7.アイリーン試される
アイリーンはこれまで皆が苦労させられてきた油汚れをササっと落としてしまったので、まだ仕事が残っているというのにキッチンスタッフ達が「どうしたどうした」と、ぞろぞろと集まってきた。
どうやら汚れを落としただけでなく、アイリーンのそつのない仕事っぷりも見られていたようである。初仕事の掴みは上々、次々とやって来るキッチンスタッフに手を差し出され一通りのあいさつを終えると、コック長のジグが「そろそろ朝飯にするか」と皆に声を掛けた。
キッチンの奥にはスカラリーメイドを含むキッチンスタッフの休憩所があり、一斉にそこで朝食を食べる。朝食はスタンリー一族の為に作られた料理の残りや余った材料で作ったものだ。質素か贅沢か判らない代物だが、残り物で作られたものであっても調理人の作ったものなので、それなりにうまくできていて、見た目も美味しそうだった。
「ああ、飯だ飯だ……」
皆が席に着こうとした時、突然何を思ったのかジグは「おい、新人のお前、そこに卵がある。挨拶代わりに何か作ってみろ」と言いだした。
通常キッチンメイドを差し置いて、スカラリーメイドに調理をさせるなど有り得ないのだが、ジグはこの道四十年のベテランコック。初仕事でも器用にこなし、コテコテの油汚れまで落としてしまうアイリーンに興味を持ったのだろう。
「え?私がお料理をしてもいいんですか?」
突然話を振られたアイリーンだが、瞳を大きく広げ声を弾ませた。
そもそもアイリーンは家事仕事は嫌いではない。むしろ好きな方である。まだ両親が健在で幸せだった頃、母と一緒によく創作料理を作ったものである。母の作る料理は独特で、味付けにしても何処のレストランでも出ないようなものが多かった。
折角なので、母の素敵な料理を知ってもらう意味も込めて、アイリーンは母と一緒に作った料理を再現しようと考えた。
皆喜んでくれるかしら……
彼女は「はい、喜んで」と、元気に返事をすると辺りをキョロキョロ見渡し、昆布と鰹節に目を付けた。
「これを頂いても良いですか?」
ジグにそう聞くと「好きなものを使っていいぞ」との返事。アイリーンは腕まくりをしてから鍋に昆布と水を入れて炊き出しを始めた。
卵で料理をしろと言ったのに一体何をするのだ?とコソコソ呟かれジロジロ見つめられる中、なんと先程一緒に働いたナンシーが傍にやって来た。
「あたしも何か手伝おうか?」
ジグにいじめられでもしているのかと思ったナンシーは、心配になって来てくれたのだ。
仮に変な食べ物出来てしまった時には、一緒に怒られてあげようとでも思ってくれたのだろう。
(二人なら嫌味を言われるのも半分だものね。ナンシーって優しいな)
アイリーンの胸は熱くなり、ホロッと涙が出そうになった。
だが、実際それはナンシーの勘違いで、ジグは多分アイリーンをいじめようとしたわけではなかった。単に、自分の知らぬ方法を知っている彼女なら、何か自分の知らないものを作ってくれるかもしれないという、単なる興味だ。
それであってもアイリーンにはナンシーの気持ちが十分伝わった。こんなに心温まる事は本当に久しぶりである。アイリーンは自分の得意料理の一つをナンシーにも美味しく食べて貰いたいという気持ちで一杯になったのだ。
「有難うございます。じゃあ、その湯が沸くのを見ていてくれますか?沸く直前に中の昆布を取り出して欲しいのです」
「それだけでいいの?」
「ええ、大丈夫です。私の得意料理の一つを披露します。フフフ、楽しみにしてくださいね。良かったら作り方も見ていてください」
アイリーンはナンシーにとびっきりの笑顔で微笑んだ。そしてナンシーの横で鰹節を削り、それが終わるとキッチンの下からざるを取り出した。
「何処に何が有るのかを良く知っているね」
「はい、『メイドの心得』に書いてありましたので」
へえーと感心するナンシーに笑顔を振りまきながら作業を続けた。
(よし、鰹はこれくらいでいいよね)
「そろそろお湯が沸いたでしょうか?」
「うん、丁度沸いたとこで昆布を取り出したよ。このお湯を捨てるのかしら?」
「わあ、ダメダメ、ダメですぅ」
(むしろ大事なのはそちらなんです。捨てられたら元も子もありません。昆布の方は細かく切って佃煮にするとして……と)
アイリーンは鍋掴みを両手に填めて、今にもシンクにお湯を流そうとするナンシーを必死に止めた。
(ふう、危ない危ない)
腕で汗を拭ったアイリーンは鍋にざるを沈め、そこにパラパラッと鰹節を入れた。
「このまま少しだけ時間を置くと、ほんのりと鰹の香りがするんですよ」
少し待った後、手早く鰹節を取り除き、お酒や塩、砂糖に醬油を少しずつ入れて再びそれを火にかけた。
「ナンシーさん、次は少しだけグツグツしたら教えて頂けますか?」
了解、という様にナンシーが敬礼をしてくれたので、彼女は次に器に卵を割り入れスプーンでかき混ぜ始めた。
(母は細い木の棒を二本使ってかき回していたのですが、ここではないので仕方がないですね)
手早く混ぜながら白身の塊が丁度なくなった頃、ナンシーが声を掛けてきた。
「少しグツグツいい出したよ」
「有難うございます。これは出汁と呼んでいます。丁度良いかげんですね。それと、フライパンを温めて頂けますか?」
ナンシーにそうお願いした後、コンロから鍋を下ろし、スプーンで中の汁を味見した。
(うん、上手くできているわ)
それに濡れ手拭いを使い手早く冷やした後、溶き卵の中に少量ずつ流し入れ、よくかき混ぜた。
「ナンシーさん、これをゆっくり焼きますね」
焦げ付かない様に出汁入りの溶き卵を焼きながら、布団をたたむように折りたたんでいくと、綺麗に重ねられた殆ど焦げ目の付いていない卵が焼き上がった。
アイリーンはそれを切り分けて、人数分の小皿に持った後「お待たせいたしました。出来ましたよ、だし巻き卵って呼んで下さい」と言って、ナンシーを含めた八人のキッチンスタッフに配った。
ところが皿を受け取った皆は、一堂に固まった。
見たことも聞いたこともない奇妙な卵料理――美味しいのかどうか、誰もすぐには判断できなかったのだ。
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