5.売られた娘
アイリーンがその話を聞かされた翌日、早速スタンリー家の執事がやって来た。
ハグラーがへこへこ頭を下げながらその執事を応接室に案内する。
ハグラーがアイリーンをその執事に紹介すると、執事はアイリーンをジロジロと見た後「あと二、三年ってとこでしょうかね、まあ、いいでしょう」とカバンから小切手を取り出し、サラサラと百万ピネルと書き込んでハグラーに手渡した。
ハグラーは小切手の額面を見ていやらしい笑みを浮かべた。
(やられた……)
建前はメイドの丁稚奉公のはずだったが、アイリーンは直ぐに自分が売られたという事を理解した。
他の使用人がアイリーンの奉公について薄ら笑いを浮かべながら囁いた。
──大旦那であるスタンリーは金に汚く好色だとか。へへっ頑張れよな。
完全に丁稚奉公と言う名の人身売買なので、自身の身の安全は全く保障できない。あと二、三年というのはきっとアイリーンがスタンリーの妾になる迄の期間を意味するものだ。
(やはり約束などいい加減なものだ。叔父さんは私をこの家から追い出すつもりだ)
崖から突き落とされた気分だった。呼吸する事さえ辛くなるが、彼女には契約を破棄することも出来ず、違約金を出せるお金も持っていない。
アイリーンは現状を受け入れるしかなかった。
長年住み慣れた家を出る日、リノは朝早くからアイリーンの為にサンドイッチを作ってくれていた。
「大丈夫、きっと何とかなる。また私とも会えるから」
何の根拠もないが妙に説得力のあるそのセリフ。リノが言ってくれたからそう思えるものだ。アイリーンはリノに抱きついた後、黙って頷いた。リノの瞳は彼女に僅かな勇気を与えた。
(うん。なんとかなる……)
◇ ◇ ◇
スタンリー家に着くと背の曲がった初老のロムとかいう人に、汚い屋根裏のような部屋に案内されて一夜を明かす。机とベッドと衣装ケース以外には何もない部屋だったが、ラッキーな事にひとり部屋。
一人だと誰にも迷惑を掛けずに勉強ができるわ……とアイリーンは少しだけ嬉しくなった。ふと机に目をやると、そこには『メイドの心得』とかいう題名の分厚い書物が置いてある。
(なんだろうこれ……)
何気なくそれを手に取りパラパラとその項を捲っていると、扉にノック音が鳴った。
「はーい」と返事をすると、扉の向こうに尖った眼鏡をかけた背の高い痩背気味の中年婦人が立っていた。
婦人はアイリーンを斜め目で見ると、手拭いで自身の口を防いだ。
汚物を見る様な目つきで「あなたが今日来た新しいメイド見習いのアイリーン・オブライエンですね」と吐き捨てる様に話した。
「私はでメイドの教育係のロッカルマイヤーです。いま、あなたが手に持っているそれ、それを今日中にそれを全部読んでおきなさい。そして、朝八時に私の元へ来るように」
アイリーンが「はい」と頷くと、ロッカルマイヤーは一瞬薄ら笑いを浮かべて「さっさとその汚い服を脱いで衣装ケースの中に入っている服に着替えなさい」と冷たく言い残して去っていった。
彼女の態度から、ここでの新人のメイドの立場は相当低いことが伺えた。やれやれとアイリーンの口から大きなため息が漏れる。
(これは言われた事をちゃんとやらないと大変な事になりそうね)
アイリーンが手に持つそれは、読むと四、五時間はかかりそうな分厚さだ。
「メイドになる様な十歳代の少女が読めるもんじゃないわ、完全に嫌がらせね」
そもそもメイドになる女性の多くは家が貧しい為、口減らしの為に働きに出ているわけで、アイリーンくらいの年のメイドがまともに教育を受けているなんてのはレアケースである。
勿論、彼女が読み書きが出来る事をロッカルマイヤーは知らない。
