2.変わっていく環境
アイリーンに対しての嫌がらせの始まりは部屋を取り上げられた事だ。
ハグラーの妻バーバラはアイリーンの父リチャードの義理の妹であり、叔父、叔母と言えど、ハグラーもバーバラもアイリーンとは全く血がつながっていない。
血のつながりのない子よりも自分の子が大切なのはよくある話。
ある日、ハグラーとバーバラはひとり息子である十歳のギャヴィンに、アイリーンの部屋を譲る様に申し出てきた。
一人娘として大切に育てられていた彼女は、日当たりも良く広い部屋を与えられていたのだが、バーバラは「ギャヴィンはまだ幼くてこれから成長期だし、お姉ちゃんなのだから譲ってあげて」と言ってきたのだ。
勿論アイリーンは多少は不服に思ったわけだが、突然、両親を亡くした彼女を助けてくれた恩もあるので断る訳にもいかず、狭い角部屋へ移動することになった。衣類以外は部屋の家具なども一切移動させずに……
その頃からか、ハグラー達が身に着ける衣装や装飾品が高価なものに変わった。とりわけ、最初は質素だったバーバラの身体は高価なジュエリーに包まれていった。
暫くたつとハグラーは、花嫁修業、兼、事業のオーナーになる為の修行と称して屋敷の下働きを命じてきた。
「いずれアイリーンが事業を引っ張るのだから色々経験をしておく必要があるのだよ」
そう言ってハグラーがアイリーンを諭そうとすると、その横でバーバラも相槌を打つ。
「そうそう、使用人の気持ちを知っておくのは大きな経験になるからね」
その言葉にアイリーンは「え?」と疑問を抱いたが、そもそも労働は嫌いではない。
とりわけ労働に対して負の感所を持たない彼女は「確かにそれは良い経験になりそうだわ」とすんなり受け入れてしまった。
だが、この日を境にアイリーンは部屋も別棟に移され、他の使用人たちと一緒の扱いになったのだ。
アイリーンが使用人扱いをされるようになると同時に、これまで長年家を守ってくれていた使用人たちは、一斉に解雇された。
ハグラーの目を盗みながら、こっそりアイリーンの世話をしていたメイドのエミリーも例外ではなかった。
──仲の良かった使用人たちがこの家からいなくなる……
アイリーンがその事を知ったのは、既に使用人たちがこの屋敷を去った後だった。アイリーンの部屋の前にはエミリーからの置手紙があった。
『お嬢様の成長を見守れない事が悲しく思います。お身体をお大事になさってください』
アイリーンは手紙を握りしめ泣き崩れた。
◇ ◇ ◇
翌日より屋敷はアイリーンの知らない使用人ばかりで固まった。そもそもの解雇理由は人件費の削減。ハグラーは長期雇用の人間を解雇し、新たな低賃金の人を雇用する事で人件費を削減させたのだった。
だが、そんな事はアイリーンの知り得ない事。
ハグラーはアイリーンがこの商会の正式な相続人であることを、雇用人たちに知らせたりはしなかったし、修行だからと言って彼女自身にもその事を口外しない様に言い聞かせた。
よって新しい使用人たちは、アイリーンを出所の分からない単なる小娘としか見ていなかった。
「こんな安月給でまともに働けって言うの?」
「しかたねえ、気楽にやろうぜこんな所」
特別会話も無く、フォローも無く、使用人たちの愚痴だけが耳に入って来る。
モチベーションの低い雇用人たちは、多くの面倒な仕事を文句の言わないアイリーンに押し付けた。
そんな毎日だったので、悲しいことに髪の手入れも出来す、サラサラだった黒髪はパサパサに、桃のようだった手は乾燥した餅の様にカサカサになった。
それでもアイリーンは家の為、経験の為と嫌がらずに頑張ったのだ。
「辛くても私には夢がある」
彼女の原動力はもっと先にある未来の自分、ランバーグ専門学校に入学する事。
そんな中、唯一リノと言う女性の使用人だけは気さくに私と接触してくれたのだ。真っ黒な髪に真っ黒な瞳を持つ目鼻立ちの整った、スラッとした体形の彼女。歳はアイリーンよりも三歳くらい年上だろうか。
特に多くの言葉を交わすことは無かったが、さりげなく手を貸してくれたり、新しい事に関しては黙って手本となってくれたりと地味にフォローをしてくれるのだ。
そんな彼女との関係が深まったのはある事件が発端だった。
……
若い男の使用人であるボブがアイリーンに目を付けた。
若いと言っても三十歳前の独身男性。アイリーンの事を後ろ盾も何もない単なる使用人だと思ったのだろう。そんな相手なら力ずくでモノにしようとして失敗してもきっと自分にお咎めなんてある訳ないと根拠もなく信じている。
「ちょっと話したいことがあるのだが……」
いつもの様に倉庫の中の用具を一人で整頓している時、彼はいきなりそこに入ってきてガチャリと扉の鍵をかけた。今まで一人でこの倉庫の整頓をしていても誰一人手伝いに来てくれたものは居ない。
(か、鍵をかけた……この人普通じゃない。早くここから出ないと私の身が危険だ)
アイリーンの背筋に冷たいものが走り、鼓動が早くなる。
ボブはアイリーンをギラギラとした舐めまわすような視線と、何処に居ても聞こえてくるくらい鼻息を彼女に浴びせかける。そして獲物を見つけた獣のようにジワリとアイリーンに迫りくる。
「……もうここの掃除は終わりました。次の業務に向かわなきゃ……」
アイリーンは何も聞こえなかったように口ずさみ、手に持っていた箒を道具入れに仕舞った。速足で扉へ向かおうとするとボブは待っていたとばかりにアイリーンの前に立ちはだかった。
「おい、何処に行くつもりだ」
ボブは汗でぎらつく腕をアイリーンに向けて伸ばしてきた。
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