渡せなかった感情、途中で薄くなった関係。そういうものをひとつひとつ振り返ると、暮らしが進まなくなる気がしていた。
だから諦めたのだと思う。
諦めることで、やっと日常に立てるようになった部分もある。
でも、諦めたことと、なくなったことは、同じではなかったのかもしれない。
雨は、忘却に似ている。
輪郭を曖昧にして、境界を溶かし、遠くのものを遠いまま隠してくれる。優しいとも言えるし、残酷とも言える。
部屋の中の雫はまだ落ちている。
ぽつ。
ぽつ。
私は立ち上がって、ノートを持ってきた。真新しいページを開く。何を書くのかは決めていない。ただ、今この部屋に返されているものを、何も受け取らないまま朝へ渡したくなかった。
少し考えてから、最初の一行を書く。
雨には、持ち帰られるものがある。
書いた瞬間、どこかでひとつ、音が止んだ。
私は続ける。
言えなかったこと。 濡れて重くなって、 その場に置いてきたもの。 それはなくなったのではなく、 いつか別の朝に返されるだけなのかもしれない。
書き終えるたびに、部屋のどこかの雫が止んでいく。
窓際。 本棚。 スタンドライト。 観葉植物。 最後に、テーブルの上のマグカップだけが残った。
私はその前に座る。
取っ手の付け根から生まれる最後の一滴は、なかなか落ちなかった。そこに留まり、小さく震え、まだ形を決めかねているみたいに透明だった。
「これは何」
私が聞くと、声はもう部屋全体からではなく、カップの白い陶器の内側から届いた気がした。
「あなたが、まだなくしたくないものです」
私は目を伏せた。
すぐには分からなかった。
けれど分からないまま、その答えを受け取ることはできた。たぶん、人は全部を理解してから大事にするわけではない。大事だから、あとから少しずつ理解に近づいていくだけなのだ。
私は指先で、その一滴に触れた。
冷たくなかった。
ほとんど温度がなくて、でも消える直前の体温みたいに、ほんの少しだけ皮膚に残った。
次の瞬間、雫は落ちた。
音はしなかった。
部屋の中から、雨が消えていた。
窓の外を見る。東の空がわずかに明るくなり始めている。曇っているのか晴れているのか、まだ判断のつかない色だった。どちらでもよかった。今朝はたぶん、その中間のままで十分だった。
私はノートを閉じる。
テーブルの上のマグカップは、ただの白いカップに戻っていた。何も起きていなかったように静かで、でも二度と昨日までと同じ物ではない気がした。
置いてきたものは、全部取り戻さなくていい。
返ってきたぶんだけ、受け取ればいい。
そう思うと、少しだけ呼吸が楽になった。
朝はまだ来きっていない。けれど、夜はもう終わりかけている。そのあいだにだけ存在する薄い時間の中で、私はしばらく動かずにいた。
雨の置き場は、たぶん外にはない。
失くしたと思っていたものが、静かに戻ってこられる場所として、どこかの部屋が、どこかの朝が、誰にも知られず用意されている。
今朝のこの部屋みたいに。




