三年間空気扱いした夫に離縁を申し出たら、氷の公爵が溶け始めました
「——離縁していただけますか」
私の言葉に、氷の公爵と呼ばれる夫が初めて表情を動かした。
驚き、ではない。まるで、予想外の虫が視界に入ったような——そう、不快感だ。
(あら、やっと人間らしい顔をしましたね。結婚して三年、初めて見ましたよその表情)
「……何を言っている」
低く冷たい声が、春の陽光差し込む執務室に響く。クラウス・フォン・シュヴァルツァー公爵——私の夫であり、この北方領を治める『冬将軍』は、書類から顔を上げることすらしなかった。
いつものこと。
私の存在など、壁の染みほどの価値もないのだから。
「申し上げた通りです。離縁届はすでに用意してございます」
私は完璧な角度でお辞儀をしながら、懐から封筒を取り出した。前世でOLをやっていた頃、何度も見た退職届のように、丁寧に、しかし迷いなく。
(三年間、愛されない妻を演じ続けました。十分でしょう? 過労死からの転生人生、今度こそ自分のために生きさせていただきます)
「理由を聞こう」
ようやく、深青の瞳がこちらを向いた。
美しい人だと思う。漆黒の髪、彫刻のような顔立ち、感情を映さない冷たい眼差し。結婚初夜に『君に愛情を期待するな。これは政略結婚だ』と言い放った、あの夜から何も変わらない。
「理由、ですか」
私は静かに微笑んだ。
「旦那様がシャルロット様を愛していらっしゃるからです。正妻の座をお譲りするのが、妻としての最後の務めかと」
——嘘だ。
あの金髪縦ロールの計算高い男爵令嬢なんて、どうでもいい。夫がどこで何をしようと、もはや興味すらない。
本当の理由は、もっと単純。
(私、この家の帳簿の不正を全部暴いちゃったんですよね。で、その黒幕があなたの側近だって判明しちゃいまして。このままだと『邪魔な妻が消された』エンドまっしぐらなんです)
三年間、誰にも期待されない『お飾りの伯爵令嬢』を演じながら、私は静かに牙を研いでいた。
前世の簿記知識で、この屋敷の会計がおかしいことに気づいたのは一年前。そこから少しずつ調べ上げ——たどり着いた真実は、想像以上に闇が深かった。
横領、贈賄、そして王家への反逆の匂い。
そんなものに巻き込まれるのは、まっぴらごめんだ。
「春になりましたし」
私は窓の外に目をやった。長い冬がようやく終わり、雪解けの季節。
「旅立ちには良い頃合いかと存じます」
沈黙が落ちた。
一秒、二秒、三秒——
「……却下だ」
は?
思わず顔を上げると、夫の表情が変わっていた。
無関心でも、不快でもない。
何か——得体の知れない、暗い炎を宿した眼差し。
「君の離縁は認めない。リーゼロッテ」
初めて、名前を呼ばれた気がした。
「な、なぜ——」
「理由が必要か」
夫が立ち上がる。長身の影が、私に覆いかぶさるように近づいてきた。
逃げようとした足が、止まる。
壁際に追い詰められ、両脇に腕を突かれる。いわゆる壁ドン——いや、今それどころではない。
「君は俺のものだ。それが理由だ」
(……は?)
三年間、空気扱いしておいて、今更何を言っているのだろうこの人は。
「旦那様、意味がわかりかねます。私は貴方様にとって『必要だから置いている』存在ではありませんでしたか?」
自分でも驚くほど、声は平坦だった。
「必要なくなりました。ですから、お暇をいただきたいのです」
「——っ」
夫の瞳が、揺れた。
(あら、また新しい表情。今日は大豊作ですね)
そんな場合ではないのに、前世のOL根性が顔を出す。感情を殺して生きてきた時間が長すぎて、もはや自虐しか出てこない。
「リーゼロッテ」
「はい」
「お前、いつからそんな目をするようになった」
「……何のことでしょう」
「俺を見る目だ。以前は——」
言いかけて、夫は口を閉ざした。
以前は?
