1.試練の幕開け
本日後三話投稿します
「お、お嬢様、アイリーンお嬢様大変です。旦那様と奥様の馬車が……」
二年前のある夜中、オブライエン家の執事であるコールマンが血相をかえてアイリーンの部屋の扉を開けた。
静まり返った部屋に扉が激しく壁にぶつかる音が響き渡る。
通常夜中に使用人が断りもなく部屋を開けたりすることは無い。余程の異常事態だ。
既に布団に入っていたアイリーンはコールマンのただならぬ様子にベッドから飛び起きて、彼に駆け寄った。
コールマンの額には冷や汗が滲み、唇と手足をわなわなと震わせていた。
「落ち着いて、お父様とお母様が一体どうしたの?」
「ラ、ランドバーク峠で賊に襲われたとの事です」
両親が商談の為に隣町に出かけた事は知っていたが、アイリーンは即座に現状を理解できず、頭の中が真っ白になった。
コールマンがしきりに何かを言っているが、彼女の耳に入って来るものは言葉ではなく、意味のない音。
(何を言っているの……)
呆然とするアイリーンの肩をコールマンが揺らすが、彼女の顔が真っ青になり、魂が抜けた様にその場に膝から崩れ落ちた。
アイリーンの耳には、激しく窓を叩きつける風の音だけが鳴り続けた。
どれくらい眠っていたのかは分からないが、アイリーンが目を覚ました時には窓から鈍い明かりが漏れていた。
「お嬢様、お目覚めになりましたか」
アイリーン付きであるメイドのエミリーが心配そうに彼女を見つめた。
「ごめんなさい、私……昨夜の事をあまり覚えていなくて」
目の下に隈を作っているアイリーンを見つめながら、エミリーは震える声を抑え彼女に語り掛けた。
「お嬢様は、まる二日眠っておられました」
まる二日も……アイリーンの胸の奥で起こっている嵐のようなざわつきが収まらない。そして徐々に最も嘘であって欲しい記憶も蘇えり、誰かに心臓を握りつぶされているような感覚に襲われた。
アイリーンが自身の胸を抑えながら顔を顰め項垂れると、エミリーは急いで彼女に駆け寄った。
「お、お嬢様大丈夫ですか!」
「だ、大丈夫よ」
アイリーンはエミリーを制止した後、最も出したくなかった言葉を喉の奥から絞り出した。
「ほ、本当の話なのね……」
ゆっくりと顔を上げ、涙に濡れた唇がかすかに震えながら彼女は言葉を紡いだ。
具体的な内容は全く口にしなかったが、その表情からエミリーはアイリーンが全てを理解している事を悟り、黙って頷いた。
呆然と宙を見つめていたアイリーンの瞳から涙が溢れ出し、そのまま彼女は泣き崩れた。
◇ ◇ ◇
オブライエン家はこの街ウエストジーニアスで商いを行っていた。それなりに大きな事業『ライアン商事』の創業者の長女、それがアイリーン。
少し堀の深い目と少しだけ高い鼻は父リチャードに似、真っすぐで線が細くて美しい黒髪は母アヤコ似だ。
幼少な頃から両親は、全てにおいて常に笑顔を絶やさず、精一杯の愛情を彼女に注いでいた。
幸せだった生活、父は忙しい中でも、寝る前にはいつもアイリーンの元を訪れ、仕事で聞いてきた世界のいろいろな不思議な話を面白く聞かせた。母は父が日中不在でも寂しくない様に沢山の本を読んで聞かせた。
物覚えの良かったアイリーンは両親の話を一語一句間違えず暗唱し、彼女たちを大いに喜ばせた。
裕福な商家には通常、メイドやコックも揃っているもので、当然、オブライエン家も同じであった。
それでもアイリーンは料理もお裁縫もしっかりと教育され、持ち前の記憶力の良さと器用さで十歳の頃には一通りの家事を何でもこなせる様になっていた。
とりわけハーブに興味を持ち、母と共にあらゆるハーブを庭園で育てた。様々な効果のあるハーブティとその香りを楽しみ、オブライエン家の中では『香りの博士』とまで呼ばれるようになっていた。
長女と言ったが、兄弟は居ない。両親は作りたくなかったわけでなく、彼女以外には子供が出来なかった。
家にいる使用人たちは母アヤコの教育方針により特別扱いをしない様に指導されていた。時には厳しく時には優しく、彼女を妹や娘の様に接していたので、一通りの上下関係や礼儀も学ぶことが出来ていた。
そんな彼女は特に寂しも感じず幸せな毎日を過ごしていたのだった。
突然襲った不幸はアイリーンが十三歳の時だった。生死はまだ確認されてはいないが、彼女の両親は帰らぬ人となったのだ。そんな時、毎日泣き崩れるアイリーンに手を差し伸べたのが父の義弟のハグラー・オブライエンであった。
ハグラーは、自分の事業をストップさせてまで当時の執事だったコールマンと共にオブライエン家の事業をフォローに入った。
突然オーナーを失くし、信用を落としそうになったオブライエン家の事業も彼のお陰で何とか持ち直したころ、突然一家を引き連れて私の家へ引っ越してきたのだ。
「そろそろ私も家族と一緒に暮らしたいのだよ」
そう言ったハグラーに負い目を感じているアイリーンは、首を縦に振るしかなかった。
空き部屋も沢山あった為、アイリーンは深く物事を考えていなかったのも事実だが、この事がきっかけに彼女の試練が始まる事となった。
越してきたばかりの時には、ハグラーたちはアイリーンをまるで自身の子供であるかのように可愛がった。
「叔父さんと叔母さんが来てくれて本当に良かった」
アイリーンが笑みを浮かべるたびに、二人は裏で薄ら笑いを浮かべていたのだった。来るべき時に備えて……
ある日アイリーンはハグラーから「子供のアイリーンが経営者では顧客から舐められるから、経営権を私に預けないか」と持ち掛けられた。
経営権を預ける事への戸惑いはあったが、両親の様に彼女に接してくれるハグラーの事をアイリーンは真っすぐに信じた
「はい。ハグラー叔父さん宜しくお願いします」
「ああ、私に任せておけば大丈夫だ。アイリーンが成人した時にはもっと立派な会社になっているはずだ。君はその会社の社長になるのだからね」
これで経営の事も問題ないと思ったのもつかの間、アイリーンは彼の裏の顔を見抜けなかった。
ハグラーは社長に就任すると、今まで優しかったことが夢であったかのように手のひらを変えた。アイリーンに対して冷たく当たるようになったのだ、それに彼の家族も同様で、もはや親族と呼べる関係ではなくなっていた。
ハグラーの口癖は「次期社長になるのだから我慢しなさい」だ。
(それを出せばなんでも許されると思っているのね)
失敗だった。これも腹黒い人間との接触経験が少ないが故の出来事。十三歳のアイリーンには仕方のない事であり、仮にその事が予測できていたとしても、当時の彼女にとっては他に選択肢も無かったのだ。
衝撃的だったことはアイリーンの味方となり、ハグラーに意見をしてくれていた支配人のコールマンまで解雇されてしまった。
代わりには目つきの悪い胡散臭そうなおっさんが新しい支配人としてにらみを利かせるようになった。
その支配人は使用人たちを物の様に扱い、家の中に不安が広がっていった。
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