6.スタンリー家での初仕事
アイリーンがロッカルマイヤーによってコックを含むキッチンスタッフに紹介されたのは、スタンリー一族が朝食を終えた後だった。よってキッチンルームは後片付けの真っ最中、スタッフたちは出来るだけ早く片づけを終えて朝食を摂りたいわけなので、誰もロッカルマイヤーの話など、殆ど耳を貸さない。
彼女が紹介されても皆「わかったわかった」と適当な返事をするだけだった。
ロッカルマイヤーも一応アイリーンを紹介し終えたので、キッチンルームに彼女を置き去りにしてさっさと去っていった。
スタッフ達は誰一人としてアイリーンに声を掛けようとはせず、忙しなく動き回ってはいる。彼女はそれをほんのひと時眺めていた後、時計に目をやった。
(ちょうど今八時三十分ね、この時間は食器洗いと片付けの時間だったわね。あそこに洗い終えたばかりの食器が積み重なっているわ)
アイリーンは『メイドの心得』に書かれてあったタイムスケジュールをすべて覚えていた。それに事前調査で何処にどの食器が仕舞われているのかもはっきり覚えている。
(今やるべきことは……っと。ここでの初仕事だもの、失敗しない様に気を付けなきゃね)
アイリーンはくっと息を堪え、軽く腕をまくった。
速足で洗い終えたばかりの食器たちの元へ急ぐと、マニュアルに書かれてあった通り傍に吊るしてある手拭いで食器を拭き、手際よく定位置へと仕舞っていった。
皿を洗っていたナンシーというオレンジベージュの髪をした十五歳くらいのスカラリーメイドは、チラリと彼女の様子を横目に(誰?この娘)と怪訝な表情を浮かべたが、まるで何年もこの仕事をやって来た者のようにテキパキと確実に仕事をこなす姿を見て、無意識に笑みを浮かべて再び皿洗いをはじめた。
洗う食器も少なくなるとシンクにスペースが出来た。アイリーンは次にまだ洗われていないフライパンや鍋をシンクに持ち込み、本に書いてあった通りにゴシゴシ擦りだした。
(これは今回付いた焦げだけど、こっちの方は古い焦げよね。このまま擦っていても落ちないわね)
思い立ってコンロのある場所へと向かうと、丁度そこでは調理助手のロンバートが五徳をゴシゴシ擦っていた。
(ふふふ、私ちゃんと炭酸石のある場所を知っているんだからね)
アイリーンは最高の笑みを浮かべ、ロンバートに声を掛けた。
「すみません。少し炭酸石をお借りして宜しいですか?」
突然声をかけられたロンバートはあまり意味も解らずに「え?え?ああ、ど、どうぞ……」と弾みで答えた。
この街の外れの高原には天然の炭酸鉱石が多く産出される場所がある為、それから作られる炭酸石は灰汁取りやふくらし粉として手軽に使用されていた。
勝手知ったる我が家の様にアイリーンはコンロの下にある開きから炭酸石を取り出し「有難うございま~す」と言いながらそれを持って行った。
「おや?あんな娘いたっけな?」ロンバートはアイリーンを二度見して首を斜めに傾げた。
再びシンクに戻ったアイリーンは炭酸石を削り粉にしたものをペースト状にして、それをたわしに刷り込み汚れの酷い部分をごしごしと擦り出した。コテコテになっていた油の汚れがみるみる綺麗になっていく。
(この娘一体なにをしているんだろう?)とそれとなく様子を伺っていたナンシーは「ええ!」と驚いて大きな声を上げた。
「凄くきれいになっているじゃないの。一体どうすればこんなに綺麗になるのよ」
突然声を掛けられたので一旦手を止め、ナンシーに向かってぺこりと頭を下げた。
「お初にお目にかかります。アイリーン・オブライエンと言います。今日からスカラリーメイドとして働くことになりました。よろしくお願いいたします」
アイリーンの丁寧なお辞儀にナンシーは目を丸くして戸惑いを見せる。それはとてもスカラリーメイドクラスが行える礼儀作法ではない。
何も言わず立ち竦むナンシーを見て、アイリーンの額からひとすじの汗が垂れ落ちる。
(やっちゃったかしら、でも礼儀作法は大事よね)
「あ、ああ……私はナンシーって言うんだ。ひと月前からここで働いているんだけど、あんたはお休みをしていた人なのかい?」
手際の良さや、配置、段取りの把握を考えると自身よりもずっとベテランに思える。きっと自分が来る前から働いていた人に違いないと、ナンシーは思ったのだ。
「いいえ、昨日ここに来たばかりの新人メイドです。ナンシーさんは私の先輩ですね、宜しくお願いします」
二人が挨拶を交わしていると、概ね片付けの終えた他のキッチンスタッフも集まってきた。
「おお、凄いな。そのフライパンまるで新品の様じゃないか。一体どうすればそんなに綺麗になるんだい?」
「実家に居る時母に教わりました」
アイリーンの知っている知識は実家に居た頃、聡明な母に教えて貰ったものだ。父もまた彼の代だけでオブライエン家を大商会にした英明な人物で、道具や物の開発だけでなく、既存の物を応用して優れた使用方法を導き出すのに長けていた。
料理補助として使用する炭酸石を汚れ落としに使うというのも、二人が始めたものだった。
(女性は慎ましくあるべきと育てられましたのでね、知っている知識は出し惜しみをするつもりはありませんよ)
勿体ぶらずにそのやり方を皆に丁寧に教える、それがアイリーンの方針だ。
「こりゃあすげえ、そんなに落ちるもんかね。後片付けが楽になるな。所で嬢ちゃん、あんた一体誰だね?」
そう聞いてきたのは先程炭酸石を貸してくれた調理助手のロンバートだった。
彼は見知らぬスカラリーメイドが炭酸石を持って行ったのが気になり、汚れた五徳を手に持ったまま彼女の様子を見に来たのだった。
「あ、先程は有難うございました。お陰で調理器具を綺麗にすることが出来ました。挨拶が遅れまして申し訳ございません、アイリーン・オブライエンと言います。今日からスカラリーメイドとして働くことになりました。よろしくお願いいたします」
ナンシーにした時と同じようにアイリーンは美しいカーテシーをロンバートだけでなく、周りに居るキッチンスタッフにも見える様に行った。
(これから毎日一緒に働く人たちなのですもの、きちっとしなきゃあね)
早すぎず、時間をかけすぎずが自慢のカーテシーを終えた時、ロンバートさんの持っている五徳に気付いた。
「あら、それも随分油汚れが酷いですね。まだ炭酸石ペーストが残っていますので、一緒に洗いますね」
躊躇するロンバートから「遠慮せずに」と五徳を受け取ったアイリーンは、それをあっという間に新品同様に磨き上げた。
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