何だというのだろう。以前から私は、ずっとこの目で貴方を見ていた。
愛されないと知りながら、それでも——
(いいえ。もう、終わったことです)
「奥方様」
扉の向こうから、聞き慣れた声がした。
「シャルロット・ミルフィーユ様がお見えです。旦那様にお取り次ぎを、と」
絶妙なタイミング。
私は夫の腕をすり抜け、扉に向かった。
「ご案内して。——旦那様、私の件はどうぞご再考ください」
背後で、何かが軋む音がした。
椅子か、机か、それとも——氷の公爵の、何かが砕ける音か。
振り返らなかった。
振り返れば、きっと私は——
◇
「あら、奥方様。相変わらず地味な格好ですこと」
応接室に入るなり、金色の巻き毛が揺れた。
シャルロット・ミルフィーユ。社交界の華と謳われる男爵令嬢にして、夫の『想い人』と噂される女性。
「お褒めいただき光栄です。シャルロット様は本日も眩しいほどお美しくていらっしゃいますわ」
(嫌味を褒め言葉で返すの、三年で上達しすぎましたね私)
「ふふ、当然ですわ。クラウス様にお会いするのですもの」
彼女は優雅に扇子を広げた。
「ところで奥方様、そろそろ身の振り方をお考えになってはいかがかしら?」
「身の振り方、ですか」
「ええ。だって——」
シャルロットは、天使のような笑顔で言い放った。
「愛されない妻ほど、惨めなものはありませんもの」
(それ、今朝夫に離縁を申し出た私に言います?)
笑いをこらえるのに必死だった。
「ご忠告、痛み入りますわ」
「素直でよろしくてよ。——あら、クラウス様」
背後に気配。
振り返ると、夫が立っていた。
その表情は——無、だった。
いつもの、感情を映さない冷たい仮面。
「シャルロット嬢。何の用だ」
「まあ、つれないお言葉。先日の夜会でのお約束を——」
「俺は何も約束していない」
ばっさり。
切り捨てられたシャルロットの顔が、一瞬だけ歪んだ。
(あ、今の見ました? 悪役令嬢の地が出ましたよ)
「そ、そんな。あの時確かに、私の茶会にいらしてくださると——」
「聞いた覚えがない。用がないなら帰れ」
「クラウス様っ」
「——リーゼロッテ」
突然、名前を呼ばれた。
「はい」
「今夜、食事を共にする。断るな」
「……は?」
思わず声が出た。
三年間、一度も食事に誘われたことなどない。むしろ、同じ部屋にいることすら避けられていたはずだ。
「準備しておけ」
それだけ言って、夫は応接室を出て行った。
残されたのは、呆然とする私と——顔を真っ赤にしたシャルロット。
「な、なぜ、あんな地味女が——っ」
知りませんが。
むしろ私が聞きたい。
(ええ……何これ……離縁したいって言ったのに、なんでこうなるの……?)
前世でも現世でも、理不尽な上司に振り回されるのは変わらないらしい。
溜息が出た。
「マルガレーテ」
控えていた侍女頭を呼ぶ。
「シャルロット様をお見送りして。——それと」
「何でございましょう」
「今夜の食事、毒見は念入りにお願い」
「……承知いたしました」
マルガレーテの目に、かすかな笑みが浮かんだ。
ああ、この人は気づいている。
私が『お飾りの妻』でないことに。
「奥方様」
「何?」
「旦那様は——変わられるやもしれませんね」
「……そう思う?」
「ええ。なにせ、失うまで気づかないのが殿方ですから」
意味深な言葉を残して、マルガレーテは去って行った。
窓の外では、雪解けの水が屋根から滴り落ちている。
長い冬が、終わろうとしていた。
(——でも、私はもう。春を待たずに、ここを出るつもりなんですけどね)
懐に忍ばせた離縁届を確認する。
今夜の食事会。
何が目的かは知らないが——きっと、最後のチャンスになるだろう。
氷の公爵に、引導を渡す。
そう決めて、私は静かに目を閉じた。
◇
「——似合わないことをなさるのですね」
食堂に足を踏み入れた瞬間、思わず本音が漏れた。
蝋燭の灯り。
白い薔薇。
二人分のテーブルセッティング。
(いやいやいや、何これ。ロマンチックディナー? 三年間放置した妻に? 正気ですか?)