読めないと踏んでいるからこそ、それをネタに翌日からビシバシ厳しく指導しようと考えていたのだろう。
だが、入試難易度の高いランバーグ専門学校に余裕で合格できるほどの学力を身に着けているアイリーンにとって、それはまるで絵本レベル。
それに彼女の記憶力は自身が覚えようと思った事に関しては、一度でも読んだり聞いたりすれば、自画自賛する程ほぼ完ぺきに頭に刻み込まれる。
加えて読書好きの彼女は、何の苦痛もなくいつまでも読み続けることが出来てしまうのだ。それが例えマニュアルだとしてもである。
「久しぶりに本を読めて嬉しい」
案の定、ほんの一時間ほどでそれを嬉しそうに読破をしてしまった。
翌朝アイリーンは『メイドの心得』に書いてあった通り、衣装ケースの中に入っていたメイド服に着替え、言われた通り朝八時にロッカルマイヤーの元へ向かった。
既に扉は開かれており、奥に大きな机、そのもう一つ奥にある立派な椅子に腰を掛けたロッカルマイヤーがアイリーンをじっと睨みつけた。
(広い部屋……流石、えらい人は違うわね)
感心して立ち止まっているアイリーンにロッカルマイヤーはかんしゃくを起こしたのか「何をしているの早く入りなさい」と言って手に持つ指示棒をパシッと机に打ちつけた。
(な、何なのこの人?できなければ体罰を与えるつもり?)
あんなので叩かれたらたまらない。
アイリーンが速足でロッカルマイヤーの元へ向かうと、彼女は意地わるそうに笑みを浮かべながらメイドの中でも階級の最底辺、スカラリーメイドとしての役割を与えた。
まあ、来たばかりだしね。仕方ないよね、実は基礎から教えようと思ってくれている優しい気持ちかも知れないし……とアイリーンは自身を納得させた。
だが、やはりそれは気のせい。すかさずロッカルマイヤーの攻撃がやって来た。
「それとあなた、昨日言いつけた通り、ちゃんと心得は読んで覚えてきたのでしょうね?」
(あ、これ意地悪なやつだ。やっぱりないね、優しい気持ち。でもちゃんと読んでおいたし大丈夫)
アイリーンは元気よく「はいっ!」と返事をした。そして与えられたスカラリーメイドの役割について覚えた事を全て話すことにした。
「スカラリーメイドの役割についてですね。『メイドの心得』によりますとですね、スカラリーメイドの仕事については第三章二十八頁の五行目から書かれてありまして、朝四時に一階にあるキッチンに向かい、清掃から始めます。食器類を仕舞っている棚には……」
ロッカルマイヤーの顔がみるみるうちに青ざめていく。
アイリーンは延々と十分ほど一通りスカラリーメイドの章の部分を一語一句間違えず暗唱した後、今度はこちらからとばかりにロッカルマイヤーに話を振った。
「三十二項の八行目にオリーブオイルの予備が右から三つ目の引き出しに入っていると書いてあったのですが、実際は右から四つ目に入ってありました。勝手に移動させるのも拙いかと思いそのままにしておいたのですが、よろしかったでしょうか?」
アイリーンは一歩前に進み、両手をトンと机の上に置きロッカルマイヤーを出来るだけ大きな眼を開き凝視した。ロッカルマイヤーの目にアイリーンの黒い瞳が食い込みそうになり、手に持つ指示棒をポトリと落とした。
瞬く間にロッカルマイヤーの眉間に皺が寄り、蟀谷から冷や汗が溢れ出す。
「な、な、なんであなたはそんな事を知っているのよ……」
「はい。『メイドの心得』を読み終えた後、本日は初日なので直ぐに仕事ができる様に、朝三時にキッチンの下見をさせて頂きました」
目の前に居る中年婦人は驚きのあまり目を見開いたまま、口をアワアワさせていた。
読んで頂きありがとうございます。
アイリーンの戦いはまだまだ続きます。




