嫌な声
「ニルヴァーナ・キャステン公爵令嬢」
記憶というのは嫌なもので、すっかり忘れていたはずなのに切っ掛けがあれば一気に甦り緊張が走る。
「……ふぅ……な……なんでしょうか?」
震える手を握りしめながら、深呼吸をして振り返る。
案の定というか、私を呼び止めたのは過去に私の話に一切耳を傾けず多数の意見を鵜呑みにして私を断罪した男。
第一王子ラルフリード・オーガスクレメン王子。
どうしても過去の卒業パーティーで理不尽に断罪された時の事を思い出し恐怖から体が震えてしまう。
あの時の、私を見下す彼の目がフラッシュバックする。
「少し話せないだろうか?」
「……それはどのような件でしょうか? 誤解を招くような行動は控えたいと思っておりますので、用件によっては私の他に別の令嬢も一緒に同席していただきたいのですが」
決してあなたと安易に二人きりにはなりませんよと伝える。
「ふふっ。警戒心が強いんですね。私が令嬢に声を掛けたのは婚約者候補の一人と一度ゆっくり話してみたいからです」
あの笑顔……
初めて会った時の貴方も優しい笑みを私に見せた。
私に優しく微笑む人はいない世界だったので、私は簡単に貴方に依存するようになってしまった。
だけど、貴方は周囲の反応だけで私を悪者だと信じ突き放し、最後には……
私はもう、貴方を信じたりはしない。
過去を思い出すと、表情が強張っていく。
冷静になれ、動揺するな。
私とこの人はなんの関係もない他人。
今回はまだ互いに名乗ってもいない。
「……婚約者……候補?」
私が婚約者候補であるのは過去に告げられ知っていたが敢えて『貴方の事など知りません』と態度で示す。
「あっ、令嬢にはまだ名乗っていなかったな。私はラルフリード・オーガスクレメンだ」
「ラル……オーガス……クレメ……王子ぃ? 大変失礼いたしました。ニルヴァーナ・キャステンと申します」
今初めて貴方の名前を知りました、という演技。
「いやっ、いいんだ。名乗っていなかった私の失態だ」
笑って私を許すが、本来王子の名前を知らない貴族なんていない。
パーティーに参加した者は当然知っているし、新入生代表で挨拶した際に察しが良い平民も気が付いていただろう。
私の『王子なんて知りません』というのが、演技だと気付かれていないだろうか?
王族主催のパーティーでは王族が登場する前に、問題を起こし退席している。
私達の初対面は掲示板の前。
あの時は『娼婦の娘』と自己紹介したので、私の立場を都合よく察してくれていると良いんだが……
「王子とは知らず、先日の無礼な発言申し訳ありませんでした」
「対応に関しては問題ないが、内容には問題があった」
「……はぃ」
心当たりは沢山あるが、貴方の言葉を素直に聞く気にはなれない。
「王族が認定した学園でどのようなことがあっても不正は許されない」
「……申し訳ありません……あの時は動揺してしまって……」
「令嬢について調べさせてもらった」
「……はぃ」
調べた?
「令嬢一人を個人的に調査したわけではなく、私の婚約者候補全員を身辺調査させてもらっている」
「……そうですか……あの……婚約者候補というのは……」
「あぁ、令嬢は知らないか。王族主催のパーティーで発表したんだが、私にはまだ婚約者が居ない。だが、そろそろ婚約者を決定する時期に来ている。条件として伯爵家以上の婚約者がいない者は全員が候補となり、学園に通っている三年間を目安としている」
「そう……ですか……それでは、私を候補から除外していただけませんでしょうか?」
王子の婚約者候補は面倒でしかないので、初日に断らせてもらった方が身のためだ。
「それは……難しい。なんの接点もなくして候補から除外したとなれば後々異論が出る。そうならない為にも、婚約者候補とは必ず時間を取る事となっている。候補を絞るのはその後となっているので、他者を呼ぶことは出来ないし私とのお茶会を日を改める事はあっても中止する事は出来ない」
「……そうですか」
過去にそんな説明はなかった。
あの頃の私は誰かに話し掛けられる事が稀で、王子からの誘いが嬉しくて『断る』という選択肢がなかった。
そんな私に王子もわざわざ言わなかったのかもしれない。
王子との二人だけの時間に浮かれていた過去の自分が愚か過ぎて思い出したくもない。
「こ……れから令嬢の時間を頂けるか?」
王子とのお茶会をいつかはしなければならないのなら、さっさと終わらせてしまいたい。
「……はぃ、分かりました」
「ここでは人目もある。移動しよう」
「……はい」
不本意ながら、王子の後ろについて行くしかない。
すれ違う生徒は私達に興味津々で好奇心を隠すことなく視線が追ってくる。
私はあらぬ誤解を受けぬよう俯き極端に距離を置き、王子とは親密ではありませんと意思表示しながら歩いていくのが私の細やかな抵抗だった。