「座れ」
窓際の椅子を引いて、夫が顎で示す。
無表情。いつも通り。
なのに、なぜだろう。空気がいつもと違う気がした。
「……失礼します」
促されるまま席に着く。向かいに座った夫の深青の瞳が、じっとこちらを見ていた。
「食べろ」
「いただきます」
無言で前菜に手をつける。
コンソメジュレ。サーモンのマリネ。北方領の名産を使った、繊細な一皿。
美味しい。——のだが、味がわからない。
この状況が異常すぎて、脳が処理を拒否している。
「リーゼロッテ」
「はい」
「今朝の話だが」
来た。
「離縁の件ですね」
「ああ。——撤回しろ」
ナイフを置いた。
「理由をお聞かせ願えますか」
「必要ない」
「いいえ、必要です」
声が、少しだけ硬くなった。
「三年間、私は貴方様の期待通りに振る舞ってまいりました。口答えせず、出しゃばらず、空気のように——」
「そうだな」
「ならば、なぜ今更お引き止めになるのです」
沈黙。
蝋燭の炎が、小さく揺れた。
「……お前が、変わったからだ」
「私が?」
「ああ」
夫が、グラスを傾ける。深紅のワインが、唇を濡らした。
「いつからだ。俺を——あんな目で見るようになったのは」
(あんな目、とは?)
「何を仰っているのか、わかりかねます」
「嘘をつくな」
低い声が、空気を震わせた。
「お前は最近、俺を見ていない。いや、見てはいるが——」
言葉を探すように、夫が眉を寄せる。
「——諦めた目をしている」
心臓が、一瞬止まった。
(……気づいて、いたの)
この人は。
無関心だと思っていた。私のことなど、視界にすら入っていないと。
「それの、何がいけないのです」
声が震えないよう、必死で抑えた。
「諦めることの、何が——」
「気に食わない」
ばん、と。
夫の手が、テーブルを叩いた。
グラスが倒れる。赤いワインが、白いクロスに染みを作った。
「っ——」
「勝手に諦めるな。勝手に俺を過去にするな」
氷の公爵の仮面が、崩れていた。
深青の瞳に浮かぶのは——怒り? 焦り? それとも——
「お前は俺のものだ、リーゼロッテ」
「……貴方様は、私を愛してはいないでしょう」
「愛?」
夫が、嗤った。
乾いた、自嘲的な笑み。
「そんなもの、俺は知らない。教えられたことがない」
「では——」
「だが」
遮るように、言葉が重なった。
「お前がいなくなると考えただけで、胸が潰れそうになる」
——え。
「お前が他の男と笑う姿を想像しただけで、そいつを殺したくなる」
何を、言っているの。
「これは何だ。教えてくれ、リーゼロッテ」
夫が立ち上がる。テーブルを回り込み、私の前に跪いた。
——跪いた?
