20.去りし後
第一章完結
「半時じゃ出来る事は限られている。それでもやらなくちゃ」
アイリーンは腕まくりをして、大急ぎで使い慣れた作業場に向かった。
「さあ、やるよ」
手早く作った簡易コンロに鍋をかけ、火を点けた。
◇ ◇ ◇
夕食前のキッチンでナンシーはキョロキョロと辺りを見渡していた。朝一緒に仕事をしていたはずのアイリーンが来ないのだ。
いつもアイリーンは誰よりも早くここに来ていたのに、彼女が来ないのはおかしい。なんだか嫌な予感がする。
居ても立っても居られないナンシーは、傍に居た調理助手のロンバートを捕まえた。
「ねえ、アイリーンが来ないんだけど、何かあったか知っている?」
「なんだか執事に呼ばれていたみたいだが」
ロンバートは執事について歩くアイリーンを見たというが、それ以上の事は何も知らないと。
ナンシーに嫌な予感が走る。ただ、この忙しい最中にこれ以上その事に気を取られている場合ではないのも事実。「早く来てよアイリーン」と祈りながら作業を進めた。
夕飯の片づけを終える時間になってもアイリーンはキッチンには来なかった。
──もしかしたらアイリーンは病気で寝ているかもしれない。
あってはならない事だが、むしろナンシーはそちらの方を望んだ。
──部屋で寝ています様に……
夕飯もそこそこに急いでアイリーンの部屋へ向かう途中、メイド長のロッカルマイヤーに出会った。
彼女なら何か知っているかもしれない。胸騒ぎが抑えきれず、ナンシーはロッカルマイヤーに声を掛けた。
「メイド長、失礼いたします。アイリーンが何処に行ったのかお知りになりませんか?」
息を切らしながら、不安気にロッカルマイヤーを見つめるナンシーに、彼女は自身の眼鏡をクイっと持ち上げた後、吐き捨てるように言った。
「なんです騒々しい、ああ、あのアイリーンと言う子ね。あの子は他所に売られましたよ。なんだか知りませんけどスミスって人の所へね」
「な、何故ですか?こんなに突然」
ナンシーの顔が真っ青になり、手足が震え出す。だが、ロッカルマイヤーはそんな事はお構いなしにナンシーを見下ろしながら鼻で笑った。
「知りませんよ。でもね、あの娘も屋敷に花を飾れるくらいの器量があれば、売られなかったかもしれませんけどね」
その言葉を聞いたナンシーの顔がみるみる紅潮し、握られた拳が震え出す。
「な、何を言っているんですか。花を飾ったのはアイリーンなんですよ!」
ロッカルマイヤーはギョッと目を剥く。
「え?あ、あれはジミーが飾ったのではないの?」
目を泳がせ、唇を震わせたロッカルマイヤーがナンシーに恐る恐る尋ねる。
「も、もしかして、トイレがきれいなのも、良い香りも?」
「そうだよ、トイレをお花畑にしたのも、便壺をきれいにしたのも全部彼女なのよ!」
「そんな、そんなまさか……」
ナンシーの眉間が寄り、鋭くなった瞳から涙が零れ落ちる。
「なんでわからないの!全部アイリーンが来てからの事じゃない。あんなにお屋敷の事を考えて頑張ってくれたアイリーンを……」
ナンシーは唇を結ぶと、袖口で涙を拭うとそのまま走って行った。
「そ、そんな……あの香りもあの娘がやっただなんて……」
呆然とするロッカルマイヤー。スタンリーはフレグランスを誰が置いたのかを気にしていた。自身の管理するメイドだったとは……それを知っていれば彼女は売られずに済んだかもしれない。これは自分の失態だ。
──お願い、夢であって、夢で……私はあの娘の素晴らしさを分かってやれなかった。
ロッカルマイヤーはその場で膝から崩れ落ちた。
◇ ◇ ◇
もしかしたらまだ居るかもしれない。ナンシーは大急ぎでアイリーンの部屋へ向かった。
部屋の前についたナンシーはゴクリと唾を飲み込む。部屋の小窓からは灯りが点いている様子も、人の気配も全く感じない。
「あ、アイリーン居るんでしょ?は、入るわよ……」
ナンシーはゆっくり扉を開ける、彼女の荷物はなく、静まり返った部屋の窓だけがガタガタと揺れていた。
ナンシーは何もせずに暫くそのまま佇んでいた。
街の鐘が九時を打ったとき「アイリーンはもう行ってしまったんだ」とひとり呟いた。
向けていた目を窓から離すと、床に袋が置いてあることにナンシーは気付いた。
「これは何?忘れ物かしら」
ナンシーはそれを手に取ると、袋に手紙が挟まっていた。
『ナンシーへ……突然のお別れになったけど、今までありがとう。これから寒くなるのできっとみんなの手荒れも酷くなる。これをみんなに配ってあげてね。またどこかで会えるわ アイリーン』
ナンシーの目に再び涙が溢れ出す。
ナンシーが袋を開けると中にはアロエのハンドクリーム十個と、塗装剤やフレグランスなどの作り方のメモ、十品程の醤油料理のレシピが入っていた。
「こんな時までみんなの心配をして……馬鹿ね、あんたは自分の事を考えなさいよ」
ナンシーはその場で泣き崩れた。
──翌朝にはアイリーンの所業が屋敷全体に広まっていた。勿論、彼女が去った事も。
「なんだって、折角醤油が出来たというのに、あの娘に食べて貰えぬままになったって事か」
ジグとニック、それにロンバートも出来たばかりの醤油を手に持ち項垂れた。
アイリーンが来てからは毎日がお祭りの様に賑やかだったキッチンも、会話一つも出ない空間に切り替わった。
執事のフランクはトイレでアイリーンの『この棒を差し込んで蓋をしてください』と書かれたメモとラタネンの木の棒を握りしめていた。
フランクが目の前にある鏡を見ると、彼女をモノの様に扱っていた醜い自分が目に映り、良心の呵責が頭の中を占めていた。
「あの娘が……私は知らず知らずのうちに助けられていたのか……」
いつも読んで下さりありがとうございます。
この話でこの章は完結です。次章は1、2週間後から開始します。
引き続きよろしくお願いいたします。