氷の公爵が。冬将軍と呼ばれるこの人が。
「俺は、お前に何を感じている」
見上げてくる瞳が、あまりに必死で。
私は——
(……ずるい)
三年間、待っていた。
この人が振り向いてくれるのを。名前を呼んでくれるのを。隣にいることを許してくれるのを。
諦めると決めたのに。
離れると決めたのに。
「……それを、愛と呼ぶのですよ」
気づけば、口が動いていた。
「旦那様」
「クラウスと呼べ」
「いいえ、呼びません」
震える声で、それでも言い切った。
「私はまだ、貴方様を信じていません」
「……っ」
「言葉だけなら何とでも言えます。三年の無関心を、一晩の甘言で帳消しにはできません」
立ち上がる。
見下ろす形になった夫の顔が、打ちのめされたように歪んでいた。
「ですから——」
懐から、一通の封筒を取り出した。
離縁届、ではない。
「これを、お読みください」
「何だ」
「この三年間、私が調べ上げたものです」
封を切った夫の顔が、みるみる強張っていく。
「これは——」
「公爵家の会計不正の証拠。横領者の名前と、その背後関係。そして——」
一拍、置いた。
「——王家への反逆計画の全容です」
蝋燭の炎が、大きく揺れた。
「私が離縁を申し出た本当の理由。——巻き込まれたくなかったからです」
夫が、書類を見つめている。
その手が、小さく震えていた。
「お前が……これを?」
「はい」
「一人で?」
「はい」
「なぜ——」
「『必要だから置いている』存在にも、置かれた場所で出来ることはありますので」
皮肉を込めて、微笑んだ。
「お飾りの妻を侮られた、貴方様のお仲間の落ち度ですね」
沈黙が、降りた。
長い、長い沈黙の後。
「……俺は」
夫が、顔を上げた。
「俺は、お前を——」
言いかけた言葉は、扉が開く音に遮られた。
「旦那様っ、大変です!」
フリッツ——近衛騎士団の副団長が、血相を変えて飛び込んできた。
「シャルロット・ミルフィーユ嬢が、王宮で奥方様を告発しました! 聖女の座を簒奪しようとした罪だと——」
(……はあ???)
私、聖女になった覚えないんですけど。
というか、この世界に聖女システムあったんですか??
「詳しく話せ」
夫の声が、氷点下まで下がった。
「は、はい。ミルフィーユ嬢の主張によると、奥方様は『偽りの神託』を受けて公爵夫人の座を奪ったと——」
「馬鹿げている。リーゼロッテとの婚姻は政略だ。神託など関係ない」
「ですが、王宮は——」
「行くぞ」
夫が、私の手を取った。
強く、離さないとでも言うように。
「お前の無実は、俺が証明する」
「……旦那様」
「クラウスと呼べと言った」
「まだ呼びませんと言いましたが」
「——っ、この強情者が」
(強情者って、不器用なあなたに言われたくないんですけど)
内心でツッコミながら、私は夫に引かれるまま歩き出した。
春の夜風が、頬を撫でる。
——ああ、面倒なことになった。
前世で過労死した経験から言って、これは残業フラグだ。絶対に。
(聖女騒動に反逆計画に、婚姻問題まで。……定時退社、夢のまた夢ですね)
溜息をつく私の手を、夫は一度も離さなかった。
◇
王宮の大広間は、まるで処刑場のような緊張感に包まれていた。
(いや、処刑場って言い過ぎ。でも実質それですよね、この状況)
正面には玉座。その両脇に居並ぶ貴族たち。そして——私を指差して叫ぶ金髪縦ロール。
「この女こそが偽りの聖女です! 神託を捏造し、公爵夫人の座を奪った大罪人!」
シャルロット・ミルフィーユの声が、広間に響き渡る。
白いドレス。胸元には聖印。両手を祈るように組んで、青い瞳には涙すら浮かべている。
完璧な被害者面。役者としての才能は認めざるを得ない。
「皆様、お聞きください。三年前の神託の儀——本来、聖女として選ばれるはずだったのは私でした」
(へえ、初耳ですね)
「しかしあの女は、卑劣にも神官を買収し、偽の神託を——」
「異議あり」
冷たい声が、シャルロットの言葉を断ち切った。
夫だ。
私の隣に立つクラウス・フォン・シュヴァルツァー公爵は、氷の仮面を完璧に被り直していた。
「シュヴァルツァー公爵、何か?」
玉座の国王が、興味深そうに身を乗り出す。
「そもそもの前提が誤っています、陛下。私とリーゼロッテの婚姻に、聖女の神託など一切関係ありません」
「ほう?」
「これは純粋な政略結婚です。北方領と中央の関係強化のため、私が望んで行った婚姻」
——え。
「望んで」?
(ちょっと待って。私、実家から半ば押し付けられるように嫁いできたんですけど。『望まれた』なんて聞いてないですよ?)
「つまり、聖女云々は全くの事実無根です。ミルフィーユ嬢の主張には、何の根拠もない」
「嘘です!」
シャルロットが叫んだ。
「クラウス様は騙されているのです! あの女の——」
「黙れ」
低く、重い声だった。
広間の温度が、数度下がった気がした。
「俺の妻を『あの女』呼ばわりすることは許さない。もう一度言ってみろ、舌を抜くぞ」
(こわっ)
本気の殺気だった。冬将軍の異名は伊達ではない。
シャルロットの顔が、蒼白になる。
「で、ですが——神託の記録が——」
「神託の記録ですか」
私は静かに一歩前に出た。
「シャルロット様、一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「な、何よ」
「三年前の神託の儀。私は出席しておりません」
「……え?」
「婚姻が決まったのは神託の儀の二ヶ月後です。そして私は儀式の日、熱病で伏せっておりました。証人もおります」
マルガレーテが、私の後ろから一歩進み出た。
「私が看病しておりました。奥方様——当時はまだリーゼロッテ様でしたが——は一週間も寝込まれて」
「そんな……でも、記録には——」
「その記録、見せていただけますか?」
私は手を差し出した。
シャルロットの顔が、引きつる。
「そ、それは——」
「ないのですか?」
「あ、あるわよ! ただ今は——」
「では後日、提出していただきましょう。陛下、よろしいでしょうか」
国王が、愉快そうに頷いた。
「良かろう。ミルフィーユ嬢、三日以内に証拠を提出せよ。——できなければ、誣告罪で裁く」
「そ、そんな——!」
「下がれ」
国王の一言で、シャルロットは引きずられるように退場していった。
私はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
(はあ……疲れた……)
「リーゼロッテ」
夫の声に振り向く。
「よく、やった」
——褒められた。
三年間で初めて。
「……当然のことをしたまでです」
「強情だな」
「お互い様です」
ふ、と。
夫の口元が、かすかに緩んだ。
笑った——のだろうか、今の。
「帰るぞ」
「はい」
差し出された手を、今度は——
少しだけ、自分から取った。
◇
「奥方様、お疲れ様でございました」
馬車の中、フリッツが労いの言葉をかけてくれた。
「いいえ、フリッツ様こそ。急な呼び出しでしたのに、ありがとうございました」
「私は何も。——奥方様が全てお一人で解決されました」
柔らかな笑顔。翠の瞳が、穏やかに細められる。
「以前から存じておりましたが、奥方様は聡明でいらっしゃる。なぜあれほど目立たぬよう振る舞われていたのか——」
「フリッツ」
夫の声が、低く割り込んだ。
「は、はい」
「お前、いつから俺の妻にそんな親しげなんだ」
「……親しげ、と申されましても。私は騎士として、奥方様の護衛を——」
「護衛は俺がする。お前は下がれ」
「旦那様っ」
流石に口を挟んだ。
「フリッツ様は何も悪いことをしていません。私が孤立していた時、唯一『奥方様』と呼んでくださった方です」
「……何だと」
「使用人たちからも無視されていた頃、この方だけが敬意を持って接してくださいました。だから——」
「もういい」
遮るように、夫が言った。
「黙れ。聞きたくない」
(……なんですかその反応)
不機嫌そうに窓の外を睨む横顔。
もしかして——
(嫉妬、してます?)
三年間放置していた妻に、今更?
笑いをこらえるのに必死だった。
「フリッツ様、申し訳ありません。旦那様は少々お疲れのようで」
「い、いえ。私こそ出過ぎた真似を——」
フリッツが慌てて頭を下げる。その横で、夫の眉間の皺が深くなっていく。
(面倒くさい人……でも)
少しだけ——本当に、少しだけ。
嬉しいと、思ってしまった自分がいた。
◇
屋敷に戻ると、マルガレーテが待ち構えていた。
「奥方様、至急ご報告が」
「何かあった?」
「シャルロット・ミルフィーユ嬢の背後関係が判明いたしました。——例の横領事件の黒幕と、繋がっております」
やはり。
「詳しく」
「はい。ミルフィーユ男爵家は二年前から財政難でした。その穴埋めのため、某貴族と手を組み——」
「その某貴族とは」
「……旦那様の叔父君、オスカー・フォン・シュヴァルツァー様です」
空気が、凍った。
夫の顔から、一切の表情が消えていた。
「叔父上が……」
「証拠は揃っております。王家への反逆計画も、全て叔父君が首謀者でした」
沈黙。
長い、重い沈黙の後。
「……そうか」
夫は、それだけ言った。
何の感情も、込めずに。
「リーゼロッテ」
「はい」
「今夜——」
言葉が、途切れた。
「……いや、何でもない。休め」
「旦那様——」
「頼むから、今は。一人にしてくれ」
背を向けて、夫は自室へと消えていった。
その背中が、あまりに小さく見えた。
「奥方様」
「……分かっているわ、マルガレーテ」
私は廊下を見つめたまま、呟いた。
「あの人には、一人になる時間が必要。——でも」
一人でいさせ続けては、いけない。
そう、直感が告げていた。
「……紅茶を用意して。旦那様のお部屋に」
「承知いたしました」
(結局、残業コースですね)
前世の上司は理不尽な要求ばかりだった。
今世の夫は、不器用なだけ。
——どちらがマシかと言われれば。
「……分からないわね」
溜息と共に、私は夫の部屋へと向かった。
◇
扉をノックしても、返事はなかった。
「旦那様、入ります」
宣言して、私は扉を開けた。
部屋は暗かった。蝋燭の一本も灯っていない。窓から差し込む月明かりだけが、室内を淡く照らしている。
夫は——窓際に立っていた。
背を向けたまま、動かない。
「……休めと言ったはずだ」
「紅茶をお持ちしました」
「いらない」
「では、私だけいただきますね」
勝手にソファに座り、カップに手を伸ばす。
湯気が、ゆるりと立ち上った。
「……お前は」
「はい」
「なぜ、まだここにいる」
「さあ。なぜでしょうね」
自分でも分からなかった。
離縁を望んでいたはずなのに。この家を出て、自由になりたかったはずなのに。
「叔父上は」
夫が、ぽつりと言った。
「俺が幼い頃、唯一——」
言葉が、途切れる。
「……唯一、俺を人間として扱ってくれた人だった」
(——ああ)
「母は俺を産んで死んだ。父は俺を『妻を殺した子』として憎んだ。使用人たちは父に倣い、俺を避けた」
淡々と、感情を押し殺した声。
「叔父上だけが、俺に笑いかけてくれた。俺の名を呼んでくれた。俺が——」
「存在していいと、言ってくれた」
私は黙って、聞いていた。
「だから俺は、感情を殺した。愛されないなら、愛さなければいい。傷つかないために、傷つけないために——何も感じないふりをした」
そういうことだったのか。
氷の公爵。冬将軍。感情を見せない冷徹な男。
——その仮面の下には、傷だらけの子供がいた。
「そしてお前が来た」
夫が、振り返った。
月明かりに照らされた深青の瞳が、揺れていた。
「政略結婚の相手。顔も知らない伯爵令嬢。——俺は、またお前を傷つけると思った」
「だから距離を置いた、と?」
「ああ。近づかなければ、傷つけない。期待しなければ、失望させない。——そう思っていた」
「思っていた」
「気づいたら、お前を目で追っていた」
夫が、一歩近づいてきた。
「気づいたら、お前の名を呼びたいと思っていた。気づいたら、お前が笑う相手に——」
「嫉妬、していた?」
「……ああ」
苦しそうに、夫が頷いた。
「フリッツと話すお前を見て、殺意が湧いた。マルガレーテにだけ見せる笑顔が、憎らしかった。——俺は、どうかしている」
「ええ、そうですね」
「……容赦がないな」
「三年間、空気扱いされましたからね。これくらい言わせてください」
夫が、私の前に跪いた。
二度目だ。氷の公爵が、跪くのは。
「リーゼロッテ」
「はい」
「俺は——お前を愛している」
心臓が、大きく跳ねた。
「三年かけて、ようやく気づいた。お前がいなくなると知って、初めて分かった。——俺はお前なしでは、生きていけない」
「……旦那様」
「だから、頼む」
夫が、私の手を取った。
大きな、けれど震える手。
「俺のそばにいてくれ。もう二度と、お前を一人にしない。空気のように扱わない。お前を——」
「愛する、と?」
「ああ。不器用だが、精一杯」
見上げてくる瞳が、あまりに必死で。
私は——
「……信じられると、思いますか」
「思わない。だから、証明する。何年かかっても。お前が俺を信じてくれるまで」
「私が他の人を選んでも?」
「選ばせない。俺以外を見ることを、許さない」
「独占欲が強すぎませんか」
「三年、我慢した。もう限界だ」
ふ、と。
笑いが漏れた。
「……何がおかしい」
「いいえ。ただ——」
私は、夫の頬に手を伸ばした。
冷たい肌。でも、かすかに熱を帯びている。
「ようやく、人間らしくなりましたね。クラウス様」
夫の目が、見開かれた。
「今、なんと——」
「聞こえませんでしたか? もう一度言いましょうか」
「いや、聞こえた。聞こえたが——」
「クラウス様」
名前を呼ぶ。
三年間、一度も呼ばなかった名前を。
「私も——貴方を、完全に諦めてはいませんでした」
「リーゼロッテ——」
「でも、まだ信じてはいません」
夫の顔が、曇る。
「ですから——」
私は、小さく微笑んだ。
「これから、信じさせてください」
沈黙。
そして——
「……ああ」
夫が、私を抱きしめた。
強く、けれど優しく。
「必ず。お前を、後悔させない」
「期待していますよ。——氷の公爵様」
「その呼び方はやめろ」
「嫌です」
「強情だな」
「お互い様です」
窓の外で、夜が明けようとしていた。
長い冬が終わり、春の光が差し込んでくる。
◇
——それから一週間後。
シャルロット・ミルフィーユは誣告罪で裁かれ、社交界から追放された。
オスカー・フォン・シュヴァルツァーは反逆罪で逮捕され、全ての爵位と財産を剥奪された。
公爵家の横領事件は、私が調査した証拠により完全に解決。使用人たちの待遇改善も実現し、屋敷の雰囲気は驚くほど明るくなった。
そして——
「リーゼロッテ」
「はい、クラウス様」
「今日は何をする」
「お仕事です」
「却下だ。俺と茶を飲め」
「お断りします」
「……なぜだ」
「毎日毎日お茶に誘われては、仕事になりません」
「仕事より俺を優先しろ」
「それは無理です」
「リーゼロッテ」
「何ですか」
「愛している」
「……唐突ですね」
「言いたかった。三年分」
(この人、愛情表現が不器用すぎませんか)
溜息をつきながら、私は書類から目を上げた。
執務室の窓から、春の日差しが降り注いでいる。
「……クラウス様」
「何だ」
「一杯だけですよ」
夫の顔が、ぱっと明るくなった。
(子供か)
内心でツッコミを入れながら、私は立ち上がった。
差し出された手を取る。
前世で過労死した私が、異世界で得たもの。
不器用な夫と、ようやく始まった春の日々。
「——リーゼロッテ」
「はい」
「俺のそばにいてくれて、ありがとう」
「……どういたしまして」
素直に言えないのが、私の悪い癖だ。
でも、きっと伝わっている。
この不器用な公爵には。
私もまた——貴方を、愛し始めていることを。
窓の外で、春風が花びらを舞い上げた。
氷の公爵と、お飾りの妻の物語。
これは終わりではなく、始まり。
長い冬を越えて、ようやく訪れた。
——春の、恋の物語である。




